日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年5月のバックナンバーです。

2012年5月6日 復活節第5主日

説教:「真理の霊が証しする」
聖書朗読:ヨハネ福音書15章18〜27節
説教者 : 北川善也牧師

 ヨハネ福音書15:18以下は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にし、彼らの足を洗われた出来事に引き続いて語られた言葉だ。ここには、翌日十字架にかけられるという緊迫感が漂っている。

 この直前において、主は次のように語られた。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9節)。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。このように主は、「愛」、それも徹底的な「神の愛」に基づいて生きることの大切さを語られたが、18節以下では一転して「憎しみ」を軸として語っておられる。

 ヨハネ福音書は、主御自身とこの世の関係を二面的に示し、「闇」であるこの世と「光」である主という表現を多用する。だが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)と言われているように、この世は主にとってどこまでも伝道の対象であり、愛の対象なのだ。

 ペトロは、 この世は主を知らず、また知ろうともせず、ただ主を憎む。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。この世が主を憎むのは、この御方が真の光であり、この世の闇、すなわち罪を徹底的に暴き出し、白日の下に曝すからだ。主イエスの光の下では、何ものも隠されることがなく、暗闇に慣れ親しんだ人間が見せたくないものまで露わにされる。だから、人間はこの光を憎むのだ。

 主は、次のようにも言われた。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(18-19節)。この言葉は、主に従う者が自分の十字架を担って歩むということを示している。

 我々には、主に属する部分とこの世に属する部分があり、自分自身の中でこの相矛盾する思いが対立している。しかし主は、我々が自分のことをそういう存在であると自覚しつつ、この世に属する古い自分に留まるのではなく、主と共に歩む新しい自分として生きていくことを求めておられる。

 そのような行動は、我々が自分の力でなし得ることではない。それは、主が我々に近づき、つながってくださることによって初めて成し遂げられる。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)。自分の力で必死でしがみつこうとする前に、我々は既にぶどうの木に連なる者とされているという事実に目を向けたい。

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。主は、最後に聖霊について触れておられるが、この聖霊こそ我々の真の弁護者であり、いついかなる状況でも励まし、力づけてくださる御方だ。

 使徒パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と語ったが、そのように聖霊が弱い我々をとらえ、主と絶えず結びつけていてくださるという確信を持って、主と共に歩み続けたい。

2012年5月13日 復活節第6主日

説教:「しかし、勇気を出しなさい」
聖書朗読:ヨハネ福音書16章25〜33節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、我々の現実において生きて働かれる神としてこの世にやって来られた。そして、ぼんやりとした抽象的な愛について語るのではなく、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで徹底的に貫かれる神の愛の確かさを、我々の現実の真只中で示された。

 主は、「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)と言われた。主は、神の愛を人間の五感で感じ取るリアルさをもって示された。だが、我々はそれを、あたかも数学の公式を解くように、自分の力で取得することは出来ない。信仰は、人間の自由に出来るようなものではない。

 では、信仰はどこから来るのか。我々は、聖書を通して聴く神の御言葉において、我々自身が変わるという経験を与えられる。ヨハネ福音書は、主イエスが神の言葉としてこの世に来られたと告げているが、それは神の言葉そのものである主を通して、我々が神を知るという奇跡的な出来事が可能になったという意味に他ならない。

 我々は、自分の力ですべてを理解し、自分の力で何でも獲得出来ると考える傲慢さを持つ。弟子たちは主に言った。「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)。

 彼らはこの時、主イエスに対する信仰を心から告白したが、この信仰は極めて短時間で崩れ去る。主は、そのことをご存知の上で次のように言われた。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31-32節)。

 十字架に向かわれる主を見捨てたのは、主にあからさまに敵対する勢力だけではなかった。最も身近にいた弟子たちさえ主を見捨てて逃げ去った。これが人間の現実だ。人間の力や理解というものは、その場その時で移り変わり、安定を保ち続けることはない。

