日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年11月のバックナンバーです。

2012年11月4日 降誕前第8主日

説教:「ペトロ〜自分の十字架を背負って」
聖書朗読:マルコ福音書8章27〜35節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われる。我々は、なぜこの問いに答えねばならないのか。それは、そのことが我々はなぜこの世に生まれ、何のために生きるのかという問題と深く関係しているからだ。

 主は、弟子たちに二度問われた(27-30節)。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」という問いに弟子たちが、「『洗礼者ヨハネだ』とか『エリヤだ』とか『預言者の一人だ』などと言っています」と答えると、主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた。これに対してペトロは即座に、「あなたは、メシアです」と明確に答えた。

 だが、主はこのことを誰にも話さぬよう弟子たちを戒められた(30節)。それは、彼らがまだ主をぼんやり見ているような状態で、本当の姿をわかっていなかったからだ。ペトロは、確かに正しく答えたが、彼はその主による救いがどのようにして成し遂げられるか、まったくわかっていなかった。

 主は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31節以下)と予告されたが、ペトロはその意味が理解できなかった。メシアとは勝利者であり、栄光を受けるべき御方。つまり、ペトロはメシアがそんな目に遭うことなど考えられなかったのだ。

 ペトロは、主をわきへ連れて行き、いさめ始めるが、それは彼が無意識のうちに神を差し置いて自分が前に出ようとした「人間中心主義」の表れに他ならなかった。そんな彼に向かって、主は「サタン、引き下がれ」と一喝されるが、その時の動作は非常に印象的だ。主は「振り返って、弟子たちを見ながら」ペトロを叱られた。これは彼だけではなく、弟子たち全員に対して向けられた言葉だったのだ。しかもその仕草からは、怒りに燃える御姿ではなく、むしろ悲しみをもって弟子たちに目を注がれる主の御様子が思い浮かぶ。

 この時、主が言われた「引き下がれ」という言葉は、「わたしの後ろに退け」とも訳すことが出来る。そしてこの言葉は、続く34節で弟子として主に従う者の姿勢を表わすものとして使われている。さらにこの言葉は、漁師だったペトロに対して主が最初に言われた「わたしについて来なさい」という、弟子として召される際に使われたものと同じだった(1:17)。

 主の後ろに従うことこそ、弟子が取るべき最も大切な姿勢だ。ペトロは、十字架に向かう主の前に立ちはだかったが、弟子たる者は主の前ではなく、後ろに従わねばならない。十字架へと進む主の道こそ弟子の歩むべき道なのだ。

 ペトロはこの後、主が裁判にかけられている様子をすぐ近くの大祭司の家の庭で伺っていると、居合わせた人々から主との関係を追求され、三度にわたって主を否む。彼は、自分の十字架を負いきれなかったばかりか、それを投げ出し、主の前から逃げ去ってしまう。

 しかし、十字架の死から復活された主は、すぐ御自分を裏切ったペトロのところに現れ、三度主を否んだ彼に対して、三度「わたしを愛しているか」と問われる。この時の主の言葉も恨みがましいものではなく、逆に深い愛のまなざしをもって向けられた。そして、彼が最後まで従うことが出来るよう、主は再び「わたしに従いなさい」と呼びかけられるのだ。

 主は、いついかなる時でも「わたしに従いなさい」と招いていてくださる。たとえわたしたちに聞く耳がなかったとしても、主は何度でも繰り返し語りかけてくださる。それは、我々を永遠の命へとつなぎ止め、神の御国に導こうとなさる神の御子の慈しみに満ちた切なる呼びかけの言葉なのだ。

2012年11月11日 オール洛北礼拝

説教:「アブラハム〜さあ、目を上げて!」
聖書朗読:創世記13章14〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 神さまは、わたしたち人間を御自分に似せてつくられました。だから、神さまは人間をとても大切にし、特別に愛してくださいます。けれども、神さまが最初につくられた人間、アダムとエバは、神さまの言いつけを守らず、自分たちから神さまを離れていきました。こうして神さまが「とてもすばらしい」と言ってつくられた人間は、神さまの怒りを買うようなものになってしまったのです。

 けれども、神さまは御自分に似せてつくられた人間を、そのまま放ってはおかれませんでした。神さまは、御手を伸ばしてアブラハムを捉え、彼から始まる子孫たちを神さまの祝福の中に入れることを決められたのです。そして、そのような大切な働きをさせるため、神さまは彼にどんなことがあっても決してなくならない信仰を与えられました。

 さて、そのアブラハムは若い頃、お父さんのテラに導かれて、奥さんのサラや甥のロトたちと一緒に長い旅をしていましたが、ハランというところにたどり着き、そこに家を建ててみんなで幸せな生活を始めました。やっと落ち着いて住める場所を見つけて、ホッとしていたアブラハムでした。

