日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年6月のバックナンバーです。

2012年6月3日 三位一体主日

説教:「永遠の命を手に入れなさい」
聖書朗読:Tテモテ書6章11〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 今日与えられた使徒パウロの手紙は、初代教会の洗礼式において勧告の言葉として用いられたとも言われている。ここで信仰者が「避けなさい」(11節a)と告げられているのは、次のようなことだ。「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。……金銭の欲は、すべての悪の根です」(8節以下)。なぜなら我々は、「何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないから」(7節)だ。

 これは、ヨブが耐え難い試練の中にあってなお信仰を告白した言葉を思い出させる。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1:21)。洗礼を受け、キリストと固く結ばれることによって人は神のものとされ、それゆえこの世のものから解放される。この世の富をはるかに超えた大いなる恵みの約束を与えられた者は、ヨブの信仰告白を自分のものとするのだ。

 さらに、信仰者は「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」(11節b)と告げられる。最初に挙げられた「正義」は、「神の義」のこと。つまり、信仰者にとって一番大切なのは「神の義」を求めることだと言われている。

 主イエスは次のように言われた。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。……あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ福音書6:25-34)。

 「神の義を求める」とは、いつも神と共に歩むことを求める生き方と換言してよいだろう。主は、それが人生において最も重要だと言われた。そして、我々が神と共に歩むならば、必要なものはすべて備えると約束してくださった。 必要なものはすべて神が備えてくださるという信仰に固く立つ時、我々はこの世の何ものをも恐れず、ただ神のみを見上げ、主による救いの約束にすべてを委ねて歩むことが出来るようになる。

 パウロは、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(12節)と言うが、ここを含め彼は信仰者の生涯を表現するのに、スポーツ選手のたとえを多用する。

 大切な試合直前のスポーツ選手は、ものすごい重圧と緊張感の中で、自らを何とか奮い立たせようと異様な行動をとることがある。だが、いずれにせよ試合直前にできるのは大したことではない。試合でものをいうのはそれまでどんな準備をしてきたかということ、すなわちどんな生き方をしてきたかということに他ならない。

 パウロは、別の手紙で次のように言っている。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ3:12)。彼は、自分が特別優れているから主に結ばれていると言ったのではない。自分が主から離れずに歩めたのは、主御自身が捕らえてくださっていたからだと言っている。

 「神の義」を追い求める者、すなわちいつも神と共に歩むことを求めて生きる者には、主御自身が「義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」の賜物を与えてくださる。そして、その賜物がその人の中で成長し、やがて来る終わりの日に実りの時を迎えるのだ。これこそが、信仰者に与えられている希望であり、主に捕らえられて生きる喜びに満ちた人生に他ならない。

2012年6月10日 聖霊降臨節第3主日

説教:「底なし沼から引き上げられる」
聖書朗読:ローマ書10章5〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 この手紙を書いた使徒パウロは、ユダヤ人の家系でありながら、ローマ市民権を持つという優越的な立場に身を置いていた。彼は、やがて律法厳守で有名なユダヤのエリート集団、ファリサイ派の中で頭角を現わし、ローマの庇護下、キリスト教徒迫害の中心的役割を担うようになっていく。

 その当時のパウロは、キリスト教徒を一人残らず捕えて根絶やしにするという強烈な迫害心に燃えていた。そんな彼が、ダマスコの町でキリスト教徒が新たな活動を始めたという情報を聞きつけ、官憲らを引き連れて現場へ向かう途上で、自らの進路を180度転換させられる出来事を体験するのだ。

 パウロは、ダマスコ途上で突然、まばゆく照らす光を受けて目をくらませ、その場に倒れ込んだ。そして、彼はその光の中から呼びかける声を聞く。「パウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。彼は、この出来事によって見えなくなり、飲み食いも出来なくなったが、そのままダマスコ市内に導かれ、主の弟子と出会い、彼に手を置かれて見えるようにされた。それだけでなく、パウロはそこで洗礼を受けるに至った。

 パウロは、こうして回心へと導かれた。それまで迫害者だった彼が正反対の立場、すなわち迫害されるキリスト者となった。この出来事はなぜ起こったのか。

 これは、パウロ特有の出来事ではない。我々も、以前からキリスト教は知っていたが、その教えには全く無関心だった人が、ある日何とはなしに聖書を開くと、そこに記された言葉に心を動かされ、信仰に導かれたというような出来事を耳にすることがある。この人は、どうして聖書を開いたのだろうか。それは、彼が心の奥深くで救い主を求めていたからだろう。

