日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

13年9月のバックナンバーです。

2013年9月1日 聖霊降臨節第16主日(振起日)

説教:「神を欺く罪」
聖書朗読:使徒言行録5章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 アナニアとサフィラの夫婦が起こした問題は、信仰共同体に暗い影を落とした。彼らは互いに相談して土地を売り、「代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(2節)。

 そんなアナニアに対してペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」(3節)。「サタン」とは、神の敵対者として神の計画を邪魔し、神の思いより人間の思いを優先させる存在のことだ。

 ペトロは、なぜアナニアがサタンの力によって欺いていることを知ったのか。実は彼自身、サタンに囚われ、主イエスから厳しく叱責された経験を持っていた。

 ペトロは、主が御自分の十字架の死を予告された時、主をわきへ連れ出して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめた。彼は、主を思う気持ちからこのように言ったのだが、そんな人間の感情をも用いて、サタンは神の最も重要な計画を妨げようとするのだ。

 その時、主はペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:33)。この予想もしない言葉に彼は打ちのめされたことだろう。しかし、ここで「引き下がれ」と訳されているのは、「わたしの後ろに従え」とも訳せる言葉で、主は「あなたは立ち位置を間違えている。わたしの後ろに従いなさい」と諭されたのだ。

 この出来事を通して、ペトロは確かに自分の中でサタンが働いていることを思い知った。こうしてサタンの恐ろしさを主によって示された彼だったからこそ、今アナニア夫妻に働いているサタンの力に気づいたのだ。ここには、人間が抱えている罪の根源的な姿が現れている。彼らは、信仰共同体に身を置きながら、なおも富への執着から自由になっていなかった。

 それは神と富とに仕える生き方であり、不自由極まりないはずだが、人間中心の目で見れば、自分の力で生きていくために必要な富を手元に置くことによって得られる安心感は捨てがたいのだ。

 先週出てきたバルナバは、レビ族出身ゆえエルサレム近郊の土地は持たなかったが、おそらく故郷キプロス島の先祖代々受け継いだ畑を共同体への献金とするため処分した。それは二束三文だったかも知れないが、いずれにせよ彼にとって全財産に等しいものだったはずだ。これに対しアナニア夫妻が持っていたのはエルサレム近郊の良い土地と推測され、これは高額で売れたはずだ。だが、彼らはその中からわずかな額だけ持って来て、残りの大部分を自分たちの手元に残しておいたのだ。

 神は、御自分が造られた人間によって価値付けられた金銀財宝で左右される御方ではない。神が目を向けられるのは、その人がどれだけ自分ではなく神を思って生きているかという心に他ならない。

 すべてのものの所有権は創造主である神にある。それゆえ人間が自分のものと考えているものも、本来神に帰すべきものだ。「自分のものは自分のもの」ではなく「自分のものは神のもの」なのだ。そのように捉えることによって、人間は初めて本当の意味で自由になり、明日を思いわずらわずに生きることが出来るようになる。

 人間の自己中心的で自分勝手な生き方は、神の御子を十字架にまで追いやった。人間の罪はそれほどまでに深い。だが、主は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と神に執り成してくださった。

 この御方にすべてを委ね、神のものを神のものとし、自分のものだと言い張るかたくなさを捨て去って生きる者となりたい。

2013年9月8日 聖霊降臨節第17主日

説教:「多くのしるしと不思議な業」
聖書朗読:使徒言行録5章12〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 我々人間は、神に似せて創造された。そこには、神と向き合い、神と対話して生きることこそ人間の本来あるべき姿であるという意味が込められている。神は人間が単なる対話相手ではなく、神の意志を受けとめ、神の手足となって働くことを望んでおられる。

 今日与えられた聖書箇所も、神が人間をそのような存在として創造されたことを示している。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」(12節)。人間の常識を越えた神の御業が、使徒たちという人間の「手によって」行われた。

 聖霊降臨の出来事によって、ペトロを中心とした使徒たちは福音伝道のために立ち上がり、力強くキリストを証しし始めた。すると、瞬く間に三千を超える人々が信仰に燃え、彼らはすべてのものを共有にし、心を合わせて祈る信仰共同体を形成していった。

