日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年3月のバックナンバーです。

2014年3月2日 降誕節第10主日

説教:「百人隊長コルネリウスの信仰」
聖書朗読:使徒言行録10章1〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロは、タビタを死からよみがえらせる奇跡を行った後も、革なめし職人の家で世話になりながら港町ヤッファにとどまり続けた。ヤッファ旧市街には、「革なめし職人シモンの家」とされる建物が現存する。研修旅行でここを訪れた時、クリスチャンの添乗員は次のように言った。「牧師がイスラエルの旅を始めるのにヤッファほどふさわしい場所はない。旧約のヨナは、神から『伝道せよ』と命じられたのに、ヤッファから逃れの旅に出て大変な目に遭うが、そのことを通して神の働きへと召されていった。新約のペトロは、ヤッファの革なめし職人宅に滞在中、ローマ軍百人隊長の使者の訪問を受けて本格的な異邦人伝道を開始した。このようにヤッファは伝道者の出発点だから」。

 コルネリウスは、「イタリア隊」と呼ばれるローマ軍部隊の百人隊長だった。彼の連隊は、ヤッファの北50キロほどに位置するカイサリアが駐屯地だった。ここは、ローマ帝国が派遣する歴代のユダヤ総督公邸が置かれ、ユダヤの重要都市だったので、そこには精鋭部隊が配置された。このことからコルネリウスは百人隊長として大変優秀だったことが推察される。

 彼は、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(2節)と言われている。ここで「信仰心あつく」と訳されている言葉には、「よく礼拝する姿勢」というニュアンスが含まれる。つまり、彼の信仰はよく礼拝する姿勢において示されていたのだ。

 コルネリウスは、イタリア出身の異邦人でありながら、律法に従い、神に祈りを献げ、貧しい人々に施しを行って絶えず神の喜びを探し求めていた。彼は、そのように神を畏れる生き方を自分一人のものとせず、家族全員にそのような生き方がいかに大切であるかを説き、家族と共に信仰生活を守っていた。全員異邦人である百名の部下を従えていたことを思えば、彼の生活態度は相当大胆だったと言えるかもしれない。

 そのような信仰者だった彼が、その日三度目の祈りの時を覚えて熱心に祈りを献げていた時、天使の声を耳にする。彼が見聞きした天使の幻は、彼の祈りに応えて迫ってきた神の御声だった。

 天使はコルネリウスに、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」(4節b)と告げた。神は、彼の祈りや貧しい人々への施しを御自分に対する献げものとして受け入れられた。それは、彼が生活のあらゆる場面において神と向き合う真実な礼拝者として認められたということだった。神は、そんな彼に福音の真理を示すべく伝道者との出会いを備えられる。

 コルネリウスは、「今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている」(5-6節)との御言葉を受けるとただちに行動を開始し、「二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った」(7-8節)。彼は、使者にも自分と同じ「礼拝者」を選んだ。彼らは、共に祈ってからこの行動に移ったことだろう。

 ところで、彼がカイサリアで祈っていたのと同じ頃、50キロ離れたヤッファにいたペトロも屋上で祈りを献げていた。ここには、人々が祈りを合わせるところに神の御言葉が備えられ、それに与った者がまたそれを広めていくという伝道のビジョンが示されている。

 神への祈りは、決して孤独なものではない。孤独に祈っているとしか思えないような時も、どこかに必ず同じように祈っている人がいる。神は、そのような祈りの友を人間の思いをはるかに越えたところから与えてくださる。

 

2014年3月9日 受難節第1主日

説教:「神が清めたもの」
聖書朗読:使徒言行録10章9〜23節a
説教者 : 北川善也牧師

 ローマ軍「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスは、熱心な信仰者だった。彼のところにある日突然、神の天使が現れ、今まで一度も会ったことのない主の弟子ペトロのもとに人を送って彼を招くよう命じた。彼は、畏れを抱きつつもその言葉を素直に受け止め、すぐ信頼できる部下を派遣した。

 一方のペトロは、コルネリウスがいるカイサリアから約50キロ離れたヤッファの革なめし職人シモン宅に滞在していた。ペトロは、昼の祈りのため屋上へ上がると不思議な幻を見る。それは「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来る」というもので、「その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入って」(11-12節)いた。

