日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年3月のバックナンバーです。

2013年3月3日 受難節第3主日礼拝

説教:「命の代価」
聖書朗読:マタイ福音書16章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 死の問題に囚われ、暗闇の中で怯えつつ生きる人間から見ると、主イエスは死を完全に払拭し、永遠の命の源となられた生命力に満ち溢れたお方だ。だから、病人をいやし、食物を分け与える主の姿に触れた人々は、そこにいるだけで生命力を回復する感覚を与えられたはずだ。

 そんなある時、主は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられた。彼らは口々に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と言い出した。これらは皆、神の御言葉を人々に告げる預言者としての役目を与えられた聖書の登場人物だ。主に従ってきた人々は、このお方を預言者の一人として捉えていたのだ。

 続いて、主は弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と尋ねられた。この質問を受けた瞬間、ペトロはこれがありきたりな問いではないことに気づいた。そして、答えとして彼の口から飛び出したのは、彼自身の言葉を越えた「言葉」だった。彼は、主に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答える。それは、「あなたこそ真の救い主です」という信仰告白だった。

 主は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と大いに祝福された。

 ペトロの信仰告白の後、主は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた。こうして、初めて教会誕生の約束がもたらされた。ここには、教会が信仰告白によって建てられることが明示されている。そしてそれゆえ、我々の教会は信仰告白をし続けるのだ。聖書は、そのようにして建てられる教会がキリストの御体であると証しする。

 しかし、ペトロは不思議なことに、そのような信仰告白の直後につまずきを経験する。主が御自分の十字架の出来事を予告された時、彼は「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)といさめる。彼は、無意識のうちに主を押さえ込み、自分が神になろうとする傲慢さを覗かせた。それは、主の十字架を否定することにつながる思いだった。それゆえ、主はペトロに向かって、「サタン、引き下がれ」(23節)と厳しくお叱りになる。

 しかし、この言葉には、サタンに対して「退け」と言われた時とは異なり、「わたしに従いなさい」というニュアンスが含まれる。まだサタンの付け入る隙だらけのペトロに、主は目を覚ましてわたしに従いなさいと力強く呼びかけられたのだ。

 彼はこの時のみならず、この後何度も信仰の危機に直面する。主から、鶏が鳴く前に三度主を知らないと言うことを予告された出来事は、その中でも最大のものだ。これほどの危機を経験し、そのため聖書の表舞台から一旦姿を消してしまうペトロが主によって見出され、信仰の危機を脱していく。彼が、何度も危うい目に遭いながら、主に従い続けることが出来たのは、主の御前で何度も信仰告白の言葉を引き出されたからだ。

 我々は、聖霊の導きによって、主イエスこそメシアであると告白し、従い行く道を与えられる。そのようにして、主が我々の十字架(弱さ)を担ってくださることにより、我々は主の御体である教会の一部分とされていく。

2013年3月10日 受難節第4主日礼拝

説教:「明けの明星が昇るときまで」
聖書朗読:マタイ福音書17章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスと三人の弟子たちは、「高い山」に登られた。そこで、主の御顔と着ておられた服がまばゆく光り輝くという不思議な出来事が起こった。そして、そこにモーセとエリヤが現れ、主と三人で話し合い始めたというのだ。

 モーセは、シナイ山でイスラエルの民を代表して神から「十戒」を与えられたことから、神の民が守るべき「律法」の代表者とされ、エリヤは、神に示された御言葉をイスラエルの民に向けて力強く語り続けた人物として「預言者」の代表とされた。そのような二人が同時に現れたことは、「律法」と「預言書」から成立している旧約聖書全体がそこにおいて示されたということを表わしている。

 こんな不思議な場面に遭遇し、興奮状態に陥ったペトロが、「主とモーセとエリヤのために仮小屋を三つ建てる」などと言い出すと、光り輝く雲が弟子たちを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という神御自身の声が響き渡った。

 「高い山」の上で起こったこれら一連の出来事は、すべて人間の思いをはるかに超えた神の御業であり、栄光に満ちた出来事だった。しかし、これらのことは、主の御生涯における頂点でもなければ、主のお働きの終着点でもなかった。それは、主にとっての真の頂点である十字架と復活という神の御計画の完成へと向かう旅の通過点に過ぎなかったのだ。

