日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年6月のバックナンバーです。

2013年6月2日 聖霊降臨節第3主日

説教:「命へと至る道」
聖書朗読:使徒言行録2章22〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロは、ここで世界に広がる神の民、「イスラエルの人たち」全体に向けて語りかけた(22節)。彼は、これから自分が話そうとしていることは、一部の人々だけではなく、すべての人々が聞くべき内容であると告げている。

 ペトロが最初に語ったのは、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」という言葉だった。彼が第一に伝えたかったのは、この御方のことであり、それ以外のことは語るつもりもなかった。

 ペトロは、「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」と告げた。「証明なさった」というのは特徴的な言葉で、元々は「宣言して任命する」、「公に示す」というような重い意味を持つ。

 主が御自分を神の御子であることを示すためになさった「奇跡と、不思議な業と、しるし」は、多くの人々に目撃された。主は、多くのいやしや驚くべき奇跡を行い、またこれまで誰も語ったことのない言葉で神の御国について力強くお語りになった。こうして、大勢の人々が主の一挙手一投足に注目するようになっていったのだ。

 確かに多くの人々がこの御方を神の御子として受け入れ従うようになった。だが、この御方は、この後どのような道を進んで行かれたか。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(23節)。主は、いったん御自分を神の御子として受け入れたはずの人間の心に湧き起こった否定的な思いを契機として十字架へと向かわれた。

 しかし、実はそのような人間の罪に基づく行為も、神の「お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで」なされたことだとペトロは告げる。主の十字架のきっかけとなった人間の裏切りという突発事故のような出来事も、あらかじめ神の御計画に含まれており、すべては神がその目的を達成されるためのことだった。

 だが、たとえそれが神の御計画だったとしても、「律法を知らない者たち」が主を十字架につけて殺してしまったことは紛れもない事実だ。神の「お定めになった計画」によって「引き渡された」主を、「律法を知らない」異邦人が「十字架につけて殺してしまった」。ここでペトロが強調しているのは、異邦人の罪深さではなく、人間全体の罪深さに他ならない。

 まさにこの人間の罪深さのために神の偉大な御業が成し遂げられた。「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(24節)。

 主は、あたかも人間の策略によって十字架につけられたかのようだが、実際この出来事は神の御計画に基づくものだったのだ。

 十字架の死が敗北でなかったことを、主は復活によって実証された。復活者は、勝利者として再び立ち上がってくださった。その勝利者からもたらされた聖霊を受けたからこそ、弟子たちは主の証人として立つことができたのだ。

 この出来事から二千年以上の時を経て生きる我々も、主を十字架に追いやった人々の中に自分自身の姿を見出す時、ペトロによって語られた主の十字架と復活の出来事を自分と密接な関わりを持つものとして受けとめるようになる。

 主の十字架と復活の光に照らされる時、我々の内側に充満した罪が明るみに出されるが、そのようにして罪の問題を自分の問題として捉え、悔い改めに導かれ、神に立ち帰って生きる者に、主は真の赦しと解放を与えてくださる。

2013年6月9日 聖霊降臨節第4主日

説教:「あなたがたがいま見聞きしていること」
聖書朗読:使徒言行録2章29〜36節
説教者 : 北川善也牧師

 現在、ダビデ王の墓は、エルサレム旧市街の「眠れるマリアの教会」に隣接する建物に安置されている。それは、AD135年のローマ軍による攻撃を逃れるため、当初葬られたダビデの町から移設されたと伝えられる。ダビデ王について、マタイ福音書冒頭は、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記している。

 主によって最初の弟子とされたペトロは、筆頭弟子としてどんな時も主の最も近くにいた。やがて彼は、「何があっても最後まであなたに従う」という誓いを主の御前で繰り返すようになる。だが、そんな彼も、主がいよいよ十字架につけられる時が来ると、他の弟子たち同様、主から逃げ去った。

