日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年6月のバックナンバーです。

2014年6月1日 復活節第7主日

説教:「安息日礼拝」
聖書朗読:使徒言行録13章13〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 バルナバとサウロによる伝道旅行は、地中海に浮かぶキプロス島から始められた。そのことを伝える記事の中で、それまでユダヤ名で呼ばれてきた「サウロ」の別名「パウロ」が初めて紹介され、以降この呼び名に統一されていく。

 パウロとは、「小さい」という意味を持つギリシャ語だ。これは、自分のような小さな者が、聖霊により神の力で満たされてはじめて使徒として立つことができるようになったという彼自身の思いからなされた改名だろう。

 また、「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ……」(13:4)と言われていたのが、今日の箇所では「パウロとその一行……」となっている。これにより、キプロス伝道以降、リーダーがパウロに変わったことがわかる。

 そんな経緯もありながら、一行はキプロス島のパフォスから船に乗ってパンフィリア州ペルゲに上陸し、そこからピシディア州アンティオキアへ向かった。この道のりは直線距離で約160q、加えて激しい高低差のある山道だった。

 そんな過酷な旅を経て、パウロたちはアンティオキアに到着した。ここには大勢のユダヤ人が移住し、自分たちの会堂を持っていた。彼らは、そこで安息日の礼拝を献げるため中に入った。

 そこでは通常の礼拝形式に則り、「律法と預言者の書」、すなわち旧約聖書が読まれ、説教が語られようとしていた。だが、通常と異なり、会堂長は初めてやって来たパウロに説教を依頼した。

 パウロは引き受け、立ち上がって語り始めたが、その呼びかけの言葉は注目すべきものだった。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」(16節)。「神を畏れる方々」とは、聖書の教えを受け入れ、生活においてそれを実践している異邦人たちのことだ。しかし、彼らは割礼を受けていないため、他のユダヤ人たちと共に会堂内に入ることを許されず、交わりも避けられていた。つまり、パウロはそんな人々も含んだ、神を畏れ敬う人すべてに向けて語り始めたのだ。

 パウロは、続いて聖書に基づきイスラエルの歴史を説き起こしたが、それは歴史の初めからではなく、出エジプトからだった。彼は、異邦人に対しても語りかけていたわけだが、ここで何よりも伝えたかったのは、すべての人間を囚われの身から解放してくださる神の恵みについてだったのだ。

 彼は、イスラエルの民が40年にわたる荒れ野の旅を経て、約束の地カナンを与えられたこと。そして、神が民の求めに応じ、イスラエル初代の王サウルを立て、その時代が40年間続いたこと。さらにその後、神はダビデに王位を継がせられたことまでを語った。

 パウロは、特にダビデに対する神の期待が大きかったことを強調しているが、それは彼の容貌が美しかったからでも、優れた才能を持っていたからでもなかった。ダビデがイスラエルの王として後代まで名を残したのは、その子孫からすべての人間の救い主がお生まれになることが神の御計画のうちに、歴史の始めから定められていたということを世界の人々が知るために必要だったからだ。

 「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」(23節)。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレのイエスとして育たれた御方こそ、旧約聖書が示し続け、すべての人が待ち望んでいた救い主メシアだった。

 この御方に対する信仰こそ、我々が安息日礼拝、すなわち主の日の礼拝ごとに確認しなければならないことであり、そのような礼拝者として生きる者は、真の救い主による決して揺るがない希望と喜びをもって、何ものをも恐れず歩み続けていくことができる。

 

2014年6月8日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「旧約と新約の架け橋」
聖書朗読:使徒言行録13章24〜32節
説教者 : 北川善也牧師

 ピシディア州アンティオキアの会堂でのパウロの安息日礼拝における説教は、今日の箇所で「洗礼者ヨハネ」について語っている。

 律法を守れないため、一般社会から受け入れられず、また、それゆえに深い罪意識を抱え込んで生きていた大勢の人々に対して、洗礼者ヨハネは「悔い改め」によって神との関係を回復して生きる「洗礼」という道を示した。