 イスラエル研修旅行で赴いたエルサレムにおいてオリブ山に登った。エルサレムそのものが丘の上にあるのだが、オリブ山はその正面に向き合う形の高い山なので、頂上からはエルサレムの町が一望できる。また、わたしはオリブ山の中腹にある「ゲツセマネの園」の教会に行ったが、そこは古いオリーブ畑に囲まれていて、主が十字架におかかりになる直前一人で祈られたことを思い起こさせる場所だった。さらに、主が十字架につけられたゴルゴタの丘とされている場所に建てられている「聖墳墓教会」にも行った。これらすべてはオリブ山からよく見えた。

 つまり、三人の弟子たちと共に「高い山」に登られた主の目には、これから御自分が向かわれる道のりがすべて見えていたのだ。主は十字架を見据え、御自分がそこを目的地としてひたすら進むという固い決意を表明するため「高い山」に登られたのではないか。父なる神は、その御子を栄光で包み込み、彼こそモーセとエリヤ、すなわち旧約聖書全体が指し示している御方であることを表されたのだ。

 主はその歩みにおいて、しばしばこのように栄光に満ちた出来事を弟子たちの前で示し、御自分が神の御子であり、真の救い主であることを彼らの心に少しずつ刻みつけていかれた。彼らにとって、主の十字架はまだ先の出来事であり、予想すらできない出来事だった。だから、彼らはこの時点では主の本当の姿を正しく捉えることが出来なかった。主は、トンネルの出口がまだ全く見えていない彼らの足下を照らし、出口に向けて導いて行かれるのだ。

 真の救いがどのようにしてもたらされるか全然わからない人間に、主は光を与えて導き、進むべき唯一の道を示してくださる。主が与えてくださる光、それはこの御方に従えば真の救いに与ることができるという確かな信仰だ。

 我々は、この信仰により主が完成してくださった救いの出来事をはっきりと見ることができるようになる。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)と言われているように、たとえ現実は苦しみ、悲しみで覆われていても、その先に真の救いが待ち受けているという確信によって、我々は大いなる喜び、希望を受け取ることができるようになるのだ。

2013年3月17日 受難節第5主日礼拝

説教:「わたしの杯を飲みなさい」
聖書朗読:マタイ福音書20章20〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスの弟子ヤコブとヨハネの母親は、主の前にひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)と願った。

 彼女の言う「王座」とは、主がこの世の政治権力者となることを想定したものだった。これまで多くの病人をいやし、神の国について力強く語られた主がその大いなる力をもってイスラエルをローマ帝国から取り戻し、国民の立場を回復してくれる。それが彼女のみならず主を取り囲んでいた大勢の群衆に共通の思いだったのだ。

 だが、それは神の御子としての主の姿を正しく捉えた見方ではなかった。主は、彼らに向かって、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言われた。この問いに対して二人は迷わず「できます」と即答するが、確かに彼らはこの時「杯」の意味を全く理解していなかった。

 マタイ27章以下に主の十字架の場面が記されているが、その主の姿を見守った群衆の中に「ゼベダイの子らの母」(27:56)もいたと記されている。彼女は、この時やっと主が言われた「杯」の意味を理解し、それが想像と全く違っていたことに気付かされたはずだ。

 使徒12章には、ヤコブがヘロデ王によって処刑されたことが記されているが、歴史家エウセビオスは、彼を処刑するため刑場まで護送した兵士がその証言を聞いてキリスト者となり、ヤコブと共に処刑されたと伝えている。そして、ヨハネも殉教の死を遂げている。

 主の「杯」を飲むということは、主と同じ苦難の道を歩むことを意味していた。彼らは、主が飲もうとしている杯を自分たちも飲むことができると躊躇なく答えたが、彼らはその時これがいかに苦い杯であるかが全くわからなかったのだ。そして、この後も事あるごとに「我々は、主と共にどこまでも歩んでいく」と誓うが、結局のところ、彼らは主が捕らえられるやいなや逃げ出してしまった。