 ここで挙げられた動物の種類は、当時独特の表現ですべての動物を指していた(創世記6:20参照)。幻と共に響いた声は、ペトロにそこにいるあらゆる動物を屠って食べよと命じた。しかし、彼は即座に「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(14節)と拒んだ。

 ユダヤ人は、律法の食物規定を守っている自分たちを清い存在と捉え、この掟を知らずにどんな動物でも食べてしまう異邦人を穢れた存在として忌み嫌っていた。

 ペトロの先の反応はこの考えから来ていたのだが、これに対して「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15節)という御声が三度続く。ペトロは、この「三度」の繰り返しに大変関わりが深い人物だ。

 かつて彼は、主イエスが十字架につけられる裁判を受けている間、その近くでたき火を囲む人々に紛れて様子を伺っていた。ところが、人々が彼を見て、口々に「お前もあの男の仲間だ」などと騒ぎ出すと、彼は三度にわたってそれを否定した(ルカ22:54以下参照)。

 主への自らの裏切りに深く傷ついた彼は、主の十字架を見届けることも出来ず故郷ガリラヤへ戻って家業の漁師をしていた時、復活の主と出会う。主に会わせる顔もない彼のところに主の方からやって来て、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言葉をかけられた。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えると、主は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われる。このやり取りは三度繰り返された(ヨハネ21:15以下参照)。

 主は、御自分を三度知らないと言ったペトロの心に残った深い傷をいやすため、弟子としての誓いを三度彼に言わせて、再び主の弟子として立ち上がるために必要な力をお与えになったのだ。

 今回ペトロは、神が清いと言われたにもかかわらず、その御言葉に逆らって人間が清くないなどと言ってはならないと戒める御声を聴くが、それが三度繰り返されることによって彼の中で凝り固まっていた古い価値観が溶かされ、全く新しい使信を携えて伝道の働きに向かうための力となった。

 この時点でペトロにはまだわかっていなかったことだが、実は彼に与えられた御言葉は、「お前が清くないと決めつけている異邦人も神の救いの対象なのだから、彼らにも福音を宣べ伝えに行け」という神の伝道命令だったのだ。

 この時、常に先を行くのは人間ではなく神であり、すべては神の御計画のうちにあるということが、御言葉を通して示された。しかし、主の一番弟子ペトロでさえ何度も繰り返されねば、そのことを理解することが出来ない。

 我々に求められているのは、ただひたすら神の御言葉に聴き従うことに他ならない。しかも、なかなか素直に聴けない我々に対して、神は何度でも御声をもって忍耐強く教え導いてくださる。

 

2014年3月16日 受難節第2主日

説教:「神の招きに応える人々」
聖書朗読:使徒言行録10章23b〜33節
説教者 : 北川善也牧師

 ローマ軍「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスが派遣した三人の使者たちが、カイサリアの町からヤッファに滞在中のペトロのもとへやって来た。ペトロは、彼らを自分の宿泊先である革なめし職人シモンの家に迎え入れた。

 彼らは、互いに自分たちの身に起こった出来事を語り合ったことだろう。そして、その翌日彼らは共に旅立ち、その次の日カイサリアに着いた。この旅には、ペトロの「ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った」(23節)。彼は、カイサリア訪問を自分だけでなく、ヤッファ教会の信徒たちと分かち合うべき出来事と判断したのだ。

 到着後すぐの様子は次のようであった。「ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」(25節)。「拝む」とは、元々神に向かって進み出て接吻するという意味なので、少し行き過ぎているが、コルネリウスは神の御言葉を語るペトロに最大限の敬意を表したのだ。

 そんな彼に対してペトロは、「お立ちください。わたしもただの人間です」と告げた。彼は、自分をその辺に転がっている石ころと同じような存在だと言って彼を抱き起こした。福音伝道の働きは、相手を人間的な権威によって変えようとしたり、一方的な押しつけで相手の心の扉をこじ開けようとすることではない。ここにおいて示されているように、語る者と聴く者とが互いに謙遜な思いをもって歩み寄る姿勢が必要なのだ。

 ペトロは、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」(28節)と語り始めた。彼にとってコルネリウスたちは異邦人だった。異邦人が普通に食べる食事をユダヤ人は食べず、ユダヤ人は清められた食事を取ることが律法で定められているため、従来ユダヤ人は異邦人と食事の付き合いをすることが出来なかった。

