日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年5月のバックナンバーです。

2013年5月5日 復活節第6主日礼拝

説教:「心を合わせて熱心に祈る」
聖書朗読:使徒言行録1章12〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。

 天に昇られた主は、そこで必要な備えをなし終えたら、再び戻ってこられる。主は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:1-3)と言われた。主は、十字架の死によってすべての人間の贖罪を成し遂げ、死に打ち勝って復活された御自分を信じる者を神の子とし、その者にも永遠の命を与え、神の御国に迎え入れる備えをしておられる。

 主が天に消えてしまわれたのをただ茫然と見上げているしかなかった弟子たちは、そのような備えをなして主が再び来られるという希望に満ちた約束を天使を通して与えられ、エルサレムに戻った。

 そこに集められたのは、弟子たちだけではなかった。そこには、「婦人たち」も一緒にいたと言われている。彼女たちは、弟子たちが逃げ去った後も、主が十字架につけられ、御遺体が墓に葬られるところまで見届けていた。何よりも、彼女たちは主が墓からいなくなったことを最初に知った「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(ルカ24:10)だった。彼女たちは、この出来事を弟子たちに伝えに行って以来、彼らと行動を共にしていたのだろう。

 この中にはまた、「イエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」も加わっていた。マリアは、ルカ福音書では「クリスマス物語」以降登場しないが、ヨハネ福音書には主が十字架につけられるのを見守っていたと記されている。

 「イエスの兄弟たち」については、マルコ福音書にその名前が「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」だったと記され、ヨハネ福音書は彼らが「イエスを信じていなかった」とはっきり記している。

 この御方が神の御子であり、全人類の救い主であることなど信じられるはずもなかった家族の者たちが、ここで一転して弟子たちと一つになって祈っているというのは驚くべき出来事だ。どうしてこんなことが起こったのか。

 復活の主は、弟子たち以外にもその姿を示された。その中には、ダマスコ途上を旅するパウロも含まれた。その出来事は、迫害者であった彼を伝道者に変えるという回心の出来事をもたらした。信じることのできない者を信じる者に変えるのが、復活の主の発揮される計り知れない力なのだ。

 そのようにして変えられていった弟子たちと主の家族の者たちが一つになり、「心を合わせて熱心に祈って」いた。ここで「熱心に祈って」と訳されている原語は、祈りに「固執して」とか「執着して」とも言い換えられる強い意味を持った言葉だ。この場所で20人近い人々がひたすら、たゆまず心を一つにして祈っていたのだ。

 復活の主と出会った者は、いかに困難な状況の中にあっても、神と対話する道、すなわち祈りへと導かれる。そして、祈りの言葉はひたすら聖霊の助けを求める。こうして、祈りは信仰者一人一人を固く結び合わせ、結集された祈りは聖霊の働きを招く力となる。

 最初の信仰者たちの群れによる一致した祈りが、やがて「聖霊降臨」の出来事を招き、教会を立ち上げる力の源となった。神の民を増し加えることを何よりも大切な使命として託されている教会にとって、祈りこそその歩みを前進させる原動力となるのだ。

2013年5月12日 復活節第7主日礼拝

説教:「使徒としての任務」
聖書朗読:使徒言行録1章15〜26節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが天に昇られる際、弟子たちはエルサレムで約束の聖霊を待つよう命じられた。彼らは、20名ほどで心を合わせて熱心に祈りつつ、その時を待っていた。

 それが今日のところでは、「120人ほどの人々が一つになっていた」(15節)と、この群れにわずかな時間で6倍の人が増し加えられたことを伝えている。そこには大勢の人々が心を合わせて祈らざるを得ない大きな課題があった。

 彼らには弟子の一人、イスカリオテのユダが主を裏切り、十字架に渡した出来事が重くのしかかっていた。彼らの間では、「なぜ主はそんな人間を弟子にしたのか」、「なぜ他の11人は裏切りを止められなかったのか」など様々な議論が巻き起こっていたのだろう。

 そんな状況の中で、ペトロはこう言った。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(16節)。

 ユダの裏切りは突発的な事故ではなく、実はこのことすらも神が御自分の計画を進められるための出来事だったというのだ。神の御意志というものは終始一貫ぶれることがない。神の御計画は人間の行為によって妨げられないどころか、むしろ人間の妨害行為さえ神の御計画の一部として組み込まれ、用いられていくのだ。