 人々は、神による救いの道を示すヨハネこそ、自分たちが待ち望んでいたメシアなのではないか、と考えるようになっていった。しかし、そんな彼らに対してヨハネは、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)と告げ、自分の後からやって来られるイエスという御方こそメシアであることを明示した。

 「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(マタイ3:6-10)。

 イスラエルの民は、モーセ以来、律法を守ることによって神とのつながりを維持できると考えてきた。だが、このことは神との関係を固く保つという最も重要な目的を忘れさせ、律法を守ること自体が目的となり、それによって自分の徳を高める自己満足へと人間を向かわせる誘惑と背中合わせだ。

 ファリサイ派やサドカイ派の人々は、そのようにして律法を自分の力で守ることによって得られる安心感をより確かなものとするための「おまけ」を求めていたのだ。

 ヨハネは、「洗礼」をそのようなものとしてしか捉えようとしない彼らの魂胆を見透かし、神は人間の自由になるような御方ではないことを厳しい口調で告げた。

 パウロは説教において、キリストに先駆けて「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたヨハネを示すことにより、神を否定し、神ならぬ存在を神として、勝手に作り出した神を自分自身の欲望を拡大させるための道具として操ろうとする人間の根深い罪を鋭く指摘し、そのような罪を悔い改め、神へと立ち帰ることの重要性をユダヤ人にも異邦人にも、すなわち、すべての人々に向けて告げているのだ。

 ヨハネの後から来られた主イエスは、この世に遣わされた神の御独り子だった。しかし、この御方は、エルサレムに住む人々やその指導者たちから認められず、また死をもって罰せられる理由などどこにもなかったにもかかわらず、十字架にかけられて殺されてしまった(29節)。これは、神なしで生きていこうとするすべての人間を罪から贖い取るため、神御自身がお受けになった死だった。

 しかし、主イエスは死んで葬られた墓の中から三日目によみがえられ、御自分の弟子たちと共に40日間過ごされた。彼らは、この経験を通してキリストの証人となるための力を与えられ、さらに昇天された主から送られた聖霊を受けて教会を立ち上げ、キリストによる救いの御業を宣べ伝える伝道者として変えられていった。

 十字架にかけられ、体中の血を流しきって死なれたキリストは、この世の目によって見れば敗北者以外の何ものでもないが、この御方の死と復活を通して、すべての人間に対する救いを実現すると約束された神の御言葉は、完全な形で成し遂げられたのだ。

 

2014年6月15日 三位一体主日

説教:「もはや朽ち果てることはない」
聖書朗読:使徒言行録13章34〜41節
説教者 : 北川善也牧師

 昨春のイスラエル旅行でエルサレムにある「ダビデ王の墓」を見た。我々にとってこの墓は崇敬の対象ではないが、ユダヤ教の人々が石棺に口づけし、何遍も頭を下げて拝んでいるのを見て、現代のイスラエルでもダビデが特別な存在であることを知った。

 マタイ福音書冒頭の「イエス・キリストの系図」は、イスラエル民族がアブラハムに始まり、ダビデにおいて頂点に達し、その家系に主イエスがお生まれになったと記す。アブラハムもダビデも優れた人物だったかもしれないが、彼らは我々と同じ人間に過ぎない。イスラエル王国を絶頂期へと導いたダビデ王も、今は死んで葬られ、その亡骸は墓の中でとうの昔に朽ち果てている。

 人間は「朽ち果てる」存在だ。どんな立派な墓を建て、そこに丁重に納められたとしても、肉が骨となり、やがて土に帰っていくことにおいて誰にも違いはない。それゆえ、もし人が人に望みを置くとしたら、それは限界ある望みということになる。何ものにも揺るがされない本当の平安は、人間からはもたらされない。希望の源を持たない人間の行き着く先は、死によってすべてが終わる袋小路、まさにデッド・エンドだ。

 聖書は、ダビデの子孫である主イエスが人の姿を取ってこの世に来られた神の御子であることを明確に示している。人間ではない、神の御独り子であるこの御方こそ人間が望みを置くべき存在に他ならない、と聖書は告げている。

 主イエスは神の御子であり、死とはほど遠い存在であるはずだ。この御方が、我々と同じ肉体を取ってこの世に来られたのは、「見ないで信じる」ことができない人間に神の姿を示すためであり、何より肉体をもって十字架におかかりになるためだった。

