日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年8月のバックナンバーです。

2012年8月5日 聖霊降臨節第11主日礼拝

説教:「主の賜物としての生活」
聖書朗読:ローマ書12章9〜21節
説教者 : 大濱計介執事

 キリスト教の教義は勉強しなければ分かりにくく、信徒歴が長いから身に付いているというものでもない。信仰生活で大切なことは毎日聖書を読み、祈ることであるが、そうした習慣と基本的な教義が身についていなければ、信徒として立たなければならない時に、私はまだ半人前の信徒ですからと引っ込もうとする。そのような姿勢を続けていれば、私の信仰生活は救われた者の姿なのかとなる。

 ローマの信徒への手紙12章は、キリストによって救われた者の生き方に対する勧告である。9節前半に「愛に偽りがあってはなりません」とある。我々は主の愛のもとに生きることが使命と思っているが、日々を偽りのない愛のもとで過ごせているかというと出来ていないことに気づく。もともと愛とは、恵みの主より我々に賜物として与えられたものであるのに、しっかり主を見ないで周りを気にしながら行動している。

 9節後半から13節までは、その賜物としての愛が、教会において具体的な業として表されることを求めている。パウロは、我々に愛を持って生きるようにと勧告する。当時、生活に困窮している人たちや旅人に親切にすることは教会の不可欠な務めであった。我々にも、愛に生きる者としてそうした行為が求められている。

 信徒も礼拝後、この世の生活へと遣わされていく。14節から21節は、信徒がこの世でどう振る舞うかについて勧告している。当時は教会ができて間無しで、キリスト教会への迫害という問題があった。また終末が真近と受け止められていたため、迫害の状況でどのように終末を迎えるかという問題があった。そのような状況下で、「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と勧める。いかなる困難な状況にあっても、全ての人と平和に暮しなさいと求められる。ただここでの「平和」とは、この世の社会的な平和ではなく、主の平和である。だから「できれば、せめて」悪に善を返すことによって、彼らが悔い改めに導かれるよう祈ることを勧めるのである。

 12章1〜2節は、神のあわれみによって生きる信仰者に、その体を神に喜ばれる聖なる、生ける、供え物として献げなさいと勧める。聖なるとは、この世の価値と主の御心を区別して、主の御心に従って生きるということ。そう生きることが聖なる者とされるということ。我々は洗礼を受け主のものとされた時、主の御旨を知ることができるようにされた。その姿が、神の御前に供え物として出された我々の生きる姿であるという。

 種々の勧告を振り返ると、果たして実行できるのかと不安を覚える。一方で、口で主を求めながら、本気には主を求めきれていない自分の姿も見る。そのような不確かな信仰しか持たないものだが、我々は洗礼を授かった時に、主のものとして生きることを決意した。その決心は、我々が自分勝手にしたものではなく、恵みの主によって与えられた賜物としての決心だった。だから、この世の価値の中で生活することは、イエス・キリストの復活に与ることによって既に不可能とさせられている。

 主イエスは、弱い我々のことをご存知である。頑張らなくていいと言われているわけではなく、精一杯頑張って、あとは全てを主に委ねよと言ってくださっている。我々に、「 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」と言ってくださっている。そうした生き方をしなさいと言ってくださっている。

2012年8月12日 聖霊降臨節第12主日

説教:「折がよくても悪くても」
聖書朗読:ルカ福音書15章1〜8節、フィリピ書2章6〜11節
説教者 : 太田 稔執事

 誰もが目を覆いたくなる、この世のものと思いたくないあの3.11の津波の映像は今も私の心から離れない。どうして東北なのか、神様の御心は裁きなのか?大学生のころ、不治の病に襲われた同労者に慰めの言葉を語れなかった苦い経験を持つ私ですが、大震災後のこの心のもやもやに、そしてこの状況に耐えうる御言葉が示されなければ私は生きていけないし、伝道も出来ないと神様に訴えました。

 仙台の吉田隆牧師のお話から一つの示唆を頂きました。大震災が金曜日でしたから2日後には聖日の礼拝を迎えるわけです。牧師先生は逃げられないのです。「海の水が騒ぎ、湧きかえり、その高ぶる様に山々が震えるとも」この詩編46篇の御言葉がもはや比喩ではなく、現実の言葉として迫ってきた今、果して「神は私たちの避けどころ」と告白できるのかとの疑問に未だ答えを出せないまま迎えた聖日なので、問いとしての短い祈りに似た説教だったとのこと。2週目は、詩編23篇の「主は羊飼い」の個所。今回は苦しみの中でも、共に苦しんで下さる主を確信出来た。これが我々に知らされた福音と。第3週目は、被災地はある意味で終末の姿を垣間見た。それ故「既に始まっている終末の姿」を今一度確認してそこから進んで行こう考え、ヨハネ黙示録21章を選ばれたのです。

