日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年4月のバックナンバーです。

2013年4月7日 復活節第2主日礼拝

説教:「主イエスが行い、教えられたすべてのこと」
聖書朗読:使徒言行録1章1〜2節
説教者 : 北川善也牧師

 使徒言行録の特徴の一つは、献呈書の形を取っていることだ。冒頭で「テオフィロ」という人に呼びかけているが、この名はルカ福音書にも登場する。そして、「わたしは先に第一巻を著して……」とあることからルカ福音書と使徒言行録が同じ著者によるものであり、前者が第一巻、後者が第二巻にあたるということがわかる。

 ルカは、その福音書で主イエスが「行われたこと」と「教えられたこと」を「すべて」書いたと言う。主が「行われたこと」について、ルカだけが記している出来事を挙げると、たとえばナインの村の一人息子を失ったやもめを憐れんで息子を生き返らせたり、18年も長病を患っていた女性を安息日であってもいやしたり、あるいはサマリア人を含む十人の重い皮膚病の患者を清めたりと、ルカは弱い人々や苦しんでいる人々を助けた主の働きに注目している。

 一方、主が「教えられたこと」についてルカは、「徴税人ザアカイとの出会い」や「放蕩息子のたとえ」などを記すが、これらの教えには、どんなに失敗した人生を送ったとしても最後に悔い改めて父なる神に立ち帰るならば赦され、喜んで迎え入れられるという大きな慰めが示されている。

 このようにルカは、主の「行い」と「教え」を通して、神が愛と憐れみに満ち、人間の罪を赦すため自ら近づいてくださる御方であるということを示そうとしている。

 では、ルカ福音書において示されたこのような主の「行い」と「教え」を人々はどのように受けとめただろうか。主が地上でなさったことや語られたことは、主が地上におられた時には受け入れられなかった。それどころか、主は死刑囚として十字架という最も悲惨な刑を受けて死んでいかれた。

 しかもその時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように、一人残らず逃げ去っていった。主は、完全な孤独の中でこの世を去っていかれ、その「行い」と「教え」を伝える者は誰もいなかったのだ。

 主の死は、単なる死ではなかった。神の御計画として定められたその死の意味が、すべての人間に解き明かされねばならなかった。

 そのために、主は十字架の死から復活を遂げられた後、天に昇り、そこから御自分の霊を地上の弟子たちに遣わし、彼らを使徒として、その「言行」を通してイエス・キリストの出来事、すなわち福音を宣べ伝える方法を取られた。そのような使徒たちの働きを書き記したものが使徒言行録なのだ。

 神は、人間の言葉にしか意味を見出せない我々のため、聖霊を降し、使徒たちを用いて人間の言葉でイエス・キリストの出来事の意味を解き明かしてくださった。それらすべては、聖霊の働きによってなされたものに他ならない。

 「使徒言行録」は、かつて口語訳では「使徒行伝」と呼ばれていたが、ある人は「これは、使徒行伝ではなくて『聖霊行伝』だ」と言った。これは、使徒の「行い」について伝えるものではなく、聖霊が降ることによって初めて彼らが本当の意味で主の弟子とされ、主の復活の証人として立ち、力強く福音伝道の働きに取り組んだ、その出来事を伝える書物なのだ。

 神の御独り子、イエス・キリストが受けられた十字架によってすべての人間の罪が赦され、御子でなければなし得ない死からの復活によって、死ぬべき人間が神の子とされ、永遠の命が約束された。しかし、これほどまでに大きな救いの出来事を、残念ながら我々は容易に受けとめることが出来ない。人間の常識に留まる限り、それは不可能と言ってよいだろう。そんな我々のため、神は聖霊を送ってくださる。我々が神の御言葉を受けとめ、主を信じることによって神の子とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるために。

2013年4月14日 復活節第3主日礼拝

説教:「聖霊による洗礼」
聖書朗読:使徒言行録1章3〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは「苦難を受けた」後、すなわち十字架において完全な死を遂げられた後、弟子たちの前に現れ、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって」示された(3節)。それは、ルカ福音書で弟子たちがエルサレムに集まって主の復活について話し合っていること、また今日与えられた聖書箇所で、彼らが主からエルサレムを離れないよう指示されていたことから、エルサレムでの出来事と考えられる。だが、他の福音書には、復活の主はガリラヤで弟子たちと対面したと記されている。

