先週の説教 -バックナンバー-
12年12月のバックナンバーです。
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説教:「主が来られる」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書2章1〜5節、
【新約】マタイ福音書24章36〜44節
説教者 : 北川善也牧師
マタイ24章には、主イエスがオリーブ山の上で弟子たちの問いに答えて語られたいくつかの言葉が綴られている。その時、弟子たちの心には強く引っかかることがあった。それは、一行がエルサレム神殿を出た時、主が強い口調で言われた「この神殿は崩壊する」という言葉だった。それは、ユダヤ人にとって信仰の拠り所であり、民族の誇りでもある象徴的な建造物だったから、もしそんなことが起こるとしたら、それはまさに「世の終わり」の出来事に他ならなかった。そこで、彼らは恐る恐る主に、「世の終わりにはいったいどんな出来事が起こり、それを知るためにはどんなしるしに注意すべきか」と問いかけたのだ。
今日の箇所で主は、旧約の「ノアの洪水」を引き合いに出して話されたが、それは終わりの日が破滅的出来事だと言うためではなく、日常生活の中に突然起こる出来事であることを強調されるためだった。続く40節以下も同趣旨だ。
男が畑を耕し、女が臼を引くというのは、当時の日常的な風景だった。そのような日常の中に突然、ここで言われているようなことが起こるというのだ。主は、こうして終わりの日に起こるのは日常とかけ離れた出来事ではなく、逆に普段の生活とつながりを持った出来事であることを示された。
しかし、問題はそれだけではない。ここには、男も女も二人ずつ登場し、そのどちらも同じような生活をしているように見えるが、片方は天に上げられ、もう片方は取り残されると言われている。我々から見たところ差がないように思われるこの二人も、神の目から見たら決定的な違いがあるのか。
もしそうなら、これはすべての人間に関わる重大な問題だ。我々は皆、同じようにこの世のことに携わりつつ生きているが、それが神の目から見た場合、全く違って見えるというのだ。
主は言われた。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(42節)。その違いとは、目を覚ましているか否かだという。それは、同じように生きていても、この世のことに心を奪われているか、あるいは神に仕えているか、どちらであるかということであり、その生き方の違いには天と地ほどの差があるということだ。では、「目を覚ましている」とは具体的にどのような態度なのか。
主が十字架につけられる前の晩、ゲツセマネの園で一人祈られた時、眠りこけている三人の弟子たちに主は、「目を覚まして祈っていなさい」(26:41)と言われた。ここでは、「目を覚ます」ことと「祈る」ことが結びつけられている。ということは、終わりの日を待ち望む姿勢として必要なのは、絶えず祈りをもって主なる神とつながり続けることであると示されているのではないか。
「終わりの日」という言葉は、確かに審きの恐ろしさを含んでいるが、主は別のところで次のように言われた。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」(ヨハネ16:21-23a)。
終わりの日、すなわち主の再臨の時は、信仰者にとって救いの完成の時であり、最も喜ばしい恵みの時に他ならない。その輝かしいゴールに到達するため、我々は多くの試練が待ち受けているレースを最後まで闘い続けねばならない。しかし、このレースは一人きりの孤独な闘いではなく、教会の兄弟姉妹と共に励まし合い、支え合いながら走るレースだ。そして、何よりも主御自身が我々と共に走ってくださるレースなのだ。
説教:「この御方はどこから来られたのか」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書59章15b〜20節、
【新約】マタイ福音書13章53〜58節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスの故郷ナザレは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)という言葉が聖書にあるように、小さく平凡な村だった。主が幼少期を過ごされたこの村の人々は、幼い頃の主の様子をよく知り、家族同士の交わりも持っていたことだろう。
主は、青年になると村を出て、福音伝道の働きを開始すべく、異邦の地へ向かわれた。主がナザレに戻られたのは、それ以来久しぶりだったのだろう。主が「会堂で教えておられると、人々は驚いて……」(54節)とあるが、それは皆の前で堂々と聖書を説きあかしているのが、彼らのよく知っている人間であるところから来ている。
