日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年7月のバックナンバーです。

2012年7月1日 聖霊降臨節第6主日礼拝

説教:「わたしたちの平和」
聖書朗読:エフェソ書2章11〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 「平和」は、聖書におけるキーワードと言える。聖書の中で「平和」と訳されている原語は、旧約ではヘブライ語の「シャローム」、新約ではギリシャ語の「エイレーネー」だ。日本語では同じ言葉に訳されているが、この二つには大きなニュアンスの違いがある。

 シャロームの基本的な意味は、「完成」や「全体」だ。つまり、シャロームが表す「平和」は、完成された全体性のある世界や人間社会の状態が考えられている。これは、世界全体が最高で最善の状態に達しているという意味だ。

 一方、エイレーネーについては次のような解説がある。「ギリシャのエイレーネーという概念構成の基本的特徴は、人々の関係や態度を意味するのではなく、ある事柄の状態、平和の時代あるいは状態であり、根本的には、戦争の永続的状態の間奏と考えられた」。つまり、エイレーネーが表すのは、基本的には休戦のことなのだ。

 創世記にあるように、人間の原初の状態は、神の似姿として形造られ、神が用意された楽園で生きることだった。このことが意味するところは、人間が平和を本質とする存在であり、逆に言えば、戦争とは人間が本質から転落した状態ということに他ならない。

 さらに言えば、終わりの日に成し遂げられる神の国の完成は、神が人間に原初に与えられた神の似姿を回復させられることによって可能となる。つまり、真の平和は、人間が神の似姿を回復することによって成し遂げられるのだ。

 だからこそ、「平和」の問題は、聖書における最も重要かつ中心的なテーマなのだ。復活された主イエスは、弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言われた。ここで言われている「平和」は、神の国を簡潔に言い表した言葉だ。

 また、聖書は「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)と告げ、主御自身が「平和」だと表現する。これは、主によって立てられた新しい共同体、すなわち教会について言われている言葉だ。教会とは、羊飼いである主と絶対に切り離せない群れであり、また主御自身が常に一体となっていてくださるところだ。

 エフェソ書執筆時の初代教会は、そのようなキリストの御体を実現すべく立てられた平和の共同体だったが、そこには互いに疎外し合っていた集団、すなわちユダヤ人と異邦人とがまったく新しい仕方で一つとされていた。

 ヘブライ語の「平和」、すなわちシャロームは、「人間関係において正常で本来的な状態」を言うと確認した。だが、聖書は神が備えられたその状態を、人間が自らの罪によって歪めたと告げる。人間は、自分で歪めた平和を自らの力で回復することは出来ない。

 「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)。真の平和は、犠牲を伴う和解の御業なしには実現されない。それが、二つに引き裂かれていたものを一つに結び合わせる贖いの業だ。キリストの死、つまり神の御子の十字架によって罪に満ちた人間の贖いが成し遂げられた。

 我々人間は、もともと与えられていた「平和」から自分たちの罪ゆえに遠く離れてしまった存在だ。しかし、そんな我々のために主が犠牲となって成し遂げられた贖いの御業によって、「平和」という本来あるべき状態の回復が約束された。そして、その約束は、主御自身と直結し、終わりの日に目を注ぐ教会のものとされた。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。主は、弟子たちに平和を作り出す者になりなさいと命じられた。罪に満ちた人間を「平和を作り出す」器に造りかえてくださるのは神だ。

2012年7月8日 聖霊降臨節第7主日礼拝

説教:「いのちの源」
聖書朗読:ヨハネ福音書4章43〜54節
説教者 : 北川善也牧師

 ここで「王の役人」と言われているのは、ヘロデ王の後継者として人々から王と呼ばれた領主、ヘロデ・アンティパスの宮殿に仕えていた高官のことと推察される。そんな立場にあったこの男の言動は、王からも民衆からも注目されていたはずだ。そんな彼が、ガリラヤのカナに主イエスが来られたと聞き、病気で死にそうな息子のために後先顧みず駆けつけた。

 「この人は、……イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ」(47節)。ここで「頼んだ」と訳されているのは、何度もその行為を繰り返したことを示す未完了形の動詞だ。この時彼は、主にカファルナウムまで来て息子をいやしてくれるよう、なりふり構わず、執拗に頼み込んだのだ。

 しかし、主イエスはこの人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と一見冷たい言葉を言われた。それでも、彼は「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(49節)と食い下がる。

 彼は、現在カナにいる主イエスにカファルナウムまで来てほしいと頼んでいる。カナからカファルナウムまでは、直線距離にして30キロ、標高差600メートルという長く険しい道のりだった。いくら必死とは言え、主イエスにこの距離を移動してほしいと無遠慮に頼むところに彼の、息子が生きているうちに来ていやしてほしいという焦燥感がにじみ出ている。

