日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年7月のバックナンバーです。

2013年7月7日 聖霊降臨節第8主日

説教:「信仰によるいやし」
聖書朗読:使徒言行録3章11〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロの「ソロモンの回廊」における説教の冒頭は、「イスラエルの人たち」(12節)との呼びかけで始められている。このように呼びかけることによって、彼は聖霊降臨によってイエスをキリストと信じ、告白し、伝道するようになった教会が新しいイスラエルであるということを強調している。

 そして、ペトロは人々に「なぜこのことに驚くのか」と語り始めた。確かに、病人のいやしは自分たちを通してなされたが、人々はこのことをまことの神の御業として驚くべきであり、そのようにして神が生きて働いておられることを畏れ敬いつつ生きるべきであると彼は言うのだ。彼は、この世界で起こる様々な驚くべき現象に注目する人々の眼をキリストの死と復活へと向けさせようとする。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(13節)は、歴史に働かれる神を示す言い方だ。この神がイスラエルの歴史において究極の存在であるキリストを賜わった。この御方の栄光は、死人の中からのよみがえりにおいて現れた。ペトロは、そのキリストを「神の僕」(13節)、「命への導き手」(15節)と表現する。「神の僕」とは、奴隷ではなく実の子を指すことも出来る表現だ。こうしてイスラエルの民が神の僕の中の僕であるキリストを十字架刑に追いやったことが浮き彫りにされる。

 イスラエルの民が神の御子であるキリストを拒んだことは、彼らの罪を明確に示している。そして、彼らがキリストの代わりに「人殺しの男」、すなわちバラバの釈放を総督ピラトに求めたことは、彼らの神をも殺そうとする一筋縄ではいかない罪の根深さを示している。しかし、父なる神は十字架刑によって死んだキリストを生き返らせ、弟子たちをその出来事の証人として用いられるのだ。

 「神の僕」とは、神の御独り子、すなわち神が唯一まことに信頼される御方に他ならない。また、「命への導き手」とは、生命の根源者あるいは第一人者を意味する。これらの言葉が意味するところは、キリストの復活が終わりの日に起こるすべての人々の復活と審判の先取りであり、それゆえ永遠の命とは将来、神の赦しにより審判を免れた者に与えられるものであるということだ。

 このキリストの出来事に与るのにふさわしい人間の態度が信仰なのだ。それは、元来人間の内側に蓄えられているようなものではなく、神の御子の死と復活のみによって確かなものとされる。「キリストを信じる信仰」とは、「キリストによる信仰」であり、徹頭徹尾キリストを目指し、キリストに由来する。だからこそ、この信仰は「イエスの名によって」与えられるのだ。「イエスの名」は、キリストの存在と権威そのものを指し示し、この御方が地上に不在となっても実際に足の不自由な人をいやしたのはその名だった。

 信仰とは、キリストを通して父なる神を信じることであると同時に、父なる神がこの世に送られた神の御独り子であるキリストを信じることでもある。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、この名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰があなた方一同の前でこの人を完全に癒したのです」(16節)。

 このようにして、キリストによって「完全ないやし」を与えられた者はすべてをキリストに委ね、キリストへの心からの信頼をもって希望に満ちた歩みができるようになった。そして、「この世の金や銀」よりも「キリストの名」こそがまことの喜びの源であることに目を開かれ、心からの喜びをもって立ち上がり、神を賛美し躍り上がって、何よりも大きな希望と共に歩むことができる者へと変えられていくのだ。

2013年7月14日 聖霊降臨節第9主日

説教:「祝福をあなたがたに」
聖書朗読:使徒言行録3章17〜26節
説教者 : 北川善也牧師

 先週土曜日、教団伝道推進室の発足記念大会が大阪教会で開催され、120名ほどの参加者と共に日本伝道を覚えて礼拝を献げ、主題講演を聴き、心を一つにして祈りを合わせる時が与えられた。

 開会礼拝では、元教団総会議長の小島誠志先生がルカ福音書15:1-7の「見失った羊」のたとえから説教された。小島先生は、主イエスの捜し方は100人を同時に捜すような仕方ではなく、1人を見つけ出すまで絶対あきらめない徹底的な捜し方だ、と語られた。

 ここで注目すべきことは、迷子の羊がどんな状態で発見されるかということだ。迷子の羊は自分の居場所がわからなくなり、どちらにも進めなくなって困り果てている。一方、羊飼いは自分の現在地をしっかり把握した上で捜す。そうして迷子の羊は依然として自分の居場所がわからぬまま、羊飼いの声を聞くことによって、自分が発見され、助かったことを知る。