 同時期、ペトロは長年歩けなかった男性に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)と告げ、歩くことが出来るようにさせた。この奇跡を目撃した人々は我を忘れるほど驚いたが、これによって信仰者はさらに増え、信仰共同体は今や一万を超える群れとなった。

 聖書は当初、奇跡の行使者としてペトロの名しか挙げていなかったが、今日の聖書箇所に「使徒たちの手によって」とあることから、もはや奇跡を行う力はペトロだけでなく、使徒たち全員に備えられていたことがわかる。

 神は、こうして御自分に従う人間を造りかえ、御業を行う道具として用いられる。神は、造られたすべての人間が御自分の手足となり、御自身の計画のために働くことを望んでおられるのだ。

 もとより人間は罪深く、その手の業は無力なものだ。だが、神は御自分の働きのために必要な手を選び、その手を通して御業を行われる。モーセら旧約に名を連ねる人物たちもそのようにして神に用いられたが、彼らは神によって選ばれ、使命を告げられた時、皆恐れおののき、尻込みした。しかし、その度に神は彼らが神の器として立つために必要な御言葉を与え、御手をもって支えられた。

 このようにして、聖霊の助けを受けた人間の手による業を通して、神は御自分の御業を示され、さらにそのような人間の「証し」を通して周囲の人々は神と出会い、神の民とされていくのだ。

 「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)とあるが、「増えていった」と訳されている原語は受身形なので、正確には「増やされていった」だ。つまり、信仰共同体に人々が増し加えられるのは、人間の行為によってではなく、神御自身の働きによってなのだ。

 「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた」(15節)。治療を施されない病人が大勢放置されていたということは、当時の人々の困窮がそれだけ厳しかったということを示している。

 そのような状況にあって、祭司、神殿守衛長、サドカイ派ら権力者たちの圧力が福音伝道の働きを進める使徒たちに重くのしかかって来ていた。だが、使徒たちは迫害から逃れる道を探すより先に、人々の困窮から来る病のいやしに全力を注いで取り組んだ。彼らにそれが出来たのは、神の聖霊を豊かに受け、御言葉によって支えられていたからに他ならない。

 その結果、使徒たちの評判はエルサレムにとどまらず、周辺地域に広がり、遠方からも病気や悪霊に取りつかれた人々が連れて来られた。こうしてキリストの福音は、もはや誰にも止められないものとなって拡大していくのだ。

2013年9月15日 聖霊降臨節第18主日

説教:「命の言葉を告げなさい」
聖書朗読:使徒言行録5章17〜26節
説教者 : 北川善也牧師

 聖霊の力を受けた使徒たちがエルサレム神殿で主イエスの十字架によって成し遂げられた神の救いの御業を力強く証しすると、聴衆の心に次々と信仰の炎が燃え上がり、信仰者の群れはまたたく間に驚くほどの人数に増え広がった。

 だが、こうした動きは、ユダヤの宗教指導者としての既得権益を守ろうとする者たちを脅かす存在だった。そこで、当時の権力者の代表格である大祭司やサドカイ派らは、ねたみに燃え、12使徒全員を捕らえて牢に閉じ込めた。

 聖書には、このように神の計画が人間によって妨げられ、これ以上進むことは不可能としか思えない場面がしばしば出てくる。旧約のヨナ書には、神の御言葉を宣べ伝えるためニネベに行けとの神の命令を受けたヨナがその命令から逃がれようとした時の出来事が記されている。ヨナはどこまで逃げても神の選びから逃れられず、とうとう海に投げ込まれ、巨大な魚に呑み込まれてしまう。ヨナはこの万事休すの状況下で祈りと黙想の時を与えられ、自らに託された神の使命と向き合い、それに取り組む思いへと導かれていった。

 どんな分厚い壁の中に閉じ込められ、権力の圧迫を受けようとも、神は御自分の働きを託した器をどこまでも追い求め、いかなる障害をも打ち破って「戸を開け」、その器を「連れ出し」、託された使命の場へと向かわせられる。

 使徒たちにとって、天使を通して与えられた牢からの解放は、単なる自由の獲得という出来事ではなかった。むしろ彼らはこの解放によって、より困難が待ち受けている場所に派遣されようとしていたのだ。その場所とは、牢から脱走したと見なされている彼らにとって、向かうのが一層危険となった裁きの場、最高法院だった。

