日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年2月のバックナンバーです。

2014年2月2日 降誕節第6主日

説教:「サウロとダマスコの人々」
聖書朗読:使徒言行録9章19b〜25節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、これまで多くのキリスト者を捕らえ、縛り上げて、兵士たちに連行させていた。そんな彼が、ある日突然、イエス・キリストとの出会いを与えられ、回心へと導かれた。他の誰もこの時パウロの心の中で起こった出来事を知る者はなく、回心後のパウロの行動は、彼が属していた迫害者側のみならず、新しく加わることになった信仰者側にも理解されることなく、彼は一層苦しい状況に身を置くこととなった。だが、「サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた」(22節)という。

 パウロは、律法の専門家集団の中でもエリートと言われていたファリサイ派に属し、律法の書を含む旧約聖書に精通していた。彼は、そこに書かれていることを主イエスの公生涯の歩み、そして十字架における死と復活の出来事と結びつけ、主イエスによって成し遂げられた事柄はすべて聖書に預言されていた出来事だと人々に教えることができた。彼の律法学者として身に着けた深い知識は、こうしてそれまでとは全く逆の形で豊かに用いられていく。

 一方、かつてパウロの仲間だったユダヤ人たちは、彼の裏切りに怒りを燃やし、彼を殺害するための相談を始めた。それは、ちょうど彼らがかつて大勢の人々にキリストの福音を告げたステファノを石打で殺したのと同じ状況だった。しかも、ステファノの時には、パウロ自身もその殺害に賛成していたのだ。ごくわずかな時間のうちに、一人の人間に起こったこれほど大きな変化に驚きを覚えずにはいられない。我々は、ここで改めてパウロの身に起こった出来事に、人間には到底はかり知ることのできない大いなる力が働いていることを思い知らされる。

 パウロは、ダマスコの町で主の弟子アナニアによっていやされたが、そうして健康を回復した彼はもはや元の彼ではなく、新しく生まれ変わった人間になっていた。数日間静養した後、パウロはダマスコのいくつかのユダヤ教の会堂を訪ね、「イエスこそ神の子である」と告げつつ巡回したのだ。

 そこにいた多くの人々は、パウロの口から出てくる言葉が、かつての彼とは似ても似つかないものであることに大いに驚いた。だが、その中の何人かはパウロの弟子となり、彼と行動を共にするようになった。短期間でこのように弟子が与えられたことは、パウロのダマスコ伝道が大変実りあるものだったことを示している。

 パウロの弟子たちは、ステファノの悲劇をもう一度繰り返さぬよう、懸命に知恵と力を尽くして彼を守る働きに努めた。「サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした」(25節)。

 主イエスに従う者として回心したパウロは、キリストの御名を運ぶ器としての活動を開始すると同時に、キリストの御名のために自分がどれほど苦しまねばならないかを身をもって味わうこととなった。しかし、これは最初から主がアナニアを通して告げておられた苦しみであり、それがどんなに厳しいものだったとしても、主が既に知っておられる、主の担われた苦しみに他ならなかった。それゆえ、今パウロの身に起きている苦しみも主の御守りのうちにあるものであることは確実だった。それを知ったからこそ、パウロはすべてを委ね、命懸けの伝道旅行に、喜びと希望をもって三度にわたって赴く力を与えられるのだ。

 このように、キリストに捕らえられた人間の歩みには、どんな苦難があろうとも、決して喜びと希望が尽きることはない。我々は、この約束に真の、そして究極の慰めを見出すことができる。

 

2014年2月9日 降誕節第7主日

説教:「聖霊による慰め」
聖書朗読:使徒言行録9章26〜31節
説教者 : 北川善也牧師

 これまでキリスト者迫害に全勢力を注いできたパウロが、突然真逆の福音伝道者になったことは、誰の目から見ても信じられなかった。「サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた」(22節)。

 パウロは、当然キリスト者からも受容されず、伝道活動継続は困難だったが、彼の証しによって信仰者が生まれ、彼と行動を共にする弟子たちさえ与えられていった。そして、そんな彼らが裏切り者の命を狙う存在からパウロを守り、夜の間に籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろすという方法で彼をダマスコから脱出させた。

 こうしてダマスコを離れたパウロはエルサレムに赴くが、その目的はそこの教会にとどまり続ける主の直弟子と会うことだった。

 だが、そこでも当然ながらパウロは警戒の対象であり、「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(26節)。パウロは孤立したが、ダマスコ途上で光を受けて倒れ、視力を失った彼をいやすためにアナニアが遣わされたように、また回心後、ダマスコ伝道を開始することによって命を狙われるようになった彼を守るために弟子たちが与えられたように、エルサレムでも彼の強力な援助者が現れる。

