先週の説教 -バックナンバー-
13年11月のバックナンバーです。
13年11月のバックナンバーです。
説教:「ヨセフの一族」
聖書朗読:使徒言行録7章9〜16節
説教者 : 北川善也牧師
ステファノは、7章1節から53節に及ぶ長い説教の中で旧約の登場人物の名を何人も挙げて語っている。彼は、「神殿と律法とに逆らう言葉を吐いた」というかどで最高法院に立たされているのだが、一見それとは全く無関係な話をしているように思われる。しかし、ステファノにとって「神殿と律法」の問題に対して根本的に答えるためには、イスラエルの信仰の原点であるアブラハムの歩みから説き起こすことが必要だったのだ。
アブラハムの信仰は、神の御言葉にそのまま従い、まだ見ぬ約束の地を目指して旅立つ歩みに示されている。そのアブラハムは旅する先々で、主のために祭壇を築き、そこで礼拝を献げた。彼は、どこにいても主は共にいてくださると信じていた。しかし、エルサレム神殿に神の住まいを固定化したところからイスラエルは真の信仰から脱落し始めたのではないかとステファノは鋭く指摘するのだ。
続く今日の聖書箇所では、ヨセフの物語が語られている。ヨセフは、アブラハム・イサク・ヤコブと続くヤコブの12人の息子の一人だった。彼は、神に与えられた「夢解き」の賜物によって他の兄弟たちの妬みを買い、涸れ井戸に突き落とされた挙句、奴隷商に捕まってエジプトに売り飛ばされてしまう。そのようにして、ヨセフはエジプトで大きな苦難を負わせられるが、神は彼を助け、エジプト王ファラオによってエジプトの大臣として任命されるよう導かれた。
ヨセフがエジプトの大臣となって数年後、エジプトとカナン全土で大飢饉が発生した。その時、ヤコブの息子たちは食糧を買い出しにエジプトへ赴く。ヨセフは「夢解き」によって、7年間の豊作に続いて7年間の飢饉がやってくることを知り、7年間の豊作時に作物を可能な限り備蓄させたので、その後7年間続いた飢饉にあってもエジプトには豊富に食糧があったのだ。しかし、彼らはエジプトの大臣が自分たちの兄弟ヨセフであるなどとは知る由もない。
エジプトから持ち帰った食糧が尽きてしまうと、ヤコブの息子たちは再びエジプトにやって来るが、その時とうとうヨセフは兄弟たちの前で涙ながらに自分の身の上を明かす。こうして、ヨセフは兄弟たちと長年にわたって断絶していた関係を回復するのだ。
兄弟たちとの和解に際して、ヨセフは「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記45:7-8a)と語った。
ヨセフは、かつて兄弟たちによってひどい目に遭わされ、エジプトの奴隷として連れ去られるという苦しみを経験したが、彼はこの出来事を人間のはかりごとと思わず、神の御計画のうちに進められた恵みの御業として受けとめた。
ステファノは、このヨセフの物語を通して、神があらゆる苦難からヨセフを救い出し、恵みと知恵を与えられ、ついに大臣の職務に就かせたように、迫害される信仰共同体の群れにも、同じく神の恵みが豊かに与えられるという幻を語ろうとしたのであろう。
ヨセフがエジプトに売られるという出来事は、実は父ヤコブや兄弟たちを飢えから救い出すため、神によって備えられていた出来事だったと聖書は示している。しかも、こうして長い間にわたって断絶していた家族の関係が、最後は和解によって回復された。このような大いなる恵みの成就に至るまで、ヨセフは一人、複雑な紆余曲折を経て、暗黒の谷を歩まねばならなかった。だが、神はこのような苦しみをも益とし、人間の思いをはるかに越えた神の御計画の中に組み込まれ、神の御心である愛の御業を成し遂げられるのだ。
説教:「天を仰いで、星を数えてみなさい」
聖書朗読:創世記15章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師
アブラムは、もうおじいさんと呼ばれるくらいの歳になってから、神さまのお言葉に従って旅に出ました。アブラムの奥さんのサライももうおばあさんです。でも、おじいさん、おばあさんと言っても、二人には子どもがいませんでした。自分たちの跡継ぎがいなかったのです。だから、アブラムは自分たちの跡継ぎは、召し使いであるダマスコのエリエゼルという人がなるものだと思っていました。
ところがある日、神さまはアブラムにこんな約束をなさいました。「あなたから生まれる子どもがあなたの跡を継ぐのです」。そして、神さまは星がとてもきれいな夜に、アブラムを外に連れ出して言われました。「天を仰いでみなさい。あなたはあの空の星を全部数えることができますか?あなたの子孫は、あの空の星のようにたくさんになるでしょう」。
