日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年1月のバックナンバーです。

2014年1月5日 新年礼拝(降誕節第2主日)

説教:「見えない事実を確認する信仰」
聖書朗読:ヘブライ書11章1〜3節、12章1〜2節
説教者 : 北川善也牧師

 見えない存在を目に見えるようにするために人間は努力をし、様々な工夫を凝らす。しかし、それがどんなに努力や工夫をしても見えない場合にはどうするだろうか。教会が信じてきたのは、実はそのようなものだ。教会が歴史を通して受け継いできたのは、イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の救いを信じ抜く信仰に他ならない。そして、この信仰は歴史を越えて、終わりの日まで受け継がれねばならない。

 その意味において、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」の御言葉は、我々の信仰生活の具体的な指針となる。現代社会において、生きる上で本当に頼るべきものを知らず空しさの中を漂うようにして生きている人々がいる。誰かを傷つけることによって心の渇きを埋めようとして、さらに深いところに落ち込んでいくような事件が続発している。このような現実においてこそ、我々は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰に生きるべきだ。

 我々の命は、神の子として生きることを望まれている命だ。だから、この命はやがて消えていく財産や名誉を拠りどころとするのではなく、神による救いの確かさ、神が与えてくださる恵みの豊かさに信頼を置くことによって初めて本当の光を放つようになる。

 我々は、目に見えるものはすぐに信じるが、見えないものは信じようとしない。見えないものを信じる思いというのは、我々の中から自然には出てくるものではない。トマスに対して主イエスが言われたように、「見ないのに信じる者になる」ということは、人間の努力で出来ることではないのだ。では、どうすれば見ないで信じる者になることが出来るのか。

 この世の闇は深く、この世の恐れや悩みの氷は分厚く張り詰めている。しかし、我々はその厚い氷の表面を見るのではなく、深いところに目を留めたい。冷たい闇のような世界のただ中に、確かに神の御子が来られ、我々のために救いの御業を成し遂げてくださった。厚い氷の下にも確かな水の流れがあるように、この世の闇路にも確かに神の愛が注がれている。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:1-5、口語訳)。

 人間は皆、自分がどこに向かって歩いて行けばよいのか、心の底から満ち足りた気持ちを得るためにはどうしたらよいのかを探し求めるのが目的であるような人生を送っている。我々は、世の中に溢れかえるほどのものや娯楽に囲まれて暮らしているが、そのような人間が作り出したものの中から一時的ではない本当の平安を与えるものを見出すことは不可能だ。

 すべての人に何よりも確かな平安を与えるため、イエス・キリストはこの世に来てくださり、信じる者たちと世の終わりまで共にいると約束してくださった。我々は、この御方と教会で献げる礼拝において、いつでも出会うことが出来る。教会のかしらとなってくださったイエス・キリストが、我々一人一人のためにそのような場所を与えてくださったことに感謝しつつ、この御方を求めつつも出会えぬまま人生の迷路に迷い、もがき苦しんでいる多くの人たちをこの御方との出会いの場に導くことが我々に託されている伝道の働きに他ならない。この新しい年も共に力を合わせて伝道の業に取り組みたいと心から願っている。

 

2014年1月12日 オール洛北礼拝

説教:「たからものをささげます」
聖書朗読:マタイ福音書2章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 ユダヤの国から遠く離れた東の国に、占星術の学者たちがいました。彼らは、星の動きを調べて人々の運命を計り、将来について予言したり、占ったりする仕事をしていたようです。今も日本で見かけますが、星占いで「あなたは将来こうなる」と言われると、それを信じる人たちがいます。

 誰でも、自分の将来はどうなるのかと考えると不安になります。将来のことだけでなく、そもそも自分はなぜ、何のために生まれてきたのか、その意味や目的を知りたいと思います。この、わたしたちが何のために生きているのかという問題の答えは、すべてのものを造られた神さまだけがご存知です。だから、わたしたちは神さまのみそばに近づかなければ、その答えを知ることができません。

 でも、東の国の人々は本当の神さまを知りませんでした。そこで、学問や当時の先端技術を使って星の動きを調べ、星の動きから自分たちの運命を計ったり、生きる意味を見出そうとしたり、将来を見通そうとしたりしたのです。

