日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年5月のバックナンバーです。

2014年5月4日 復活節第3主日

説教:「思いがけない平安」
聖書朗読:【旧約】詩編134編1〜3節
      【新約】マタイ福音書27章61節、28章1〜6節
説教者 : 石橋秀雄牧師(日本基督教団総会議長、越谷教会牧師)

 2011年3月11日、わたしは教団事務局に泊まり、翌日、救援対策委員会を作り、直ちに被災地へ行く決定をして教団の幹事たち4名と現地に向かった。

 ヘドロに覆われた被災地を歩く中で、一つの御言葉が与えられた。「わたしの助けは、天地を造られた主の御名にある」(詩編124編)。

 この詩編が書かれた時代のイスラエルは、バビロン捕囚という「大水に押し流される」ような経験をした。それは、神が味方になってくださらなかったという、信仰を引っくり返される経験だった。

 しかし、彼らはそういう苦しみの深みにおいて生ける神と出会い、「わたしの助けは、天地を造られた主の御名にある」という確固たる信仰告白に導かれていく。

 3月14日、わたしたちは教会の方から一人の青年を石巻から仙台まで車に乗せてほしいと依頼された。彼は、原発資材会社の社員で、仕事で女川原発へ行った帰り、津波に遭ったという。津波が押し寄せるのを見て、塀から屋根によじ上り、目の前で家々が流されていくのを見た。夜になり、雪も降ってきた。着ていた背広はずぶ濡れで、唯一乾いていたネクタイを首に巻き寒さをこらえながら、凍りつく屋根から滑り落ちないよう必死にしがみついて一晩過ごした。

 明るくなってから助けを求めると、気付いた人々が彼を屋根から降ろしてくれた。避難所に連れて行かれ、乾いた服をもらい、遺体を運ぶ仕事を手伝いながら石巻まで6時間かけて歩いたという。

 車中で彼は、「会社の人、心配してるかなあ」と言った。金曜日津波に遭い、土、日、月と会社に連絡できていなかったのだ。彼は、4日間、自分の生存を誰にも伝えていなかった。彼が車中で携帯電話に充電していると、街の明かりが見えた辺りで急にたくさんのメールが飛び込んできた。それと同時に会社の女子社員から電話が入った。彼は後部座席にいたが、その声は前まで聞こえた。「何してるのよ!」。会社の人々は津波が起こった地域に出張し、その後連絡不能となった彼にメールや電話をしまくっていた。どれだけ心配していたかは、その声で分かった。彼は、泣きながら「皆に助けられて生きてるんだよ」と答えた。

 青年は、津波の恐怖の中で思いがけない経験をした。「皆に助けられて生きている」。神などいないとしか思えない、奈落に叩きつけられたような状況の中に「思いがけない平安」が待っていた。

 主イエスは、金曜日十字架にかかり、土曜日死の淵まで落ちていかれた。落ちて叩きつけられた奈落に、主はその御体を横たえられた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)。人類のあらゆる罪と悲惨を一身に担い、神が十字架にかかって死んで墓に納められたのだ。

 しかし、その墓から思いがけない平安の道が開かれた。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(マタイ28:6)。墓の中は、主の遺体が寝かされた死の淵、奈落の底だ。そのような死を見つめるしかない場所が、思いがけない平安をもたらす場となった。

 そこは、主の復活の光に満ちた場となった。墓からよみがえられた主と共に、復活の命に与って生きていく新しい生活が始まった。この主によって、危機の中、悲惨の中にあって思いがけない平安が与えられる。希望が断たれ、生きる道が閉ざされたとしか思えない現実の中に、復活の主と共に生きる新しい命の道が示される。

 一週間の初め、一日の始め、そして、様々な課題に立ち向かう始めに、「わたしの助けは、天地を造られた主の御名にある」と信仰告白し、この確信の中を生きていくことが出来る。ここに神を信じて生きる者の幸いがある。

 

2014年5月11日 復活節第4主日

説教:「神の声」
聖書朗読:使徒言行録12章20〜25節
説教者 : 北川善也牧師

 「ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた」(20節)。港湾都市ティルスとシドンは、商業上重要な中継地として栄えていた。それゆえ、ユダヤ地方一帯を統括していたヘロデは、しばしばこれらの町に政治的圧力をかけたと言われている。

 また、ルカ福音書には、かつてティルスとシドンの多くの人々が主イエスのいやしを受けるために集まったという記事がある(6:17以下)が、初代教会に対する迫害に燃えていたヘロデにとってはこのことも腹を立てる要因だった。

