日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年2月のバックナンバーです。

2013年2月3日 降誕節第6主日礼拝

説教:「まことの救いを求める人」
聖書朗読:マタイによる福音書15章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 今日与えられた聖書には、必死で主イエスの救いを求め続ける女性の姿が描かれている。彼女は、律法を知らず、それゆえ神による救いの対象になり得ないと見なされていた異邦人だった。

 神による救いとは具体的にどのようなことか。聖書全体は、この救いがどんなものかについて語っている書物だ。その中でも水曜日の聖研・祈祷会で現在読み進めているヨブ記が「救い」についてどのように示しているか見てみたい。

 ヨブは、神を畏れ、悪を避けて生きていた信仰深い人であり、東の国一番の財産家でもあった。だが、そんな彼がある日突然、すべての持ち物を奪い取られ、また子どもたち全員を不慮の事故によって失う。さらに、自らの全身を重い皮膚病に冒され、彼は度重なる悲劇を一気に背負うこととなる。

 そんなヨブのところに、三人の友人が慰問に訪れるが、その時のヨブは神に黙って従う忍耐の人ではなく、むしろ自分の生まれた日を呪うような状況だった。ヨブは、無実の自分がなぜこんな運命を負わされるのか、その理由を神に迫る。これに対して、友人たちは次々とヨブを言い含めるように長々と語る。そうした対話が三度にわたって繰り返されるが、友人たちの言葉はいつまでも続かない。彼らは次第に確信を失い、ヨブを慰め、彼の神に対する訴えを静めることができなくなっていく。

 信仰深いヨブに対して神はなぜこんな理不尽なことをなさるのか。また、どうして友人たちはヨブに対する慰めの言葉を失ってしまうのか。彼らが答えを求めてもそこにたどり着くことのできない理由は、人間の知恵のみによって解決策を導きだそうとしているからだ。ヨブの友人たちは皆、神の御名を呼び、神の御心を問うような発言をしている。だが、実のところ彼らは、そのように言いながら、すべての答えを自分が知っていると思い込んでいるのだ。

 ヨブと友人たちの対話は、人間の知恵が行き詰まることによって終わっている。友人たちは自分の論法によって封じ込められ、ヨブも自分の問題を解決できぬまま留まらざるを得ない。彼らが本当の意味で救われるためには、人間の知恵ではなく、神の知恵によって解放されねばならないのだ。

 今日の聖書に登場する女性は、人間の知恵を超えた神の知恵を主イエスに見出し、その救いに与るため必死で呼び求めた。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。しかし、この呼びかけに対して、主イエスは何もお答えにならない。ただ弟子たちに、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、つまり「わたしが来たのは、イスラエルの救いのためで異邦人のためではない」と言われるのみだ。だが、彼女はこの御方こそまことの救い主と確信しているので、あっさりとは引き下がらない。彼女は、主の御前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。これは、神に対して心から謙っている礼拝者がとる態度に他ならない。

 これに対して主は、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えられた。これは、神が定められた救いの秩序を示すもので、イスラエルより先に異邦人に救いがもたらされることはないと言われたのだ。しかし、彼女はこの言葉にもめげず、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と食い下がった。彼女は、神の救いの秩序を認めつつ、その救いがすべての人間にもたらされるという確信をもって大胆にそれを願い出たのだ。そんな彼女に主は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われた。

2013年2月10日 降誕節第7主日礼拝

説教:「水の上を歩いて」
聖書朗読:マタイ福音書14章22〜33節
説教者 : 北川善也牧師

 我々は、この世において絶えず不安を抱えて生きている。自分には、何の不安もないという人はいないはずだ。しかし、人間は絶えず不安を意識して生きることには耐えられないので、他のことで紛らわそうする。そうして、現実的には不安が少しもなくなったわけではないのに、あたかも何の問題もないかのように振る舞う。だが、それは本当に不安を取り去ることの出来た人間の姿ではない。

 主イエスの弟子たちは、主がなさる偉大な奇跡の御業を幾度も間近で目撃し、真の救い主と共に歩む喜びに満たされていた。けれども、そんな彼らが主のご命令とはいえ、主のもとを離れていく。

 弟子たちは舟に乗り込み、ガリラヤ湖に漕ぎ出すが、元漁師を多く含む彼らにとって、短距離の舟旅など庭で遊ぶのと同じ程度のことだったはずだ。しかし、主から離れた彼らを乗せた舟は、逆風を受け、波に翻弄され始め、彼らはパニック状態に陥る。

