先週の説教 -バックナンバー-
12年9月のバックナンバーです。
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説教:「主が先立って進まれる」
聖書朗読:出エジプト記13章17〜22節
説教者 : 北川善也牧師
8月21日〜23日にかけて、恵みシャレー軽井沢で行われた「教会中高生・青年大会2012」に洛北の高校生1名、青年5名と共に参加した。この大会には、『宗教改革500年記念に向けて』と『日本伝道のために ―召命と派遣―』という2つの副題が付けられていた。
我々は、宗教改革の歴史に連なる教会であり、さらにさかのぼれば、新約聖書・使徒言行録に記された、主イエスの弟子たちによって建てられた教会が基となっている。主は、弟子のペトロ(ギリシャ語で「岩」の意)にこう言われた。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:18-19)。
教会は、こうして主の約束の言葉によって建てられた。その後、二千年にわたって主の御言葉に固く立ち、主の教えを途切れることなく受け継いできた代々の教会は、主御自身のものに他ならない。
「教会中高生・青年大会」に関わった有志教職たちは祈りを合わせつつ、収容定員250名の施設を会場として計画を進めていった。しかし収穫の主は、我々の計画をはるかに超える恵みで満たしてくださった。北海道から沖縄までの全国約100教会と台湾・韓国から合わせて270名の参加者が集められ、豊かな祈りと讃美、学びと交わりの時を持つことが赦された。
我々は、定員超過を自らの不信仰として恥じると共に、我々の祈りを超える豊かな恵みを与えてくださる主をほめたたえずにはいられなかった。人間の知恵も力も及ばず、人間の限界を軽々突破していく、それが主なる神の御業だ。
我々はしばしば、教会はこの先どうなるのか、信仰継承はうまくいくのか、と不安を覚える。しかし、神の民とされた者の旅路は、いついかなる時でも主なる神御自身が先立って導いてくださるということを忘れてはならない。
主なる神は、御自分の計画を人間の目に近道と見える仕方では進められない。それは、我々の喜びを目的としていないからだ。しかし、たとえ遠回りに思われても、神が導かれる道は後から顧みた時に、これ以上のものはなかったとしか思えない最善の道となる。
主なる神は、イスラエルの民を近道に導かれず、荒れ野の道へと迂回させられた。しかし、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(21-22節)と聖書は告げている。
そのようにして導かれた彼らだったが、後から追ってくるエジプトの軍隊を背にして、葦の海に追い詰められてしまう。だが、それは神の御業が示されるためだった。人間の力ではどうにもならない、万策尽きさった状態に追い込まれた時にこそ神の御力が示され、神の御栄光は光り輝くのだ。
「教会中高生・青年大会」には神学生が大勢参加し、朝の祈祷会や分団の中で良き証しをしてくれた。また、多くの若い教職たちがスタッフとして参加していたことからも、日本の教会の将来に大きな希望を抱くことができた。教勢低下、教会の弱体化が言われ続けている中で、このような希望を示されたことは本当に感謝だった。
教会は、すべての人間がまことの命につながって生きるため、聖書を通して語られる神の命の御言葉を人々に告げる大切な働きを担っている。神の御言葉に聴く時、我々は神の呼びかけに応え、「雲の柱、火の柱」によって導かれて、神に従う者へと変えられていく。
説教:「幸いな人生」
聖書朗読:マタイ福音書20章1〜15節
説教者 : 北 紀吉先生(愛宕町教会牧師、教団常議員)
ここに登場する主人は「神」を表している。そして、多くの労働者が出てくるが、彼らは皆「日雇い労働者」として同じ境遇に置かれている。また予備知識だが、当時の平均的な労働時間は日の出から日没までの12時間であり、賃金は1日1デナリオンが相場だった。
主人は、日の出と共に雇われた人たちに日当1デナリオンを約束してぶどう園へ送った。ここで注目すべきなのは、最初に雇われた彼らだけが確かな賃金の保証を与えられているということだ。