 しかし、それ以上に注目したいのは、彼が「主よ」と呼びかけたことだ。最古の、そして最も簡潔な信仰告白は、「イエスは主である」という言葉だった。つまり、彼はこの時、この御方を神が遣わされた救い主と認め、神の力による助けを必死で懇願したのだ。

 この訴えを聞いた主イエスは、驚くべき言葉を発せられた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。ここで「帰りなさい」と訳されている言葉は、直訳すると「行きなさい」となる。主は、彼に元の場所に「戻る」のではなく、新しい事態が待ち受けている場所に「行け」と命じられたのだ。

 こうして王の役人は、見ないで信じる信仰に向かって進み始めた。主が来てくださること、すなわち主御自身が動いてくださることを求めていた彼が、主の言葉を信じて自分自身で動き始めた。

 彼は、それからすぐそこを立ち、夜を徹してカファルナウムに向かったのだろう。明くる日、家の近くまで迎えに来た僕たちと出会い、彼は息子のいやしが、まさに主イエスが言葉を発せられたその時刻に起こったことを知った。

 信仰とは、目に見え、手で捉えることの出来る地上のものを対象とするのではなく、霊的な神の言葉に聞いて、それに応えるということだ。そして、神の言葉とは、「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(1:14)と言われているように、人間としてこの世に来られた主イエスに他ならない。この御方が、我々と共にいて、我々を生かし導いてくださるのだ。

 王の役人に向かって、主イエスは「あなたの息子は治る」と言わず、「生きる」と言われた。それは、主が彼の息子のいやしのことだけでなく、御自分を信じる者が死によっても損なわれることのない、真の命を受けることを示されるためだろう。主は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)と約束されたが、信仰とはこの永遠の命を約束してくださる主と共に歩む希望に満ちた道に他ならない。

 王の役人は、御言葉を信じ、新しい出来事に向かって進んでいくという、見えないものを信頼し、委ねる信仰へと導かれていった。我々も、御言葉そのものである主を信じ、すべてを委ね、いつでも主と共に歩む者でありたい。

2012年7月15日 聖霊降臨節第8主日礼拝

説教:「復活の希望」
聖書朗読:ヨハネ福音書5章19〜36節
説教者 : 北川善也牧師

 今日与えられた御言葉は、5章冒頭における事件を契機として登場したユダヤ人に対して主イエスが語られたものだ。その事件とは、長い間寝たきりだった病人を、主が安息日にいやした出来事だった。ユダヤ人たちは、この行為が安息日に休むという律法に反しているという理由で主を非難した。

 これに対して、主は「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と答えられた(5:17)。この発言が引き金となって、彼らは主を殺そうとねらうようになるのだ。この主の発言は、どこまでが安息日に許されるかという、律法を前提とする考え方には立っていなかった。

 しかもこの時、主は神を御自分の「父」と呼んだ。ユダヤ人にとってこの言葉は到底認められないものだった。彼らは、それを十戒の第一原則に反する、神への冒涜と受けとめたのだ。彼らは、その発言をなさったのがどなたであるか見定めることができなかった。

 ヨハネ福音書は、ユダヤ人たちがかつて洗礼者ヨハネのことを「救い主メシア」だと思い、使者を送って問いかけた様子を記している(1:19)。しかし、ヨハネは「自分はメシアではない」と答え、自分の後から来られる御方にこそ目を向けるべきだと告げた。そして、ヨハネの言う通り、後から来られた主イエスは、御自分が神から遣わされたメシアであることを示す働きを行うと明言された。

 「メシア」とは、神御自身の働きに他ならないから、その存在を証しできるのも神以外におられない。人間は、直接神を見ることもその声を聞くこともできないが、主イエスの働きに目を注ぐ時、この御方を通して神の出来事に触れることができると聖書は告げる。

 主は、御自分を殺そうとしている人々に対して、安息日に人をいやす行為が神の御心であると語られた。主がなさったいやしの業は、この地上において神の愛を示すメシアとしての行為だったのだ。

 だから、いやしの業によって御自分が厳しい状況に置かれることになっても、主はそれをやめられなかった。むしろその働きを徹底することによって、主はすべての人間の罪を一身に受け、十字架にかかって死を迎えられた。しかし、主の十字架における死は、神の意志に人間が横やりを入れて中断させた出来事ではなかった。十字架においてこそ、神の御意志である完全な愛が成し遂げられたのだ。

 十字架上で息を引き取られる時、主は「成し遂げられた」(19:30)と言われた。これは、36節の主の言葉と通じるものだ。主は、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と言われた。