 パウロの回心を信用できない人々に対して、バルナバが執り成し手となった。彼は、かつて信仰共同体のために全財産と思しき土地を売って得た代金を使徒たちの足もとに置いた(4:36以下)。皆から信頼されていたバルナバが、パウロと使徒たちの間に立ち、ダマスコ途上で起こった出来事やその後の回心について証ししたのだ。

 バルナバの説得によって、パウロは使徒たちの仲間に入ることを許されただけでなく、エルサレムでもすぐ「主の名によって恐れずに教えるようになった」(28節)。ここで注目すべき点は、パウロが「ギリシア語を話すユダヤ人」にも直接福音を宣べ伝えたことだ。

 律法遵守主義のファリサイ派でエリートだったパウロは、律法を徹底的に貫くため、その敵対者と見なしたキリスト者を厳しく弾圧した。そんな彼がかつての仲間に「イエスこそ神の子である」と告げたのだ。ここに主がアナニアに告げられた言葉が実現していく。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(9:15-16)。

 それは同時に、十字架の死から復活された主が、昇天される直前に告げられた約束が開始された時でもあった。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:7-8)。

 以前、ステファノの殉教をきっかけとしてエルサレム教会に大迫害が襲った時、信仰者たちはユダヤ地方やサマリア地方に逃げ去った。だが、彼らはただ逃げただけではなく、そこに教会を建てて信仰生活を継続し、北の方にまで教会を広げていった。パウロの回心によって再び教会に対する逆風が強まり、彼は生まれ故郷タルソスに退くが、それが主の約束をさらに前進させていくことになる。

 主の約束によって建てられた教会において御言葉に聴く者たちを、主は豊かに祝福し守り導いてくださる。たとえどんなに困難な状況であろうとも、もうこれ以上進めないとしか思えない強烈な逆風にあっても、御言葉にとどまる者たちを主は確実に前進させてくださる。だから、我々は主にすべてを委ねて従うだけでよいのだ。

 

2014年2月16日 降誕節第8主日

説教:「キリストによるいやし」
聖書朗読:使徒言行録9章32〜35節
説教者 : 北川善也牧師

 人間は、病気や死の問題に直面した時、立ち尽くすしかないような思いを経験する。時には、そのような経験が人間を押しつぶし、立ち上がれないほどの状況に追い込むことさえある。

 病気や死を通して人間は確かに大きな束縛を受ける。それによって希望や自由を奪われてしまうからだ。しかし、教会はそういう束縛から人間を解放する大いなる力の源を知っている。

 ペトロは、リダの町にいる「聖なる者たち」のところに行った。ステファノの殉教によって巻き起こった迫害後もエルサレムの最初の教会にとどまり続けたペトロは、あくまでもそこを拠点として他の地域にできた教会を問安するというスタイルを取っていたようだ。彼は、そこでアイネアという一人の男性と出会う。

 アイネアは、体が麻痺して動けなくなる難病を患い、8年間寝たきりの生活を送っていた。彼は外出することもできず、希望や自由を奪われた状態だったのだ。

 そんな彼に対して、ペトロは次のように言った。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」(34節)。この時、ペトロは「あなたは、新しい人生を歩き始めなさい」と告げたのだ。人間がそのような歩みを開始するにあたって決定的に必要なのは、「キリストによるいやし」だ。

 キリストによるいやしは、人間を表面的に励ましたり、一時的に元気づけたりするものではない。キリストは、神の御子としてこの世に来られ、神を知らずに自分の力で必死になって生きようとするすべての人間を真の救いへと導くため、十字架にかかって死んでくださった。神の御独り子が、神と向き合えない、いや向き合おうとしない人間の罪を、その死をもって滅ぼしてくださったのだ。キリストは、この十字架の贖いをもって、罪の力でがんじがらめにされた人間に完全な自由と希望をもたらされた。これこそが、キリストによるいやしに他ならない。

 ペトロは、かつてエルサレムの「美しの門」で、生まれながらに足の不自由な男をいやした時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6b)と告げた。これは、ペトロがキリストによる真の救いを願い求めた祈りの言葉であり、この時、キリストの御名によって願う祈りは必ず聞かれるという主の約束が成し遂げられたのだ。

 アイネアにも、祈りによってその約束が成し遂げられた。寝ているしかなかった彼が御言葉によって新しくされ、それまでとは全く違う人生を歩み始めた。「自分で床を整える」ということは、彼にとって今まで何でも他人にしてもらっていた人生、人から何も出来ない人間だと評価されていた人生をひっくり返し、自分で自分の人生を切り拓いていくという生き方に転換させられる経験だった。