 しかし、神はペトロに幻を示し、「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」(28節)と告げられた。彼は、律法の食物規定に従わない異邦人が汚れているという「常識」を超えて、今やすべての人が救いの対象となる新しい時代が到来したということを示されたのだ。

 さらに、ペトロが彼がコルネリウスに対して、「なぜ自分をここに招いたのか」と問いかけた時の答えも彼の思いを一層深めるものとなった。「わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている』。それで、早速あなたのところに人を送ったのです」(11:30-33a)。

 コルネリウスは続けて言った。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33節)。コルネリウスは、はっきりと自分自身が意識して神の前に進み出ているのだと述べた。つまり、彼はここで自らの礼拝者としての姿勢を明確に表明したのだ。

 そんなコルネリウスの姿勢が、24節の「親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」ことや27節の「家に入ってみると、大勢の人が集まっていた」という準備をしていた彼の行動によく現れている。

 彼は、神の御前に出るからには、家族一同また親しい友人たちにも出来る限り声をかけ、皆と共に喜ばしい知らせである神の御言葉に耳を傾けたいと願っていたのだ。

 我々もこのように、主日ごとに皆と共に神の御前に進み出て、神御自身と向き合う思いをもって御声に耳を傾ける者とされたい。

 

2014年3月23日 受難節第3主日

説教:「神は人を分け隔てなさらない」
聖書朗読:使徒言行録10章34〜43節
説教者 : 北川善也牧師

 ローマ軍「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスは、家族揃って聖書の神を信じ、神を畏れ敬う生活をしていたが、異邦人であったためユダヤ人の共同体から受け入れられていなかった。しかし神は、そんなコルネリウスを導くためペトロの派遣を計画された。

 ペトロは、生粋のユダヤ人であり、生まれながらにして律法に従って生きることを基盤としている人間だった。そんな彼は、自分たちが律法の定めにより口に入れない食物を平気で食べている異邦人を汚れた存在として捉えていた。

 一方、当時のユダヤは、政治的、軍事的にはローマ帝国の支配下にあった。つまり、社会的な見地からすれば、ローマ人はユダヤ人に対して圧倒的な強者だったのだ。

 人々は、めいめいの論理で自分たちを中心に据えようとしていた。これは、古代ローマ時代に限られた状況ではなく、現代の我々も同じだ。人間は、他人の粗探しによって「あいつは駄目だが、自分は大丈夫」と言い聞かせ、自分を正当化し、人生の舞台の中心に立ち続けようとする。

 ところがそのような時、肝心なことがすっかり忘れられている。我々は、自分だけが舞台の上でスポットライトを浴びているように思っているが、神はお造りになったすべての人を愛し、すべての人に目を注いでおられるのだ。。

 それゆえ神は、律法の定めを越えて、すべてのことに先立ち、お造りになった一人一人の人間を偏り見ることなく、すべての人々の上に太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、と聖書は告げている。

 ペトロは、そのことに気付かされた。律法を知らず、割礼も受けていないため、人間の目からは神の民として認められていないコルネリウスにも、神を信じる心が与えられ、それゆえに神の御目にかなって今や異邦人が神の民として受け入れられているというしるしを、ペトロは確かに示された。

 神は、お造りになったすべての人間を愛しておられる。一人一人の命を慈しみ、一人一人に目を注いでいてくださる。だからこそ、御自分の愛する御独り子であるイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、すべての人間が神と向き合い、神の御声に耳を傾け、神の御後に従って歩むよう、十字架におかけになったのだ。

 逆に言えば、神の御子が十字架にかかり、死んでくださらなければならないほど、我々は神に背を向け、神の御声以外に耳を傾け、神以外の後を追って生きようとする存在であるということだ。

 しかし、キリストの十字架の死と、その死からの復活によって、すべての人間の罪は赦され、一人一人が神の子とされて永遠の神の御国にその命をつながれる、という約束が成し遂げられた。

 ペトロは、キリストの一番弟子だったが、その主の十字架の意味がこれほどまでに奥深いものであるということを、これまで様々な形で示されてきた神の御業を通して少しずつ理解していった。