「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55節以下)。確かに、彼らにとってその男はよく知っている人間だった。だが、彼らが必死で自分たちのよく知っているはずの人間イエスを見出そうとすればするほど、そこには彼らの全く知らない知恵と力を持った驚くべき御方の姿が浮き彫りにされていくのだ。
人々は、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)という疑問を抱いた。彼らは、この御方こそが驚くべき力の源であるということを認めようとせず、この御方との交わりさえ拒絶しようとする。
主は、その驚くべき力をもって、すべての人間を神が約束してくださった永遠の命に至る道へと導くため、この世に来られた。しかし、人々はそのような真の希望につながる道に進むことを拒否し、住み慣れた世界にとどまる道を選び、そこに閉じこもってしまう。
このような心の状況が「つまずき」を生み出した。しかし、同じように主と出会い、その教えと働きに触れた人々の中にもつまずきが起こっていない場合がある。たとえば、マタイ福音書19章16節以下の「金持ち青年」の物語において、主から「金持ちが天の国に入ることは難しい」と聞いた弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」とつまずいた時、主より「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」との示しを受けてつまずきを乗り越え、神に信頼をおいて従っていくという決断へと導かれていった。
主の権威に満ちた聖なる御姿に触れた者は、皆例外なく驚きと恐れを覚えるが、そこから先の道は、新しい信仰の旅へと向かうか、あるいはつまずいて、もと来た道を引き返すかに大きく別れる。
救い主である御方がどうして人々のつまずきとなるのか。それは、主による救いというものが、人間の力ではどうすることもできないようなところから、すなわち神の側から一方的に来るものだからだ。外側から我々の心の扉を叩いておられる救い主を受け入れるならば、堅固な岩の上に家を建てることになるが、この御方を拒否するならば、救いの確信をいつまでも得ることができず、砂地の上に立てられた家のように、土台が安定せず揺れ動き続けてしまう。
どんなにつまずきであったとしても、ナザレのイエスこそ真の救い主であるという事実、すなわちこの御方の十字架と復活を通して、罪人である我々と神との関係が回復されたという事実は避けて通れない。そして、このつまずきは、他の誰かの人間的な配慮などによって取り除くことができないものなのだ。それを取り除くことができるのは、一人一人の主体的な信仰の決断の他にはない。そのために、主は世のすべての人の心の戸口に立ち、叩き続けておられる。その呼びかけに応え、すべての人が真の救い主を迎え入れることができるよう祈り続けたい。
説教:「来たるべき御方」
聖書朗読:【旧約】士師記13章2〜14節
【新約】マタイ福音書11章2〜19節
説教者 : 北川善也牧師
洗礼者ヨハネは、獄中で主イエスがこれまでなさった数々の奇跡について聞くと、「来たるべき救い主は、本当にこの御方なのか」という疑問を抱いた。驚くべき御業を直接見た人々は信じられたが、見ずに聞いただけでは信じられないということなのか。ヨハネは、その問いを自分の弟子たちに託し、主のもとへ向かわせた。
これに対する主の答えは次のようなものだった。「目の見えない人は見え、……死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(5,6節)。
「福音」とは、一言で言えば「罪の赦し」のメッセージだ。当時の常識として、神の掟である律法に従わない者は、罪人として神の裁きを受けることになるわけだが、その赦しは常識外のことだった。それゆえ、「罪の赦し」を語る主は、ヨハネにとってつまずき以外の何ものでもなかったのだ。
なぜ人間が救い主と出会った時につまずくのかと言えば、この御方による真の救いが人間の力ではどうすることもできない、神の側から一方的に与えられるものに他ならず、人間はそれを受けとめるか否かしかないからだ。
ヨハネの問いに対して主は、御自分の御業によって既に神の国が実現しつつあると告げられた。このようにして、主は彼に対してボールを投げられたのであり、このボールを受け取るか否か、つまり福音を受けとめるか否かは、彼自身にかかっているのだ。