アブラムは、夜空を見上げました。そこには、本当にたくさんの星がありました。そして、アブラムは夜空を見ながら、神さまのことを思いました。この数え切れないほどたくさんの星は、ひとつ残らず神さまがお創りになったものだ。そして、星はこんなにたくさんあるけれど、どれもみんな神さまがお決めになった場所にいつもちゃんとある。こんなすばらしい夜空をお創りになった神さまが子孫のことを約束してくださったのだから、もう心配することなんて何もない。アブラムはそう思うと、神さまを信じる心がどんどん強くなっていきました。
アブラムは、空一面に広がって輝いている数え切れないほどたくさんの星を見ながら、神さまの約束を信じました。アブラムは、神さまが約束してくださったのだから、もう何も心配することはないという思いになって、とてもうれしくなりました。でも、うれしかったのは、アブラムだけではなかったと思います。きっと、神さまもアブラムが信じたことを大変喜んでくださったことでしょう。
皆さんも、誰かに約束をしてもらったことがあると思います。でも、よく知らない人から、「あなたにこうしてあげるよ」と約束されても、「本当かなあ?」と思いますよね。ちょっと信じられないと思います。それでは、約束してくれたのがあなたのお父さん、お母さんや仲良しのお友だちだったらどうでしょうか。もしそうだったら、その約束のことをしてもらう日がずっと先だったとしても、約束してくれたというだけでうれしくなると思います。そして、約束してくれた人たちも、喜んでいるあなたのことを見て、「きっと約束守るからね」と、とても喜んでくれると思います。
「信じる」ということは、そのようにまだ起こっていない先のことを、もう起こったことのように喜ぶことです。そして、もっと大事なことは、約束を信じるのは、その相手が誰でもよいのではなくて、「あの人が約束してくれたのだから」という思いをもって信じることです。
アブラムは、「主を信じた」と言われています。それは、「あのお方が約束してくださったから」、つまり神さまの約束だからということでアブラムは信じたのです。そして、そのような思いで神さまを信じたアブラムを、神さまは「それでいいんだよ」と言って、優しく導いてくださるのです。神さまにそのように言っていただけるのは、何よりもうれしいことです。
説教:「モーセを用いられる神」
聖書朗読:使徒言行録7章17〜29節
説教者 : 北川善也牧師
ステファノは、最高法院で敵意と憎悪に駆られた人々を前に、ただ一人立ち大胆に語った。彼は、福音の真理を守るために命を懸けた。そんな彼の「顔はさながら天使の顔のように見えた」(6:15)と言われているように多くの人々の心に焼き付けられたことだろう。
ステファノは、「信仰と聖霊に満ちている人」(6:5)で、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6:8)が、彼がその賜物を用いて活動する度に彼の反対者が現れてきた。だが、彼らはステファノと議論しても歯が立たないので、人々を唆して「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と証言させ、彼を最高法院に突き出した。
この訴えに対してステファノが語り始めたわけだが、彼はここで自分の身を守るための言葉は一切述べず、厳しくイスラエルの罪を指摘しつつ、堂々と自らの信仰について確信をもって語っている。
ここに、十字架上で死なれたキリストにどこまでも従おうとする信仰者の姿が鮮やかに示されている。ステファノは、モーセの物語を通して、神との契約を犯すイスラエルの姿を暴き、彼らが重ねてきた罪を厳しく告発した。
モーセは、奴隷としてエジプト王にこき使われていたイスラエル民族の一員として生まれた。奴隷でありながら驚異的に人口を増大させる彼らを恐れたエジプト王は、イスラエルの男児を生後すぐ殺すよう命じた。そんな時期にモーセは生まれたが、母親は彼をパピルスの籠に入れてナイル河畔の葦の茂みに隠した。すると、それをエジプトの王女が見つけ、ふびんに思った彼女はその赤ん坊を自分の子として育てるのだ。
やがて、モーセは40歳になると重労働を課せられている同胞のイスラエル人がエジプト人から虐待されているのを見て仕返しをし、これからはイスラエルの民のために尽くす決意をする。だが翌日、彼がイスラエル人同士のケンカを見かけ仲裁しようとすると、「あのエジプト人のようにわたしを殺すのか」と言われてしまう。
このようにイスラエルの民は、エジプトにおいて絶えず試練の中に置かれてきた。そして、この民の中に生まれ、同胞の試練をたった一人で担おうとしたにもかかわらず激しく罵倒され、それでもただ神のみを信頼し、神のご命令に従って与えられた働きに遣わされていったのがモーセだった。