 エルサレムとガリラヤ湖の間は直線距離で100q以上離れているから、そう簡単に移動できるものではない。だから、ある福音書は復活の主が弟子たちとお会いになったのがエルサレムだと言い、別の福音書がそれはガリラヤ湖周辺だと言っているのは、矛盾しているように聞こえるかもしれない。

 主の弟子たちは、職業も家庭もすべて捨てて主に従った。彼らは弟子として召された時、大いに喜び、何があっても最後まで従う覚悟を決めていた。ところが、主が十字架につけられることがわかった時、その彼らが深刻な裏切りを経験し、バラバラに逃げ去ってしまった。また、彼らは空の墓の話を聞いただけでは、主の復活を信じることができなかった。

 「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3節)。弟子たちが主の復活を信じるまでには長い時間が必要だった。

 主が捕らえられ、裁判を受けるため引かれていったのをできるだけ近くで見守ろうとしたペトロ。彼は、他の人々から主との関係を問われた時、三度にわたってそれを打ち消した。この時、彼は自分の罪という現実をこれ以上ない形で直視させられたに違いない。そして、弟子としてはおろか人間として生きていく上でも大きな心の傷を負ったことだろう。

 しかし、ヨハネ福音書が伝えているように、復活された主はそのペトロに対し、「わたしの羊を飼いなさい」と三度優しく諭された。三度知らないと否んだ彼に、主はそれと同じ回数の励ましを与え、弟子としての新しい出発に向けての備えの時を用意された。それはペトロだけでなく、主の復活を頑として認めなかったトマスに対しても丁寧に行われたし、主はおそらくすべての弟子たちに同じようになさったのではなかろうか。

 十字架にかかって死なれた主がよみがえられたことのしるしは、墓が空だったとか、巻かれていた亜麻布が残っていたというような断片的なものではなく、四十日間弟子たちと共に過ごされるという、何よりも確かなものだった。この四十日間によって、弟子たちの信仰は養われていったのだ。

 主は弟子たちに言われた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4-5節)。これは、主が来られる前、洗礼者ヨハネが「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。……その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)と預言していた出来事に他ならなかった。

 ここの「洗礼=バプテスマ」という言葉は、元々「水に浸す」という意味だ。つまり主は、これからあなたがたは「聖霊に浸される」体験をすると予告されたのだ。

 我々は、復活の主との出会いによって信じる者とされ、聖霊を受けることによってその信仰を固くされていく。我々は、御言葉を通して主との出会いを与えられ、礼拝において聖霊を豊かに受けて救いの確信を深めていくのだ。

2013年4月21日 復活節第4主日礼拝

説教:「地の果てに至るまで」
聖書朗読:使徒言行録1章6〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4b-5節)と言われた。

 聖霊が降る時は世の終わりであると信じていた彼らは、主の言われる出来事によって世の終わり、すなわち神の御国が完成する時が来ると考えた。そこで彼らは、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)と尋ねたのだ。

 当時イスラエルの人々は、ローマ帝国による支配を数十年間にわたって受け続けている自分たちの国が、かつてのダビデ、ソロモン時代のような栄華を回復することを願っていた。そして、弟子たちは終わりの日に主がそれを成し遂げてくださると期待していた。

 しかし、主は彼らが考えるように、地上の限られた国や人々のために来られた御方ではなかった。主は言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)。つまり主は、「終わりの日がいつ来るかは、父なる神が既に決めておられるから、あなたがたはそのことを心配しなくてよい」と言われたのだ。

 彼らは、神の御国が完成する時、救命ボートに乗り込むように、機会を逃さずそこに乗り込みたいと考えていたのではないか。だから、その時がいつなのかを気にするのだ。しかし、それは人間の知恵や力を頼りにして生きる「自己中心的」な生き方に他ならない。

 本当の平安は、神を全面的に信頼し、すべてを神に委ねて、「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る心にもたらされる。そして、「その時は、父が御自分の権威をもって定めておられる」という御言葉は、そのようにして生きる者にとって何よりも大きな希望となる。

