日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年1月のバックナンバーです。

2013年1月6日 新年礼拝(公現日)

説教:「主の栄光はあなたの上に輝く」(2013年教会標語より)
聖書朗読:イザヤ書60章1〜7節
説教者 : 北川善也牧師

 「あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く」(1節)。2013年、洛北教会に与えられた神の御言葉だ。このイザヤ書が記されたのは、紀元前600年頃と言われているが、その頃イスラエルはどんな状況だったか。当時栄えていたバビロン帝国は、ネブカドネツァルが王位に就いた頃からシリア・パレスチナ地方を支配し、勢力を拡大していった。彼は、特に神の都エルサレムに狙いを定め、イスラエルの王ヨヤキンら国の指導者たちを連行していった。

ネブカドネツァルは、エルサレムを徹底的に破壊し尽くすと共に多くの市民たちを捕囚とした。こうしてイスラエルは約400年にわたる王国時代の幕を閉じ、国そのものを失うという辛酸をなめた。今日与えられたのは、そんな夢も希望も消え果てたイスラエルの残りの人々に預言者イザヤを通して示された神の御言葉だ。

 この御言葉は、彼らの受けるべき光が今や彼らの真上で輝き、暗闇がどこにもないような状態であると告げている。彼らは、自分たちが暗闇の中にいると思い込んでいるが、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」(4節)と言われる。これは、現実的にはバビロン捕囚となっている彼らの子どもたちのことだ。

 バビロン捕囚は、神と契約を結んでいたイスラエルの民が神に背を向け、神の御旨に反することによって陥った出来事だった。神との約束を一方的に裏切った人々に、なおも神の救いの希望が語られているわけだが、その際、神の救いに与るのはもはやイスラエルだけではなく、全世界の人々であるということが示されている。

 「そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き……心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ 国々の富はあなたのもとに集まる。……こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(5-6節)。

 こうして救いの喜びに触れた人々は、自ら進んで神の御もとに近づくという。しかもその喜びは、海からも陸からもやって来る、この世のすべての人々のものであるという。このような表現は、律法を知らぬ異邦人に救いはない、と強調する旧約聖書において異例と言ってよい。だが、神の救いが限られた人々だけのものではなく、神の遠大な御計画であるということがイザヤに示されたのだ。

 神はさらに言われる。「ケダルの羊の群れはすべて集められ ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える」(7節)。旧約の時代、神と人間とのつながりを保つ手段は、人間が神殿においていけにえを献げ、自分たちの犯した罪の赦しを請うこと以外になかった。人々は、そのため最も良い家畜を選り分け、何よりも先に神に献げた。しかし、ここに示されているように、神の救いにおいてはこのいけにえさえも人間によるものでなく、神御自身がもたらしてくださると告げられている。本来、我々が必死の思いで献げねばならないはずのいけにえを、神御自身が備えられるとはいったいどういうことなのか。

 すべての人々が神の御前に集められ、その救いのためになされる犠牲の献げ物、それは神の御子、イエス・キリストに他ならない。すべての人間の救いは、主の十字架によって成し遂げられたのだ。

 最初のクリスマスの夜、神を知らない異邦の国の博士たちは言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。神の救いの光は、主が来られることによってすべての人のところで輝くようになった。そして、その光は今や我々のところにまで届いている。

2013年1月13日 オール洛北礼拝

説教:「イエスさまの洗礼」
聖書朗読:マタイ福音書3章13〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 今日の聖書のお話には、イエスさまの他にヨハネという名前が出てきました。ヨハネという人の名前は、聖書によく出てきますが、とても大切な働きをした人です。どういう働きをしたかというと、大勢の人々に向かって、「悔い改めなさい。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と呼びかけて、それを聞いて自分の罪を告白した人々に洗礼を授けていたのです。その頃の洗礼というのは、ヨルダン川という川の中に入り、体全部をつけて行うものでした。今、わたしたちの教会で行っている洗礼は、ここにある入れ物に張った水を頭だけに注いで行いますから、だいぶ違うやり方でした。

 ある日、そんなヨハネのところに、突然イエスさまが近づいてこられました。イエスさまは、何のためヨハネのところに来られたのでしょうか。たぶん、イエスさまが何をしに来られたのか一番わからなかったのはヨハネだったかもしれません。イエスさまは、ヨハネから洗礼をお受けになるために来られたのでした。しかし、そのことを知ったヨハネはどうしたでしょうか。ヨハネは、あわててそれを止めようとしたのです。

