日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年8月のバックナンバーです。

2013年8月4日 聖霊降臨節第12主日

説教:「父は誰をも裁かず」
聖書朗読:ヨハネ福音書5章10〜18節
説教者 : 天野 洋執事

 今朝与えられた聖書箇所には、安息日の奇跡の一つが記され、ユダヤ人たちはイエスへの迫害を増してゆきました。人を癒すという行為は裁かれるようなことではありませんが、律法を重んじ、律法に支配された物差しではかるユダヤ人には、イエスは律法を破った(=神に従っていない)という結論になります。律法という物差し、「行い」という物差しが、神様の物差しとは全く違ったものとして記されています。

 私は大学で教育と研究をしていますが、他人を評価せざるを得ない時があります。自分はどのような「物差し」を使ってこの判断や評価をしているのか不安になります。自分に都合の良い物差しだったり、自分と他人によって、異なる物差しを使い分けたり。ゆがんだ物差しかも知れません。人は元来「分けること」と「裁くこと」が好きな動物です。私も昆虫やダニの長さを測ったり、重さを量ったりして区別します。今でこそ、計測に使う器機や単位はだいぶん正確になりましたが、少し前までは、インチ、フット、ヤードなど不明確な起源を持つ単位が先進国でも使われていました。1インチは親指の太さ、1フットは足の長さから生まれたもので、人によって異なる単位にもなります。また、この物差しは時代や国・地域によって変わることもあります。私たちの世界は、都合の良い物差し、狂いをもった物差しに支配されているかもしれません。律法に支配されたユダヤ人が持った「物差し」も同じかも知れません。

 なぜ私たちは「人を裁きたがる」のでしょう。裁くことは、誰も反論できない自分の世界に閉じこもり、絶対者となって他人の罪を定め、自己陶酔に浸ることだと書かれています。礼拝招詞にあった「死」への恐れや、「敵意」「ねたみ」などは全て、この勝手な物差しから生まれます。そこで、キリストは私たちの罪を背負われて十字架にかかり、これらの恐怖から私たちを解放して下さったのです。

 私たちが陥りやすい「ゆがんだ物差し」に対して、神様の物差しは「愛」だと記されています。裁くことはキリストお一人に任されていますが、その裁きも、私たちへの愛という物差しだけを使ってなされます。だから自分を捨てて主を受け入れ、隣人を愛することだけが、私たちにできる事だと言うのです。自分の物差しに疑問を感じたら、その物差しをイエス・キリストの十字架の前に差し出し、神様の物差しを受け入れる事が必要です。主日礼拝の説教の時間、自分の視線の先に困る事があります。説教者と目を合わせるのも迷惑かもしれません。しかし、ある時ふと講壇の後ろにある十字架の存在に気づきました。十字架に視点を定めることによって、安心が与えられました。何よりも、説教者にはなかなか感心な信徒だと思われるかも知れません。

 丸山陶季という方が、「縦の線は、神と私のつながり、そして横の線は人と人の横のつながり、縦・横がちょうど交わる所に、父なる神から遣わされた『イエス・キリスト』がいらっしゃる」と書かれています。縦の関係(神と私のつながり)がしっかり出来てないと、自分の立ち位置がはっきりせず、横の関係に気をとられ、人との関係の善し悪しや、人の評価が気になる、つまり「ゆがんだ物差し」で物事を見ることに陥いります。私たちが見ている十字架は、単に十字の形をした造形物ではなく、その真ん中にイエス・キリストを抱いているのです。義理の父は、牧師・伝道者として召された方でしたが、ある説教で「十字架という尺度で、ものごとを測りなさい」と諭しました。聖書は、無駄な物差しを捨てて自身の十字架を背負う生活(十字架を物差しとした生活)を私たちにいつも語り続けています。

2013年8月11日 聖霊降臨節第13主日

説教:「神の沈黙」
聖書朗読:マルコによる福音書15章33〜39節
説教者 : 北村康二執事

 本日の聖書の箇所は、イエス様が十字架にかかり、そしてその最後の時、息を引き取るその瞬間を描いたところである。わたしたちが神の子とあがめていた人が、人の力によっていとも簡単に、死を迎えたその瞬間である。

 今や科学の時代と言われ、様々な不思議な出来事が科学的な根拠によって説明されるようになってきた。その中で、神の業というものがどんどんと隅においやられて、むしろ神は人間がつくった幻のようなもので、いわゆる神話にすぎないという考えが、社会の中で一般的になってきている。

 そして、世の中をよく見てみると、キリストの愛とか神の愛というものを全く知らない、神なしで立派な生き様をしている人がいる。いい加減なクリスチャンよりずっとしっかりした生き方をしている人がいる。一体クリスチャンとは何なのか、クリスチャンが信じる神とは何なのか。どこにいるのかと問い返さざるえない。