主人は、その後3時間おきに出てきて人を雇う。そこにいたのは怠けていたわけではなく、何も出来ずにたたずんでいた人々だ。主人は、なぜこんなふうにバラバラに人を雇ったのか。そこに理由は見出せない。要するに、主人は勝手気ままで何ものにも捕らわれない自由人なのだ。これが神の姿であり、そこにこそ我々の救いがある。罪の赦しは、捕らわれに満ちた人間には到底出来ないが、捕らわれなき御方には出来る。
何かに捕らわれている人は自由ではなく、主権を持つことが出来ない。そういう人は損得勘定で動くが、自由に振る舞う主権者は損をしてでも動く。そのような神の主権は、この御方が御自分の御子を十字架にまでつけられた出来事において明確に示された。
終盤、主人は5時に雇われた人々と会話を交わす。まもなく日も暮れようという頃そこにいたのは、空しく一日を過ごした人々だった。そんな彼らに、主人が一見心ない言葉で、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と問うと、彼らは「誰も雇ってくれないのです」と答えた。
当時の人々は、労働によって生きているという実感を得ていた。だから、働き口もなくそこにたたずむ人々は、暗闇を漂うような心境だったはずだ。自らの空しさを語ることも出来ず、黙ってうなだれている彼らを半ば強制的に語らしめる主人の「心なさ」。
しかし、彼らは素直に自らの置かれている状況を話した。この主人が、誰も認めてくれない彼らの悲しみに目を留められたからだ。役立たずとしか思われない自分自身が見出された時、人は喜びをもって生きる者とされる。自分という存在が本当の意味で認められることは、何ものにも比較出来ないくらい大きな救いの出来事だ。
ところで、主イエスのたとえ話は、我々につまずきを与えるものばかりだ。主は、つまずきによって人々に「気付き」を与えようとされた。主人は、遅く来た者から順に賃金を払った。それを見て、丸一日働いた者たちは不平を言うが、この不平は他の人と自分を比べることによって出てきた。ここに、恵みそのものを見るのではなく、周りと自分を見比べてしまう人間の罪深さが示されている。
5時までそこに立ち尽くすしかなかった人々の空しさが一番わかるのは、労働者仲間だったはずだ。しかし、彼らはそのように出来ず、周りとの比較をエスカレートさせ、欲望の道を突き進もうとする。
そのように、自分の仲間を仲間とすることの出来ない人間に対して、主人は「友よ」と呼びかけられた。そして、友なき者の友となってくださる神は、愛する御子をさえ十字架にかけて我々の救いを成し遂げてくださったのだ。
主人は、友とされたその人に最初の約束通り1デナリオン支払い、彼だけが主人と正規の契約を結んでいたことを思い起こさせる。それは、神の御前において我々の人格が認められているということ、そして神の約束は決して違えられることがないことを示している。
キリスト者は神の救いを約束されている。信仰における幸い、それは神の救いという揺るぎない保証を受けていることに他ならない。
説教:「羊飼いの声を聞き分ける」
聖書朗読:ヨハネ福音書10章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師
我々人間は、一人であらゆる問題と向き合い、乗り越えていくことが出来ない。我々は、誰かの助けがなければ、日に日に積み上げられていく問題の山に押しつぶされてしまうだろう。そうならぬよう、我々は多くの人々と肩寄せ、助け合いながら生きている。
そのような我々の社会は、「ギブ・アンド・テイク」で成り立っている。つまり、我々は何かをもらったら、それに見合う何かで相手にお返しをする。突然災害に巻き込まれた時などは、自分のものを見返りも求めず他人に与えたりするが、我々はそういう「無償の愛」を常日頃から行えるだろうか。
主イエスはある時、律法学者から「最も重要な掟は何か」と尋ねられると、「第一の掟は、これである。『……力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」と答えられた(マルコ12:28-34)。
これは、すべての人間が本能的に知っている掟だ。それは、神が最初に人間を造られた時、神御自身の似姿、すなわち神と向き合って生きる者とされているからだ。