 こうしてペトロは、神が人間の思いをはるかに越えてキリストを通して働き、今やすべての人の罪を赦し、受け入れてくださっていることを告げる者とされた。

 「罪の赦し」は、当然ながら神によって罪と定められた事柄を神御自身がお赦しにならなければ実現不可能だ。我々はこの点を忘れ、人間的判断によって罪や悪を定め、人を罪人や悪人に仕立て上げる。そして、自分が正しいとする事柄を基準にして、人間が義であるか否かを定めようとする。

 我々は、ただ主なる神の定めによってのみ罪人とされ、また義人とされる。我々がそのことを悟り、神御自身が義とされることを求め、神が悪とされることから離れて生きることができるよう願う。

 

2014年3月30日 受難節第4主日

説教:「聖霊を受け、洗礼を受ける」
聖書朗読:使徒言行録10章44〜48節
説教者 : 北川善也牧師

 ローマ軍「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスの邸内に招かれ、本人と会話を交わすことにより、ペトロは異邦人である彼が真の神との出会いを経験し、その神を信じる信仰へと導かれたことがはっきりとわかって驚くと同時に、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(10:34)という率直な思いを与えられた。

 これまでペトロは、異邦人は汚れた存在だから、彼らに神の救いについて話しても何の意味もないと高をくくっていた。しかし、神の御業によって信仰へと導かれつつある異邦人を目の当たりにすることによって心砕かれ、異邦人に向けて積極的に御言葉を語る者へと変えられていった。そして、大勢の異邦人たちの前で神の御独り子、イエス・キリストの出来事について語り始めた。

 すると、神の御言葉を聞いた異邦人たちに驚くべき変化が起こった。それは、聖霊降臨の出来事だった。聖霊は、神が上から与えて下さる「力」「勇気」「特別な賜物」などとも言い換えられる神の働きのことであり、この聖霊こそが教会を立ち上げ、成長、発展させていく原動力なのだ。

 その特別な賜物である聖霊に満たされた異邦人たちは、異言、すなわち、様々な国の言葉で神の恵みをほめたたえ、ペトロを通して示されたキリストによる救いの御業に対して感謝を表した。

 ヤッファの教会からカイサリアまで、ペトロに同行してやってきたユダヤ人キリスト者は大いに驚いた。なぜなら、ユダヤ人の常識では異邦人は聖霊を受けることができない存在だったからだ。

 しかし、神は今や、ユダヤ人には想像することさえ出来なかった、異邦人に聖霊を降すという出来事を起こされ、ユダヤ人キリスト者たちをその証人とされた。

 さらに神は、聖霊の注ぎを受けた異邦人たちに洗礼を授けるという重要な役割をペトロに託された。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47節)。

 神御自身が、洗礼を受けるにあたってのあらゆる差し障りを異邦人から一掃された。神は、誰にも変わることなくすべての人間に等しく聖霊を注ぎ、信仰への道を備えて下さる。こうして異邦人が洗礼を受け、教会の交わりの中に入れられる下地が備えられた。

 異邦人に対する洗礼は、「イエス・キリストの名によって」行われた。このことは、コルネリウスたちが洗礼を受けるにあたって、「イエスこそキリストであり、救い主である」という信仰告白をしたことを示している。

 彼らは、洗礼を受けた後も「ペトロになお数日滞在するようにと願」った(48節)。ここには、彼らが受洗後もペトロから信仰の養いを受けたいと願い、そのことを通して異邦人街であったカイサリアにキリストの教会が着実に形成されていったことが示されている。

 イエス・キリストの御名による洗礼は、教会の命だ。現在、我々が過ごしているレントは、古来、洗礼について思いを巡らせる時としても覚えられてきた。

 我々は、洗礼を受けることによって聖霊の賜物を豊に注がれ、その力に満ちた導きによって新しく与えられた使命へと力強く歩み出していく者とされる。このような力の源は、洗礼によってイエス・キリストが我々と一体になって下さることに他ならない。

 こうして洗礼を受けた者は、常に祈りつつ神の導きを受けとめ、神がそれぞれのために備えてくださる道を喜んで歩むものとなり、この世における主の証し人として遣わされてゆく。我々は、いつでも主による召しを真剣に受けとめ、お応えしていく者でありたい。

 

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