 この春伏見歯科医師会で、夜回り先生で有名な水谷修先生の講演会を企画しました。先生は「君の苦しみに気付いた大人がここにいるよ。相談してご覧。一緒に明日を生きてみないか」と、悩み苦しむ子供たちに呼びかけ、ご自身のメールアドレスと、携帯番号を公開されました。2年間で延べ10万人、19万通のメールそして電話相談があったとの事でした。「リストカット、やめたいのに、でも切りたい。」「わたしが死んだ方が家族のためになる」等々。歯を食いしばり、1人の子供も死なせるものかと闘い続けられたけれど9人の子供の命が失われ、その死に直面する度に無力感を感じたと。それでも私が続けて来られたのは、多くの子供たちが私のもとを笑顔で卒業して行ってくれたからとおっしゃいました。夜回り先生のお話は、本日の礼拝招詞「わたしに与えて下さった人を1人も失わないで、終りの日に復活させることである」(ヨハネ6章)との言葉と被って聞きました。主は99匹を置いてでも、迷える子羊を探し出して下さるお方です(ルカ15章)。陰府にまで下って、新しい命の道を切り開いて下さいました。

 先の宇治キャンプでは、パウロのダマスコ途上での出来事も学びました。イエスの弟子たちを迫害していた彼を復活の主が捉えたのです。神の本質、神の御心を知るようになったのです。「目からうろこのようなものが落ちた」と使徒9章には記されています(5・6年生の劇では「目からうろこビーム」に当ったと表現していました)。現実ばかりを見て「全ての舌が主を告白する(フィリピ2章)」という終末の幻は本当に実現するのか?との不信仰に陥った迷える子羊を、聖霊なる主が捉えて下さった気がします。

 父なる神の御心は、「1人も失わないで終りの日に復活させる」ことです。主イエスが十字架の死に至るまで従順であられた根拠です。このことにより我々は終末の幻を見据えることが許されるのです。この終末の光が、今の現実の困難を乗り越える励ましなのです。この光に支えられて、折がよくても悪くても御言葉を宣べ伝えて行きましょう(Uテモテ4:2)。

2012年8月19日 聖霊降臨節第13主日礼拝

説教:「主を畏れ敬うこと、それが知恵」
聖書朗読:ヨブ記28章12〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 いよいよ「教会中高生・青年大会2012」が軽井沢で開催される。普段自分が通っている教会しか知らない若者たちが、日常生活から離れ、恵まれた環境のもと寝食を共にしながら新しい信仰の友と出会い、御言葉によって心燃やされ、洗礼・献身へと導かれることを祈り願いつつ過ごすこの時には計り知れないほど大きな意味がある。

 この大会には、「ユースミッション2012」も連動している。これは、2年に1度の教団と台湾長老教会の青年交流を目的とした企画で、軽井沢に先立ち2日間の京都でのプログラムを計画している。このような企画を通して、若者たちが言語や文化の壁を越え、神の家族として一つであることを実感する経験を持つことは意義深いと思う。

 さて、今日与えられたヨブ記の特徴でもある「神義論」というテーマは、現代人にとっても決して無関係ではない普遍的なものだ。

 ヨブは義人として生き、この世の生活に繁栄を与えられていたが、ある日突然大きな災いが立て続けに襲い、失意のどん底に突き落とされる。義人として生きてきた彼は、それまで神に怒りを向けたことなどなかったが、やがて友人たちとの対話を重ねるうちに神を呪う言葉さえ含む嘆きを口にするようになる。だが、我々はこのヨブの姿にこそ、すべての人間に通ずる心の有様を見出すのだ。ヨブの嘆きは、どこから出てきたか。それは、人間が自分の知恵によってあらゆる問題の答えを導き出そうとする思いからであり、このような思いこそが人間を神から引き離そうとする力を生み出すのだ。

 聖書は、人間がこの地上をどんなに遠くまで探し歩いても、また広い海の下を隅々まで探しても、知恵が潜む場所を見出すことは出来ないと告げる。そして、人間がいかに高価な金銀財宝と引換にしようとしても、知恵を獲得するための役には立たないと断言する。

 しかし、聖書は次のように告げる。「神こそ、その場所を知っておられる。神は地の果てまで見渡し 天の下、すべてのものを見ておられる」(23-24節)。

 我々は、自分が存在するはるか以前から神によって捉えられており、全てを神の御手に委ねて生きるしかない存在だ。だから、我々がなすべきことは、神が自分に何をしてくれるか自己中心的に考えるのではなく、自分がどうしたら神に喜ばれる存在となれるか神中心的に考えることに他ならない。