 その学者たちが、空に輝く不思議な星を見つけました。それは、神さまのことを知らない人たちに、すべての人の救い主としてやって来られるイエスさまの誕生を知らせるために神さまが用意された星でした。彼らは、その不思議な星が自分たちを真の救い主のところに導いてくれると信じて出発したのです。それは、当時の人にとっては命がけの旅でしたが、学者たちは行かずにはいられませんでした。なぜなら、彼らは星占いのような人間の考えからは決して得ることができない、本当の喜びと希望を求めていたからです。

 はるばる東の国から救い主を探して旅してきたという学者たちの話を聞いたユダヤの王ヘロデは、とても不安になりました。ヘロデは、ユダヤの国で一番偉い王である自分がいつでも威張っていたかったのです。周りの人たちに自分の言うことだけ聞いてほしかったのです。だから、ヘロデには他の誰かが自分より偉いなんて考えられないことでした。わざわざ東の国からユダヤ人の王が生まれたと言って拝みに来た学者たちは、自分ではない他の誰かを拝みに来たのです。その誰かを放っておくわけにはいきません。「見つかったら、知らせてくれ。わたしも行って拝もう」とヘロデは言いましたが、その子どもを早く見つけて殺してしまおうと考えたのです。

 学者たちは、エルサレムで祭司長や律法学者たちから、「救い主はベツレヘムから現れる」と預言されていることを教えられました。「預言」は神さまの約束の御言葉です。彼らは、神さまの約束を信じてベツレヘムを目指しました。すると、また不思議な星が現れて彼らを導きました。彼らは、その星を見て、「この星がわたしたちを救い主のお生まれになったところへ連れて行ってくれる」と確信することが出来ました。

 ついに星はイエスさまがおられる場所の上に止まりました。その馬小屋の飼い葉桶の中で眠っているイエスさまにお会いした学者たちは、イエスさまをひれ伏し拝みました。今、わたしたちがしているように小さな馬小屋で礼拝をしたのです。それは、世界で最初の礼拝でした。そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、もつ薬を献げました。これは、学者たちがイエスさまを本当の救い主として心から敬っていたしるしです。彼らは、本当の神さまを知りませんでしたが、不思議な星に導かれてはるばる旅をし、神の御子イエスさまにお目にかかることが出来たのです。彼らにとって、これ以上大きな喜びはありませんでした。だからこそ、彼らは自分たちが持っていた一番高価な宝物を献げて、その喜びを表わしたのです。

 

2014年1月19日 降誕節第4主日

説教:「迫害者サウロの回心」
聖書朗読:使徒言行録9章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師

 サウロは、学問の町タルソス出身のユダヤ人で、律法厳守を旨とするファリサイ派に属する若き律法学者だった。彼は、ユダヤ教を守るため、当時エルサレムで伝道を開始したばかりのキリスト教を徹底的に弾圧し、滅ぼさねばならないと考えていた。だから、サウロは伝道者ステファノの殺害に賛成であったし、キリスト者の集会所を破壊し、そこにいた人々を一人残らず捕らえて牢獄に送るという働きに積極的に関わっていた。

 「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」(1節)。彼は迫害者としての勢いをますます強め、ダマスコのキリスト者弾圧へと向かった。彼がそこに狙いを定めたのは、イスラエルと地中海世界を結ぶ貿易の玄関口であるダマスコでキリスト教の教えに歯止めをかけねば、海を越えて至るところに広がっていくと恐れたからであろう。

 ともかくサウロはキリスト者を捕らえ、引き連れていくための兵士たちを伴い意気揚々と旅していた。そんな一行を突然まばゆい光が襲い、それをまともに見たサウロは地面に倒れ伏した。彼は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼ぶ声を聞く。

 サウロのキリスト者弾圧は、彼らが神の戒めである律法から外れた生活をしているのを懲らすためだった。つまり、彼は、ユダヤの伝統的な教えを守るためにそのような行動を取っていたのだ。それゆえ、自分は神に代わってキリスト者を成敗しているという思いであったサウロは、「なぜ、わたしを迫害するのか」という天からの呼びかけに激しく動揺した。

 サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、さらに予想外の答えが返ってきた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」というのだ。こうして、彼は自分がこの世から消し去ろうとしている教えの根源、イエス・キリストとの出会いを衝撃的な仕方で経験する。それは、これまで律法だけを人生の柱として生きてきたサウロの心の奥深くに救い主の手が触れられた瞬間だった。