 この地の住民たちは、ヘロデによって配分される食糧を受けて生きていたので、こんな状態の早期解決を願ってヘロデを訪問した。そのヘロデが、定められた祭りの日に、きらびやかな衣装を身につけて人々の前に姿を現した。ただでさえ権力を振るっている人物が、こんな浮世離れした格好をしているのだから、そこには特殊な空気が漂っていたことだろう。

 人々はこぞってヘロデを讃美し始める。「神の声だ。人間の声ではない」(22節)。そして、そのように叫ぶ民衆の声を、ヘロデ自身も神を冒涜する言葉として咎めも退けもしなかった。あるいは、彼自身、自らが神であるかのように振る舞っていたかもしれない。

 神でない存在を神とする愚かな行動は、今もなお、世界中で行われている。それは、国内外の政治家たちの振る舞いにおいて、あるいは、もっと身近な我々の家庭や学校や職場といった日常生活の中にも見出すことができる。

 今年の3月11日、東日本大震災発生から3周年にあたり、日本基督教団主催の「東日本大震災国際会議」が、仙台市の東北学院大学において開催された。

 500人を超える参加者が集った3周年記念礼拝に引き続いて、聖学院大学学長である姜尚中氏による記念講演、「犠牲のシステムを超えて〜ミナマタ・ヒロシマ・フクシマ」が行われた。この講演の中で印象的な言葉があった。

 「日本には、『国家教』と言うべき、国家に抗わず、国家を神のように崇める社会がある。戦後日本は、広島、長崎を経て、平和国家、文化国家として生まれ変わったように思えた。しかし、この3年にわたって、誰一人として責任を取り、身を処するということをしていない。戦後の歴史の中で、国家の責任というものが明らかになったことがあったか」。

 姜氏による講演は、神の座に人間が座ってはならないのに、その過ちを人間が繰り返していることを強く訴えかけるものだった。

 我々は、あたかも神の座に座ってはならないという戒めに逆らって物事を押し進めているかのようだ。たとえ自分がその座につこうとしていなくても、他人のそのような振る舞いを見過ごしたり、認めたりする状況を我々は生み出していないだろうか。

 主イエスによって、「昔いまし、今いまし、永久にいます」神の御姿が示された。我々は、聖霊の助けにより、このような神を礼拝する者とされている。神の御前に謙虚な思いで進み出て、ただ一人の被造物として御前にひざまずく時、初めて我々は心から神をほめたたえる者とされる。

 この礼拝は、我々が神を拝むから成り立つのではなく、神御自身が我々を招き、一人一人を礼拝する「新しい人」に造りかえてくださるからこそ可能となるのだ。

 座ってならない神の座につこうとしたヘロデは滅びていった。だが、真の神の言葉であるキリストの福音を宣べ伝える使徒たちの活動はますます盛んになっていく。

 どのような人間の力を行使しても、歴史に働かれる神による救いの計画を阻止することは決してできない。神による救いの御業は、こうして着実に進められていく。

 

2014年5月18日 復活節第5主日

説教:「神さまが決められた仕事」
聖書朗読:使徒言行録13章1〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 わたしたちの人生は、神さまが一人一人に用意してくださっている仕事を探し求める旅だと言ってもよいかもしれません。わたしたちはみんな、神さまによって命を与えられ、この世で生かされていますが、神さまはそのような人生という旅の中で、神さまがあなたのために用意している仕事を見つけ出し、それに一生懸命取り組んでほしいと願っておられます。

 さて、先ほど読まれた聖書には、「アンティオキア」という地名が出てきました。これは、イスラエルからだいぶ北にある大きな港町で、ローマ帝国三番目の都市として栄えた、大勢の人が集まるにぎやかな町でした。その町に生まれたばかりの教会がありました。そして、そこにいろんな国の人たちが集まり、みんなで心を合わせて神さまに礼拝を献げていました。

  いつものように、みんなが集まって礼拝を献げていると、神さまの声が聞こえてきました。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(2節)。

  神さまは、御自分のことをもっと多くの人に伝えるため、バルナバとサウロをアンティオキア教会から送り出しなさい、と言われたのです。けれども、この二人は、教会でとても重要な働きをしている人たちでした。教会の人たちは、いつもこの二人から神さまのお話しを聞いていたのです。だから、教会の人たちにとって、バルナバとサウロが出て行ってしまうのは、とても寂しいことでした。

 でも、みんなでこのことのためにお祈りしているうちに、「教会にはイエスさまがいつも一緒にいてくださって、いつでも教会を守ってくださる」と信じて、元気よく二人を送り出すことができるような気持ちになりました。

 バルナバとサウロたちも、不安で仕方なかったと思います。わたしたちが話す神さまのお話しをみんな聞いてくれるだろうか。そして、旅を安全に続けられるだろうか。でも、二人はお祈りをすることによって「神さまが必ず守ってくださる」と信じ、神さまのことをみんなに伝える旅に出かけていくことができたのです。