 パウロの身に起こった出来事の原因もこれと同じ理由だろう。だからこそ、彼はダマスコ途上で、「パウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と呼びかける声を聞いた時、即座に「主よ」と答えたのだ。すべての人間がパウロのように、真の救い主を捜し求めつつさまよっている。

 パウロは、こうしてキリストの福音を宣べ伝える伝道者として歩み始め、やがて新約聖書に収められている27巻中、実に11の書簡をしたためた。彼が自分の後半生のすべてをキリストのために捧げ尽くした情熱の原動力は、ただキリストのみという信仰だった。

 人間の生き方をこれほどまでに変えていく信仰とは何なのか。その力の源はいったいどこにあるのか。主は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)と言われた。そして、この御自分の約束を果たすため、主は十字架にかかり、死んで葬られた後によみがえられた。こうして主は、死者を復活させる力の源が御自分にあるということをはっきり示されたのだ。

 いまや、キリストの十字架によって、死の先にある大いなる目標がすべての人に向けて明らかにされた。死の向こうに目標を定め直し、そこに向かって新たに歩み始めたキリスト者は、真の命に生かされている喜びで満たされ、どのように「死」を迎えるかではなく、どのように生きるべきかと考える存在へと変えられていく。

 我々の心は、このような救いをもたらしてくださるキリストでいつも満たされているだろうか。我々がなすべきことは、自分が主となって生きることではなく、主が成し遂げられた十字架による救いの御業に与り、そこから来る真の命を唯一の拠り所として希望をもって生きることに他ならない。

2012年6月17日 特別伝道礼拝

説教:「心を燃やせ」
聖書朗読:ルカ福音書24章13〜35節
説教者 : 北川正弥先生(駒澤教会牧師)

 イエスさまが十字架に架けられた翌々日、2人の男がエルサレムから遠ざかろうとしていました。彼らはイエスさまの弟子でした。この2人について、ルカによる福音書にはほとんどなにも記されていません。書かれているのは2人の内の1人がクレオパという名前であったことぐらいで、もう1人は名前さえもわからないのです。このころ、後に使徒と呼ばれることになる11人は、自分たちも逮捕されて、十字架にかけられるのではないかと恐れ隠れていました。それなのにこの2人は落ち着いたもので、誰が聞いているかもわからないのに、大声でイエスさまの話をしていたといいます。それはきっと11人と彼らとでは、イエスさまとの距離が違ったからでしょう。11人と、イエスさまを裏切り自殺したユダ、この12人はいつもイエスさまのそばにいました。だから顔が売れていました。でも今日の箇所に出てくる2人は、12人に選ばれなかった弟子なのです。だから彼らはこのときこう考えていたのではないでしょうか。「自分たちはそれほど大事な弟子ではなかった。誰も自分たちをしらない。だから自分たちがつかまるはずはない。」。ところがそんな2人に、いつの間にか加わった3人目の男が聖書の話をしはじめます。2人はしだいに話に引き込まれていき、夕食の席についたとき、彼らはそれがイエスさまであったということに気がつきます。するとイエスさまの姿は彼らには見えなくなりましたが、彼らの心には燃えるような思いが甦っていて、彼らはエルサレムへと戻っていくことになります。

 ところでルカによる福音書はここで驚くべき事を記します。彼らがエルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が、主は復活してシモンにあらわれたと議論し合っていたというのです。イエスさまがこの福音書の主役であることは間違いありませんが、イエスさまが主役ならシモン・ペトロは準主役で、マグダラのマリアはヒロインです。そうだとすれば、イエスさまに最後までついて行き、でも最後の最後に「イエスなど知らない」と言ってしまい、涙を流した準主役シモン・ペトロが、復活した主役イエスさまと出会ったときにそこでなにがあったのか、これは読者が一番知りたいところなのではないでしょうか。それなのにルカによる福音書はその部分を事後報告にしています。またこの福音書にはマグダラのマリヤが復活のイエスさまに出会った場面もありません。そのかわりにエキストラといってもいいような、1人は名前すらもわからないような弟子達に、イエスさまがあらわれた時の話が入っているのです。いったいどうしてそのような構成にしたのでしょう。

