先週の説教 -バックナンバー-
14年4月のバックナンバーです。
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説教:「異邦人の救い」
聖書朗読:使徒言行録11章1〜18節
説教者 : 北川善也牧師
エルサレム教会の人々は、「異邦人も神の言葉を受け入れた」という報告を聞き、衝撃を受けた。ユダヤ人は、異邦人が汚れており、神はそんな彼らを祝福されるはずがないと考えていたからだ。
そんな彼らの中には、「割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(3節)ペトロを非難する者たちもいた。
ペトロもユダヤ人であり、彼らと元々は同じ価値観を持っていたから、ペトロ自身の判断で異邦人伝道に赴くことはなかったろう。だが、彼は人間の思いを越えて、ユダヤ人以外の人々に対しても伝道し、やがて世界中に福音が広がっていくきっかけを作るのだ。
異邦人である百人隊長コルネリウスと出会う前、ペトロは「革なめし職人シモン」の家に泊まっていた。革なめしは、律法の定めによれば汚れを帯びる仕事であり、ユダヤ人の中では差別を受ける職業だった。ペトロがそのような人の家に泊まったということ自体、彼に何か新しいことが始まりつつあるしるしだったと言える。
さらに、ペトロはその家に滞在中、律法で食べてはならないと定められている生き物を含むあらゆる動物の幻を示され、主の御声によって「それらを屠って食べよ」と命じられる出来事を経験する。
この幻は、ユダヤ人から汚れていると見なされている異邦人も、神の御目には清い存在であるということを示していた。神は、天地万物を創造された時、すべての被造物をご覧になって「極めて良い」と祝福された。人間は、本来そのような存在なのに、どうしてある人は清くて、ある人は汚れているということになるのかとペトロは神から問いかけられたのだ。
律法を越える究極的な救いの約束、福音が与えられているにもかかわらず、人間はいつも神が定められたことより、自分たちが定めたこの世の価値観ばかりに目を向け、いつの間にかそれを神の定めより上位のものにしてしまう。
神は、そんな人間をそれでもなお信仰へと導くため、特別な賜物を送ってくださることが示されている。神は、自分の意志の力では異邦人の所に赴くことが出来なかったペトロを聖霊の力によって押し出し、キリストの福音を語らせ、コルネリウスを始めとする異邦人たちに洗礼を授けさせた。
そして、ペトロは「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼ら(異邦人たち)の上にも降った」(15節)という経験をした。初代教会を形成したユダヤ人キリスト者である弟子たちが経験したペンテコステの出来事と同じことが異邦人たちの上にも起こったのだ。
こうしてキリストの福音は、ユダヤ人以外の人々にも広く宣べ伝えられ、やがて世界中に広がっていくこととなる。初め、ユダヤ人だけに語られていた福音が異邦人にも宣べ伝えられ、神による救いの約束はすべての人たちにあまねく広められていくのだ。
今日与えられた聖書が記しているのは、そのような道が神によって開かれた端緒の出来事だった。
この出来事から二千年が過ぎた今、日本の京都にいるわたしたちもキリストの福音を共に聞き、イエス・キリストが我々の傍らに立って救いの道へと導いてくださることを信じる者とされ、一つとなって礼拝を献げている。このようにして洛北教会は、百年以上にわたって福音伝道の働きを担うことを赦されてきた。このことは、考えれば考えるほど不思議な出来事だと言わざるを得ない。
ペンテコステに教会を立ち上げた聖霊の働きは、異邦人たちの上にも起こり、時代を経て最果ての地にいる我々の上にも確かに起こっている。聖霊の助けによって、すべての人を救いへと導いてくださる主の恵み深さに感謝しよう。
説教:「アンティオキア〜『キリスト者』の名が生まれた町〜」
聖書朗読:使徒言行録11章19〜30節
説教者 : 北川善也牧師
アンティオキアで聖霊によって捕らえられ、信仰へと導かれて弟子とされた者たちが、歴史上初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったと聖書は伝えている。
アンティオキアは、人口100万を擁する、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市だった。この町は、パレスチナと小アジアの接するあたりに位置し、また地中海の玄関口でもある港町にもほど近く、異教の神々が寄せ集まるような場所だった。
神による福音の種蒔きは、思いがけない仕方で進められていく。ステファノの殉教をきっかけとして始まったキリスト者迫害を受けて、エルサレムの初代教会の信仰者たちは、ここにとどまり続ければ今度は自分たちが迫害を受けることになると恐れ、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去った。