 ところが、ある日神さまの声が聞こえ、アブラハムは「父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神さまの命令を受けました。その時、神さまは彼に、「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。……この世界の人々はすべてあなたによって祝福に入る」という約束を与えられたのです(12章1〜3節)。

 アブラハムは、神さまの約束を信じて旅に出ましたが、その旅は厳しい試練の連続でした。彼らが行くところは日照り続きで飢饉が起こり、食べ物を見つけるのに大変苦労しました。どこを探しても食べ物が見つからないので、彼らはエジプトまで逃げていきましたが、そこでも危ない目にあって、生きていくためにとても苦労しました。けれども、彼らが命からがらカナンの地にたどり着いた時には、不思議なことにたくさんの羊や牛が与えられ、財産も増えてとても豊かになっていたのです。

 ところが、今度はあまりにも裕福になりすぎたため、一族の間で争いが起こるようになりました。たくさんの家畜を飼いながら生活するには家族が多すぎて、もう一緒に住むことができないほどになっていたのです。そこで、アブラハムは今まで一緒に暮らしてきたロトたちと別れることにしました。その時、まずロトの方に住みたい土地を選ばせました。アブラハムは、神さまの約束を信じ、「自分には神さまの約束が与えられているのだから、自分の目で見てすばらしいと思うものではなく、神さまが与えてくださるものをそのまま受け取ろう」と考えたのです。

 神さまの約束を信じ続けたアブラハムには、「東西南北の見えるかぎりすべての土地を与える」という今までよりも大きな恵みの約束と、「あなたの子孫を大地の砂粒のように数えきれないほどにする」という驚くべき祝福の約束を与えられました。神さまを信じる人に与えられる喜びとは、こんなにも大きなものなのです。

 今、こうして教会につながっているわたしたちは、この時アブラハムが受けたのと同じ神さまの祝福を受けています。世界中に立てられた神さまの教会にわたしたちの家族がいます。東西南北どこへ行っても教会があり、その教会でわたしたちと同じように礼拝している人々はみんな神さまの家族なのです。世界中に広がる神さまの家族、それは神さまが与えてくださった恵みの約束を示しています。「さあ、目を上げて!」勇気を出して進んでいきましょう。

2012年11月18日 降誕前第6主日

説教:「モーセ〜救いの約束」
聖書朗読:申命記18章15〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 「彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」(18節)。主なる神は、御自分の民イスラエルを正しい道に導くため、モーセを預言者としてお立てになった。自分たちが神の民であるという自覚をしっかり持つことの出来ない彼らに対して、神の確かな救いの約束を告げるための、いわば御言葉のメッセンジャーとして選ばれたのがモーセだった。

 彼に託された働きも、ただ神からお預かりした御言葉を民に告げるだけだったならば、さほど難しいことではなかったかもしれない。しかし、モーセに限らず、聖書に登場する預言者たちは皆、ただ神の御言葉を人々に「告げる」だけでなく、自らが「告げた御言葉どおりに生きる」ことまで求められていた。つまり、神の救いの約束を告げる者には、同時にその告げた言葉を証しする生き方までが求められたのだ。預言者においては、「語ること」、「行うこと」、「生きること」が一つであるということが要求された。

 しかし、そのような生き方を課せられたのは預言者だけではなかった。聖書は次のように続ける。

 「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」(19節)。

 神による救いの約束は、語る者だけでなく、聞いた者にも責任を生じさせるというのだ。神の御言葉を聞いた者には、それを自分のものとして受け入れ、さらに「告げられた言葉に応えて生きる」姿勢が求められた。つまり、聞く側においても、「聞くこと」、「行うこと」、「生きること」が一つであることが求められているのだ。

 ところが、神の御言葉、神の約束を自分のものとし、それに従って生きようとする時、語る者にも聞く者にも苦悩がつきまとう。なぜならば、神の御言葉とは本来、我々にとって決して届くはずのない「高さ、広さ、深さ」を持っているからだ。我々は、そのような神の御言葉とは到底釣り合うはずもない「低さ、狭さ、浅はかさ」の中で生きている。「ゆるせ」と言われてもゆるすことのできない現実が目の前にある。そして、それこそが我々人間の本質だ。

 我々が味わう苦悩は、神による救いの約束に対して真剣に向き合おうとすればするほど強くなっていく。こうした思いは、我々が信仰者である限り、生涯にわたってどうしても避けることの出来ないものであるだろう。我々の弱さやかたくなさは、神の御言葉を遠ざけようとする遠心力として働き、それが絶えず御言葉を受け入れようとする力を妨げるからだ。