 十字架上で死なれた主は、墓に葬られて三日目によみがえられた。復活の主は、すぐ弟子たちと会い、御自分のもとから逃げ去った彼らを赦し、今度こそ本当の弟子として立ち上がり、主の御言葉を世界中に宣べ伝えるために必要な力をお与えになった。それが、主の約束によって成し遂げられた聖霊降臨の出来事だった。

 主から逃げ出したままのペトロだったら、主を一人の人間としか思えなかっただろう。だが、十字架の死から復活された主と出会い、この御方と40日間共に生活した彼にとって、主が神の御子であり、真の救い主であることは何よりも確かだった。アブラハムもダビデも優れた人物だが、彼らは人間に過ぎなかった。ダビデは死んで葬られ、その遺体はエルサレムの墓に入ったままだが、主はその墓からよみがえって来られた。

 ダビデは、神の御言葉を取り継ぐ預言者として詩編にいくつかの詩を残したと考えられていた。その詩がペトロによって引用されている。「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」(31節)。「彼」とはダビデに示されたメシアのことだとペトロは告げる。そして、この御方は、死とは無関係だと言っている。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(32-33節)。主は、十字架の死から復活されると、まず弟子たちの前に姿を現された。それは、彼らを、復活の主こそ永遠の命の与え手である、という何よりも大きな希望を人々に宣べ伝える主の証人とするためだった。

 この大きな希望は、同時にそれがもたらされた者に悔い改めを迫るものでもある。なぜならば、全く無実である神の御子の手足を荒削りの十字架に釘で打ちつけたのは、この「わたし」に他ならないからだ。讃美歌第2編177番の歌詞が迫ってくる。「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。ああ、いま思い出すと、深い深い罪にわたしはふるえてくる」。

 我々は、自分の力で、自分の好きなように生きるのが人間らしい生き方だと考え、神から離れようとする。そして、そういう生き方がいかに不自然かということを人間は理解できない。神から離れて生きることは、神なしで生きていけると考えることであり、その思いは神への殺意と直結する。

 この罪ゆえに、我々は神との関係を本来あるべき正しい状態に回復することができない。我々が神との関係を回復するためには、我々は自分の罪が神の御子さえ殺してしまうほど深刻なものであるということを知らねばならない。

 しかし、我々がそのことを知るのは、自分の才能や努力によってではない。神は、我々を神の御言葉によって、十字架の主、復活の主と出会わせ、この御方を信じる信仰へと導くため、一人一人に聖霊を送ってくださる。こうして、神は我々を御自分との本来あるべき関係に入れてくださるのだ。

2013年6月16日 聖霊降臨節第5主日

説教:「主の招きに応えて」
聖書朗読:使徒言行録2章37〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 神は、人間をご自分の姿にかたどって創造し、ご自分の息を吹き込んで生きるものとされた。人間は誰も皆、神の息によって生きるものとされ、神の息を受け続けなければ生きていけない存在だ。

 それゆえ、人間は誰も皆、神に造られた存在として同じ心を持っている。ギリシャ語の「心」を意味する言葉は、「神との出会いを生じる場所」というニュアンスを含む。神に創造された人間の本来あるべき姿は、神と向き合い、対話して生きることに他ならない。

 ペトロは言った。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)。ペトロはここで、「神はイエスを主となさった」と言っているが、ユダヤ人にとって「主」は神以外には用いられない言葉だ。そして、彼らにとって神は天地万物の創造者にして、「始めであり終わりである」御方、すなわち決して死ぬことのない御方だ。ペトロは、そのような存在が「十字架につけて殺された」と言っているわけで、これは大いなる矛盾を含む、大変違和感のある言葉だった。

 しかも、十字架とは重罪人に対して処せられる極刑であり、それは罪とは無関係の神から最も遠いものであるはずだ。その、人間の常識では結びつくことのないはずのものがキリストにおいて結びつき、常識外れの出来事が成し遂げられたとペトロは語っている。

