日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年8月のバックナンバーです。

2014年8月3日 聖霊降臨節第9主日

説教:「帰るべきところ」
聖書朗読:ルカによる福音書15章11〜32節
説教者:大濱計介執事

 放蕩息子の譬は、放蕩息子と言われる弟と、その兄と、彼らの父親の3人の物語です。話の中心は父親、つまり神の愛と憐みについての話です。

 普通の親なら自律しない息子に多くの財産を渡しても大丈夫かと心配しますが、この父親は息子の望む通りに財産を分けてやり、彼を旅立たせます。息子は放蕩の限りを尽くし、無一文になったところへ飢饉が襲い、食べるにも困ってしまいます。

 この話から、神様は、私たちに自由意志を与えておられることが分かります。つまり、私たちは全てのことを自分の意思で選ぶ自由を与えられています。そのため、私たちは自分の人生は自分のものだと思ってしまうところがあります。しかし自分のものだと思っているものは、本当は全て父(神)から分け与えられた父の財産だということも教えています。

 弟息子は、死ぬほど困り果てた時、我に返り、父のところは豊かだ、父のところに帰ればいいのだと気付きます」。しかし勝手に家を出てきたから父に赦しを請わなければならない、「私は罪を犯してしまいました。もう息子と呼ばれる資格はありません、雇い人の一人にして下さい」と謝ろうと思って、家に向かいました。彼がまだ遠くにいたのに、父は彼を見つけて駆け寄り、抱きしめ、息子としての服装をさせ、子牛を屠り喜びの宴を広げました。

 このように、父親は息子の帰りを待ち続けていました。遠くに息子を見つけると駆け寄り、息子の詫びを最後まで聞かずに許しています。この姿は甘すぎる父親とも映りますが、彼はなぜそうしたのか。彼が最も大切にしていたのは息子の反省の言葉でなく、24節の「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という事実であったからです。

 そのように私たちもまた、どこを彷徨っていても、主はいつも帰りを待っていて下さり、走り寄って愛する子として抱きしめて下さいます。そこに私たちの救いがあります。この主の愛の中で生きることが私たちの信仰です。

 後半は真面目な兄の話です。兄は、弟が帰ってきたため父が盛大な宴を催していると聞き、怒って家に入ろうとしませんでした。兄は父親のしたことに拗ねてしまったのです。そこで、父親はわざわざ出て来て彼をなだめました。

 そこで兄は父親に、私は何年も従順に仕えてきたではないか、それを評価して欲しいと訴えます。それに対し父親は、私が最も大切にしていることは、「いつも私といる」ということだ、お前はいつも私といるではないかと兄を諭します。しかし兄もまた弟と同様、そのことを父が最も大切にしていることだとは分かっていませんでした。そのように父親の思いが分かっていないという意味で、兄もまた、父親から遠い存在でした。

 私たちも、いろいろな場面で、この兄と同じ考えをしていることに気付かされます。評価されたいと思って拗ねたりもします。主のもとにいつもいる幸いを大切なものと出来ずに、自由を求めて主のもとを離れようとする、そうした弱さをもっています。

 イエス様はこの譬話から、放蕩息子の父親と同様、主なる神様は、私たちが帰って来るのをいつも待っていて下さっており、私たちの傷ついた、あるがままの姿を受け入れて下さる、そして私たちが主なる神様のもとにいつもいることを望んでおられる、そのことを最も大切なこととされていると教えておられます。 私たちは、神さまに造られたものとして、いつも主の愛の中に生きる者でありたいと思います。

 

2014年8月10日 聖霊降臨節第10主日

説教:「立ち帰って」
聖書朗読:【旧約】エゼキエル書18章31〜32節、【新約】ローマ書14章7〜9節
説教者 : 田中 顕執事

 「わたしは、だれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」  マタイによる福音書のはじめにある救いの系図にバビロンへの移住が示されています。それは、イスラエルの民が、神の民であるのに、自分たちの主なる神様を忘れ、異教の神々を礼拝し裏切ってしまったためです。神様の怒りにより滅亡に至ろうとする歴史を示しています。

 しかし、神の民・イスラエルにとって信じ難い苦難であっても、そのことを神様の御旨として受入れ、滅びることなく神様へ立ち帰って生きることを一人一人に願う、神様の愛と憐れみの思いがエゼキエルの言葉として、神様の熱い思いを以て語られました。