 ヨハネが人々に授けていた洗礼は、神さまのことをすぐに忘れて、自分勝手なことばかりしてしまう罪を持った人間に赦しを与える「悔い改めの洗礼」でした。そのような洗礼が、イエスさまに必要だろうかとヨハネは不思議に思ったのです。イエスさまは、神さまの子どもとしてこの世に来られました。クリスマスは、世界中の人々にそのことを告げ知らせる出来事でした。そして、ヨハネもイエスさまがそのような特別な御方としてこの世に来られたことをよく知っていたのです。イエスさまは、わたしたちのように罪の中にいる御方ではなく、イエスさまこそが、すべての人間に罪の赦しを与えてくださる御方なのです。

 この時ヨハネが言った、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)という言葉は、そんなヨハネの気持ちを表していました。

 ところが、ヨハネにそう言われたイエスさまは何とおっしゃったでしょうか。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)とおっしゃいました。イエスさまが言われた「正しいこと」とは、どんなことだったでしょうか。それは、神さまの御心を行うことでした。そして、神さまの御心とは、人々が自分の罪を悔い改めて、神さまの方に心の向きを変えるということなのです。

 神さまのことをすぐに忘れて、自分のことしか考えないようなわたしたちが、心の向きを変えて、いつも神さまの方を向いて、神さまに喜ばれるような生き方をする。そして、そういう決心をして、洗礼を受ける。そのことこそ、神さまが何よりもわたしたちに求めておられることなのです。

 そして、そのようにしていつも神さまの方を向いて歩もうとしている人々と一緒に歩んでくださるために、イエスさまはこの時、洗礼をお受けになったのです。

 イエスさまが洗礼をお受けになった時、天から聖霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という声が聞こえました。この天からの声によって、イエスさまが神さまから遣わされた御子であるということがはっきりと示されました。

 このようにして、神さまの御子であるイエスさまが受けられた洗礼を受けることによって、わたしたちもまた、神さまの子どもにしていただけるのです。いつの日か、ここにいるみんなが洗礼を受け、神さまの子どもとなって神さまにどんな時でもつながっているようになることを、神さまは心から待ち望んでおられます。

2013年1月20日 降誕節第4主日礼拝

説教:「わたしについて来なさい」
聖書朗読:マタイ福音書4章18〜25節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロ……とその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」(18節)。漁師が投網しているのは、ごく普通の日常的風景だった。そこでは、何艘かの舟が漁をしていたのだろう。

 その中でも特に主は、ペトロとアンデレに目を留められたのだ。そして、次のように呼びかけられた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)。突然こんな言葉をかけられたら、誰だって唖然とするはずだが、彼らの反応はそうではなかった。

 彼らは、主の呼びかけを聞くと即座に船を降り、網を捨てて従った。大のおとなが初対面の人に一声で従っていくのは理解しがたいが、彼らが兄弟揃って同じ行動をとったのには理由があるはずだ。

 彼らは、漁師として生活しながら何かを待ち続けていた。だが、肝心の「何か」がわからないまま、毎日が過ぎていた。そんな彼らの日常生活の只中に、突然主が飛び込んでこられたのだ。主の言葉は、彼らにとって大きな、そして新鮮な意味をもって響いたのだ。主の弟子となって従うということは、全面的な信頼を置き、自分が大切にしてきたものをすべて捨て去るという気持ちがなければできない。彼らが躊躇なくその道を選び取ったということは、この呼びかけを聞いた時、この御方こそ自分たちが待ち望んでいた御方だと直感したからに他ならない。

 主は、まことの命の源としてこの世に来られた。それゆえ、そのお語りになる言葉は、命の力に満ちていた。そして、これこそ彼らが求め続けていたものだった。主の呼びかけを聞いた時、彼らはそれまで霧がかかってよく見えなかったものをはっきりと見ることができるようになったのだ。

 しかも、主が語られたのは、「わたしに従え」という単なる命令ではなかった。この御方は、自分たちを新しい存在、すなわち「人間をとる漁師」にしようとしておられる。その約束の言葉を与えられたからこそ、彼らは「網を捨て」、また「舟と父とを残して」主に従うことができた(20、22節)のだ。

 我々は、なかなか「捨てる」ことができない。それは、人生の年輪を重ねるごとに、「持ち物」が増えることによって難しくなるように思う。我々は、財産や人間関係、また実績や地位などの「持ち物」に囲まれていくうち、本当に大切なものとそうでないもの、あるいはむしろ捨ててしまった方がいいようなものの見分けもつかないまま、悩んだり、葛藤したりして生きるようになっていく。