せっかく芽を出し始めた教会に連なる群れは、ほとぼりが冷めるまで身を隠そうと、遠く「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで」(19節)散ってしまうのだ。
だが、彼らは逃走先でただ息をひそめて生活していただけではなかった。迫害を逃れ、ようやく安心して過ごせる場所に落ち着いた者たちは、そこで礼拝するために集う場所を設け、自分たちの信仰生活を守り続けていった。
ここに、人間の思いによって封じ込めることなど出来ない力、もしキリスト者が黙っているのであれば、「石が叫び出す」(ルカ19:40)とまで主イエスが言われた、福音の爆発的な力が働いた。
ここでの出来事に先立つ10章には、異邦人であるローマ軍の百人隊長コルネリウスとその一家に聖霊の力が働き、彼らがキリストの福音を受け入れ、使徒ペトロから洗礼を受けるまでに導かれていった出来事が記されていた。神は、信徒たちの迫害からの逃走という、一見消極的な行動さえも用いて、福音伝道の働きを異邦の地に向けて拡大していかれるのだ。
エルサレム教会は、このような状況が起こっていることを知り、バルナバをアンティオキアに派遣した。バルナバは、神によって聖霊の注ぎを豊かに受けていた。彼は、アンティオキアに到着すると、「神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧め」(23節)た。ここで、「固い決意をもって」と訳されている言葉は、「自分たちの心を神のものとして献げる」という明確な意味を持っている。バルナバは、人々にそのような心をもって、常に十字架の主を見上げて歩み続けるようにと語ったのだ。
こうして「多くの人が主へと導かれ」(24節)ていったが、バルナバにとってそれでは十分でなかった。彼は、これから異邦人伝道を進めていくにあたり、伝道協力者としてパウロが加わることを求めた。パウロは、かつてキリスト者迫害の急先鋒に立っていたが、ダマスコ途上で回心を与えられ、信仰共同体に身を置くようになった。それゆえ、かつての仲間であるファリサイ派から命を狙われるようになるのだが、エルサレムでバルナバと出会い、彼の紹介を受けて使徒たちとの交わりに入ることが出来るようになった。
しかし、パウロはその後、生まれ故郷タルソスに戻ってから音信を絶っていた。そんな彼を探しにバルナバはタルソスへ赴くのだ。彼は、パウロさえいれば異邦人伝道をもっと前進させられるという確信を与えられていたのだろう。
こうして彼らは、ますます聖霊の助けを増し加えられ、異邦人伝道を着実に前進させていくのだ。
説教:「帯を締め、履物を履きなさい」
聖書朗読:使徒言行録12章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスは、弟子たちと共におられた時、何度も御自分の十字架における死を予告された。しかし、彼らは最後までその言葉を真剣に受けとめることが出来なかった。
ガリラヤ湖で漁師をしていたゼベダイの息子ヤコブとヨセフは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の呼びかけに応えて弟子となった。しばらくして、彼らは母親と共に主のもとに来て何かを願った。
主から「何が望みか」と尋ねられると、母親は「王座にお着きになる時、二人の息子をあなたの右と左に座れるようにしてください」と願う。つまり、彼らは主がイスラエルという地上の王になる御方だと考えていたのだ。
そんな彼らに主はこう言われた。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:26-28)。
主は、御自分を信じ、救いに入れられる人間を増し加える伝道の働きに弟子たちを派遣しようとされたが、それは人間の力では不可能なことだった。彼らは、主が送ってくださる聖霊の力を受けることによって、初めて何ものも恐れず、主の救いの御業を告げ知らせる者となることができたのだ。
一方、人々に福音を宣べ伝えていたステファノの殉教を契機に教会へ迫害が始まると、せっかく集められた信徒たちの群れはバラバラに散らされていく。そして、エルサレムから遠く離れた異邦の地に逃げ延び、安住の場を見つけた彼らは、そこで信仰生活を再開し、信仰共同体を形成していった。
エルサレムでのキリスト者迫害は一層強まっていった。当時、ユダヤ地方全域を統治し、キリスト者迫害を指示していたヘロデ王は、主がお生まれになる際、「新しい王の出現」に不安を覚え、幼子イエスを殺そうと企んだヘロデ大王の孫に当たる。
このヘロデが、ヨハネの兄弟ヤコブを逮捕し、剣で刺し殺すという凶行に及ぶ。さらに、彼はペトロを捕らえて牢に閉じ込めた。彼は、初代教会のリーダー2人を殺せば、キリスト教は自然消滅すると考えたのかもしれない。