 彼らがパニックを起こしたのは、自分たちの置かれている現実しか見ていなかったからだ。「人生の逆風」という言い方があるが、逆風というのはまさに不安をかき立てる象徴的な存在だ。そのような状況に身を置いた時、人間は現実ばかりに心を奪われ、最も大切なことから目を離してしまう。

 弟子たちは、大いなる力を持ち、自分たちにこの上ない恵みを与え、希望で満たしてくださる御方の存在をすっかり忘れてしまっていたのだ。だからこそ、舟に主が近づいてこられた時、彼らは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声まで発するのだ。彼らは、世の荒波に大きく揺さぶられることによって、あれだけ愛し、慕いまつっていた主の姿を完全に見失ってしまった。

 しかし、そんな彼らに主は御自分の方から近づき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と、すぐに声をかけられた。この世の現実ばかりに目を奪われ、最も大切な御方を簡単に忘れてしまう人間の目を御自分の方に向けさせるため、主は御自ら近づいてきてくださるのだ。

 こうしてようやく自分の主を見出したペトロは、この御方の御業を思い出し、その御力に信頼して、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)と大胆に願い出る。ここに、信仰が人間に与える大きな力が示されている。しかし、主に「来なさい」と言われ、安心して水の上を歩き出した彼は、主から目を離し、再び世の荒波に目を奪われた瞬間沈みそうになった。まさに、これが人間の姿だ。主がいつもそばにいて絶えず御言葉を与えてくださっているのに、それよりもこの世の事柄に心奪われ、主の御声が聞こえなくなってしまうのが我々だ。

 しかし、溺れかけたペトロがとっさに、「主よ、助けてください」と叫ぶと、主はすぐ手を差し伸べ、しっかり捕らえてくださった。

 弟子たちが、荒波の中でパニック状態に陥っていた時、主はすぐ「安心しなさい」と話しかけられた。そして、一旦は主に向かって水上を歩き出したペトロが、主から目を離して荒波に飲まれそうになった時、主は「すぐ」手を伸ばして彼を捕まえられた。いついかなる時も、主は彼らの「すぐ」そばにおられたのだ。彼らが自分の力だけで生きていると思い込んでいるような時も、主は片時も離れず彼らを見守っておられた。そのことに気づかされた時、彼らは「本当に、あなたは神の子です」との信仰告白へと導かれていった。

 我々は皆、それぞれのこの世の歩みにあって、主と共なる歩みを与えられている。たとえ我々がそのことを忘れ、見失ってしまったとしても、主は決して我々から離れず、我々が「主よ」と声を上げるのを待っていてくださるのだ。

2013年2月17日 受難節第1主日礼拝

説教:「人はパンだけで生きるものではない」
聖書朗読:マタイ福音書4章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 「荒れ野の誘惑」の場面の書き出しには不思議な感じを覚える。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」と、あたかも主が自ら悪魔の誘惑を受けに行かれたように書かれているからだ。

 さらに、この箇所の直前にある、主イエスが洗礼を受けられる場面も不思議な感じを覚える箇所だ。どうして罪なき神の御独り子が、ヨハネの授けていた、罪ある人間のみ必要とする「悔い改めの洗礼」を受けねばならなかったのか。

 主は、洗礼が人々にとって唯一の救いの道を開くために必要なものであることを証しし、すべての人の罪を担う苦難の僕としての道を最後まで歩み通す決意を表明するために洗礼を受けられた。

 主が受けられた洗礼には、そういう特別な意味があった。それゆえ、主が洗礼を受けると、天が主に向かって開き、神の霊が鳩のように降って来て、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 これは、父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神による救いの御業の開始を意味する出来事だ。そして、この三位一体の神が最初に取り組まれたのが、サタンの誘惑を受けることだった。神は、人間の深刻な問題であるサタンの誘惑に真正面から立ち向かわれた。

 サタンの第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)というものだった。人間は、自分の欲求を満たすためなら何でもしようとする存在だ。だから、この誘惑は誰もがはまり込む可能性のある落とし穴ということが出来る。

 だが、主はこれを「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)という御言葉をもって退けられた。それは、欲望を退けて信仰を貫くという生き方へと人々を導く神の御子の働きを示していた。「神の口から出る言葉」とは、主御自身のことに他ならない。つまり、「人はパンだけで生きるものではない」とは、まことの命の源は主にあるということだ。