 しかし、それにしてもユダは12弟子の一人であり、他の者と「同じ任務を割り当てられていた」(17節)というのは紛れもない事実だった。このことは、ユダの裏切り行為が彼一人の特別な問題ではなく、弟子たち全体に関わる問題だったということを示している。

 では、なぜユダだけが「まっさかさま」に転落していったのか。彼の罪と運命は、すべての人間の罪と運命に他ならず、それゆえにこのことは起こらねばならなかったのだ。主の最も近くにいる人間の罪があらわにされることにより、すべての人間の罪はより明白になる。そして主は、最も近くにいる人間の罪を契機として十字架へと向かい、すべての人間の罪を贖うためそれをお受けになった。

 こうして12という完全数に欠けが生じてしまった弟子たちの群れに、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(21-22節)という条件付きでの補充が試みられる。

 そして、120人の中からこの条件を満たす者が二人が見出された。一人はヨセフであり、彼は「バルサバ」とか「ユスト」とも呼ばれていた。前者は「安息日の子」という意味で、後者は「正義の人」という意味のあだ名だ。ヨセフがこのように呼ばれていたということは、彼が安息日を厳格に守り、正義感にあふれた人物として評判が高かったということを表わしているのだろう。だが、もう一人のマティアについては、あっさりと名前だけが紹介されている。

 一同は弟子の補充を、自分たちの意志ではなく、祈りつつ、くじを引くことによって決定した。ここには、主の証人としての働きを担う者は人間ではなく、神御自身が選んで教会に与えてくださるということが示されている。しかも、そのようにして選ばれたのは、人間的に評判の良いヨセフではなく、平凡なマティアだった。

 ユダの裏切りという罪の問題を自らの問題として真正面から向き合い、悔い改めに至り、神にひたすら救いを求める人間に対して、神はその人が歩むべき道を示してくださる。そして、どんなことがあっても神から離れず、自分を見失わず、主が示されるいのちの道を進むよう導いてくださるのだ。

2013年5月19日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「"霊"が語らせるままに」
聖書朗読:使徒言行録2章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 イスラエルの民が大切に守っていた五旬祭は、元々小麦の刈り入れを祝い、穀物の初穂を感謝して神に献げる祭りだった。聖霊降臨の出来事がこのような「実り」を祝う時期に起こったということは大変意味深長だ。この時を境にして、主イエスお一人が地上で働かれる時代から、主の御委託を受けた弟子たちがその働きのため立てられる時代に移ろうとしていた。

 主はそれに先立ち、弟子たちに聖霊を送る約束をして天に昇っていかれた。中心を失った彼らは、ただでさえ不安で仕方なかったのに、彼らが留まっていた家の外には主を信じる者たちを嘲笑し、迫害しようとする者たちが待ち構えていた。だから、彼らは家の中にこもり、ただ主の約束を信じて祈り続けるしかなかったのだ。

 すると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2節)。この天からの風こそ主が約束してくださった聖霊に他ならなかった。風は突然どこからともなくやって来るが、聖霊は無秩序にではなく、ひたすら主の約束を信じ、その成就を祈り求めていた弟子たちに与えられた。

 そのような聖霊を受けた弟子たち一人一人は、「聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。聖霊は、「土の器」のように空洞の状態である人間を満たして「神の器」として造りかえ、どのような状況にあっても神の救いの御業について大胆に語ることができるようにさせる力を持っている。

 それまで家にこもりきりだった弟子たちが外に出て、力強く語り始めたため、それを聞いた人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(7-8節)。人々はまず、彼らが「ガリラヤの人」であるということで驚いた。なぜなら、ガリラヤ地方は、異邦の地と境を接し、異教の影響を強く受けていたため、「ガリラヤの人」はユダヤ人にとって宗教的に汚れた存在であり、神の恵みからほど遠いと見なされていたからだ。さらに、主が弟子として選んだ元漁師をはじめとする一群は、どう見ても人前で力強く、説得力をもって語ることができるような人たちではなかった。