 「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」た(37節)。ここは、口語訳では「強く心を刺された」となっていた。主の十字架は、その真の意味を知らされた者にとって、心を突き刺すような痛みを免れ得ない出来事だった。だから、そのような痛みを覚えた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と、途方に暮れて尋ねるしかなくなってしまうのだ。

 これは、ペトロによる世界で最初のキリスト教会での説教だった。その最初の説教を聴いた人々に、このような激しく心を揺さぶられる経験がもたらされた。

 ペトロは、人々の問いかけに対し、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と告げた。

 すべての人間を救うため、罪なき神御自身が十字架を受けられた。他ならぬこの「私」の罪のため、これ以上ない犠牲が払われた。この我々には返済不能な負債に対して、我々ができるのは、神と向き合い、悔い改めることだけだ。

 悔い改めとは決して簡単なことではない。それは、これまで神なしで生きてきた人生に区切りをつけ、神のために生きる人生へと立ち帰る、人生の一大方向転換だ。

 その悔い改めは、主の名によって洗礼を受け、罪の赦しを確かなものとされることで実を結ぶとペトロは告げる。この洗礼は、マタイ福音書の最後で、主が「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19-20)と言われたように、主の大伝道命令と直結する。

 罪の赦しは、洗礼を受けることによってキリストと結ばれ、この御方と一体になることによって成し遂げられる。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(39節)。時空を越え、世界中の隅々にまで神の恵みの約束は及ぶと、主は約束してくださった。このように限りなく豊かな神の愛によって生かされている恵みに感謝し、希望をもって共に歩みたい。

2013年6月23日 聖霊降臨節第6主日

説教:「喜びと真心をもって一つに」
聖書朗読:使徒言行録2章43〜47節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロの説教を聴き、キリスト信仰へと導かれ、洗礼を受けた人々が一日のうちに三千人以上も与えられ、彼らが共同生活するようになったと聖書は告げる。

 42節において「熱心であった」と訳され、46節で「ひたすら心を一つにして」の「ひたすら」と訳されている言葉は、この人々が常にあることに固執し、それを徹底的に守り続けたということを示している。それは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」(42節)だった。

 信仰者の群れが後に呼ばれるようになる「教会」のことを英語で「チャーチ」、独語で「キルヘ」と言うが、いずれもギリシア語の「キュリオス」(主)にさかのぼる。つまり、教会とは「主の家」に他ならず、そこに人々が集まるのは、何よりも主のためなのだ。

 また、教会をギリシア語で「エクレシア」と言うが、これには「呼び出す」という意味がある。自分の意志ではなく、神に呼び出されて召し集められた人々から成り立っているのが教会なのだ。

 そのような信仰者の群れを見て「すべての人に恐れが生じた」(43節)。信仰生活を営む人々の姿は、罪赦された者としての喜び、また永遠の命の約束を受けた者としての希望に満ちていた。少し前まで家の中に籠もり、自信を喪失していた彼らが一転して神の存在をいきいきと証しする者となった。周囲の人々は、そのような彼らの姿を通して人間を越えた大いなる力の働きを見出し、恐れたのだ。

 信仰者の群れは、「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(44-45節)。ここに示されているのは、この群れが何よりも主の御体なる教会として一つにされていたということであり、群れに連なる一人一人も「自分たちが一つである」という意識を強く持っていたということだ。

 パウロは、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(Tコリント10:12-13)と告げた。洗礼を受けるということは、主の御体に組み込まれることであり、信仰者はこの自覚によって一つとされる。

 そのような信仰者の群れが、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(46節)。ここで「パン裂き」と言われているのは、聖餐式のことだ。その時、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言って分けられたパンとぶどう酒は、主の十字架の出来事を指し示した。このキリスト信仰の真髄を確認する大切な聖餐は、始めから洗礼を受けた者だけが与ってきたのだ。

 教会は、「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(47節)と聖書は告げる。教会が社会に認められ、そこに人々が増し加えられるのは、人間ではなく主御自身の御業に他ならない。そのようにして召し集められた群れを、主は洗礼と聖餐によって一つの体としてくださるのだ。