 イエス様が十字架の上で「わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、そばに立っていた人たちが「そら、エリヤを呼んでいる」「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と語る。イエス様とイエス様を犯罪者とする宗教者とが真っ向からぶつかりあう場面である。そして、聖書は「イエスは大声を出して息をひきとられた」と語る。イエス様が必死で語りかける中で、神は全くの沈黙を保たれた。聖書には「大声を出して息をひきとられた」とあるだけである。イエス様に体をいやしてもらい、イエス様に教えられ、イエス様を信じ、イエス様に希望を抱き、信仰と希望と愛を授かった多くの人が、イエス様に従った。しかし、それもここまでである。イエス様は神に大声で叫んだが、そこには何も起こらなかった。神は最後の最後で沈黙を保たれた。そして、弟子たちも逃げるようにして散らされてしまった。これが聖書の語る現実である。しかし、この何も起こらなかったところを、さらによく読み進んでみると、それは始まった。イエス様がよみがえったということを全世界に伝えようという運動がここから始まった。

 神の沈黙に直面し、希望を失った人たちに何が起こったのか。それは、彼らが信じることであった。十字架につけられ、死んで葬られたイエス様がよみがえられた。そして、今も生きていると信じることからそれは始まった。

 聖書には、魂を心底から慰めてくれる言葉、平安を諭す言葉が溢れている。また、イエス様の生き様は人間性にあふれ、隣人を愛し、常に正しい道を歩んでおられる。もうわたしたちにはイエス様の生き様とイエス様の言葉で十分だ、復活の話まではいらないと考えてしまう。

 しかし、はっきり言えることは、イエス様の人間性や愛や神の教えがどんなに優れていても、結局イエス様は十字架につけられ、死に至ったということである。しかも、神の沈黙の中で。それは、神と人間との決定的な断絶で終わった。

 復活…「わが神、わが神なぜ私をお見捨てになったのですか」というイエス様の問いかけに対する応答がここにある。全く沈黙していた神が、その沈黙を破って、神が神としてイエス様をよみがえらせ、弟子たちに現れ、教会をつくり、わたしたちに働きかけてくださる。だから、キリスト教はこの神を他にして神を語ることが出来ない。イエス様を死人の中からよみがえらせた神、イエス様の祈りにこたえられた神、人間がもっていた全ての力を打ち破って、現れた全知全能の父なる神の姿がここにある。この神こそわたしたちの神であり、聖書が言い表す神である。わたしたちの信仰とは、イエス様を死人の中からよみがえらせた神を信じることである。

2013年8月18日 聖霊降臨節第14主日

説教:「わたしたちは主のもの」
聖書朗読:ローマ書14章1〜12節
説教者 : 中西和樹執事

 ローマの信徒への手紙はパウロの信仰が濃密に語られる書簡である。すべての人が罪に囚われており、神から離れる方向へ自ら歩んでいる。体は肉の法則に従い、律法によって明らかにされた罪の問題を、律法を遵守することによっては解決できない。しかし、律法によっては救われ得ない人間に対して、値なく人間の罪を赦して義とする、「神の義」が示された、と語る。私たちは「イエス・キリストの信仰」によってその死ぬべき体が命に移されている。その結果イエスと同等な神の子とされており、「アッバ父よ」と呼ぶことのできる相続人である。この恵みから、どんな存在も、私を引き離すことはできない。私たちはこの福音の恵みを、すべての人に告げ知らせることを委ねられている。

 ローマに建てられた教会では、ユダヤ教からの改宗者であるキリスト者と異邦人のキリスト者の間に、律法の定める生活や食物にかんしてもめごとがあった。戒律から自由になれないユダヤ人を、異邦人キリスト者は福音によって真に解放されていないものと見なしたのである。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです(14:15)。」彼らは、主からありうべからざる罪の赦しという絶大な恵みを頂きながら、その感謝によって隣人の弱さに配慮することは怠った。パウロの叱責は当然である。

 知識、芸術、スポーツなど、この世に属するものでさえ、人間が苦労して手に入れた美しいものや善いものは、必ずやそれを欲し必要とする他者へと向かう。賜物を頂くのはやがて他者に与えるためであり、他者へ伝えられることによってこそ、賜物は生かされまことの価値が明らかになる。それならばなおさら私たちは、値なく受けた絶大な恵みを値なく他者へ伝えるべきではないか。

 マルチン・ルターの「キリスト者の自由」に述べられる「自由」(freedom, Freiheit)とは、どんなことでも好きに選べる、という意味とはかなり異なる。これは「共同体に所属する一人としての意識と、そこでの愛と忠誠を指す意味」をもち、「好き放題」とは対局にある「配慮に満ちた愛」に近い言葉である。「愛をもって仕える」ための「自由」という、キリスト者に与えられた特権と責任は、パウロが繰り返して強調したことである。