 「悔い改める一人の罪人」とは、自分自身を見失っていたが、絶対的な存在によって見出されたことを知った人のことだ。自分がどこにいるかわからない時、ただ一方的に捜し求められ、見出された者に大きな喜びが湧き起こるのは当然のことだが、誰よりも捜し見出された主御自身がそのことを大いに喜ばれると告げられている。

 さて、今日与えられた聖書箇所は先週に引き続きペトロによる説教だが、ここの中心は「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19節)であると言ってよいだろう。

 ペトロはイスラエルの民に対して、あなたがたは「無知のために」、「命への導き手である」キリストを十字架にかけて殺してしまったと強い口調で指摘する。それは、直接主を「十字架につけろ」と狂い叫ぶ群衆に加わらなくても免れ得ない罪なのだ、と彼は言う。

 語っているペトロ自身、かつて主に対して取り返しのつかない裏切りを働いた。彼はもう二度と主との交わりに入ることはできないと意気消沈していたが、そこに復活の主が現れて彼の裏切りを完全に赦し、弟子としてもう一度立ち上がらせてくださった。「悔い改め」による救いは、そんな彼だからこそ語り得る言葉だった。迷子の羊だったペトロを、復活の主はどこまでも捜し求め、見出して赦し、決して尽きることのない大いなる愛で包み込んでくださった。

 19節は、口語訳では「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」となっていた。「悔い改め」とは、「本心に立ちかえる」こと。この意図は、使徒言行録と同じ著者によって記されたルカ福音書の「見失った羊」のたとえの他、「放蕩息子」のたとえ(15:11以下)でも強調されている。

 父から財産の分け前を受け取った息子は遠い国へ行き、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たす。その頃ひどい飢饉が起こり、彼はひもじさのあまり豚の餌に手を付けようとするほど落ちぶれる。そこで彼は「本心に立ちかえる」。

 悔い改めとは、自分を見失った状態から本来の自分を取り戻すことだ。このような悔い改めは、人間の自発的な反省によって導き出されるものではなく、どこまでも徹底的に捜し求めてくださる絶対者によって促される決断に他ならない。悔い改めの根拠は人間ではなく、ただキリストのみにある。

 一人の人間が自分の罪の問題と向き合い、それが自分にとっての一大事であることに気付き、神に立ちかえる悔い改めへと導かれた時、あたかも黒板に書かれた文字が字消しでさっと拭かれることによって消されていくように、人間の罪のリストは主が流された十字架の血によって拭い去られていく。その救いを成し遂げるため、主は一人一人をどこまでも徹底的に捜し求めてくださるのだ。

2013年7月21日 聖霊降臨節第10主日

説教:「救いの源」
聖書朗読:使徒言行録4章1〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 二千年前エルサレムで起こった聖霊降臨の出来事によって弟子たちは、主イエスがすべての人を救うため十字架におかかりになったこと、そして死の底から復活されたことを力強く証しし始めた。特にペトロの説教は力強く、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒2:41)という。

 そのような信仰共同体のリーダーであるペトロとヨハネは、ある日、神殿の境内で施しを受けて生きる、生まれながらに足の不自由な男をいやした(3:1以下)。この出来事に驚き集まった大勢の人々に、ペトロは「あなたがたが十字架につけた主イエスこそ、神の御一人子であり、真の救い主である」という厳しい指摘によって悔い改めを促し、救いの源を明確に示した。すると人々はその教えを熱心に聴き、信仰共同体にはさらに多くの人々が加えられていく。そんな様子を見て、祭司、神殿守衛長、サドカイ派など律法を重んじる人人は堪忍袋の緒を切らし、ペトロたちを逮捕するに至る。

 だが、彼らを黙らせようとすればするほど、信じる者は増え、キリスト者の群れはますます手がつけられない状態になっていく。そこで、ペトロとヨハネが牢獄に入れられている間にこの問題の収拾を図るべく、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集結した。

 しかし、そのような状況下にあってもペトロは一層聖霊に満たされ力強く語り続けた。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(8-12節)。

 人々は、彼らの「大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人たちであることを知って」驚いた(13節)。元漁師だったペトロは、漁のこと以外何も知らなかったが、主の弟子として召され、網を捨て、船を捨てて、今やこの世の価値観に一切囚われず、聖霊の助けのみによって大胆に神の救いを証しする者となったのだ。