 そのような苛酷な場へと使徒たちを向かわせるのは、もはや人間の意志や力では不可能だ。では、彼らの恐れを取り除き、支え導いたものはいったい何だったのか。

 彼らは、牢から解放される時、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(20節)という命令を受けた。「命の言葉」は、何としても彼らによって語られなければならなかった。救いに与った者がその感謝と喜びを証しする。そのような人間の働きによって福音伝道を前進させる道を神は選ばれたのだ。

 人間は、他者の信仰者としての証しや生きざまを通じてその背後におられる主と出会い、この御方と共に生きる喜びを知り、大いなる希望をもって歩む者とされる。

 「キリストこそわたしの主である」。「この御方がかかってくださった十字架の贖いによって、わたしの罪が赦され、この御方が死から復活されたことによって、このわたしに永遠の命の約束が与えられた」。このような命の言葉と出会い、この言葉と共に生きる決断が与えられた時、人は教会において、神と人との前で信仰告白をし、洗礼に与る。そして、このようにして神と固く結び合わされ、神と共に歩み始めた者は、自らを生かし導く命の言葉を証しする者へと変えられていくのだ。

 そのようにして、神が上から与えてくださる命の言葉が、教会において語られ、聞かれる時、そこからまったく新しい出来事が始まり、そこにおいてまったく新しい存在が創造されていく。我々は、この命の言葉によって生かされている一人一人に他ならない。

 我々は、自分たちが命の言葉によって生かされていることに感謝をもって応え、自分たちがそのようにして生かされている喜びを証しする者として歩むよう召し集められている。それゆえ、我々は命の言葉の証人として、教会からそれぞれの使命を託されている場所へと遣わされていくのだ。

2013年9月22日 召天者記念礼拝

説教:「わたしたちの導き手」
聖書朗読:使徒言行録5章27〜32節
説教者 : 北川善也牧師

 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」(28節a)。最高法院において弟子たちはキリストの名によって語ることを厳しく咎められていた。彼らは、エルサレム神殿の境内で大勢の人々に、主が神の御子であり、この御方の十字架における死によってすべての人の罪が赦されたことを宣べ伝えていた。

 当時ユダヤの指導者たちは、天地万物を創造された神がどこにおられ、何をなさろうとしているかなど知り得ないと考えていた。だから、彼らは神の御子が人間の姿でこの世に来られ、十字架にかかり血を流して死んだなどという教えは到底受け入れられなかった。

 彼らがこの教えを認められない理由はもう一つあった。当時ユダヤでは、罪深い人間が神の憐れみを受けて生きるための唯一の手段として律法遵守が人々に厳しく課されていた。そのため律法学者など一握りのエリート層が一般庶民を教え導いていた。そのようにして庶民をまとめる役割を担っていた彼らは、支配者であったローマ帝国から様々な特権を与えられ、悠々自適に暮らしていたのだ。

 そんな彼らにとって、今まで自分たちに従っていた大勢の人々をキリスト信仰へ導こうとする弟子たちの存在は看過できなかった。

 そこで彼らは最高法院を召集し、弟子たちを民衆扇動のかどで逮捕して、二度とキリストの名によって語ることのないよう厳罰に処することにしたのだ。

 弟子たちは一度に逮捕され牢に監禁されたが、夜中に主の天使がやって来て、牢の戸を開け、彼らを外に連れ出した。その時、天使は「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と彼らに告げた(5:17-26)。

 弟子たちは、神の愛がすべての人にくまなく注がれ、その愛の及ばぬ範囲などどこにもないということを誰よりも多くまた近くで主から直接見聞きすることによって示されてきた一人一人だった。しかし、そんな彼らも初めから神の救いについて人々の前で大胆に語ることが出来た訳ではなかった。

 弟子たちは一人として最後まで主の十字架を見届けることが出来なかった。逃げ出したからだ。だが、主はそのように神を簡単に裏切り、自分のことだけ考えて生きようとする人間に神が創造された本来の姿を回復させるため、すなわち神と向き合って生きる者とするため、究極的な出来事によって神の愛の業を成し遂げられた。