 教会は、「主の家」であるがゆえ、その中心には常に主御自身がおられる。そして、教会にどんな人が加えられるかとか、加えられた人々がどうやって一つにされるかなどということは、すべてこの家の主である御方が為してくださる神の御業に他ならない。

2013年6月30日 聖霊降臨節第7主日

説教:「教会が持っている『もの』」
聖書朗読:使徒言行録3章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 男は、その日もエルサレム神殿の「美しい門」で、いつものように参拝者に施しを乞うていた。しかしこの日、「いつも」とは決定的に違う出来事が起こった。彼は、「生まれながらに足が不自由」(2節)で、「40歳を過ぎて」(4:22)いた。つまり、彼は40年以上にわたり、足が不自由であるという理由から施しによる生活を余儀なくされてきたのだ。40歳を過ぎた彼をここへ運んでくれるのは、肉親ではなかったようだ。「運ばれ」、「置いてもらっていた」という表現に、彼が物のように扱われていたことが示されている。このような生活を長年繰り返すことによって、彼は何の希望も喜びもなく、惰性で生きるようになっていた。

 そんな彼のところにペトロとヨハネが近づいてきた。彼は、施しを求めて彼らに目を向けた。既に使徒言行録で見てきたように、彼らは聖霊降臨の出来事によって力を受け、人々の前で大胆にキリストによる救いの御業を証しし始めた。そして、それを聴いた三千人以上が信じる者とされ、洗礼を受けて信仰者の群れに加えられた。

 ペトロもヨハネも弟子たちの中で特に中心的な役割を担っていた。しかしペトロは、主が十字架におかかりになる直前、人々から主との関係を問われると、三度「わたしはその人を知らない」と否認した。この裏切りの経験は、彼に主の弟子として生きることの限界を示しただけでなく、取り返しのつかない挫折をもたらした。

 そんなペトロが、ガリラヤ湖畔で復活の主と再会し、「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じられることにより、挫折を乗り越え、主の真の弟子として立つことを赦された。彼は、自分の弱さ、貧しさ、愚かさを本当の意味で知ったからこそ、十字架によってまことに低くされ、すべての人間の救いを成し遂げられた主の御栄光を現すために立つことが出来たのだ。

 ペトロは、神殿の門で足の不自由な男と出会った時、自分には主御自身によって授けられたキリストの御名による権威以外何もないという思いで「わたしたちを見なさい」と告げた。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」という言葉は、主の御体なる教会の本質を示している。

 我々は、主によってもたらされた何ものにも代えがたい喜びと希望を知った時、それをいかにして周囲の人々に伝えるべきか、また伝えるべき相手の心をいかにして主に向けさせるかを懸命に模索する。だが、伝道の本質はここにある。ペトロの「わたしたちを見なさい」という言葉は、「わたしたちの信じているイエス・キリストを見なさい」という意味だ。そして、彼が「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という信仰の言葉をもって男の手を取ると、彼はその力を受けて立ち上がった。

 彼は、目先の生活のための「金や銀」でなく、真の自由をもたらす「キリストの名」に自分という全存在を懸けた。主の名によって歩むとは、全知全能の主の権威のもとに置かれ(人間にすがる門のたもとではなく……)、真に主体的な人間として生きることだ。

 40年以上自由を奪われていた男は「キリストの名によって」いやされただけでなく、生き方そのものを変えられ、あらゆる意味において自分の「足」で立って歩んでいく主体的な人生に入った。

 そして、これまで障害ゆえに神殿の聖所まで行くことの適わなかった彼が、今や神を賛美する群れの一員とされ、神殿内を自由に歌い踊りながら、喜びと希望に溢れて神を礼拝するようになった。

 「キリストの名」による救いは、一人の人間をこれほどまでに変えていく。大切なのは、主の名によっていやされた人間が、その主のために何をなすかということだ。

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