 この世において我々は弱く、自分自身の中に元々信仰を持っているわけでもない。神御自身が我々一人一人のうちに働かれるからこそ、我々は「信仰において強くされる」のだ。天地万物を創造し、全知全能の父なる神が、御子キリストにおいて我々と共におられる。それもどこかわからないところから見守るのではなく、我々と一つになるという仕方で共にいてくださる。だからこそ、我々が弱い時にこそ強くされ、外なる自分が衰えても、内なる自分は日々新たにされるという奇跡が起こるのだ。こうして我々は神と共に歩む神の民へと変えられていく。

 十字架を前にして裏切る弟子たちを、主はとがめるのではなく、むしろこれから彼らがこの世において受けるであろう苦難の数々を覚えて、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)と言われた。

 我々は、主に従い、神の民として生きるため、この世における疑い迷いの嵐の中を、それと戦い、それに打ち勝って進まねばならない。しかし、我々はこの戦いの中で挫折や敗北を経験する。主は、そんな我々の先頭に立って戦い、「わたしは既に世に勝っている」と宣言してくださった。主は、世の憎しみを受け、十字架の死に追いやられたが、三日目に死の力を打ち破って復活された。神の愛は、この世の憎しみに打ち勝ち、闇の世にあって太陽のように輝いている。この勝利者キリストが我々と一体となり、共に歩んでくださるゆえに、我々はこの世にあって何ものも恐れることなく、希望をもって進むことが出来るのだ。

2012年5月20日 復活節第7主日(オール洛北礼拝)

説教:「いのちの水を飲みなさい」
聖書朗読:ヨハネ福音書7章37〜39節
説教者 : 北川善也牧師

 わたしたちは毎日の生活の中で、楽しいことやうれしいことだけでなく、悲しいことやつらいことも経験します。楽しいことがあると、何だか心が豊かになったような気持ちになりますが、反対に悲しいことがあると、心の中が渇いてしまったような気持ちになります。わたしたちの心は、このような経験を繰り返すことによってカラカラに渇いてしまうのです。でも、この渇きは、飲み物を飲んでも治すことができません。

 それでは、心の渇きはどうしたら治せるのでしょうか。イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、……その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)と言われました。

 神さまは、本当はわたしたち人間とはまったく違うところにおられる、わたしたちにはお会いすることのできない御方です。そういう神さまが、わたしたちと同じ姿になってこの世に来られました。それがイエスさまでした。

 イエスさまは、どうしてわたしたちのところに来てくださったのでしょうか。それは、わたしたちがしっかり神さまにつながって、神さまの子どもとされるためでした。わたしたちは、生まれたままの状態では、神さまにしっかりつながっているとは言えません。反対に神さまから離れていこうとするのがわたしたちなのです。

 神さまから離れて生きることは、生きていくために必要な栄養分を受け取らないことですから、そういう生き方を続けていたら、人間はどんどん渇いていき、何もなくなって死んでしまいます。

 わたしたちは、生きていくために必要な栄養分を受け取るため、神さまの子どもであるイエスさまとつながらなければなりません。イエスさまは言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:4-5)。

 わたしたちは、イエスさまとつながることによって、神さまの子どもにさせていただけます。神さまは、わたしたちのことを本当に大切に思い、神さまの子どもにしたいと願われたので、たった一人の子どもであるイエスさまを十字架につけてしまわれました。でも、こうしてイエスさまが十字架にかかってくださることによって、わたしたちは神さまとしっかりつながることができたのです。

 今度の日曜日、わたしたちは「ペンテコステ」の礼拝を守ります。ペンテコステとは、わたしたちが神さまといつもつながっていられるように、イエスさまが天から聖霊を送ってくださった出来事のことです。イエスさまは、十字架の死から復活された後、弟子たちと一緒に過ごされましたが、40日目に天に昇られました。弟子たちは、イエスさまがいなくなってしまったのでとても悲しく不安な思いになりましたが、イエスさまは天から聖霊を送り、弟子たちがこの聖霊を受けるといつでもイエスさまとつながっていることがわかるようにしてくださいました。

