先週の説教 -バックナンバー-
13年10月のバックナンバーです。
13年10月のバックナンバーです。
説教:「祈りと御言葉の奉仕」
聖書朗読:使徒言行録6章1〜7節
説教者 : 北川善也牧師
エルサレムで産声を上げたばかりの信仰共同体の様子は次のようだった。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(2:45-47)。
このような信仰共同体において、ごく日常的な問題をきっかけにしてトラブルが勃発した。それは、現代の教会に連なる我々にとっても決して他人事としてすませられないような問題だった。
教会という信仰の群れにあっても、この世における日常の問題と無縁ではあり得ない。以前、5章1節以下でアナニアとサフィラ夫妻による悲しむべき事件の顛末が伝えられた。彼らは、私利私欲にかられた行動に走ることにより破滅を余儀なくされてしまった。
今日の聖書箇所では、信仰共同体が日々行ってきた信徒相互の援助からトラブルが起こった。日々の援助自体に異議を唱える者はいなかったが、人間の手の業は当然のことながら完璧であるはずがない。そこには、現実的に援助から疎外されていると感じる者が生まれ、せっかくの善意に基づく行為も皆から感謝されるようなものになっていなかったのだ。
このような不満が積み重なって共同体内部に摩擦が起こり、派閥が生まれ、分裂へと発展していくという悲しい現実が確かにある。このことは、信仰共同体と言えども人間社会の縮図であるということをはっきりと示している。
だが、信仰共同体すなわち教会は単なる人間社会の縮図ではない。教会が一般社会と異なる最大のポイントは、教会で語られている言葉が一般社会とは明らかに違うということだ。教会とは、何よりも神の御言葉に耳を傾け、神が人間に何を示しておられるのかを尋ね求める場所に他ならない。
信仰共同体の問題を察知した使徒たちは、弟子全体を呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(2-4節)。
ここには、使徒たちが常に全力を尽くしてあたるべき職務内容が明確に述べられている。信仰共同体にとって何が最も重要なことであるかを、使徒たちはしっかり認識していた。彼らは、主の御委託に忠実であり続けることを何よりも大切に考えていたのだ。
彼らは、そのため新たな七人を選び出そうとしたが、その条件として「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」を挙げた。信仰共同体は、使徒の働きを託す人々を選ぶにあたって人間的な魅力や能力や地位などによって判断するようなことを断じてしなかった。
このようにして選び出された七人は、やがてステファノのように迫害を受け、殉教の死を遂げたりしていくが、彼らの苦難を通して福音は確かにエルサレムから異邦の地へ、さらに地の果てと思われていた世界の隅々にまで宣べ伝えられ、拡大していくことになる。
教会は、人間の力によって歩み続けるのではない。そうではなく、教会に連なる一人一人が神の御言葉に支えられ、神の御言葉のみに信頼し続けるからこそ希望の道を与えられ、その道を喜びをもって進んでいくことが出来るのだ。
新しい七人を選び出すに際して、初代教会が今一度このことを真剣に捉え直し、主より託された大切な任務に取り組み続けたことを我々も心に刻みつけたい。
説教:「聖霊によって語る人には歯が立たない」
聖書朗読:使徒言行録6章8〜15節
説教者 : 北川善也牧師
「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(8節)。彼は、選ばれた七人の筆頭に名を挙げられただけでなく、「信仰と聖霊に満ちている人」と評された。
そんなステファノの言行に我慢できぬ人々、「キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々など」(9節)が次々と彼に論争を挑んできた。
だが、彼らは「ステファノが知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」(10節)。主イエスはかつて、弟子たちに次のように約束された。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(ルカ21:15)。ステファノは、まさしくそのような言葉と知恵を持っていたのだ。
そうなると、人々は掟破りに走るしかなかった。彼らは、ステファノの罪を確定させるために必要な証言を得ようと虚偽の証人を立て、でっち上げを騙らせた。
その内容は、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」(11節)というものだった。当時、もし本当にステファノがこのような言動を行ったとしたら、即座に石打ちの刑に処せられていたはずだ。人々はステファノがただちに死刑に処せられることを望んでいたのだ。