 このようにして主イエスと出会った瞬間、サウロはそれまでと全く異なる存在に変えられた。それまでのサウロは、律法学者として人々の前で寸分の隙もないほど完璧な態度を貫くことが出来る自分自身を誇りとしてきた。律法が最も権威を持つこの世の優等生であることに最大の価値を見出してきたのがサウロだった。しかし、そのように自信家で、野心的かつ活動的だった彼が、この出来事によって見ることも食べることも飲むことも出来ない、全く無力な存在とされてしまったのだ。

 サウロが生きてきたのは、目に見えるもののみに価値を置く世界だった。そのような「見える世界」でなければ通用しない価値観の中で、精一杯力を発揮してきた彼にとって、見えなくなるということは自分のこれまでの歩みが根底から覆されるような経験だった。

 我々はこの出来事を通して、主イエスを救い主として受け入れるという信仰体験が、人間の内側から、その人自身の努力や訓練の積み重ねによって起こってくるようなものではなく、主イエス御自身が我々に一方的に近づいてくださることによって与えられるものであり、人間の側ではそれがいつ起こるか予測することすら出来ないのだということを知らされる。そして、このような回心が与えられた時、人間は自分の力に依り頼んで生きていくというような自信に満ちあふれた思いとは真逆の、すべてを母親に委ねて生きる赤ん坊のように自分の無力さを自覚する存在に変えられていくのだ。

 迫害者サウロは、この経験を通して「伝道者パウロ」へと生まれ変わった。この出来事には、神の御力がはっきりと示されている。

 

2014年1月26日 降誕節第5主日

説教:「わたしが選んだ器」
聖書朗読:使徒言行録9章10〜19節a
説教者 : 北川善也牧師

 ダマスコの町に、当時活動を開始したばかりのキリスト教会の指導者アナニアがいた。ある日、彼に幻を通して主の御言葉が与えられた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ」(11節)。

 この言葉は彼を大いに戸惑わせた。サウロは、彼らにとって敵である迫害者に他ならなかったからだ。だが、主の御声は続けて次のように告げた。「今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(12節)。

 アナニアは、出来ることならサウロと出くわしたくなかったから、それが主の御命令とはいえ素直に受け入れられなかった。そして、それがいかに理不尽な御命令かということを主にお伝えして回避しようと試みた(13-14節)。

 だが、主はすべてを御存知の上でサウロに近づくようアナニアに命じられていた。キリスト者弾圧のためダマスコへ向かう途中、突然の閃光によって視力を失ったサウロは、そこで予想もしない仕方で主イエスとの出会いを経験し、主の救いをひたすら待ち受ける人間に造り変えられていたのだ。

 主は力強くアナニアに命じられた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)。彼は、つい先程まで自分たちの敵だった人間が、福音伝道者に変えられたことを信じられなかったが、そのことを明確に告げられる主の御言葉に圧倒されてしまった。

 アナニアはサウロと会い、「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)と呼びかけ、サウロの上に手を置いた。すると、彼の目からうろこのようなものが落ち、たちまちいやされたが、それは肉体的な視力の回復にとどまる出来事ではなかった。

 「サウロは元どおり見えるようになった」(18節)の「元どおり見える」と訳されているギリシャ語は、「視力を回復する」の他に「見上げる」という意味も含む。つまり、サウロはこの世のものが見えなくなることによって初めて、それ以外見る必要のない、本当に見るべき真の救い主だけを見上げることが出来るようになったのだ。

 サウロは、律法の専門家として、ひたすら律法に忠実な生活を貫くことが出来る自分を誇りとして生きてきた。だが、彼は目が見えなくなることによって、自分が律法の指し示す「すべては神の御支配の下にあり、人間の営みのすべては神の御計画のうちにある」という本質を見失い、律法そのものを人生の柱とするような本末転倒に陥っていたことに気付かされた。

 聖書は、生活のあらゆる場面において、神をあがめ、神を愛し、神の御心に従うよう我々に教えている。だが、現実的に我々がそのような生活を貫くことは困難であり、我々はそのような生き方から逃げ出そうとさえしてしまう。

 神は、そんな我々に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と呼びかけ、捕らえてくださる。我々が自力では近づけなくとも、主の方から我々に近づき、共に歩んでくださるのだ。

 時に主は、サウロに対してなさったように、人間の想像をはるかに超えた仕方で御自分との出会いを与えてくださる。この出会いによって、我々は十字架の意味を知らされ、それを自らの信仰の核として捉えられるようになる。主は、こうして我々を神の器として造り変え、一人一人の賜物を豊かに用いて主の道具としてくださる。

 

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