 主は、神の愛を実現するため、この世に来られた。それは、神によって造られた人間の命が損なわれている現実を回復することに他ならなかった。そして、この神の愛を完成させることが主の働きの目標であり、すべてだったのだ。

 人間の命を安息日に回復することは、ユダヤ人の激しい怒りをもたらし、主の命を脅かすこととなった。しかし、主が望んでおられたのは、人から栄誉を受けることではなく、神からの栄光をお受けになること以外の目的はなかったのだ。主は、そのために御自分の命を十字架に献げられ、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈って、御自分を十字架に追いやった人々も含めたすべての人間のための執り成しを成し遂げられた。

 神は、御独り子イエス・キリストの命を十字架にかけてしまうほどに、世の人間を愛し抜いてくださった。このようにして成し遂げられた主の十字架によって、我々の命は回復させられたのだ。

2012年7月22日 聖霊降臨節第9主日礼拝

説教:「わたしだ。恐れることはない」
聖書朗読:ヨハネ福音書6章16〜21節
説教者 : 北川善也牧師

 その出来事が起こったのは、過越祭も近いある日の夕方だった。かつてイスラエルの民がモーセの先導によって奴隷とされていたエジプトから脱出した出来事を記念するこの祭りの時期、ユダヤ人の民族感情は最高潮となる。

 そんな高揚感に包まれた人々の間で「五千人の給食」の奇跡がなされた結果、人々は主イエスに向かって、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(6:14)と叫び、主を取り囲んで自分たちの「王にするために連れて行こう」(6:15)とうごめき始めた。

 しかし、主はこのような群衆の熱狂を避けるため、一人山に退き、弟子たちとも別行動を取られた。こうして弟子たちは、主と別れ、「既に暗くなっていた」(17節)ガリラヤ湖に舟を出すこととなった。辺りは闇に包まれていた。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)。
 「信じる者が、誰も暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)。

 ヨハネ福音書において、暗闇はこの世の状態、光は主イエスを示す言葉として用いられる。それによって、光を受け入れようとしない暗闇の姿や光がない時に乗じて勢力を拡大しようとする暗闇の性質が言い表されている。つまり、「暗闇」とは主がおられない状態、人間の心が主から離れてしまっている状態を表しているのだ。

 弟子たちは、天候の変わりやすい夕闇のガリラヤ湖に舟を出すことがどれほど危険を伴う行為であるか、元漁師として十分わかっていたはずだが、自分たちが驚くべき奇跡を起こされた主の弟子であることが自信となり、危険を顧みずに舟を漕ぎ出す高揚感を生み出していったのかもしれない。

 だが、当然のことながら彼らは主の「弟子」に過ぎなかった。彼らの強さとは、主と共にあるからこそ生まれてくる強さであり、主から離れてしまっては無力であるということに、その時の彼らは気づいていなかったのだ。

 湖に突然暴風が吹き、弟子たちが操る舟は漂流し始めた。彼らを包み込んでいた高揚感は消え去り、逆に主から離れたことによる無力感が彼らを覆った。そんな彼らの目に湖上を歩いて近づいて来られる主の姿が飛び込んできた。

 恐れおののく弟子たちに、主は「わたしだ。恐れることはない」(20節)と言われた。この御言葉を発せられた主は、光の対極にある暗闇の中から姿を現された。

 弟子たちは、希望のかけらもない暗闇の中にまことの光を見いだし、その光から片時も離れずにいたいと心底思ったことだろう。だからこそ、彼らは近づいてこられる主をすぐ自分たちの舟に「迎え入れようとした」(21節a)のだ。

 荒波の中、弟子たちが主を迎えると舟は「間もなく、目ざす地に着いた」(21節)と聖書は告げる。彼らは、「湖の向こう岸のカファルナウムに行こうと」(17節)してベトサイダから漕ぎ出し、そこから「25ないし30スタディオンばかり」(19節)進んでいたという。

 実は、この距離はベトサイダからカファルナウムまでの直線距離に当たる。つまり、彼らは目的地に相当近づいていたにもかかわらず、暴風によって方向を見失い、転覆するかも知れない不安に襲われ、恐れおののいていたのだ。

 我々は、この世の歩みにおいて、暗闇に包まれ、荒波に翻弄されているような思いに襲われた時、希望を失い、恐れを抱いて、前進することができなくなってしまう。

 しかし、主は暗闇としか思えない状況にこそ光をもたらし、希望で満たしてくださる。救い主は、いついかなる時でも我々の傍らにおられる。だから、我々はこの世の暗闇に埋没することなく、まことの光である主に信頼し、すべてを委ねて歩み続けよう。

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