彼らは、さらに民衆を煽り、長老や律法学者らをけしかけてステファノを捕らえさせ、最高法院に連行するという非常手段に出た。
彼らが「偽証人を立てて……訴えさせた」(13節)のは、明白な律法違反だ。つまり、彼らはステファノを律法違反者として裁くため、自分たちも律法を犯すという矛盾を働いたのだ。神の御業について語ろうとする人間に対して、サタンはこのようになりふりかまわぬ妨害工作を仕掛けてくる。
これは、ステファノという一人の人間を葬り去ろうとする力ではなく、神の救いという光そのものを消し去ろうとする暗闇の力に他ならない。そのような力に囚われた偽証人は次のように訴える。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」(14節)。
ステファノの存在が目障りだと感じた人々の中心は、祭司や律法学者たちだった。彼らにとって「この場所」すなわちエルサレム神殿が破壊されること、そして、「モーセが我々に伝えた慣習」すなわち律法の教えが別のものに取って代わることは、どちらも自分たちの存在意義を失うことに等しい出来事だったから、何とかしてそれを阻止せねばならなかった。
確かに、かつて主はユダヤ人たちが神殿を壊しても、主御自身がそれを三日で建て直すと言われた。その時、主が言われた神殿とは、御自分の体のことだった。つまり、主は御自分が同胞であるユダヤ人より十字架につけられ、死んで葬られるが、三日目に永遠の命を受けてよみがえると告げられたのだ。これこそすべての人間を救いに導くための神の御計画だった。しかし、人々は主によって語られた言葉の真の意味を理解しようとしなかったばかりか、それを偽証までして葬り去ろうとした。
神による人類救済の道は、人間の力で消し去ることなど到底できない。周りのすべての人間を敵に回し、孤立無援に追い込まれたはずのステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」(15節)と言われている。神の御業を託され、その働きに赴く者には、聖霊が豊かに注がれ、その力によって満たされるので、神の光を照らし出す者とされるのだ。
説教:「現代のヨブ」
聖書朗読:【旧約】サムエル記上26章6〜11節、
【新約】 ルカ福音書16章19〜31節
説教者 : 塩谷直也先生(青山学院大学宗教主任)
「人は皆、平等で公平だ」と言うが、見れば見るほど世の中は不平等かつ不公平だ。相手を「100」愛しても、相手から「0」しか返ってこないことも、その逆もある。この世のあらゆる事柄には格差がある。人生は不平等だ。しかし、その不平等感も様々で、「なぜわたしだけ不幸なのか」という場合と、反対に「なぜわたしだけ幸福なのか」という場合がある。
ダビデは、何も悪いことをしていないのにサウル王から命を狙われた。彼は、「なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのか」と悩んだろう。そんな彼にこの不公平を是正するチャンスが巡ってきた。サウルが目の前で寝ているのだ。ダビデは、「復讐」によって一気に格差を解消できる機会を得た。自分が受けた傷を相手にも与えることで形式的に不公平感を是正するのが復讐だ。しかし、彼はそれをせず、不公平をそのままにした。ダビデにそれが出来たのは、その時、彼が本当の意味で「強者」になっていたからだ。もうここで人間的な決着はついていた。
ラザロは、生きている間中蔑まれ差別されてきた。そのラザロにも復讐のチャンスが訪れた。彼のことを虐げてきた金持ちが陰府で苦しんでいる。だが、彼はここで沈黙を保つ。金持ちは死んでもなお彼を使用人扱いしている。それにもかかわらず、ラザロはこの時アブラハムに「彼を助けてください」と頼んだように思う。聖書に出て来る強者は決して復讐しない。「良きサマリア人」もそうだった。彼らは、復讐の機会を「赦し」のチャンスに変えていく。
なぜわたしは不幸なのか。なぜ人生は不公平なのか。そう嘆く我々は現代のヨブだ。ヨブは理不尽な苦しみに打ちのめされた。しかし、彼は苦しみを経てなお神との関わりを深め、新しいシナリオで人生を生き始める。ダビデ、ラザロ、そしてヨブの生き方は、不公平の最終的是正が、神の領域であることを知った者の生き方だ。
ナチスのアウシュビッツ強制収容所は「絶滅収容所」とも呼ばれた。そこでは、脱走者が出ればその家族は全員殺され、脱走者に家族がなければ無関係な人間が連帯責任で殺された。ある時、脱走者の連帯責任の処刑者として選ばれたガビオニチェックは、「家族と離れるのが辛い」と叫んだ。それを聞いたコルベ神父は、独身の自分が彼の身代わりになると申し出た。こうして処刑者が入れ替わり、ガビオニチェックは救われた。
