日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年10月のバックナンバーです。

2012年10月7日 世界聖餐日・世界宣教の日

説教:「天にある永遠の住みか」
聖書朗読:Uコリント書5章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 キリストを信じて生きる者の喜びとは何か。それは、死に勝利された御方とつながることにより、自分の身にいつか必ず起こる死を乗り越えられるという確かな約束のうちに、平安な人生の道のりを歩むことができることだ。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:1-4)。

 神と向き合って生きる者は、死を恐れる必要がない。神こそすべての創造者であり、命の与え手に他ならないからだ。我々の命は、自分で勝手に生きている命ではなく、神によって生かされている命だ。我々はその命の創造者に委ねて生きることにより、これ以上ない平安を与えられるのだ。

 さて、今日与えられた聖書箇所は使徒パウロによる手紙だが、そこには不思議な表現が見受けられる。「天から与えられる住みかを上に着たい…」(2節)とか「地上の住みかを脱ぎ捨てたい…」(4節)というような言い回しだ。我々は普通、「家」を洋服のように着るとか脱ぐなどとは言わない。

 しかし、そのような生き方をしている動物もいる。ヤドカリだ。ヤドカリは、貝殻をテント代わりにしたり、敵から身を守る盾にしたりして生きている。けれども、ヤドカリは、その貝殻の中にいれば一生安泰なわけではない。なぜなら、成長と共に今住んでいる貝殻が体に合わなくなるからだ。

 以前、テレビでヤドカリが引っ越しする場面を見たことがある。ヤドカリは、新しい住みかにふさわしい貝殻を見つけると、その入口近くにピタリと身を寄せ、周囲に敵がいないかキョロキョロ様子を伺いながらすばやく新しい貝殻に乗り移る。もし、ヤドカリに感情があるとしたら、こんな経験をしながら住みかを替え続けねばならない生き方ではなく、唯一の住みかでいつまでも平安に暮らしたいと思うのではないか。

 実は、我々もこれと同じような生き方をしているように思う。この世における平安を求める代償として、我々はこの世の価値観に縛られ、操られながら生きている。この世の価値観は移り変わっていくから、我々もその変化に対応しながら生きねばならない。人間は、そんなふうに必死で生きていくうちに、他人を顧みず、自分さえ良ければよいという自己中心的な存在になっていく。それは、ヤドカリが自分の体に合う貝殻を必死で捜し求め、自分を守ることのみに汲々としているのと同じだ。

 しかし、我々がそんな生き方をしなくてもよいよう、神は全く新しい道を備えてくださった。我々のため、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった。キリストは、神の御子でなければ成し遂げられない働きをもって、我々を永遠の命へとつなぎ止めてくださった。だから、我々はもうヤドカリのように地上の住みかのことで汲々としなくともよい。真の救い主に従うことによって、我々はこの世を生きながら、永遠に朽ちることのない「天の住みか」の約束を受けているからだ。

 神は、我々にそのような平安を与えるため、信仰へと導かれる。信仰によって、我々は「見えるものではなく、見えないものに目を注」ぐ者に変えられていく。我々が目を注ぐのは、神によって与えられる天の住みか、すなわち神の国であり、そこにこそこの世の何ものにも代えがたい平安がある。

2012年10月14日 神学校日・伝道献身者奨励日

説教:「パウロ〜喜びをもたらす信仰」
聖書朗読:フィリピ書3章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、「主において喜びなさい」と告げる。「喜び」とは、通常うれしい時に湧き起こる感情だが、彼が言っている「喜び」はそのようなものではなかった。この時のパウロはうれしい状況にあったわけではなく、むしろ反対の、明日をも知れぬ獄中生活に置かれていた。それは、普通なら気持ちが落ち込み、ふさぎ込んでしまうような状況であるはずだ。

 しかし、パウロにとって「喜び」とは、「主において」という言葉と切り離すことができないものであり、それは状況によって左右されることのない、人間が源となって湧き起こる「喜び」ではない。「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」(1節)。

 そんな「喜び」について語った直後、パウロは「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2-3節)と厳しい口調で警告している。その時、フィリピ教会にはパウロにとって我慢ならない者たちが入り込み始めていた。彼らは、キリストの十字架による救いを受け入れず、自分が選ばれた神の民であるゆえ、自分の救いは既に完成したと考えていた。