神によって立てられ、イスラエルの救いのために遣わされたモーセだったが、彼は人々の反抗に悩まされ孤独のうちに、ただ神のお導きのみに従って歩まざるを得なかった。ステファノは、このモーセの生き様に共感し、四面楚歌の状況にあってなお、ただひたすらキリストを仰ぎつつ、信仰者としての確信を強めていったのだ。
また、ステファノはモーセについて語ることを通して、これからどこに向かっていくのか先行き不透明な信仰共同体の歩みを映し出そうとした。自分たちが進むべき方向はどちらなのか。その道を、モーセがただ神のみに委ねつつ求め歩いたのと同じように、信仰共同体の歩みはただ十字架と復活のキリストを仰ぎつつ進められるものなのだとステファノは語る。
しかし、その歩みは決して順風満帆ではない。信仰共同体は、モーセのように苦難の道を歩まねばならないだろう。それでも与えられた命の御言葉に生き、真理の道を歩む群れは、自分たちの福音を大胆に宣べ伝えながら、たゆまずその歩みを進めていく。教会は、どんなに厳しい状況にあっても、この世においていかに少数者であったとしても、恐れることなく福音伝道の業に取り組み、その業によって主が御自分の民を増し加えてくださる喜びに与りつつ、終わりの日の希望を強めていくのだ。
説教:「神の民を導くモーセ」
聖書朗読:使徒言行録7章30〜43節
説教者 : 北川善也牧師
モーセは、イスラエル民族の一員だったが、エジプト王女に育てられるという数奇な経験をしたこともあって同胞に溶け込めず、民の導き手として受け入れられなかった(7:23-29)。彼は、エジプトの奴隷として生きる同胞と共に歩むことができず、意気消沈してミディアンの地に逃れた。
そこで羊飼いとして暮らしていたモーセは、ある日、不思議な光景を目撃する。荒れ野に生えている柴に火が付いているのに、いつまでたっても燃え尽きないのだ。その様子を確かめるため柴に近づいた彼は、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。……わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」という神の声を聞く(出エジ3:1-22)。
神はエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民の嘆きを聞かれ、彼らを救い出して乳と蜜の流れる地へ導くという彼らの父祖との間に交わした約束を実行に移そうとなさった。そして、神はそのための働き人として、同胞に溶け込めず挫折し、意気消沈したモーセを選ばれた。これは、全く人間の思いを超えた出来事だった。
そんなモーセに、神は「多くの不思議な業やしるしを行う力」を授け、イスラエルの民に対して彼が神より遣わされた者であることを証しさせた。こうして民はモーセに従い、ようやくエジプトから導き出されるに至ったのだ。
イスラエルの民は、シナイ山に辿り着き、モーセを通して神との契約の言葉である十戒を受ける(出エジ20:1-17)。それは本来、イスラエルの民を生かし導く神の御言葉に他ならなかったが、彼らはこの大切な神の御言葉を受け入れず、激しい抵抗を示した。
モーセが十戒を受けるため、一人シナイ山の頂に登っていた時、ふもとで待つ民は待ちきれず、モーセの相棒アロンに「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです」と願う(40節)。彼らは、アロンが造った金の子牛を神とし
人間という存在は、神の御手による作品であり、神は御自分が造られた人間との交わりを楽しまれる御方だ。しかし、ここでは人々が、「自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました」(41節)と言われている。これは、人々が神との交わりを放棄して、自分たちが神々であるかのように振る舞い、自分たちの自由になる世界を造り出そうとする傲慢に走っている様子を示している。人間に求められているのは、創造の当初の姿、すなわち絶えず神と向き合い、神に立ち帰って生きる神の似姿を回復することに他ならない。
しかし、神の民としての契約の言葉さえ与えられていたイスラエルは、それと真逆の方向に進もうとした。42節以下の言葉は、旧約聖書・アモス書5章25節以下の引用だが、ここで言われている「モレク」とはアンモン人という異邦人の神の名だ。彼らは、モレク神に対する犠牲として、子どもを焼いてささげていたと言われている。また、「ライファン」はアッシリアの星神の名だ。神は、子どもを焼き殺し、星を拝むような倒錯に走ったイスラエルを、今度はバビロンの囚われの民とされた。
神は、罪を悔い改め、唯一の神に立ち帰って礼拝する者にまことの救いをもたらすと約束してくださった。そして、この約束は現代を生きる我々のものでもあり、神はその約束の内実を絶えず我々に問いかけ続けておられる。