 その神様の思いは、新たな心と新しい霊、枯れた骨の復活としてのエルサレム帰還、神殿再建、そして新しい牧者出現と言う、希望を与えることとなりました。苦難と裁きをも、愛と憐みを持って、救いの計画の中に用いて下さっているのです。

 そして、この系図から、イエス様がお生まれになります。イエス様が私達に与えられるということは、主なる神様が、ご自分の民として見捨てることなく、その罪を赦して、救いの約束を果たしてくださるという恵みが示されています。

 御子を通して神様が何をなしてくださったかは、ハイデルベルク信仰問答の第1の問と答えが、端的に語っています。

 問い1:生きている時も、死ぬ時も、あなたのただひとつの慰めは、 なんですか。答え:わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストのものであることであります。

 そして、慰め主は、わたしたち一人一人に今も立ち帰って生きよと熱い思いを向けて下さいます。それは、主の十字架に裏付けされた深い愛の招きであります。

 このような唯一の慰めをいただいた者の立ち帰りとして、光明園家族教会の元牧師・津島久雄先生は、交読詩編50編を通して、神様が最も喜ばれるものは、神様によって、わたしたちが支えられ、生かされていると信じ、それを告白し、神様に感謝すること。そしてすべてを委ね天の父よと呼ぶ、神様への信頼だと言われます。

 それは、救いをもたらしてくださった御子イエスが、父なる神にすべてを委ねて祈り、神様の御旨の内に歩まれた姿に従うことであります。

 御子は、十字架に掛かられる前の夜、ゲッセマネの苦悩に満ちた祈りにおいても、「アッバ、父よ、お父ちゃん」と幼子のように神様にすべてを打ち明け、委ね、そこから「御心のままに」との祈りに導かれ、示された道を辿られました。

 この御子イエスがわたしたちを招いて下さいます。わたしたちも同じように、神様に天の父よ、「お父ちゃん」と言って、神様に信頼し委ね、信仰に生きるように導いてくださっています。

 「あなたがたは、・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ロマ書8章5節)

 私達には、聖霊が注がれ、すでに主のものとされています。そして、ただ主のものでなく、アッバ、父よ、お父ちゃんと呼ぶことを赦されているのです。

 父なる神は、生きて働いていておられます。神の子とされた者は幼子のように、お父ちゃんと信頼して呼べばよい。そうすれば、父なる神は、幼子の呼び声を気にかけ、聞き分けていてくださいますから、すぐに駆けつけ、御心を示して下さることでしょう。

 「悩みの日に私を呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50編15節:口語訳)

 立ち帰りとは、一人一人を熱い思いで憐み・愛し待っていてくださる、救い主である主に信頼して、すべてを委ね、アッバ父よ、父ちゃんと呼び祈ることであろうと思います。  

 

2014年8月17日 聖霊降臨節第11主日

説教:「励ましに満ちた決定」
聖書朗読:使徒言行録15章22〜35節
説教者 : 北川善也牧師

 ヤコブは、エルサレム教会の指導的立場にあった。彼は、特に異邦人に対する伝道をどのように進めるかということに心を砕いていた。それゆえ、エルサレム教会からアンティオキア教会に行った人々の中に、異邦人も律法に従い割礼を受けなければ救われないと言う者たちが現われ、教会内に混乱が生じてきたことについて大変悩み苦しんだ。

 こうした問題解決のために使徒会議が開かれたわけだが、その場において一つの結論が与えられた。そして、それをアンティオキア教会に伝えるため、「使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選ん」だのだ(22節)。

 使徒会議は、第一回伝道旅行に赴いたパウロとバルナバに加え、シラスとバルサバの2人をアンティオキア教会に遣わすこととした。彼らは、エルサレム教会の長老的立場にあったが、同時に「預言する者でもあった」(32節)。

 旧約聖書において預言者の働きは、悔い改めによる神への立ち帰りを語ること、そして、神による揺るぎない希望に基づく励ましを語ることだった。エルサレム教会はそのような賜物を与えられた二人をアンティオキア教会に遣わしたのだ。

 さて、そんな彼らに託された使徒会議の決議内容とはどのようなものだったのか。それは、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです」というものだった(29節)。