 しかし、主はこの時、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23節)と断言された。弟子たちが主に対する裏切りを経験した後に悔い改め、真の立ち帰りを与えられて、最後まで主に従っていくことは神の御計画に初めから織り込まれていたのだ。

 主の十字架は、我々に対して示された神の愛の究極的な形だった。自分だけ特別待遇を受けたがる人間。支配されるより支配する側に着こうとする人間。そのような自己愛に走る人間に対して、主は「隣人愛」を決定的な仕方で示された。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(26〜28節)。ここに主の十字架の意味が明示されている。主は、人間の自己愛という罪を取り去り、創造当初の神の似姿を取り戻すために十字架の出来事を成し遂げられたのだ。

 このような愛は、神から出るもの以外の何ものでもなく、これ以上に偉大なものは他にない。朽ちていくはずの人間という存在が、十字架という神の愛によって罪の赦しを受け、死を超えた永遠の命に与るようにされるというのだ。

 罪に囚われ、自由を失っている人間をそこから贖い出すため、主は御自分の命を献げられた。主が飲んでくださった杯の重さ、大きさは我々には測り知れないものだ。しかし今、我々も主と同じ杯を飲むことを求められている。そのようにして、与えられている命が本来持っている輝きを取り戻して生きるよう示されている。

2013年3月24日 棕櫚の主日礼拝

説教:「本当に、この人は神の子だった」
聖書朗読:マタイ福音書27章32〜56節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスがつけられた十字架は、ローマ帝国で行われていた処刑方法の中でも、とりわけ重い犯罪者に対して用いられたものだった。処刑される者は、衣類をすべてはぎ取られ、人間としての尊厳をむしり取られて殺されていく。それはまた、延々と続く苦しみを大勢の人目にさらされる見せしめとしての効果を狙った処刑でもあった。主は、そのような最悪の死に方をなさることによって、この世の最も惨めな者だけが味わう最低限の低さを経験されたのだ。

 「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」(45節)。この時、全地を覆った暗黒は、主の死が終末的な出来事であったということを表している。つまりこの時、最後の審判に等しい裁きが下されたのだ。それは、我々人間が神に背いた罪に対する神の怒りと裁きに他ならなかった。

 その瞬間、主は叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)。このように叫ばれる主は、全く無力で、神の御子としての権威を失ってしまったかのようにさえ見受けられる。だが、忘れてならないのは、その時、最後の審判に等しい出来事がこの世において起こったということだ。この裁きは本来、罪の存在そのものであるすべての人間が受けねばならないものだった。それを全く罪のない神の御子がたった一人で受けられたのだ。

 主は、神の御子にしか出来ない仕方で、すべての人間の裁きをたった一人で引き受けてくださった。だからこそ我々は、この主の叫びによって、初めて確かな希望に触れることが出来るのだ。

 このようにして、今や我々の絶望はすべて十字架の主がすくい取り、解決してくださった。それゆえ、我々はたとえどんな絶望的状況の中にあっても、なお望みを抱きつつ生きていくことが出来る。

 主が十字架の上で息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(51節)。当時、神殿の幕の内側まで入れたのは大祭司だけだった。その大祭司が年に一度、神殿の幕の内側ですべての人のために罪の贖いのためのいけにえを献げていた。しかし今、その神殿の垂れ幕、すなわち神と人間を隔てていたものが真っ二つに裂けた。主が十字架にかかってくださることによって、神と人間との間にあった隔ての中垣が完全に取り除かれたのだ。

 そもそも我々が神との間をそのようにして遮られていた原因は、我々自身が抱え持っている罪以外の何ものでもなかった。その罪が、主の十字架によって取り去られ、我々は神との交わりを回復することができるようになったのだ。

 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(54節)。彼らは、主の十字架刑の執行に直接的に荷担した人間だった。その彼らが主の死によって起こった終末的な出来事を目撃したことで、「本当に、この人は神の子だった」と告白せざるを得なくなった。

 あまりにも深い我々の罪は、主の十字架によってしか贖われることがなかった。主の十字架の出来事がなければ、罪に満ちた人間の口から信仰告白の言葉が引き出されることなどあり得なかった。