 だけど、その旅は決して楽しく簡単なものではありませんでした。毎日毎日、寒い日も暑い日も、砂ぼこりのひどい道や岩だらけのでこぼこ道を、サンダルのような薄っぺらい靴で歩いていかなければならないのです。

 それだけではありません。二人が人々の前で、イエスさまのお話しをすると、時には邪魔をされたり、悪口を言われたり、捕まえられて牢屋に入れられたりしました。でも、どんな目に遭っても、二人は一生懸命イエスさまのことをみんなに伝え続けました。

 どうしてそんなことができたかと言えば、それがこの二人のために「神さまが決められた仕事」だったからです。だから、二人はこの仕事を進めるために神さまがいつも一緒にいて力を与えてくださると信じることができました。それから、自分たちを送り出してくれたアンティオキア教会の人たちがいつも祈ってくれているということも知っていました。

 こうして、バルナバとサウロの働きは、まるでリレー競争のバトンのように、どんどん次の人に受け継がれていきました。そして、世界中にイエスさまを信じる人が広がっていきました。このようにして、とうとう日本のわたしたちのところにまで、イエスさまのことが伝えられてきたのです。

 わたしたちも、バルナバやサウロのように、自分のために「神さまが決められた仕事」がどんなことなのか探し求め、それが見つかったならば、がんばってその仕事に取り組みたいと思います。

 

2014年5月25日 復活節第6主日

説教:「主のまっすぐな道」
聖書朗読:使徒言行録13章4〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(13:2)。この主なる神の御声に押し出され、アンティオキア教会の人々による祈りに支えられてパウロたちの伝道旅行はスタートした。

 彼らが最初に赴いたのは、地中海に浮かぶキプロス島だった。東岸の町サラミスで順調に福音伝道を開始したが、西岸の大都市パフォスではそうはいかなかった。

 そこには、バルイエスという名の魔術師がいたが、彼はキプロス島における最高位の政治家である地方総督セルギウス・パウルスに取り入って、総督のブレーンのような立場に就いていたのだ。

 このような人物を重用していたことから、総督が魔術師による占いに厚い信頼を置いていたことがわかる。パフォスは、そんな迷信や呪術がはびこる町だった。

 だが、パウロたちはそういう町でも臆せず伝道に取り組んだ。彼らは総督の招きを受けると、創造主なる神、贖い主なる御子イエス、そして、信仰をもたらす聖霊なる神について力強く証しした。

 これを知ったバルイエスは、総督を彼らから遠ざけようとした。なぜなら、彼らの教えは魔術師にとって大きな脅威だったからだ。

 魔術師は、総督に取り入ることで自分の立場を築いてきた。そのような人間がその立場を守っていくためには、自分の力、すなわち、超自然的な働きに思わせて、実は種も仕掛けもある魔術によって人々を欺き続けるしかなかった。

 これに対して、パウロたちが行ったしるしは、自分たちの力を誇示することなく、あくまでも「イエス・キリストの御名」によってなされた。パウロは、ちょうどこの頃からユダヤ名「サウロ」を「パウロ」に変えたが、ギリシャ語で「小さい」を意味するこの名によって彼は、弱く小さな自分が神の力によって使徒として活動していることを示そうとしたのだろう。

 そのパウロが、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」(10節)。こうして、バルイエスはそれまで自分の力で見ていたものを見えなくされてしまう。

 この出来事は、パウロ自身の回心体験を思い起こさせる。律法遵守に熱心だった彼は、ダマスコのキリスト者迫害へと向かう旅の途上で突然天からの光を受け倒れ伏す。その後、目を開けても何も見えず、三日間飲食できなくなるという壮絶な体験をした(9:1-9)。

 それまでパウロは、自分は正しく物事を見、何が正しく何が間違っているか識別できる能力を持っていると考えていた。だが、彼は目が見えなくなることにより、自分自身の判断がいかに愚かで間違っていたかを示された。

 そのような状態で過ごした三日間は、彼の心の目が開かれるために必要な備えの時だった。やがて、彼は主の弟子アナニアから洗礼を受け、キリスト者として新しく生まれ変わる。パウロが見えなくされたのは、彼の罪に対する「裁き」であると同時に、救いに至るための「恵み」でもあったのだ。

 バルイエスが見えなくされたのもパウロ同様の意味だったではないかという暗示がある。「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(11節a)

 「魔術師は……だれか手を引いてくれる人を探した」(11節b)。パウロの時にアナニアが果たした役割を誰がしただろうか。

 「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」(12節)。全く予期せぬ驚くべき神の恵みを体験した時、人間はそれまでの歩みを180度転換させ、信仰者へと変えられていく。

 

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