 4人の弟子たちは主の招きを受け、漁師の仕事を捨てて従ったが、彼らはまだ本当の意味で自分を捨て、全面的に主に従ったわけではなかった。そんな弟子の群れがさらに増し加えられ、やがて主の十字架と復活の出来事において主が約束された救いの本当の意味を理解し、真の弟子とされていく。その意味で、彼らにとって「捨てる」という行為は、一回限りの出来事ではなかった。彼らはこの後、繰り返し「捨てる」ことを求められ、「捨てる」ことを学んでいく。そして、余分なものを捨て去った後に、最も大切なものが残るということを知っていくのだ。

 しかし、「捨てる」ということの重要さを身をもって示されたのは、イエス・キリストに他ならなかった。主はこの後、十字架において御自分の命を捨て、すべての人間の救いの道を開いてくださった。この出来事において、すべてを捨てて主に従うことの意味がはっきり示された。それは、我々が「持つ」ことではなく、我々を既に御自分のものとして「持って」いてくださる御方だけに目を向け、この御方を信頼し、すべてを委ねて従うということだった。

2013年1月27日 降誕節第5主日礼拝

説教:「天の国の大いなる者」
聖書朗読:マタイ福音書5章17〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、ここで「律法」について語っておられる。だが、注意すべきなのは、主が「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」と言われていることだ。主は、「律法」だけでなく「預言者」とも言われた。そして、「律法と預言者」には特別な意味がある。「律法」とは申命記などの律法の書を指し、「預言者」とはイザヤ書などの預言書を指す。つまり、主はこのように言うことによって、「わたしは『旧約聖書』を完成するために来た」と宣言されたのだ。

 旧約時代の人々が何より待ち望んでいたのは、救い主メシアの到来だった。旧約聖書全体は、そのメシアを指し示している書物に他ならない。メシアは、「ゼブルンの地とナフタリの地……異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:15-16)と告げられるように、真の神を知らず、希望なく生きるような人々にも光を照らし出す御方であると言われていた。そして、それこそが、イエス・キリストだったのだ。

 メシアとして来られた主は、この世において様々な救いの御業を行われたが、その一方でそれが原因となって律法の専門家たちと論争されたことも伝えられている。主は、律法が定める安息日の規定を破り、いやしの奇跡を行われたことがあったが、これによって規則としての律法ではなく、神の御言葉としての律法を受けとめ直すことを人々に求められたのだ。

 主はある時、律法の専門家に「律法の中でどれが最も重要か」と聞かれると、「『心を尽くし……あなたの神である主を愛しなさい』……『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と答えられた(22:34-40)。主は、愛をもって神と隣人に向かわない限り聖書は完成しないと言われたのだ。

 しかし、我々はいつでも、神と隣人に対して真摯に愛をもって向かうことのできる存在ではない。逆に、隣人を傷つけ、神を悲しませるような行いばかりしてしまう弱さ、罪深さを抱え持っている。我々がそんな存在であることをご存知でありながら、なぜ神はこのような掟を人間に示されるのか。

 我々は、創世記に記されているように、神の似姿として創造された。それは、我々が神と向き合い、神と対話して生きる存在として造られたということを示している。つまり、神はそのような存在として造られた我々にこの掟を示し、「あなたがたならそのように愛をもって生きることができる」と励ましてくださっているのだ。

 主は、創造主としての責任と信頼をもって我々を「地の塩、世の光」として造りかえてくださる。肉に閉ざされ、何一つ真実なこと、なすべきことに向かうことのできない我々が、今や主においてまったく自由とされ、その自由ゆえになすべき「神の掟」に従う者とされている。そのような驚くべき全く新しい革命を我々の中で起こしてくださるのは、神の御子イエス・キリスト以外におられない。

 この革命は、人間側の意気込みや努力などでできるものではない。我々は、律法に反するような生き方しかできない存在であり、神の愛のみがそのような大変革の原動力に他ならない。こうして律法の完成は、人間の手によってではなく、神の恵みと憐れみによって成し遂げられるのだ。

 そのような律法の完成者である御方が、今、我々に向かって「従いなさい」と呼びかけておられる。今を生きる我々が、今ここにおいて主との出会いへと招かれている。主は、我々が向かって行こうとするより先に、御自身の方からこちらに向かい、我々と出会ってくださる。我々は、この御方との出会いによって「神の掟」を行う者へと変えられていくのだ。

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