 主が受けられた第二の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りるよう迫られるものだった。この時のサタンの言葉は、十字架上の主に対する人々の言葉を彷彿とさせる。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』。同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『……イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから』」(マタイ27:39以下)。

 このように悪魔的な言葉を人間が語っていることに戦慄を覚えるが、人間はこのように主の十字架を平気で軽んじるのだ。十字架の軽視は、主がそれによって与えようとしている永遠の命の軽視につながるから、それによって人間は死に支配されるということになる。死と滅びが支配する世界は、我々のすぐそばにあるのだ。

 しかし、このようなサタンの策略が待ち受ける世にあって、滅びの誘惑に絶えずさらされて生きる我々のため、三位一体の神がサタンと戦ってくださった。そして、神は人間最大の弱点であるサタンの誘惑にことごとく勝利し、サタンを完全に退けてくださった。

 主は、こうして人間の弱点を克服する道を開かれた。そして主は、我々が誘惑を受ける時、「その誘惑はわたしも受けたが、あなたがたのためにすべて乗り越えた。だから、恐れることはない」と言って、支え励ましてくださる。

2013年2月24日 受難節第2主日礼拝

説教:「ここがロードス」
聖書朗読:使徒言行録21章1〜6節
説教者 : 大橋 弘先生(教団隠退教師)

 自己紹介的に申しますと中学生の日、同級生の友達に誘われて教会学校に通い、高校一年生の日に二人で一緒に洗礼を受けました。いわゆる教会学校育ちです。教会学校では、聖書の大事な読み方を二つ教えられたと思います。

 一つは、ペトロが主イエスに問うて「人を許すのは何度までか」と尋ねたことに対して「七度を七十倍まで許しなさい」と主イエスが答えられたことの解釈です(マタイによる福音書18章21節)。その意味を、「許しぐせがつくように」と教えられたのでした。

 二つ目は、カナの婚礼における奇蹟物語です(ヨハネによる福音書2章1〜12節)。理系の大学生であったアブちゃん先生から、「電気は川の水をダムにため、大きなペンストックという鉄管を使って水を下に落としてタービンを回すと電気はできる。水が電気になるくらいだから、神の子イエスさまが降誕されて歩かれていたら、水がぶどう酒に変えられることなど簡単だと思う」と教えられたことです。この二つの聖書の読み方は、私の信仰を決定づけるものとなりましたし、それ以上に納得できる説明をうかがったこともございませんでした。

 お読みいただいた聖書箇所は、航海日誌のように記されていますが、パウロの使徒職が明確にされるためにエルサレムへ上る船旅です。その船旅でロードス島に寄港したのでありました。イソップ寓話に「ここがロードス、ここで跳べ」(hic Rhodus hic Salta)という成句がありますが、ロードス島は人の関心を寄せる理想的な豊かな島、憧れの場所であったようです。しかし、そのロードス島に出かけるまでもなく、今、この私の居るところであるという自覚が、「ここがロードス、ここで踊れ」という成句になっていると思われます。そのロードスです。

 パウロは、「キリストにありて」、「主にありて」という言葉を好んで用いています(数えたことはありませんが、60個所聖書に記されていると言われています)。この「キリストにありて」は、「キリストに抱かれて」と訳すことのできる言葉です。キリストに抱かれてエルサレムへと向かうパウロの乗る船、それこそがパウロにとってのロードスであったと思われます。私たちにとってもそうではないでしょうか。

 私ごとですけれども、私も二週間ほどカトリックの巡礼者の方々の中に加えていただきイスラエル旅行に参加させていただいております。

 パウロを乗せて走る当時の多くの船は帆船でした。バラス・積荷を船底に積んでバランスを取り、船を走らせます。船は教会を意味する言葉です。この積荷を聖書のもう一つの言葉で「重荷」と記します。教会は重荷を負った人々が主イエスと一緒に船に乗っている姿を持っています。

 人はロードスを求めます。それも誤った方向でロードスをたずねてしまいます。創世記にエバが蛇に誘惑されて、食べてはいけない木の実を食べてしまったことが記されていますが(創世記3章)、蛇は「虚栄」という意味を持っています。神の恵みに生かされている自分よりも、装う自分、虚栄のロードス島を求めてしまうエバとアダムの姿です。誘惑に陥ります。信仰は、そのような虚栄から私たちを自由にいたします。キリストに抱かれている、この私の置かれているところをロードスといたします。

 主イエスと共にいるところがロードスです。私たちはこの信仰による交わりをいただいています。

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