ペトロの牢には、「四人一組の兵士」が四組付けられた。ヘロデは、軍隊によって最も厳重な監視体制を敷いた。しかし、彼はどうしてたった一人のペトロをこれほどまでに恐れたのだろうか。
これは、主が十字架にかけられた後、死を見届けて十字架から降ろし、大きな石で封印した墓に閉じ込め、さらに墓の前に番兵を配置したという、動かぬはずの遺体を恐れた状況と酷似している。
この世の権力者がどんな力を用いても神の力、信仰の力を押さえ込むことはできない。キリスト者は、天地万物を創造し、「昔いまし、今いまし、永遠にいます」御方を信じる信仰によって支えられている。そのようなキリスト者が持つ計り知れない信仰の力をヘロデは敏感に嗅ぎ取ったのだ。
主は、暗く空しい墓穴から、また大きな石で封印された絶望的状況から復活された御自分の力をもってペトロに近づき、絶体絶命の危機的状況を切り開かれた。
ペトロは、厳重な監視状態からいとも簡単に抜け出していくが、これは主が遣わされた天使を通して示された神の御業だった。
天使は御言葉を告げた。「帯を締め、履物を履きなさい」と。あなたの進むべき道は、主がはっきりと示してくださる。だから、あなたはその道を歩むために必要な履物を履いてしっかり歩み出しなさい、と主は御言葉をもって信仰者を励まし、導いてくださる。
説教:「初めて本当のことが分かった」
聖書朗読:使徒言行録12章11〜19節
説教者 : 北川善也牧師
エルサレム教会の危機的状況は、今や頂点に達しようとしていた。ステファノの殉教をきっかけに始まった大迫害で多くの信徒たちが逃げ去っても迫害は治まらなかった。当時、ユダヤ地方全域を統括していたヘロデ王が、キリスト者迫害に燃えていたからだ。
ヘロデは、まずヤコブを捕らえ剣で刺し殺すと、今度はペトロを捕らえ牢に閉じ込めた。ペトロの死刑を先延ばしにしたのは、除酵祭に集まっている大勢の群衆の前で処刑することにより騒ぎが拡大するのを恐れたからだ。
ヘロデは、ペトロを牢に閉じ込め、四人一組の兵士四組に監視させたが、そこには人間の力を超えるような出来事が起こるのではないかというヘロデの恐れが現れている。そして、彼の恐れは的中した。ペトロは、主の天使による導きを受け、難なく牢から抜け出して表通りまで出て行った。
ペトロは、そこまで導いてくれた天使が離れ去った時、初めて悟った。「主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださった」(11節)と。
救いとは、神のみがなし得る御業であり、人間は後から「あれはそういうことだったのか」と確認することしかできないような出来事なのだ。神の救いは、人間の思いとはかけ離れた神の御計画によって、全く予想もしないタイミングや仕方で実現される。
この出来事に先立ち、迫害によって小さくなったエルサレムの信仰共同体は、マルコの母マリアの家に集まり、絶体絶命の状態に置かれているペトロ救出のため皆で心を合わせて祈りを献げていた。
このような小さな祈りの輪は、何の力も持っていないように映る。既に、ヘロデはペトロの死刑執行を翌日に定め、監視も厳重なためそれを妨げることは不可能だった。この世的な知恵も力も乏しい信仰者の群れにできることは、ただ祈ることしかなかったのだ。
しかし、この信仰共同体による祈りを主はしっかり聞き届け、ペトロの救出を実現された。祈りは、無力であるどころか信仰者にとって最強の武器だった。神の救いの確かさを信じる者たちの熱心な祈りに勝る力は他にない。一見、無力に思われる信仰者の祈りは、困難を乗り越えていく無限の力を生み出すエネルギー源なのだ。
牢を抜け出したペトロがやって来たのは、今まさに彼の救出のため熱心に祈りを献げている家だった。ペトロが門の戸をたたくと女中が取り次ぎに出て来るが、それがペトロだと分かると急いで家の中に戻ってみんなに報告した。
しかし、皆そのために祈っていたにもかかわらず、ペトロ本人が帰って来たという知らせを聞いても誰も信じることができなかった。それほどペトロの帰還は不可能と思われていたのだ。
だから、門を開けた時、そこにペトロが立っているのを見た人々は、「非常に驚いた」。ここには、主イエスが復活されたことを天使から聞いた婦人たちが「震え上がり、正気を失う」ような体験をした時と同じ言葉が使われている。
ペトロは、自分が無事帰還したことを知らせるため、門の戸をたたき続けた。主の御業のために門をたたき続ける者に、主は門を開き、その働きを前進させてくださる。主イエスが、「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:1)と言われた通りだ。
主は、「わたしの名によって祈るならば、わたしがかなえよう」と約束された。それは、我々が神の御旨を祈り求めることによって、我々自身を神の御業を前進させる道具として生まれ変わらせてくださるという約束に他ならなかった。祈り求めることによって、我々は神の器に変えられていく。