 神は、その人が特別な才能や優れた能力を持っているという理由で伝道の働きを託されるのではない。弟子たちは、ただ聖霊に導かれるまま、自分の身に起こった神の救いの御業を大胆に語っただけだ。けれども、そのようにして語られた言葉が、人々にはまったく新しい、力に満ちたものとして聞かれた。だからこそ、人々は皆驚き、とまどいながら、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)と言葉を失ってしまうのだ。

 こうして、主が約束してくださっていた聖霊を受け、力に満ちた新しい言葉を語る者へと変えられた弟子たちは、言語や民族の境や限界を越え、地の果てに至るまでのすべての人々に向かって喜びの訪れを宣べ伝えるために立ち上がり、主の証人として遣わされていく準備を整えられていった。

 神は、我々一人一人に聖霊を送り、主が担われた十字架に目を向けさせ、自らの罪深さに気づかせ、悔い改めへと導き、十字架によって成し遂げられた罪の赦しを得させてくださる。そして、我々一人一人に聖霊の助けによって復活の主との出会いをもたらし、それによって永遠の命の希望を確かなものとしてくださる。主によってもたらされるこの罪の赦しと永遠の命の約束に生きるようにされた者は皆、自分の言葉で主を証しする証人へと変えられていく。これこそが聖霊の働きに他ならない。

2013年5月26日 三位一体主日

説教:「主の御名を呼び求める者」
聖書朗読:使徒言行録2章14〜21節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが天に昇られてから十日後、五旬祭を祝うエルサレムの片隅で、弟子たちは突然聖霊に満たされ、誰にでもわかる言葉で力強く福音を語り始めた。

 この出来事を目撃した人々には二つの反応が現れた。一つは「いったい、これはどういうことなのか」という驚き、もう一つは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」という嘲りだった。

 これに対して、ペトロは新しく弟子として加えられたマティアを含む11人と共に立ち上がり、声を上げ始めた。少し前まで人目を避け、家の中に身を潜めて過ごしていた彼らが、今や堂々と群衆の前に姿を現し、確信に満ちた厳かな態度で語り始めたのだ。

 ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」と呼びかけたが、ここには自分の話が「パルティア、メディア、エラム……メソポタミア、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト……クレタ、アラビア」(2:9-11)といった当時様々な国からエルサレムに集まっていたすべての人々に受け容れられ、さらにそれが地の果てに至るまで宣べ伝えられるのを願う彼の思いが表わされている。

 ペトロは、聖霊降臨の出来事により、様々な言語で話し始めた弟子たちの姿を見て、酒に酔っていると思い、嘲る人々に向かい、「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」(15節)と言った。

 旧約聖書ヨエル書は、聖霊降臨が起きるのは「終わりの日」だと告げている。かつて主は次のように言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:7-8)。

 ヨエル書はこの出来事を次のように告げる。「すると、あなたたちの息子と娘は預言する」(17節)。ここに聖霊降臨後、将来にわたって福音伝道の働きが確実に継承されていく幻が示されている。また、「若者は幻を見、老人たちは夢を見る」(17節)と語り、この働きが若者だけでなく、年老いた者にも主が恵みをもって担わせてくださる業だということを示している。

 さらに、「わたしの僕やはしためにも……わたしの霊を注ぐ」(18節)と言われているが、ここには聖霊が年齢や性別ばかりでなく、身分や国籍にも関係なく全世界の人々に注がれるということが示されている。つまり、神は「終わりの日」にこの世のすべての人に聖霊を注ぐと言われているのだ。

 しかし、その「終わりの日」には、「血と火と立ちこめる煙」という事態が、この世のあらゆる場所において起きるとも言われている。だが同時に、そのような恐ろしい天変地異が起こっても、血が流され、火が襲い来るような事態があっても、それらすべてから人間を守る存在がおられると聖書は明確に告げている。それは、イエス・キリストに他ならない。この御方は、火の洗礼を授ける御方として、火を制する力をもってこの世に来られた。また、この御方は、十字架にかかり、体中の血を流しきって死なれたにもかかわらず、死から復活を遂げられた。それゆえ、この世で流される血をも制しておられる。それゆえ、我々はもはや何ものをも恐れる必要はない。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(21節)のだ。

 そして、「主の偉大な輝かしい日」(20節)、すなわち神の御国が完成される時、主は御名を呼ぶ者たちをそこに迎えてくださる。

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