 私たちはなぜ教会の兄弟姉妹さえ裁いてしまうのか。無意識に自分を守るためか。恵みを忘れているのか。また、私に注がれた恵みが、そりの合わない隣人にも同様に注がれていることが、どうして受け入れられないのか。主を頭とする共同体に招かれている私たちは、ひとりひとりが神に造られ愛されている。神との関係においては、他人が入り込む余地はなく、主が来られるとき、私は私自身の言い開きをしなければならない。

 もう一度主から頂いた恵みに目を留めよう。わたしたちは主のもの。主が造り、主が救い、主が生かしてくださっている。そして神様の愛はどんな場合にも絶対に私たちから離れない。自分を縛る様々な掟から自由になれず、しかし何とかして恵みに与ろうと祈り求める信仰の「弱い」者こそ、最も豊かな賜物を主から頂く準備ができており、そして実際に主が共に働いてくださる最強の信仰者たり得る。私たちの「弱さ」という器に注がれる、天来のまことの「強さ」に支えられてこそ、「愛」によって働く「自由」が本来の力を発揮する。

 生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものである(14:8)。私たちはすでに、そしてとこしえに、主のものである。

2013年8月25日 聖霊降臨節第15主日

説教:「大いなる力をもって」
聖書朗読:使徒言行録4章32〜36節
説教者 : 北川善也牧師

 神の力である聖霊の助けを受けて立ち上がった主イエスの弟子たち。彼らの伝道によって主を信じ、生まれたばかりの主の教会に連なった者たちは瞬く間に増え広がり、信仰共同体は五千人を優に超える群れに成長していった。主を信じる群れは「心も思いも一つ」だった。32節は直訳すると、「一つの心と一つの魂が信じた大勢の人々のものであった」となる。

 彼らにもたらされた「一つの心」とは、主を信じ、ひたすら御言葉に従って生きることを求める「心」であり、「一つの魂」とは、自分たちが信じている主をこの世の人々が信じて救われることを皆が一致して願う「魂」だった。

 33節前半で、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし……」と言われている。「証し」は、よく使われる教会用語だが、これはある人を信仰に導くために神御自身が働いてくださった、その働きについて語ることだ。「証し」と訳されているギリシャ語は、「それに値するものを支払う」という意味を持つ。つまり「証し」とは、神から与えられた恵みに対して我々がなさねばならない応答のことなのだ。神の恵みに対する応答として人間になし得ることは「祈り」以外ない。その意味で「証し」は祈りだとも言えるだろう。

 33節後半で、「(信仰共同体が)人々から非常に好意を持たれていた」と訳されているのは、実は人間から受ける好意というより、神から与えられる恵みと捉えるべき言葉だ。だから、「(神の)大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」(口語訳)の方がしっくり来る。

 証しに生きる共同体は、貧しさを覚えることがない。主の大いなる恵みを共有し、神から受けた賜物を互いに分かち合いつつ生きるからだ。そして、そのような恵みが共同体全体を包んでいるので、聖霊がそこに連なる一人一人を強め、誰もが大胆に神の御業を証しするようになる。ここで言う「証し」とは人前で語ることだけではない。祈る姿、礼拝する背中などもその人の信仰を証しする。

 36節以下に「バルナバと呼ばれるヨセフ」の名が記されている。彼が属していたレビ族は、エルサレム神殿における様々な仕事を任されていた一族で、律法の定めによりパレスチナ地方で土地を所有することが許されていなかった。彼はそういう一族に生まれながら、ペトロの説教を聴き、主の十字架の出来事に触れて、この御方こそ真の救い主と信じる信仰に導かれた。そんな彼は、エルサレム近辺には土地を持たなかったが、おそらく故郷キプロス島に持っていた所有地を売り払い、唯一と言ってよい財産を使徒たちの足もとに置いたのだ。こうして彼は神殿の祭司という人間にではなく、主の弟子となり、真の救い主のみに仕えて生きる姿勢を明示した。

 この信仰共同体、すなわち教会に連なることによってバルナバは気づいた。自分の持ち物は、もともと自分のものだったのではない。すべては神のものなのだ。それゆえ、自分に与えられている賜物を神のために用いるのが人間本来の生き方だ…ということに。教会は、バルナバと同じように「すべては主のもの」ということに気づかされ、それぞれに与えられている賜物をもって神の御栄光を現す働きに取り組むよう変えられていく群れだ。そのように変えられるゆえ、教会に連なる一人一人は真の慰めを主から受けるのだ。

 キプロス島生まれのヨセフは、この主による真の慰めを受け、この慰めに生きる者へと変えられていった。そして、そのように生きる彼に、弟子たちは「慰めの子」という意味を持つバルナバのニックネームを付けたのだ。教会に連なり、主の慰めを豊かに受けて、大いなる希望のうちを歩む者は皆、「慰めの子」とされていく。

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