 主は言われた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。主は、聖霊の力を受けることこそあなたがたが最も注意を払うべき事柄だと告げられた。

 復活の主は、弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:18-20)と言われた。。ここで主は、彼らに「すべての人々をわたしの弟子にせよ」と命じられた。12人の弟子たちだけで「地の果てに至るまで」、すなわち世界中すべての人々にキリストの福音を宣べ伝えることは不可能だ。

 キリストがすべての人間の救いの源であるという福音は、最初弟子たちを通して宣べ伝え始められた。そして、それを聞いた者たちがさらに福音を拡散していき、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」キリストの証人が広がっていった。これは、主の御命令であると同時に約束の御言葉だ。そして、これこそが神による救いのビジョンに他ならない。

 「地の果てに至るまで、キリストの証人となる」ためには、宣べ伝える相手と言語や文化を共にし、そこでの生活の場においてキリストが証しされねばならない。主は、我々が生きる地でそのような働きに就くため、聖霊を降し、必要な力を満たしてくださる。

 我々一人一人が聖霊の力を与えられ、それぞれの賜物を豊かに用いられて、この世における主の証人として立たされることを願う。

2013年4月28日 復活節第5主日礼拝

説教:「なぜ天を見上げて立っているのか」
聖書朗読:使徒言行録1章9〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)と言われた後、「彼らが見ているうちに天に上げられ」、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)。

 これは、弟子たちにとって主との二度目の別れだった。最初の別れは、主が十字架につけられる直前、彼らが一斉に逃げ去ることによって起こったが、そんな彼らに復活された主との再会が与えられた。なかなか信じられない彼らだったが、復活の主と40日間共に生活することにより信じる者へと変えられていった。そして、今度こそ主の弟子として歩む決意を固めつつあったのだ。そんな彼らの目の前で、主は再びいなくなられた。弟子たちはこの出来事に喪失感や不安感を覚え、ただ茫然と「天を見つめて」いるだけだった。

 復活の主は、「天」に昇っていかれた。しかし、それは主が空中に吸い込まれるように消えてしまったというような現象ではない。「天」というのは、場所や空間を表わす言葉ではなく、この世を超越した永遠の世界のことだ。復活の主は今や永遠の命を受け、神の栄光に満ちた力をもって働かれるため、天に帰られたのだ。

 主は、弟子たちに喪失感だけを残すようなことはなさらなかった。かつて十字架によって自分たちの中心である主を失い、疑い迷いの中を漂っていた彼らが40日間主と共に過ごすことにより、主の復活の証人へと変えられた。それゆえ彼らには、マタイ福音書(後述)において主が言われたように、主の復活の証人としてすべての民のもとに赴くべき時が近づいていた。そして、そのためエルサレムにとどまって約束の聖霊を待つようにと、主は命じられたのだ。

 主は、弟子たちに天使を遣わし、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」(11節a) と告げられた。この言葉からも彼らが茫然自失状態だったことがわかる。そんな彼らに天使は何よりも大きな励ましを与えた。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節b)。

 主が「天」に昇られたのは、そこで神の御計画を粛々と進められるためだった。そして、主は時が来たら再びおいでになり、完成した神の御国に我々を迎え入れると約束してくださった。それゆえキリスト者は、この主の約束から大きな力を与えられ、希望をもって生きていくことができるのだ。

 我々が、そのように生きる者となるよう、主は御自分の御体なる教会をお建てくださった。その最初の教会は、使徒たちによって建てられたが、それは人間の力ではなく、聖霊の力、すなわち神の御力によってなされた出来事だった。そのようにして建てられた教会は、「主の再び来たりたもう」時を待ち望みつつ、神の御国の福音を宣べ伝え続けるのだ。

 主は弟子たちに、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19-20)と言われた。主は再び来られ、天地万物が完全な状態にされる終わりの日をもたらしてくださる。だから、希望をもって与えられた使命を果たせ、と主は我々を励ましてくださる。

 昇天された主が再び来てくださるという約束は、我々にとって何よりも大きな希望だ。これによって我々は、主の復活の証人として生きていくことができるのだ。

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