 この話に出てくる2人は12人に選ばれなかったがゆえに、自分達はそれほど大切な存在ではないと思っていました。もしかしたら皆さんも、そう思ってしまう時があるのではないでしょうか。別に自分がいてもいなくても教会はこまらないのではないか、世界は何もかわらないのではないか。でもルカによる福音書は、そんな無名の弟子のところにイエスさまはあらわれたのだと書くのです。そのことは、後に教会の中心となるシモン・ペトロのところにイエスさまがあらわれたことと同じぐらい、いやその出来事を事後報告にしてでも書かなければいけないぐらい、大事なことだというのです。つまり神様はルカによる福音書を通して「自分はたいして重要じゃない」と思い込んでいるすべての人に、「わたしはあなたを必要としているのだ、そういう人にこそ心を燃やしてほしいのだ」とおっしゃっているということです。神様も、教会も、そして世界も、他でもないあなたを必要としているのですから。

2012年6月24日 聖霊降臨節第5主日礼拝

説教:「泉からわき出る命の水」
聖書朗読:ヨハネ福音書4章1〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、生まれ育ったユダヤ地方だけでなく、外へと積極的に出かけて行き、広範囲にわたって伝道活動を行われた。

 主が向かわれた場所には、ユダヤの価値観からは「異邦の地」とされているところもあり、サマリアもそのような地域だった。異教文化との交わりを持つサマリア人は、ユダヤの律法によれば汚れた存在とされていた。

 主の一行がサマリアを通りかかった時のこと。弟子たちが食べ物を買うため町に行っている間、主は真昼の厳しい日差しを避け、井戸端で休息を取っておられた。

 そこに一人の女性がやって来たが、誰もが午睡をして休んでいるような時間帯にわざわざ彼女が水を汲みに来たのには、何か理由があるとしか考えられなかった。16節以下の主と彼女とのやりとりから、彼女が人間関係に破れ、罪人として惨めな姿をさらして生きている人だということが明らかにされる。彼女は、身持ちの正しくない生活をし、共同体の中で「村八分」状態だったのだ。

 彼女は、誰からも愛されず、誰を愛することも出来ない、孤独の固まりのような存在だった。だから彼女は、唐突に「水を飲ませてください」と話しかけてきた主に対して、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)とつっけんどんに答える。自分に話しかけてくる人など誰もいないはずなのに、親しげに話しかけてくるこの人は一体何者なのかと不審に思ったのだ。

 しかし、主にとって彼女との出会いは偶然ではなかった。主は、人間関係に破れ、心に傷を負った彼女と出会う時をあらかじめ用意しておられたのだ。主は、彼女が得たくても得ることが出来なかった一対一の対話関係に彼女を導き、彼女を一人の人間として真正面から見据えられた。

 この経験は、彼女にとってのリハビリテーションとなった。誰とも口をきかないのだから、彼女に何かを頼む人などいるはずもなかった。主は、そんな彼女に対して、誰かのために水を汲む、すなわち他者に愛を与える行為を引き出すきっかけを与えられたのだ。

 彼女は、本当の愛に飢え渇いていた。そして、そこに留まっている限り、その飢え渇きを根本的にいやせないばかりか、かえって悪化させてしまうような状況にもかかわらず、彼女は狭い共同体の価値観に縛られ、そこから抜け出すことが出来ずにいたのだ。

 彼女は、絶望という泥沼のような現実の中で生きていた。しかし、その絶望を突き破り、主による真の希望がもたらされた。その場しのぎのような慰めではなく、自分の飢え渇きを根本的にいやしてくださる御方が確かにいる。彼女は、そのことに初めて気づかされた。

 主によって与えられる希望は、浮世離れした希望ではない。主は、人間の現実の真只中に降りて来て、すべての人間の罪をたった一人で担い、十字架にかかってくださった。主は、そのような仕方で神の徹底的な愛を示し、その愛によって人間の救いを完成された。

 サマリアの女は、この希望によって自分が生きている現実の中で立ち直る機会を与えられ、もう一度他者に対して愛を向けることの出来る存在へと変えられていった。彼女が自分のために水を汲むだけでなく、隣人に水を与えることの出来る人間へと生まれ変わらせられたように、我々も主の「生きた水」に与り、この世における愛と平和の交わりを回復するために働く者へと変えられたい。

 我々は、主の「生きた水」によって新しい命を与えられる。そして、その命によって希望に満ちて生きる時、我々はこの世を生き抜き、神の国に向かって突き進む神の民へと変えられていくのだ。

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