 その時から、わたしたちはイエスさまが送ってくださる聖霊を受けて生きる者となりました。イエスさまを信じる者には、聖霊が豊かに注がれます。そして、イエスさまが送られる聖霊はあまりにも豊かなので、注がれた人からあふれ出して広がっていくのです。こうして、イエスさまの恵みが多くの人たちに広がっていくことによって、教会はますます元気で生き生きとさせられていくのです。

2012年5月27日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「聖霊によってまことの主を知る」
聖書朗読:使徒言行録2章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは十字架の上で死んで葬られた後、三日目に墓からよみがえられた。それから40日間弟子たちと共に過ごされた後、天に昇られた。彼らの心には、その時主が語られた言葉が深く刻みつけられた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8)。彼らは、ひたすら祈りつつこの約束の言葉が成就する時を待ち続けた。

 主と共にいる時には、御言葉の光に照らされ、その光の中で生きる喜びを知っていた弟子たちも、主がおられなくなった今、光を失い、この世の闇に埋没しそうになっていた。しかし、火の消えた蝋燭に再び点火される出来事が起こった。主が彼らに聖霊の炎を送り、約束を成し遂げられたのだ。

 彼らは、既に一つの共同体を形成し、教会としての基礎を整えつつあった。だが、そこにはなお決定的なものが欠けていた。神が土から人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れた時、初めて人が生きる者とされた(創2:7)ように、教会に真の命が吹き込まれるためには、聖霊の注ぎが必要だった。

 こうして主は聖霊を通して教会の群れに生きて働いてくださるようになった。その日を境に全てが変わった。三度主を否んだペトロを始めとする弟子たちは、暗闇に逆戻りする力を振り切り、新しい力に満たされ立ち上がった。そして、主が十字架の死から復活されたことを力強く証しし始めた。

 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2:41,42)。ここに新しい神の民としての教会が誕生した。聖霊降臨の出来事を通して、新しい教会の時代、新しい伝道の時代が幕を開けたのだ。

 教会には「イエスは主である」という信仰告白が与えられ、その教会は生き生きと伝道する共同体となっていった。聖霊が満ち溢れる教会には信仰告白する喜びが湧き起こり、そこに新たな人々が増し加えられてゆくのだ。

 初代教会に連なったのは、ユダヤ人だけではなかった。当時、「異邦人」と呼ばれ、蔑まれていた諸民族にも等しく福音が宣べ伝えられ、皆が教会へと招かれた。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。聖霊は、世界中に福音を広めてゆく計り知れない力を持っている。

 彼らは聖霊を受け、主が全ての人々を救うため十字架にかかって死なれ、永遠の命をもたらすため墓からよみがえられたことを証しした。この教えを広めようとする教会は厳しい迫害に直面したが、そんな状況下でも教会は熱心に祈りつつ福音を正しく宣べ伝え、洗礼を授け、聖餐を守り続けた。

 こうして年月を経て、神の民は世界中に広がっていった。その結果、まさに地の果てであるようなこの日本にも福音が伝えられ、神の民が起こされた。その歴史の中にあって我々の洛北教会も建てられ、百年以上にわたる歩みを主によって守り導かれてきたのだ。

 この営みは、これからも決して途切れることなく続けられ、終わりの日に向けて確実に神の民が広がってゆく幻が示されている。人間の目で見たら遅々とした歩みかも知れないが、主なる神はこの国にも確かに聖霊を送り、聖霊による御支配のもとに神の民を確実に増し加え、キリストの御体を着実に成長させておられる。

 広がりゆく神の民として、またイエス・キリストというぶどうの幹に連なる枝々として召されている我々は、聖霊の働きによって良き実の結ばれる終わりの日が来たる時を待ち望みつつ共に歩もう。

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