 神から離れ、神と向き合わず自分の力で生きようとする自己中心的な人間は、希望とはほど遠い死という終着点に向かって空しく進むしかない。そんな人間のために主は十字架にかかって死んでくださった。主は、このような御自分の死によって、希望を持てない人間の生き方に終止符を打たれた。

 主は、十字架の死から復活し、弟子たちの前に来られた。そして、「死はすべての終わりではない。キリストの十字架によってすべての人間の救いが成し遂げられた。この御方の勝ち取られた永遠の命が信じるすべての者に与えられる」という真の希望を告げ知らせる働きに遣わされた。

 パウロが、ダマスコのキリスト者迫害へと向かう旅の途上で出会ったのも復活の主に他ならなかった。キリストの敵対者だった彼が、神による真の希望に目を開かれ、その希望に生きる者とされるためには、自らの罪に対する悔い改めが必要だった。彼は、全く無実である神の御子を十字架に打ちつけたのは自分自身であることを知らねばならなかったのだ。

 「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。ああ、いま思い出すと、深い深い罪にわたしはふるえてくる」(2編177番1節)。

 神から離れて生きるということは、神なしでも生きていけると考えることだ。これは、神を殺す思いにつながる。この罪ゆえに、人間は神との本来あるべき関係を回復することができずにいる。しかし神は、我々が神の御言葉を聞き取る耳を持ち、神と出会い、信仰へと導かれるため、我々に聖霊を送ってくださる。このようにして、我々は神との本来あるべき関係へと回復させられていくのだ。

 主の十字架と復活こそがあなたがたを真の救いへと導く、神の御業である。そして、それは「あなたがたがいま見聞きしていること」に他ならない。聖書は、我々に絶えずそのことを告げている。

 

2014年6月22日 聖霊降臨節第3主日

説教:「神の恵みの下に生き続ける」
聖書朗読:使徒言行録13章42〜52節
説教者 : 北川善也牧師

 伝道は、神の導きによって救いに与り、そこに何よりも大きな希望と喜びを見出した人間の証しという業を通して進められる。我々がこの救いに与った時の喜びを絶えず新たにし続ければ、伝道に燃える熱い思いは一人一人の内側から自ずと湧き出て来るはずだ。

 この世には、真の救い主を知らない人々がまだ大勢いる。この人々がキリストと出会い、この御方が十字架によって成し遂げられた罪の赦しと、その死からの復活によって約束された永遠の命の希望によって救われるため、我々は伝道の働きを主から託されている。

 パウロは、ピシディア州アンティオキアのユダヤ人会堂での安息日礼拝の中で御言葉を説き明かす働きを託された。彼は、ダビデの子孫によってイスラエル王国が確立されると記されている詩編に触れて、これは主イエスのことであり、偉大な王ダビデは死んで朽ち果て、イスラエル王国も分裂し消え去ったが、神の御子イエスがこの世に来られ、神による救いを完成してくださったこと、またこの御方は地上の国ではなく、神の御国の王となられ、その御国は永遠に確立されることを告げた。

 すると、この説教によって主との出会いを与えられた人々は心を動かされ、また次の安息日にもここで主イエスのことを語ってほしいと熱心にパウロに願った。人々のこのような反応は、彼らの福音に対する飢え渇きをよく示している。人々が待ち望んでいたのは、このような言葉だったのだ。

 パウロの評判は瞬く間に広がり、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)。これは、今やこの町全体が神の恵みに包まれたことを示している。

 だが、パウロの説教を聞くために集まった群衆を見て「ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対」(45節)する者たちもいた。彼らの態度は、「人間中心主義」の典型的な表れだ。彼らは、神の言葉に対抗し、そんなものなどなくとも生きていけるという意思表示をしている。

 パウロは、イザヤ書から引用して次のように語った。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」(47節)。神の御言葉があまねく宣べ伝えられると共に、終わりの日までにこの世のすべての人が神の御力によって救いに与るようになる。パウロは、自分がそのような主の御業の一端を託されていると告げている。

 「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)。福音を聞いて信仰者とされた人がさらに新たな信仰者を生み出していく。これは、驚くべき神の恵みの御業と言うより他はない。