戦後、解放された彼が家に戻ると、家族は殺されたり、心を病んで崩壊状態だった。自分は何のために生き延びたのか。コルベ神父が殺されるなら自分が殺された方が良かった。そういう思いに囚われ、ガビオニチェックは逆の意味で人生の不公平感を味わった。彼はこの不公平を是正するため、自分に対する復讐、つまり自殺を図る。この世には、命が救われても、「なぜあの人が死んで自分は生き残ったのか」と悩み続ける人がいる。しかし、人間の命に優劣はない。どの人も神の豊かな愛に生かされている。だから、すべての人に生きる価値があるのだ。
主イエスの弟子たちは、「なぜ主が死んで我々は生き残ったのか」と思い悩んだろう。だが、後に彼らは聖霊を通して主の十字架の意味を知る。すべての命に対して同等の価値を認めるのが「愛」だ。主は、すべての人間の罪を担い、十字架にかかって死なれた。それは、どの命にも優劣はないという宣言に他ならない。だから、この十字架を見上げる時、我々はもはや他者や自分に対して復讐する必要がなくなっていることに気づかされる。本当の強者は、すべてを神に委ね、与えられた人生を大切に生きる。それが我々、現代のヨブに託された生き方だ。
説教:「アブラハムへの約束」
聖書朗読:使徒言行録7章1〜8節
説教者 : 北川善也牧師
使徒言行録7章以下には、新約聖書で最も長い「ステファノの説教」が記されている。このことは、ステファノという人物が初代教会に与えた影響の大きさを物語っている。彼は、使徒としての働きを受け継ぎ、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6:8)。
だが、それを快く思わない者たちが「民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った」(6:12)のだ。そのような迫害下にあっても、ステファノの「顔はさながら天使のように見えた」(6:15)と言われている。そして、ステファノは語り始めた。
注目すべきことは、彼が自分を弁護するような言葉ではなく、イスラエルの民全体にとっての父祖アブラハムに起こった神の召命の出来事から語り始めたことだ。
神は、アブラハムに先立ち、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と言って彼の行く道を示されたが、それは彼にとって未知の世界だった。
だが、彼は神のお導きに従うことが最善であると信じ、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ11:8)。
乳と蜜の流れる地カナンは、アブラハムに約束された場所だったが、神は彼に「そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも」(5節)。
アブラハムは、最期まで約束の成就を見届けることはなかったが、それが果たされることを決して疑わなかった。そのことゆえに彼はイスラエルの「信仰の父」と呼ばれるようになったのだ。
ステファノはこう語ることにより、真のイスラエルが「今あなたがたの住んでいる土地」(4節)、すなわちカナンに住む者に限られると考えている人々に問題提起している。エルサレムを神の都として固定化し、その神殿にだけ神の住まいを見ようとする考え方は、父祖アブラハムのまだ見ぬ神の約束を信じる信仰から外れている。目に見えるもののみにより頼むことによってイスラエルは神の民であることから脱落してしまう。そのようにステファノは呼びかけている。そうして、真の神の民がより頼むべきものは、目先の土地や財産ではなく、目に見えない神の約束であり、そのために神の御言葉にひたすら聞き従う信仰が求められると告げるのだ。
アブラハムは、目に見える一辺の土地すらも所有しなかった。そればかりか、彼は「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう」(創世記15:13)と、大きな試練があることも予告された。しかし、「四百年」というアブラハム自身決して見ることのかなわなかった膨大な時間の先に、神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出し、約束の地カナンへと導き、そこで彼らを神を礼拝する民にすると告げられた御自分の約束を果たしていかれる。
ハランの地で、すでに生活が安定していたアブラハムが、未知の世界に向かって、しかも家族と家畜の群れを率いて出発するということは、どんなに重大な決意を要したことだろうか。しかし、彼は人間の思いを越えた神のお導きに従っていくという信仰に支えられて新しい歩みを開始した。
そして、今や聖霊降臨によってイエス・キリストを信じる群れとして歩み出した信仰共同体も、アブラハムと同じように、未知の世界へ向かって旅立とうとしている。真の神の民は、このようにして神によって与えられた約束の言葉を「見ないで信じる」信仰に生きるのだ。我々もそのような信仰に生きる者として歩みたい。