 アンティオキア教会では、食事のこと一つとっても、ユダヤ人と異邦人の間で、汚れているとかいないとかいうように日々放置できない問題が発生し、共同体に亀裂が生じ始めていた。それは、何の指示もないためユダヤ人も異邦人もそれぞれが好き勝手な主張を繰り広げていたことが原因だった。

 ユダヤ人が守ってきた食前の清めのしきたりは、異邦人にとってどうでもよいことだったが、ユダヤ人はこれを守らねば食事が出来なかった。同じ信仰によって一つの群れとされているはずのユダヤ人と異邦人の間に、どうしても一致できない問題が残されていた。これは、お互いが自分の立場を守り続けている限り、いつまでたっても解決できない問題だ。

 このような時、エルサレムの使徒会議は、何に基づいて決定を下したのか。彼らが、「必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めた」のは、「聖霊とわたしたち」の判断によってだった(28節)。すなわち、人の思いをはるかに超えた聖霊の導きに従ってこのことを決定したのだ。

 このような信仰の事柄を決めていく時、その中心的な役割を担ったヤコブは、何よりもまず聖霊の導き、神御自身による伝道の御計画を祈りをもって探し求めた。ヤコブは、とりわけ律法的な考え方をその土台として持ちつつ信仰生活をしているユダヤ人キリスト者に配慮しながらも、新しく福音に触れて信仰者となった異邦人キリスト者がつまずかないようにしなければならないことを十分に理解していた。

 この手紙は、そういう状況の中で、ヤコブが聖霊の導きを求めながら記した祈りの言葉であるとも言える。これは、やがてユダヤ人、異邦人双方の祈りの言葉となっていく。手紙の言葉を祈りの言葉として彼らに伝えたのは、シラスとバルナバである。

 ユダヤ人と異邦人が御言葉を求める群れとして真の意味で一つとなる。そのために「悔い改め」と「励まし」を語る者が遣わされ、それによって教会が一つの群れとされていく。アンティオキア教会は、そういう経験を経て変えられていく必要があったのだ。

 

2014年8月24日 聖霊降臨節第12主日

説教:「祝福される神」
聖書朗読:使徒言行録13章1〜3節
説教者 : 長谷川尚三執事

 神は、私たちを祝福されるお方である。

 私たちが、日常生活をする中で、困難に直面した時、自分の思いとは異なった結果になった時、そして、その困難に立ち向かわなくてはならなくなった時、神はそういう私たちを祝福される。

 エルサレムの教会で、ステファノが、石を投げつけられ殺された。この出来事を受け、エルサレムの教会の人々は、住み慣れたエルサレムの町を去ることになった。しかし、神は不思議なお方で、エルサレムの地を去ることを余儀なくされた人々のことを、神は祝福されたのである。

 「神の祝福」とは、「神から新しく恵みが与えられる」ことである。ではエルサレムの人々に、どのような祝福・恵みが与えられたのか。

 教会のないアンティオキアの町に移ったエルサレムの人々は、神の言葉を町中で語った。すると多くの人々が集まり、やがて教会が立った。エルサレムの町を追われアンティオキアに移り住んだエルサレムの人々を、神が祝福された根拠をここで確認することができる。

 3度の伝道旅行に出かけたパウロもエルサレムからアンティオキアに移住した人の一人であった。そしてアンティオキア教会の伝道計画を実行するメンバーの1人にパウロが選ばれた。見知らぬ土地、まだ見たことのない国に行くのは誰でも不安であるが、しかし神はこのパウロを祝福された。

 アンティオキアの教会から始まったパウロの伝道旅行をきっかけに世界中にイエス・キリストの教えが普及し、やがて遠く離れたこの日本にも伝わっていった。そして今ここに洛北教会がある。

 私たち洛北教会でも「伝道基本方針」に従い、イエス様を信じる人を増やすために、教会に来る人を増やすためにどのようなことをしていったらいいのか。6月に教会全体修養会が開かれた。この伝道計画を、今後とも引き続き教会全体で、伝道のために具体的にどういうことをしていくのかを、お互いに知恵を出し合って考えていかねばならない重要課題である。

 また個人としての活動も重要である。私たちがイエス・キリストによって救われているという、信念・信仰があるなら、その器の大きさに関係なく、また得手不得手を問わず、神の言葉を、イエス・キリストの福音を、まだ神を知らない人々に語ることが、私たちに神から託されているこの世での務めである。