 パウロは、このような信仰者の群れ、すなわち教会のことを次のように語っている。「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(Tコリント10:12-13)。

 神の御言葉に触れ、信仰を与えられた者は、洗礼によって主の御体の一部とされていく。信仰者が神の子として生きるため、主は十字架にかかり、罪ある人間を御自分の体に組み込んで一つとなって生きるようにしてくださる。

 教会とは主の御体であり、その中心におられるのは主御自身に他ならない。それゆえ、ここに誰が加えられるかということは、すべてこの家の主である御方に委ねられている。ここには、まだ洗礼を受けていない人も共にいるが、その人をここにおらせてくださるのは主なる神に他ならない。神御自身がその人に目を留め、ここへと招いてくださっているのだ。

 

2014年6月29日 聖霊降臨節第4主日

説教:「主を頼みとして」
聖書朗読:使徒言行録14章1〜7節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロとバルナバが、ピシディア州アンティオキアでの伝道に取り組むと大勢の人々が集まり、その中から何人もの受洗者が与えられた。だが、ユダヤ人の一部がこの様子を見て苦々しく思い、迫害を開始したため、この町での伝道継続は不可能となる。

 ところが、町に残された信仰者たち(52節の「弟子たち」)は、パウロたちが追放されても「喜びと聖霊に満たされていた」という。それは、彼らが待っていたのは人間ではなく、真の救いをもたらす福音そのものだったからだ。パウロたちを通して語られたのは神の御言葉であり、それは言い換えればキリスト御自身に他ならなかった。それゆえ、語られた言葉が虚しく消え去るなどということはあり得ず、彼らが追放されても語られた命の言葉である福音はその町の信仰者と共に生き続けるのだ。

 その一方で、伝道者がいなければこの町に福音が訪れなかったというのも事実だ。これを先のことと合わせて考えると、伝道者というのは神がお立てになる以外に立てられることのない存在だということを強く思わされる。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9:37-38)と主は言われた。真の救いに飢え渇いている世界中の人々に福音が宣べ伝えられねばならない。そのために、我々も伝道者を生み出す働きに祈りをもって取り組みたい。

 さて、アンティオキアを追放されたパウロたちは、そこから約140q南東のイコニオンに着いた。そこでも彼らの伝道は、まずユダヤ人会堂で旧約聖書よりイエス・キリストが成し遂げられた救いの御業を説き起こすことから始められた。すると、ここでも「大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った」(1節)が、信じようとしないユダヤ人たちはパウロたちに対する迫害を開始した。

 「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」(3節)。彼らは、臆することなく公の場で福音を語り続けた。しかも、「長くとどまり」という言葉に暗示されているように、彼らは自分の意志ではなく神の御意志に従ってそこにとどまった。彼らの伝道は、ただ主のみを頼みとして行われたのだ。

 こうしてイコニオンでは、信仰者が大勢与えられた一方、「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせ」(2節)、「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側につく」(4節)という悲劇が起こった。

 ユダヤ人は、自分たちが受け継いできた神の民としての特権を守り続けたかったが、そこに「もはやユダヤ人もギリシア人も関係ない。キリストの福音を聞いて信じる者は誰でも救われる」と告げるパウロたちが現れ、異邦人の救いを語り始めた。そこでユダヤ人はこの教えを目の敵にして必死で滅ぼそうとするのだ。

 この迫害行為は、かつてパウロ自身がしていたことだった。迫害の急先鋒に立っていた彼がキリストを宣べ伝える者に変えられていった。これこそが福音の力だ。

 そして、パウロたちが全く先を見通すことのできない伝道旅行にあって、大胆に福音を宣べ伝える働きに取り組み続けることが出来たのは、彼らがただひたすら「主を頼みとして」いたからだ。

 人間的に見たら絶望的な状況というものがある。しかし、人間には絶望であっても神にとってはそうではない。神は、絶望を希望に変え、道がないとしか思えない所にも道を切り開いてくださる。神は、我々を命の言葉、福音によって造り変え、いついかなる時でも「主を頼みとして」希望をもって歩む者としてくださるのだ。

 

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