 パウロは、もしそういうことが救いの根拠になるなら、自分こそ立派なイスラエルの民であり、ヘブライ人中のヘブライ人であり、律法遵守について特に厳格なファリサイ派に属し、かつてキリスト教会を迫害したこともある生粋のユダヤ人だと4-6節で言っている。しかし、彼はそんなことがいくらあっても、自分はそれによっては救われなかったと断言する。

 我々が神の御前に立つ時、唯一つ確かなことは、我々は神の憐れみによって生かされているという事実だけだ。しかし、そのような信仰は、自分自身を誇りとするこの世の事柄によって妨げられたり、損失を受けたりするものだとパウロは言う。だから、彼は自分がそれまで大切にしてきた一切を「塵あくた」と言い切るのだ。

 ところで、パウロが言っている「キリストを得る」(8節)とはどういうことか。それは、ただ知識としてキリストを知るだけでなく、キリストが自分の生命そのものであることに気づかされることだ。キリストが汲めども尽きぬ命の水と言われるように、この御方こそ命の源であり、この御方なくしては生きられないことに気づかされる、それこそが「キリストに救われる」ということに他ならない。

 そのような信仰により、自分はもはや元の自分ではなく、キリストによって罪赦され、永遠の命に与る者であるという何より大きな平安を与えられる。そのために我々は、キリストとその復活の力を知らなければならない。キリストによる救いは、キリストの死だけではなく、キリストの死と復活によって成し遂げられたからだ。

 キリストの救いを信じるということは、自分自身もひとたびキリストと共に死んだ上で、キリストの復活の力によって死人の中からの復活に至るということだ。しかし、死に打ち勝つためには、まず自らの罪を克服しなければならない。そのために我々は、キリストの十字架による贖いを受けるのだ。死から永遠の命へと移されるためには、キリストの十字架によって罪赦されることが必要だ。

 「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(11節)というパウロの切なる願いを、我々も果たすためには、キリストを知ること、すなわちキリストの救いに与ることが不可欠だ。神は、すべての人々がそのようにして永遠の命を受け、神の国につながれることを何よりも望んでおられる。

2012年10月21日 秋の特別伝道礼拝

説教:「わたしの主、わたしの神よ」
聖書朗読:ヨハネ福音書20章24〜29節
説教者 : 戸波義憲先生(横浜菊名教会牧師)

 人間誰しも強くなりたいと思っている。肉体的にも精神的にも、そして信仰的にも強くなりたいと思う。「信仰の強さ」とは何か。

 主イエスの弟子であるトマスは初め、自分の信仰は「強い」と思っていた(ヨハネ11:16以下)。主は、ユダヤ教徒による迫害を受け、エルサレムを逃れていたが、愛しておられたラザロが重篤であるとの報に触れて、エルサレム方面に住むラザロ宅へ赴こうとされた。しかし、そこは主に敵意を持つ者たちが大勢いるところでもあった。他の弟子たちは腰が引けていたが、トマスは彼らに先んじて「わたしたちも行って、(主と)一緒に死のうではないか」と叫ぶ。

 トマスにとって、主と共に殉教することこそ信仰だった。しかし、実際に十字架の出来事が起こった時、トマスを始め弟子たちは一人残らず逃げ去った。あれだけ威勢のいいことを言っていた人間が掌を返すような態度を取った時に味わう恥ずかしさは相当大きなものだと思う。トマスは、こうして深みにはまっていくこととなる。

 弟子たちは、次は自分たちが処刑されるかもしれないとおびえ、家のすべての扉に鍵をかけて閉じこもっていた。そこに、霊の身体をもって復活された主が入ってこられ、「あなたがたに平和があるように」と言われた。主のお姿を目の当たりにした弟子たちは、復活の主を信じる者とされた。

 しかし、トマスはその時そこにいなかった。それゆえ、彼だけ復活を信じることが出来ない。復活を信じている他の弟子たちから、彼は一歩出遅れてしまったのだ。この一歩の差は大きかった。トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言うが、この時、彼は自分の信仰の弱さをさらに深く味わったことだろう。