主が語られる言葉には、時としてこのように意図的に「つまずき」を与えようとしているかのように思われるものがある。しかし、そのような時こそ、我々はその言葉によって主が何を示そうとしておられるのかに注意すべきだ。
我々が忘れてならないのは、真の救い主としてこの世に来られた御方だけに目を向けるということに他ならない。主は、神の御言葉として、暗闇を照らす真の光としてこの世に来られた。今や、「預言者と律法の時代」は終わりを告げ、主による「福音の時代」が幕を開けたのだ。そのような時代に生きる者として、我々は結局どうするのかと問われている。
主は言われた。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」(16,17節)。
ある子どもたちが笛を吹いて「結婚式ごっこ」をしようと言っても乗ってこない子どもがいた。それなら「お葬式ごっこ」をしようと言って葬式の歌を歌っても乗ってこない。そんな子ども同士のいさかいの歌が引き合いに出されている。つまり、主は現在が「のれんに腕押し」、「ぬかに釘」の状況であると言われたのだ。
これは、福音の時代が到来しているのに、それに対して向き合おうとする人間がいかに少ないかを主が嘆いておられる言葉だ。
主は続けて次のように言われた。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」(19b節)。その先では、さらに次のように言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(25b節)。
今や我々は、主に従って神の国の宴席に共につくよう招かれている。その招き方は、子どもが「一緒に遊ぼう」と呼びかけるようなものだと、主は言われる。我々は、子どものように無邪気になって、この呼びかけにお応えしようではないか。我々は主の呼びかけに応え、この御方に従う時、何よりも大きな喜びと平安に与ることができる。そして、それを得た者は、他に何も恐れる必要がないのだ。
説教:「その名はインマヌエル」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書7章10〜14節、
【新約】マタイ福音書1章18〜25節
説教者 : 北川善也牧師
今日与えられた新約聖書の登場人物ヨセフの名は、少し前の「イエス・キリストの系図」にも記されている。ここには、彼がイスラエルの歴史上の重要人物であるアブラハムとダビデの家系に連なる者であることが示されている。
アブラハムはイスラエルの「信仰の父」と呼ばれ、ダビデはイスラエルの「希望の星」と呼ばれる。そして、この二人が連なる系図の終わりに「マリアの夫ヨセフ」の名が出てくる。彼は、世間的には立派な家系に属し、将来その一族からイスラエルの王となる人物が生まれると言われている血筋だった。しかし、ヨセフの家は貧しく、家系が正しいなどといえば皮肉に聞こえるほどの有様だった。
一方、ヨセフには婚約者マリアがいたが、彼女が正式の結婚前に妊娠したという知らせが飛び込んでくる。この子はヨセフと無関係ということであり、律法は不貞を働いた女性を石打の刑に処することを定めていた。ヨセフの中で、彼女をそんな目に遭わせたくないという思いと、「マリアのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切る」ためにどうすればよいかという思いが駆け巡ったが、小さな共同体の中でひそかに婚約を破棄することなど現実的に不可能だった。
そんなヨセフの夢の中に天使が現れ、告げた。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(20-21節)。
天使は、ヨセフに「ダビデの子」と呼びかけたが、それは「救い主メシアが現れる家系に属する者よ」という言葉だった。この呼びかけによって、人間の思いでは受け入れがたい出来事、すなわちマリアの胎の子が聖霊によって宿った神の御子であり、その子が生まれる目的は「自分の民を罪から救うこと」だということを受け入れる力が彼に与えられたのだ。
聖書は、このような神の御子の、人間の常識では受けとめきれない御降誕の出来事を通してインマヌエル、すなわち「神が我々と共におられる」ということが実現されたと告げる。さらに旧約・イザヤ書は、この幼子がどのようにしてその御業を成し遂げられるのかについても具体的に預言している。
「……彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53:5-6)。
神の御子は、神と正しく向き合うことの出来ない我々人間の罪をことごとく拭い去り、神との正しい関係を回復させるため苦難の道を歩み、十字架にかかって死なれた。主の十字架における死によって我々は罪を清められ、神が我々と共にいてくださることを覚えつつ、大いなる平安のうちに歩むことが出来るようになった。