 主は、「わが神、わが神」と最後まで叫び続けることによって神に対する信頼を貫き通された。我々は、この十字架の出来事によってすべての人間の救いが成し遂げられたことを示され、信仰の歩みとはどのようなものであるかということを知らされている。真の命の源である「本当の神の子」が絶えず共にいて導き、我々をも神の子として永遠の命につなぎ止めてくださるという救いの御業が十字架によって完成されたのだ。

2013年3月31日 復活祭礼拝(イースター)

説教:「わたしは主を見ました」
聖書朗読:ヨハネ福音書20章1〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスの十字架における死。それは、主に希望を置いてきた者にとって、その希望が無に帰した瞬間だった。主の死がもたらした絶望と共に日没が迫っていた。

 主が十字架につけられた金曜日は、日没と共に安息日に変わる。それゆえ、主に従ってきた人々はその前に急いで主の遺体を十字架から降ろし墓まで運んだが、彼らになし得たのはそこまでだった。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1節)。彼女は、安息日が明けるや否や一人で主の墓へと向かった。かつて主によって「七つの悪霊を追い出していただいた」(ルカ8:2)彼女は、主にいやされることにより初めて本当の平安を与えられた。その主が死んで墓に葬られてしまったのだ。彼女は、呼びかけても返事がないのを承知の上で、それでもなお主の遺体に触れることで主との思い出に浸りたかったのだろう。

 だが、そこには主の遺体すらなかった。残っていたのは、埋葬の際主を包んだ亜麻布だけ。マリアは、ペトロたちのところへ駆けつけ、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節b)と伝えた。彼女は、主の遺体を誰かが運び去ったと思ったのだ。

 彼らも急いで墓へ向かい、確かに遺体がなくなっているのを見た。不思議なことに、彼らはただ墓が空なのを見ただけで主が復活されたことを信じたという。

 だが、それもつかの間、彼らは一旦信じたにもかかわらず家に帰ってしまう。彼らには信仰の芽が芽生えつつあったが、それはまだ本当の強さを持っていなかった。それゆえ、彼らは再び人間の常識に引き戻され、主がこの世にいないことを嘆き悲しむのだ。

 一方、マリアは墓の前で立ち尽くし泣いていた。彼女は、依存できる唯一の存在である遺体さえ失い心の傷を一層深くしていたのだ。その時、彼女の耳に「婦人よ、なぜ泣いているのか」という天使の声が聞こえた。これに対して彼女は、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節b)と答えた。彼女はこの時点でも主の遺体という「過去の思い出」に囚われている。そこに留まり続ける限り、心の傷はいやされるどころか深まるばかりだ。それは、先のない「終わり」にいつまでもしがみつく行為に他ならない。

 その時、マリアの拠り所は主との過去の思い出だけだった。しかし、「マリアよ」と呼ぶ声を聞いた瞬間、自分がなすべきことはそのような思い出にすがって生きることではないということに気づかされた。彼女は、思い出ではなく、絶えずそばにいて語りかけてくださる復活の主の存在に気づき、そちらに「振り向く」ことが出来た。

 主がおられたのは墓ではなかった。マリアは、主の呼びかけに応えることによって墓とは真逆の、主がおられる方を向くことが出来た。そして、彼女は弟子たちのところへ駆け戻り、「わたしは主を見ました」と力強く告げ知らせる、主の復活の最初の証人となることが出来た。主は、我々に180度の転換を与えてくださる。闇から光へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。それが復活という出来事によってもたらされる力だ。

 イースターは、太陰暦の「春分の日」を基準として定められる。「春分」とは、昼夜の長さがほぼ等しくなる時のことだ。闇の時間が短くなり、光の時間が長くなるこの時季に教会は主の復活を覚えてきた。それは、主が死という暗闇に打ち勝ち、暗闇で生きる人間を光の中で生きる者としてくださることを象徴的に示している。我々は、そのような真の光、真の希望である主の方に振り向き、「わたしは主を見ました」と証言する者となるよう導かれている。

バックナンバー