 それまで一緒に歩んできた仲間の弟子たちが、自分だけを残して先に進んでいるということはトマスの心に大きな焦りをもたらした。「主と共に死のうじゃないか」と言っていた時が信仰の頂点だったとすれば、「わたしは決して信じない」と言った時は不信仰の極みだったと言えるかもしれない。

 主は、そんなトマスに近づき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と声をかけられた。主は、どん底にいる彼と向き合い、寄り添われた。その時、彼から「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白が引き出された。不信仰の極みにいる自分さえ顧みてくださる主の深い愛に触れたからだ。

 トマスの口から出てきた信仰告白は、彼自身に源をもつものではない。最も信仰が弱い時のトマスに注がれたのは、主によって与えられた最も強い信仰だった。

 信仰とは、神からのプレゼントに他ならない。だから、我々は本来、信仰について「強い」とか「弱い」などと言えないし、そもそも信仰を与えられること自体が奇跡的なことなのだ。我々は、授かりものである内なる信仰に促されて初めて礼拝者に変えられていく。

 神が人間に信仰を与えられるのは、野球で言えば「9回裏、2アウト、フルカウント」というあと1球ですべて終わる時。そういうギリギリの時に神は恵みと慈しみをもって我々に信仰を与えられる。

 「わたしは弱いときにこそ強い」(Uコリント12:8-10)とパウロが語るように、信仰は我々が強いから身に着けられるのではなく、むしろ、自分の弱さをしっかり見つめ、それを受け入れた時、神によって与えられるものなのだ。

2012年10月28日 讃美音楽礼拝

説教:「エレミヤ 〜恵みの約束、平和の計画」
聖書朗読:エレミヤ書29章4〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 預言者エレミヤは、これまでも大胆に神に託されたメッセージを語り続けてきたが、それによって同胞であるイスラエルの民から爪弾きにされ、今や彼を死刑にしようとする動きさえ出始めていた。

 エレミヤは、このような行為を続ければ自らの命が危険にさらされることは十分わかっていたが、それをやめようとはしなかった。それは、若き日の彼に与えられた神の約束があったからだ。

 「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』。わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから』。しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』と主は言われた」(1:4-8)。

 神の御言葉を正しく語る真の預言者として選び出されたエレミヤ。だが、彼の語る言葉は民にとって心地よいどころか不快なものですらあった。だから人々は、「そんな言葉は聞きたくない」と言って彼を排除しようとしたのだ。

 この時、イスラエルはバビロン帝国の支配下に置かれつつあった。既に1回目の侵攻が終わり、エルサレム神殿の宝物類は奪い去られていたが、預言者を名乗るハナンヤは「2年もすれば状況は好転する」とのメッセージを告げ、民を安心させた。一方、エレミヤの方はどんな対応をしたか。

 「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。……バビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ」(27:12-14)。

 これは、実質的な敗北宣言だが、民が生き残るための道はこれしかなかった。どこまでも甘い言葉で民の人気を集めようとする偽預言者に対してエレミヤは断固として抵抗するが、この抵抗がますます彼を窮地に追い込んでいく。しかし、彼が預言者として立てられたのは、民を生かし導く神に託された働きのためだったから、彼はそれを勝手にやめられないのだ。

 エレミヤは、捕囚民に向けた手紙の中で、その地に家を建て、家族を増やし、町の平安を祈りつつ生き抜けという励ましを語った。それは、時が満ちた時、必ず彼らを元の場所に連れ戻すという神の約束を伴う希望の言葉だった。

 信仰者にとっての希望とは、まさにこのような先の見えないものであり、信仰者はその完成を目指して歩み続ける。我々が歩む道は、この世における満足だけで終わってしまうような道ではない。

 使徒パウロは、次のように語っている。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。……わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Uコリント4:16-18)。

 我々の弱く限界ある体にキリストが宿り、日々内側から造りかえてくださるからこそ我々は神の器とされる。我々を通して生きて働かれる神の力を信じる時、この世がどんなに絶望的な状況に見えても、我々は失望したり、落胆したりせず、神の招きに応えてひたすら歩む者へと変えられていく。

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