 「礼拝に行かなくてもクリスチャンとしてしっかり生きていける」と言い切れる人はいるだろうか。

 そういう意味で、私たちは1週間を振り返り、そして新しく始まる1週間に希望を持って生活できるようにと、毎週日曜日には教会に来て礼拝を守ることが求められている。人間は弱いものであるがゆえに「礼拝を守る」ことは、この世から一旦離れ、訓練の場・訓練の時として設けていただいた、神からの恵みであり祝福であるといえよう。

 全てのことを祝福してくださる神様とイエス・キリストの十字架と復活を信じ、そして来たるべき神の国の実現を楽しみに、これからも毎週日曜日には、洛北教会で礼拝を守ることを大切にしていく者でありたい。

 

2014年8月31日 聖霊降臨節第13主日

説教:「パウロとバルナバの訣別」
聖書朗読:使徒言行録15章36〜41節
説教者 : 北川善也牧師

 かつてキリスト者迫害の急先鋒だったパウロは、迫害に向かうダマスコ途上でキリストとの衝撃的な出会いを経験する。これによって彼は回心し、迫害者から信仰者に生まれ変わった。だが、周囲の者たちは、彼のこの急激な変化を受け止められなかった。

 回心によってパウロはどこにも身の置き所がなくなるという孤独を味わうこととなる。しかし、そんな彼を使徒たちと会わせ、彼の経験を代弁してエルサレム教会の一員として受け入れるよう尽力する人物、バルナバが現われる。

 バルナバのおかげで、パウロは教会に足場を得、福音伝道の働きに一層邁進していく。その後、再びバルナバは故郷タルソスのパウロを訪ね、今度は異邦人伝道の拠点となるアンティオキア教会で共に伝道しようと働きかけるのだ。

 その後、二人は第一次伝道旅行を終えアンティオキアに戻るが、彼らは異邦の地に与えられた信仰者たちがどうしているかということが絶えず気がかりだった。

 そこで、二人は第一次の伝道地を再訪し、信仰者たちの問安を計画する。この旅にあたりバルナバはいとこであるマルコの帯同を希望した。マルコは第一次伝道旅行出発時に一緒だったが、最初の訪問地キプロス島から小アジアに船が到着した途端、単身エルサレムに引き返すという事件を起こしていた。この事件に際して、パウロはマルコを伝道者として不適格と見なした。一方、バルナバはマルコにリハビリの時を与え、伝道者として復帰させることを願った。

 これまで力を合わせ、助け合いつつ福音伝道のために尽力してきたパウロとバルナバは、このマルコの同行を巡って激しく対立し、とうとう別行動を取ることとなる。その結果、「バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出し」(39節)、パウロは新しいパートナー、シラスと共にシリア州やキリキア州を回る旅に出た。

 こうして気付いてみると、当初は単なる問安の旅だったはずが、新たな地への伝道旅行に変わっていた。しかも、もし二人に何もなければ一つだった旅が、別れることによって二つとなった。この二つの旅には、それぞれ重要な意味があった。パウロとシラスの旅は、この先第一次とは大幅に異なる、また彼らの計画ともかけ離れた全く新しい伝道旅行となる。

 一方、バルナバとマルコは故郷キプロス島への帰還以降、使徒言行録の表舞台から姿を消す。これをある聖書注解者は彼らの信仰が養い育てられるために必要な「一時退却」だったと解釈している。

 パウロは、この後書いた獄中書簡の中で次のように言っている。「わたしと一緒に捕らわれの身となっている……バルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています」(コロサイ4:10)。この時、マルコはパウロの伝道に同行し、そのために捕らえられ獄中生活も共にしていたのだ。

 また別の手紙で、パウロは次のように言っている。「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(Uテモテ4:11)。ここには、マルコがパウロから厚い信頼を得ていることが示されている。

 「パウロとバルナバの訣別」という、証しにならないような出来事さえも神は御自分の働きのために用いられた。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳、伝道の書3:11)という御言葉通り、神がなさることには一切無駄なことなどない、いやそれどころか、神はすべての人間を御自分の器として造りかえ、豊かに用いてくださるということがこの出来事を通して示されている。

 

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