このような我々には計り知ることの出来ない神の御計画が、系図に示されているように人間の常識という枠を超えてはるか昔から着実に進められていた。しかも、その大いなる計画を実現するため、神はヨセフという弱く小さな存在に目を止め、豊かに用いられたことが示されている。そして、これこそ神が我々一人一人を生かしてくださる目的に他ならない。
マリアやヨセフだけでなく、我々一人一人が神の御子と出会い、神の御栄光を現す者として用いられるため、この世の命を与えられている。今やすべての人々を救いに導く真の光が我々の目の前で光り輝いている。そして、我々はその光を反射して輝くようにと、神の御前に召し出されているのだ。
説教:「目から涙をぬぐいなさい」
聖書朗読:マタイ福音書2章13〜23節
説教者 : 北川善也牧師
旧約聖書は、メシアすなわち救い主がユダヤ人の王としてこの世に来られると告げていた。ユダヤ人はこの神の約束を信じ、いかに不遇な状況にあっても必ずや自分たちを救うためにメシアが来られる、それもユダヤ人の王として来られるという信仰に生きていた。
ところで、当時ユダヤ地方を治めていたヘロデは、元々のユダヤ人ではなく、占領者であるローマ皇帝に取り入り、裏工作をして「ユダヤの王」の称号を手に入れたと言われている。だから、彼が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を探し求める者たちが現れた時、恐れを抱いたのは無理もないことだった。それゆえ、彼はメシアの生誕地とされた「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させる」という暴挙に出るのだ。
このような悲劇を生み出したのは、キリストに対する恐れだった。ヘロデはローマの傀儡だったが、彼のように本当の力を持っていない者が必死で自分の力を守ろうとしたり、今以上の力を手に入れようとする時、救い主さえ殺そうとすることがここに示されている。
「本当の力を持っていない者」とはヘロデだけでなく、我々すべての人間のことだ。我々は自分の力だけで生きようとして自分ばかりに目を向け、自分の内側が空っぽであることに気づいて不安を募らせていく。その不安の原因は、本当に目を向けるべき方向に目を向けていないことに他ならない。
クリスマスの喜びを打ち消すようなこの悲惨な出来事は、決して他人事ではなくすべての人間の心の中身を映し出している。幼子キリストは、我々の罪ゆえに生後すぐ苦難の旅に出なければならなくなった。これは遠い昔の遠い国で起こった出来事ではなく、我々の罪と深く関係する出来事なのだ。
しかし、その人間のあまりにも大きな罪の問題に対して、神はそれをはるかに超える恵みをもたらされた。そのことが、苦難の旅において幼子の命を託され、保護者として責任を担うことになったヨセフという存在に示されている。
思えば、ヨセフの身にはこれまで恵みと思われるようなことが何一つ起こっていない。彼の不遇は、婚約者マリアの結婚前の妊娠に始まった。彼は、マリアが不貞行為を働いたと見なされ、石打の刑の処せられるのを避けたいという思いと、彼女のことを表ざたにせず、ひそかに縁を切るためにどうすればよいかという思いのはざまで激しく揺れた。ヨセフは、天使が告げる神の御言葉を聞くことによりようやくこの出来事を受け入れたが、再び天使が現れると今度は、「子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ……なさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(13節)と告げられた。彼は、言うなれば理不尽な状況によってがんじがらめにされていたのだ。
しかし、彼はいかなる状況であろうとも神の御言葉に忠実に従った。マリアを妻として迎えた時も、エジプトへ向かった時も、イスラエルの地に戻る時も、そしてナザレの町で住む時も、彼はただひたすら神の御言葉に従った。現実的には何も信じられないような状況であったにもかかわらず、ヨセフは常に神の御言葉を求め、それを待ち、それに従い抜いた。
我々は、キリストを受け入れ、この御方を遣わされた神に従うことによって、神による救いの喜びを自ら証しする者へと変えられ、この世において「地の塩、世の光」として歩む者とされる。
この一年間、我々の歩みを守り導かれた主が、来たるべき年も初めから終わりまで豊かな祝福のうちに導いてくださることを願いつつ、この歩みが終わりの日まで続けられることを信じて、主に従う道のりを共々に進んでいきたい。