 神は、そんな我々にモーセに次ぐ「預言者」、それも人間の限界を超える御方を与えてくださった。その御方は、メッセンジャーとして神の御言葉を人間にただ伝えるのではなく、神の御言葉そのものとしてこの世に来られた。それは、神の御言葉を聞いても、本当の意味で自分のものにすることのできない人間のため、最後の切り札として神がこの世に遣わしてくださった御方だ。

 まもなく、我々は神が遣わされた御子イエス・キリストの御降誕を覚えるクリスマスを迎えようとしている。この御方が、神と我々との関係を本来あるべき形に修復するため、双方の間に立ち、その障壁となっている我々人間の罪という問題をお一人ですべて担い、片をつけてくださった。それによって、神と人間との関係不全という苦悩は今や完全に解消された。

 御子イエス・キリストは、我々一人一人の中で生きて働く神の御言葉となってくださった。我々は、神の御言葉そのものであるこの御方を自分自身の中にお迎えすることによって、神と向き合い、本当の意味での解放を与えられ、真の救いへと導かれていくのだ。

2012年11月25日 降誕前第5主日

説教:「あなたたちは自由になる」
聖書朗読:ヨハネ8章31〜38節
説教者 : 北川善也牧師

 ヨハネ福音書には、ユダヤ人と主イエスの論争場面が多く記されているが、今日出てきたのは「主を信じたユダヤ人」で、敵対関係ではなかったのに論争が起こっている。ここに見られるように、主と人々の論争の原因は単純な問題ではない。論争の背景には覚えておきたい点がいくつかある。

 一つは、福音書が書かれた時代状況だ。ヨハネ福音書は、主が十字架にかけられてから約60年後に記されたと推定されているが、その頃ユダヤ教側の公の宗教会議によって、ユダヤ教の会堂でイエスをキリストと告白する者は追放し、異端とすることが定められていた。だから、ここにはユダヤ教側と異端視されていたヨハネの信仰共同体との間に生じていた緊張関係が色濃く反映しているのだ。

 もう一点は、「イエスこそキリストである」という信仰告白そのものが、ユダヤ社会に残るか、そこを去り迫害を受ける側に身を置くかという大きな選択を迫られる問題だったということだ。つまり、ヨハネ福音書は、そのような厳しい状況にあってもなおキリストの御言葉に留まり続けるよう信徒たちを叱咤激励しているのだ。

 主はユダヤ人に対して、「真理はあなたたちを自由にする」と言われた。すると、彼らはすぐに、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」(33節)と反論した。彼らは、自分たちがアブラハムの末裔として民族の大切な律法を遵守しているから、外部の汚れや奴隷状態を免れ、「自由」な状態であると考えていた。

 しかし、ここで主が言われたのは、人間にとって根深い、内面的な罪の問題に他ならなかった。つまり、これはユダヤ人という限られた人々だけに向けられたものではなく、我々一人一人に投げかけられた大きなテーマなのだ。

 主は、「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(37節)と言われた。主は、神を信じるユダヤ人である彼らが、神の御子である主の御言葉を受け入れず、またその御言葉に留まらず、最終的に主を十字架につけることまで予告された。この箇所を別の聖書は次のように訳している。

 「あなたたちはわたしを信ずるには信じたが、わたしを殺そうとしている。それは当然だ。わたしの言葉が、あなたたちの心の中で根を張らないのだから」。

 ここから連想される主のたとえ話がある。「農夫が種を蒔いていると、ある種は道端に落ち、鳥に食べられた。他の種は、石だらけの所に落ち、日が昇ると焼けて枯れてしまった。他の種は茨の間に落ち、茨にふさがれてしまった。ところが、良い土地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍にもなった」(マタイ13:3-9)。

 主は、命の源である神の御言葉を携えて我々のところに来てくださった。いや、主は神の御言葉そのものとしてこの世に来られた。我々は、神の御言葉そのものであるこの御方を信じ、受け入れることによって真の救いに与る実を結ぶことができるようになった。

 だがその一方で、我々の中にはその救い主を殺そうとする罪が満ちている。恐ろしいことに、我々の中には主を裏切り、十字架につけようとするユダが存在する。

 そんな我々にとり、主の御言葉は鋭い刃が迫ってくるように感じられることもある。しかし、それはすべての人間を、一人も漏らすことなく救いへ導こうとする神の熱い思いが込められた御言葉だからだ。このような愛に満ちた神の御言葉そのものとしてクリスマスにやってこられた御方を、我々一人一人の心の中にお迎えする備えをしっかりとしておきたい。

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