 このようにして、復活の主は聖霊の力によっていつも我々と共におられ、共に歩んでくださることを示されるので、我々は大胆に力強く主を証しして生きる者となることが出来る。そして、主が我々と共におられるところとは教会に他ならない。我々は、キリストの御体なる教会に連なり、教会生活を通して主と一つにされる。

 彼らは、「足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」(14節)。救われた本人がそこにいるという事実以上に確かなことはない。神による救いとは、思索によって導かれるようなものではなく、それほど具体的なものだ。

 議員や他の者たちは、「あの者たちをどう処分すべきだろうか」と頭を悩ませるが、人間の知恵によって「神の救い」を消し去ることなどできない。彼らに出来るのは、これ以上騒ぎが大きくならないよう脅しをかけるくらいが関の山だ。彼らは、二人の弟子たちに「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないよう」(18節)命じるが、それに対して弟子たちは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19-20節)と答えを返す。神という救いの源からとうとうと湧き出る福音の言葉は、もはや誰にも止めることが出来ないのだ。

2013年7月28日 聖霊降臨節第11主日

説教:「御言葉の力」
聖書朗読:使徒言行録4章23〜31節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロとヨハネが人々の前で、主イエスによって成し遂げられた救いの出来事を語ると、大勢の人人が主を信じ、信仰共同体に加えられた。最初にペトロが語った時、一日のうちに三千人ほどが加えられ、その後、彼らが生まれながら足の不自由な男をいやすと、それに驚いて集まった大勢の人々はペトロの話を聴き、男だけで五千人ほどが信仰共同体に加えられた。

 多くの人々は、困窮などの問題に直面し、悩み苦しみの只中に置かれていた。そのような人々にとって、神がどこにおられるかわからないような御方ではなく、いつもそばにいて共に歩んでくださる御方であることを明確に語るペトロの説教は、暗闇に射し込む一筋の光のような力を持っていた。

 しかし、このような神認識は、それまで律法によって人々を統制してきたエルサレムの議員、長老、律法学者たちにとって脅威だった。律法遵守のみによって人は神とつながることが出来るという自分たちの主張が弱められるからだ。そこで、彼らは、ペトロとヨハネを逮捕し牢に閉じ込めた。

 翌日、釈放されたペトロとヨハネが仲間のもとに帰り、自分たちが受けた脅迫について報告すると、「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって」(24節)祈り始めた。その祈りは、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」という言葉で始められた。彼らは、天地万物の造り主であり、造られたすべてをその御計画のうちに統べ治めておられる神に、自分たちをこの危機的状況から救いたまえと祈り求めたのだ。

 異邦人ばかりでなく、この世のすべての民が神に背く存在だと詩編は告げる。それは「この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆ら」うという形で表れた(27節)。主の十字架は、「異邦人」のみならず「イスラエルの民」も一緒になって救い主を拒絶するという異常事態だった。

 この状況は偶発的な事故のように見えるが、これも主の御旨によってあらかじめ定められたことだった。主は、十字架上で誰の目から見ても明らかに敗北である惨めな死を遂げられた。だが神は、この敗北を通し、人間の思いをはるかに越えて、御自分の計画を粛々と完成に向けて進めてゆかれる。

 祈りの言葉は、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29-30節)と願い求める。

 ここには「敵対者を滅ぼしたまえ」というような願いは見当たらない。真っ先に出ているのは「大胆に御言葉を語らせたまえ」という願いだ。「大胆に語る」とは、聖霊による神の力を受けて初めて可能となる働きであり、彼らはまさにそのような賜物が信徒一人一人に与えられることを祈り求めたのだ。彼らが望んでいたのは、一人一人が「大胆に語る」力を受け、世界のあらゆる人々に御言葉を宣べ伝える働きに赴くことだった。

 彼らの願いには、自分たちにいやしの力が与えられることも含まれたが、そこには困難な状況の中に置かれている人々を何とかして救いたいという彼らの熱い思いが表れている。彼らは、自分たちの伝道が単なる教えにとどまらず、具体的な愛の業として人々の間に根付くことを願ったのだ。

 こうして一同が祈り終えた時、その場所が揺れ動いた。これは彼らの祈りが確かに聞かれ、神の応答が力強く彼らに臨んだことを示している。それゆえ彼らは、もはや何者も恐れず、ますます大胆に神の言葉を語ってゆくのだ。

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