 罪なき神の御独り子が十字架にかかり、体中の血をすべて流しきって死なれることによって、すべての人間が神とつながって生きるための唯一の道が完成された。この救いの出来事を聖霊の助けによって受けとめた弟子たちは、神に背いて生きる存在から、神の御言葉を人々に宣べ伝える神の器へと造りかえられていったのだ。

 以前は恐ろしさのあまり、主が立たされている最高法院に入れなかった弟子たちが、今や同じ最高法院の真ん中で、主が十字架の死から復活し、イスラエルすなわち神の救いに与る人々を悔い改めに導き、その罪を赦すための導き手となってくださったことを力強く証しする存在へと変えられた。

 彼らをここまで劇的に変えたのは何だったか。それは、彼ら自身の言葉に示されている通りだ。「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(32節)。聖霊は、人間を根本的に造りかえる底知れない力を持っている。

 神が成し遂げられた罪の赦しと永遠の命の約束に与ることによって、我々は何ものにも代えがたい大きな希望と喜びをもって生きられるようになる。そのような希望と喜びは、聖霊の働きによって我々の中に豊かに注ぎ込まれる。

2013年9月29日 聖霊降臨節第20主日

説教:「神から出たものを滅ぼすことはできない」
聖書朗読:使徒言行録5章33〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 聖霊降臨によって、使徒たちが力強く神の救いの御業について語り始めると、短期間で五千人を超える人々が信仰者となった。この事件は、ユダヤの宗教指導者たちの危機感を募らせた。そして、最高法院に引き出された使徒たちの証言は、彼らの殺意に火を付けた。

 使徒たちは次のように証言した。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」(5:29-32)。

 ここには、神がどんな方法で人間を救おうとしておられるかが明確に示されている。神は、御自分が命を与え、生かし導いておられる人間が、死んですべて終わりになるような生き方でなく、神の子とされ、この世の命を突き抜けて、神と共に永遠の命を生きる者とされることを望んでおられる。

 神は、そのことを我々に知らしめ、神の救いの御業を信じて生きる者とするために使徒を立てられた。彼らは初め主御自身によって選ばれ、その働きは次世代へと受け継がれていった。神の救いの御業は、こうして二千年を超えてこの世に宣べ伝えられてきた。

 しかし、ここにはそのような働きのために立てられている使徒たちを憎み、殺そうとする人間の存在が示されている。旧約時代から、人間はこうして神の救いを拒否し続けてきた。そして、この救いを確かなものとする最も重要な出来事、すなわち主の十字架はまさに人間がこの御方を不要とする思いによって実現した。神は、ご自分の計画を成し遂げるために人間の罪の力さえ用いられるのだ。

 もしも最高法院によって使徒たち全員に死刑が宣告されていたら、神による救いの御業を宣べ伝える伝道の働きは途絶え、産声を上げたばかりの信仰共同体は空中分解していたかもしれない。

 だが、この時そこにいたファリサイ派の律法教師ガマリエルは、殺気立つ最高法院の場内から使徒たちを出し、当事者を外して話し始めた。その際、彼はかつて民衆を扇動して共同体を形成しようとした二人の人物を上げ、「それが人間の考えに基づくものなら彼らのように滅びるが、もし神から出たものなら誰も滅ぼすことはできない」と言って、使徒たちを釈放し、彼らの活動を放置するという決定へと最高法院を導いた。

 ガマリエルは主を信じていたわけではなかったが、結果的に使徒たちを助け、信仰共同体が勢いを増していくきっかけを作った。このことからも人間の思いを超えた神の御計画を思わされる。

 使徒たちは、こうして裁きの場から解放されることとなったが、その前に鞭打ちの刑を受け、主の名によって語ってはならないと厳しく戒められた。鞭打ちは肉をそぐような激しい刑罰だったから大きな苦痛が彼らを襲ったはずだが、その苦痛を超えて彼らは今や自分たちが主の名のゆえに最高法院に招集され、厳しく罰せられるほどの人間として認められるようになったことを大いに喜んだ。

 使徒たちは、このような苦しみの中にあっても十字架の主が自分たちと共におられることを強く感じた。その喜びが彼らをさらなる福音伝道へと押し出していく。

 こうして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)との主の御言葉は実現していった。

 今、日本の京都で生きる我々も、聖書を通して神の御言葉に触れている。この御言葉は、神から出たものであり、神から出たものは誰も滅ぼすことができないのだ。

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