 一人の人間が古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分へと変えられていくという転換を起こさせる力を、主の御言葉は持っている。キリストの御名によって語られる言葉は、それを聴いた人の中で生きて働く力となる。「キリストによるいやし」とはそういうことだ。

 二千年前、ペトロがリダの町でアイネアに対して、「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と告げた言葉は、生きて働かれる神の御言葉に他ならない。御言葉は、それを聴く者に染み渡り、その人の中で生きて働いて真の救いへと導く力となる。

 このように生きて働く神の御言葉を聴き取った時、「イエスは主である」という信仰が生まれる。絶えず神の御言葉に聴き、御言葉を我々の奥深くまで染み渡らせるような礼拝を共に守り続けよう。

 

2014年2月23日 降誕節第9主日

説教:「死者への祈り」
聖書朗読:使徒言行録9章36〜43節
説教者 : 北川善也牧師

 ヤッファの町にタビタという女性がいた。彼女はこの町の教会で、「たくさんの善い行いや施しをしていた」(36節)。タビタは、特に夫に先立たれ頼るべき身寄りもいないやもめたちのために衣類を作って与えるという奉仕の業に愛をもって取り組んでいた。

 そんなタビタが突然死んでしまい、教会全体を深い悲しみが覆った。タビタの体は清められ、階上の部屋に安置された。高さのある部屋は風通しが良いからということもあったろうが、何より少しでも神の御業が行われる可能性のありそうな場所に置きたかったのかもしれない。旧約聖書・列王記に、預言者エリヤが階上の部屋で子どもを生き返らせる奇跡を起こした出来事が記されているが、人々はタビタにもそのような神の御業が臨むことを願ったのだろう。

 彼らは、可能な限り状況を整えた上で主の弟子ペトロを呼び求めた。彼らのところにも、ペトロがリダの町で中風の人をいやしたという話が届いていたのだ。

 彼らは、タビタの死をあきらめきれなかった。その強い思いが、彼らの送った二人の使者たちの言葉に表れている。「(何も言わずに)急いでわたしたちのところへ来てください」(38節)。彼らの思いを察したペトロは、何も知らされぬまま一路ヤッファへ向かった。

 到着したペトロは、すぐにタビタが安置されている階上の部屋へと案内された。そこでやもめたちは、タビタが生前作ってくれた衣類の数々をペトロに示して嘆き悲しんだ。彼女たちのあまりに大きな悲しみに触れたペトロは動揺したのかもしれない。死んだタビタと静かに向き合うため、ペトロは他の人たちに部屋から出てもらい、一人ひざまずいて神に祈り始めた。今、自分が直面している問題は、祈りなしには取り組めないものだということを強く自覚したのだ。そして、祈り終わるとペトロは遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と呼びかけた。

 この時のペトロは、まるで親がベッドで眠る我が子を起こすような態度だ。このことは、かつて主イエスが会堂長ヤイロの娘を死の床から起こされた時、「少女よ、起きなさい」と呼びかけられた出来事を思い起こさせる(マルコ5:21以下参照)。実際、ペトロが言った「タビタ、起きなさい」はアラム語で「タビタ、クム」となるが、主が少女に言われたのは「タリタ、クム」という言葉だった。

 ペトロは、主がこの奇跡の業をなさった時、すぐ近くにいて主が語られたこの御言葉をはっきりと聞いていたはずだ。そして、ペトロは自分の心の奥深くに刻み込まれていた主の御言葉によってタビタを死の世界から取り戻し、聖なる者たちのところに返したのだ。

 タビタをよみがえらせた後、ペトロが教会の人々を呼んで彼女に会わせると、人々は驚くと同時に大いに喜び、自分たちが目撃したことをヤッファの町中に告げ知らせた。この伝道の働きを通して、ヤッファの町の人々は人間を本当に生かすことの出来る御方、人間の死という限界を突き破り、真の命を与えてくださる御方を信じる信仰へと導かれていくのだ。

 人間は、死の出来事を通して大きな喪失感と共に激しい悲しみを経験する。それは、死がすべての終わりであるという認識によって起こる感情だ。しかし、教会は死を通しても喜びと希望を豊かに語ることが出来る。我々の主イエス・キリストが御自分の十字架における死をもってすべての人間の罪を滅ぼし、罪ゆえの死という裁きをも完全に取り去ってくださったということを知っているからだ。

 主の御言葉こそ、人間を真に生かし導く命の源だ。そして、それと触れることによって与えられる希望が人間の悲しみを本当の意味で取り去り、喜びで満たすのだ。

 

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