 神は、人間を御自分が造られた当初の、本来あるべき姿に立ち帰らせ、御自分と向き合わせるため、御子をこの世に遣わし、十字架におかけになった。キリストはこの十字架における死によって、我々が自己中心の罪から離れ、神と常につながっているための契約の小羊となってくださった。キリストの十字架こそ、我々が神とつながっているための契約の出来事であり、このことが成し遂げられたからこそ我々はすべてを委ね希望をもって生きることが出来るのだ。

 聖書は、この契約が自分のための出来事と信じる信仰を知恵と呼び、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」(28節)と告げる。人間の学名ホモ・サピエンスは、「知恵ある人」という意味のラテン語だが、キリストこそ主と告白し、十字架を見上げて生きることこそ真に知恵ある者の歩みに他ならない。

 教会に連なるキリスト者同志を台湾では「契友」と呼ぶそうだ。神と契約を交わした者同志、また互いに祈り合いつつ歩む者同志という意味で使われるこの言葉は、教会の交わりをよく表している。

 我々は、主を畏れ敬う信仰によって結ばれている契友だ。我々のためにキリストがおかかりになった十字架を仰ぎ見つつ、どこまでもこの信仰によって堅く立ち、信仰という知恵によって生かされている喜びを共に証しし続けよう。

2012年8月26日 聖霊降臨節第14主日礼拝

説教:「生きよ」
聖書朗読:ヨハネ福音書8章3〜11節
説教者 : 田中 顕執事

 「生きよ」。これは、昨年の伝道月間に行われた聖書講談の会で、神田ナザレ氏が「モーセ物語」の中で語られた言葉である。この言葉が1年間わたしを支えた。

 律法学者たちやファリサイ派の人々が、教えを語っておられる主イエスのところに、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせた。

 彼らは、「モーセがこういう女は石で打ち殺せと律法で命じているではないか。あなたは何と言うか」と主に問うた。自分たちには、裁く権利があり、権威があると思っているのだ。

 この問いに対して主イエスは、かがみ込み、指で地面に何かを書き、直接は何もお答えにならない。ある注解書には、この場面は、神が顔を背けておられるのだと記されていた。

 やがて、主イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」。人々は、年長者から始まって、帰らざるをえなくなった。

 この女は、主から「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問われた時に、「主よ、だれも」と審いておられる方を主と告白している。この方こそ真実に審く方であると。だから、彼女は、主の「わたしもあなたを罪に定めない」というお言葉に、どんなに驚き、またどれほど喜んだことだろう。

 赦しは審きを無視することによって成り立つのではなく、審きが貫徹されたところで、初めて赦しが意味を持ってくるのだろう。真実に審く方の前で、真実に審く方の言葉によって、この女は初めて赦しの中に立てたのだと思う。

 そして、この女はやがて、主イエスがまるで自分の身がわりのように十字架上で殺されたことを知っただろう。

 真実に審く方である主を、ヘブライ人への手紙では、大祭司と呼んでいる。大祭司として、罪ある者の弱さを知り、思いやり、神に執り成してくださる主は、燔祭の捧げものとして、自らの体を十字架に捧げることをもって、贖ってくださった。

 この御子を神は陰府より呼び出し、よみがえらされて、永遠の命を与えてくださり、救いが達成され、主は救いの源となられた。

 我々も救いに与った存在だが、この世で苦難や悩み、誘惑があると、すぐに弱さのために主を忘れ、主を裁き、主が目を背けられるような罪に陥ってしまう者である。だから、主の審きの厳しさを自覚しなければならない。

 しかしまた、我々には、真実の審き主とともに大祭司としての主がいてくださる。

 ヘブライ人への手紙4章16節には、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と記されている。

 我々が献げる礼拝は、弱さの中に傷付き、痛みながら、大祭司のもとに自分自身を委ねていき、主の十字架の御言葉により、その弱さと悪しき連鎖から解き放たれ、憐れみと思いやりの新しい連鎖を生み出す者へと我々は立たされ送り出されようとすることだろう。

 「生きよ」とは、罪の死から永遠の命へと移してくださった神を知りなさいとの招きだと思う。

 そして、神が与えてくださった御子は、「わたしもあなたを罪に定めない。どんな時も絶えず御言葉に聴いて、自分を明け渡し、わたしに立ち帰れ。生きてよい。大丈夫だ。罪を離れ、赦された者、主のものとして、わたしを信じ、御心に従って歩め」と、言ってくださっているのだと思う。

 主日ごとに主のもとへ立ち帰り赦しの御言葉に生かされ、主の憐れみと思いやりを携えて、主のものとして遣わされて行こう。

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