しかし、この掟は知っているだけでは役に立たない。主は、この掟を実行することによって永遠の命が与えられると言われた(ルカ10:25以下参照)。だが、我々は自分の中にある罪によって愛の行為を封じられ、これを行なうことが出来ない。この掟を行うことが出来なければ、永遠の命を得られないというのであれば、我々はそれを受けられないということになる。それは、人生が死をもってすべて終わる袋小路のように空しいものだということを意味する。
だが、人間は本質的に自分たちの造り主の声を知っている。だから、我々がその御方との出会いを求め、捜し求めるならば、必ずその御声を聞き分け、そちらの方に顔を向けることが出来るのだ。
神は、そんな迷える羊である我々のために大牧者イエス・キリストを送ってくださった。この御方が、神の御声を直接響かせてくださるゆえ、我々はその御声を聞いて神との本来あるべき関係を回復することが出来るようになった。
それは、我々にとって何よりも大きな恵みであり喜びだが、キリストによる救いがどのようにして成し遂げられたか知ったなら、我々はそれを手放しで喜ぶわけにはいかなくなる。我々がこのような喜びの中に入れられるため、神は御子の十字架における死というあまりにも大きな代償を払ってくださった。人間の罪は、神の御一人子が十字架にかかって死んでくださらなければ拭い去ることが出来ないほど深いものだったのだ。
5時までそこに立ち尽くすしかなかった人々の空しさが一番わかるのは、労働者仲間だったはずだ。しかし、彼らはそのように出来ず、周りとの比較をエスカレートさせ、欲望の道を突き進もうとする。
それは、何よりもまず我々が信仰に留まり続けるための「祈り」だ。主は、我々が祈り求めるならば、聖霊の助けによって信仰を与え、神の愛に生きる者とすると約束してくださった。そして、そのように祈る者たちの群れを主の教会として立ててくださった。
また、見えない事柄を確信することの出来ない我々を助け導くため、主は聖礼典を制定された。我々は、目に見える洗礼によって主御自身と一体とされ、聖餐に与ることによって絶えず主と共にいるという確信を深めることが出来る。それを行うことが赦された場所もまた主の教会に他ならない。
主は、一人一人の名を呼んで、主のもとに連ならせてくださる。何よりも、我々は呼んでくださる御方の御声を知っているからこそこの教会に集っているのだ。主が教えてくださったように、祈りをもって御声に耳を傾け、この御方を我々のうちにお迎えしよう。
説教:「神の満ちあふれる豊かさ」
聖書朗読:エフェソ書3章14〜21節
説教者 : 北川善也牧師
使徒パウロは、自分が設立に関わったエフェソ教会が一つの神の民、キリストの御体に連なる共同体として堅く立ち続けることを願っている。その一方で、現実の世界では、国家間、民族間、あるいは人間個人の内側で、すなわちあらゆるところで分裂が起こっている。これは、昔も今も変わらぬ悲しい現実だが、教会にはそれと全く異なる幻が与えられていて、そのことが豊かに語られているのがこのエフェソ書なのだ。
争いや分裂という人間の罪の現実にあって、キリストの愛によってこの悲しみに終止符が打たれ、すべての人々が一つの神の民とされる。これがキリスト者に与えられている喜びの使信であり、この神の御計画を推進するための働きに召し出されているのがキリスト者だと聖書は告げている。
神の民である教会がキリストの愛を宣べ伝えることによって、神の御計画が成し遂げられると言われ、その教会はキリストの御体であると言われる。それは、教会が神御自身の生きて働かれる場所であるという意味に他ならない。
パウロは、教会に連なる人々が、まことにキリストの御体の一部となり、キリストの働きを担う者となるよう祈っている。それは、教会に連なる人々がキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解出来るようにという祈りでもあった。彼は、このように表現することによって、キリストの愛が無限の広がりを持っていることを精一杯伝えようとしたのだろう。
ある神学者は、このようなキリストの愛を十字架と結びつけて次のように表現した。「十字架の縦の木の上端は限りなく上を指し、十字架の縦の木の下端は限りなく下を指す。そして、十字架の横木の両端は、目に見える領域を超えて広がる地平線を指している」。キリストの無限の愛は、十字架において完全な形で示された。そして、この愛の外側に置かれている人は一人もおらず、この愛が行き渡らない場所もどこにもない。
我々は、洛北教会104年の歴史にあって、先に主の御許に召された神の家族を覚える礼拝を献げている。我々は、キリストの愛が完全であることを知っているので、直接顔と顔を合わせられなくなった今もこれらの方々が主の愛に包まれ、大いなる平安のうちに憩っていると信じることが出来る。
これほど偉大なキリストの愛は、どこで経験することが出来るのか。それは、キリストの御体である教会に他ならない。我々は、キリストの愛を神の民と共に教会で見出し、教会で経験するのだ。
我々は、恨み、憎しみ、争いによって引き裂かれた世界で生きている。国と国、人と人とが争い、人間個人の中でも善悪の葛藤があり、分裂の嵐が吹き荒れる。
しかし、神の目的はこのように引き裂かれている人類と国々がキリストにおいて一つとなることだ。その実現のため、神は御自身の愛を人々に宣べ伝える器としての教会を必要としておられる。これこそ教会がキリストの御体であると言われるゆえんであり、それゆえ教会がなすべき最も大切な務めは、キリストの御業を行う手足となり、またキリストを宣べ伝える声となることに他ならない。
我々の教会も二千年間にわたり、そのようにキリストの道具となって神の愛を伝え続けてきた群れに連なっている。だから、洛北教会104年の歩みに連なってきた人々も、神の愛を受け、その大いなる愛に生かされてきた一人ひとりなのだ。そのことに感謝すると共に、今度は我々がこの方々の信仰をしっかり継承し、次世代へと確実に受け渡していかねばならない。神の御計画が必ず成し遂げられることを確信しつつ、我々一人ひとりがそのための業に用いられることを心から祈り求めよう。
説教:「神はすべてをご存知である」
聖書朗読:ローマ書11章33〜36節
説教者 : 北川善也牧師
わたしたちの神は、無から有を創造される御方です。神は、万物の創造者であり、それを保たれ、完成へと導かれる御方です。わたしたちは、そのことを自分の知識や努力によって知るのではないのです。神御自身が、わたしたちに憐れみをもって近づき、豊かな恵みをもって御自分がいかなる御方であるかを示してくださるのです。それは本来、わたしたちには知ることの出来ない事柄です。
25節に《秘められた計画》という言葉が使われています。口語訳聖書では、「奥義」とされていました。その奥義とは何か。パウロは、《一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです》(25b-26節)と告げています。わたしたちの常識で理解できない事柄に神の奥義が示されます。
《福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです》(28-32節)。ユダヤ人は今、キリストの敵のようになっているが、それはあなたがたのためであり、彼らの不従順ゆえにあなたがたは神の憐れみを受けたのだ。だが、やがて彼らも従順になり、そうしてすべての人の救いが成し遂げられる。それが神の奥義だというのです。
神がすべてを御計画のうちに救いへと導かれるのだから、あなたがたはこの世の現象に振り回されて、一喜一憂したり、右往左往したりしないようにしなさいと言われています。信仰者は、右往左往しそうになる時にも、ぐっと腰を落ち着けて、その背後にある一本の決して動かぬ筋に目を向けなさいと言われているのです。
パウロの言葉は、最後は讃美に変わっていきます。神による救いの計画を示され、喜びで満たされているからです。彼は9章冒頭では、大きな悲しみと絶えざる痛みを嘆いていましたが、最後にはそれが讃美になっているのです。それは現象に引き回されていた自分が、その現象を超えた神の計画という、本来見るべきものに目を向け、右往左往しないですむようにされたということです。万物が神から出、万物が神によって成り立ち、万物が神に帰せられる。そのことを知らされた時、わたしたちは神を讃美するしかない小さな者にされます。しかし、その小さな者に与えられている喜びは計り知れないほど大きなものなのです。
以下の御言葉に聴きましょう。
主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
(以上、詩編139編より)アーメン。