日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

14年9月のバックナンバーです。

2014年9月7日 振起日礼拝(聖霊降臨節第13主日)

説教:「神の御旨に従う(1)」
聖書朗読:使徒言行録16章1〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 シリア州やキリキア州の諸教会問安後、パウロたちはデルベやリストラに向かい、第一伝道旅行とは逆の道順で旅をした。だが、逆ルートでも険しい山越えの旅であることは前回と変わらなかった。

 リストラの町には、「信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという」(1節)パウロの弟子がいた。テモテは、パウロが第一伝道旅行の際信仰へと導いた家族の一人であり(Uテモテ1:3-5参照)、パウロはテモテを「愛する子」、「信仰によるまことの子」と呼んで慈しみ育てた。

 神より豊かな賜物を与えられていたテモテは、指導を受けた後パウロと別れ、若くしてリストラ教会の中心的役割を担うようになる。そして、リストラにとどまらずイコニオンの町でも信仰者の厚い信頼を得るようになっていく。

 パウロは、そんなテモテを今回の伝道旅行の同行者として選んだ。ところが、この時パウロはテモテにユダヤの宗教的慣例である割礼を授けるのだ。

 テモテの母はユダヤ人で、父はギリシア人すなわち異邦人だった。律法は、父が異邦人でも母がユダヤ人ならば子をユダヤ人と見なしたので、テモテが割礼を受けないままでいるのはユダヤ人社会では違法だった。通常、生まれてすぐ施す割礼が施されなかったのは、彼らの結婚がユダヤ人社会で問題視されていたからだろう。

 そんな彼ら家族もパウロの伝道によって、福音はすべての人間を律法から自由にするだけでなく、律法そのものを完成するという御言葉を受け入れ、家族皆で信仰に入った。だが、彼らは依然として、律法の価値観が根強いユダヤ人社会で生きていた。異邦人と結婚しながら地域社会に溶け込む努力を重ねてきた彼らが、無用な問題に巻き込まれてその努力を不意にしないよう配慮してパウロはテモテに割礼を受けさせたのだ。

 パウロは、割礼を受けるのが当然という社会にあって、これまで「受けない」自由を生きてきたテモテが「受ける」自由をも自ら選択し、福音信仰に生きる者が律法から完全に自由であることを示した。このことは、まさにテモテの両親が体現しているように、律法を守るユダヤ人が律法を知らない異邦人と一つの共同体の中で生きられることをも示していた。

 パウロは次のように言っている。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。……何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(Tコリ9:19-23)。

 これがパウロの伝道に対する基本姿勢だ。彼の福音伝道は妥協のないものだった。つまずきの石を抱えて悩む人があれば、福音に生きる者がいかに自由であるかを自らの生き方をもって示し、そのつまずきから解放させることに努めた。こうして、あらゆるものから自由である神によって捕らえられた者自身もあらゆる束縛から解放され、やがて神が与えてくださるそのような恵みを宣べ伝える者に変えられていく。

 パウロたちがそのようにして「方々の町を巡回し」(4節)伝道すると、「教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えて」(5節)いった。ここに教会は何よりも先に伝道のため力を尽くすべきことが示されている。そして、これこそが「神の御旨」に他ならない。

 伝道によって「教会は信仰を強められ」(5節)る。信仰が教会の土台であるならば、伝道によって教会はより堅固にされ、その地において不動の存在とされていく。そして、そのような群れに神は恵みの賜物として人々を増し加えると約束してくださるのだ。

 

2014年9月14日 聖霊降臨節第15主日

説教:「神の御旨に従う(2)」
聖書朗読:使徒言行録16章6〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロの今回の旅は、次の目的で行われる予定だった。「前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」(15:36)。パウロにとって、自分たちが伝道したデルベやリストラの信徒たちを問安することは念願だったのだ。

 しかしその旅行に際して、パウロはバルナバとの訣別を経験し、シラスと組んで全く予定外の旅をすることになる。また、この旅の初めには重要な同労者テモテを与えられるという出来事もあった。

 さて、このようにして初めから計画を変更せざるを得なくなった伝道旅行だったが、パウロがその目的地として定めたのはアジア州、すなわち小アジアの内陸部だった。ところが、彼は何らかの理由によってそこで御言葉を語ることが出来なくなる(6節)。

 そこでパウロは計画を立て直し、進行方向を北に変え、フリギア・ガリラヤ地方を経由してビティニア州の方へ向かおうとした。しかし、この計画もまた継続不可能となってしまうのだ(7節)。

 パウロにしてみれば、人口が多いなどといった理由に基づいて訪問地を定め、旅行計画を練ったはずだ。何よりもその旅の目的は、福音伝道のためであった。しかし、いざ彼らが目的地へ向かおうとすると、計画はことごとく頓挫してしまうのだった。具体的にどういうことが起こったのか聖書は記していないが、「聖霊によって禁じられた」としか表現しようのない出来事だったのだろう。

 いずれにせよ、彼らは当初計画していた旅路を閉ざされ、予定外だったミシア地方を通ってトロアスへ向かう道を辿らざるを得なくなる。港町トロアスは、小アジア一帯の伝道を志していたパウロにとっては「最果ての地」だった。

 ところが、トロアスに着いたその夜パウロは夢を見る。それは、一人のマケドニア人が「マケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください」と願うというものだった。マケドニアは海を挟んだトロアスの対岸、すなわち当時の感覚で言えば、新大陸のような未知の土地ヨーロッパの地名だ。

 パウロはこの夢を通して、自分が考えていた神のための伝道計画がいかに狭い枠の中でのものであったか、神の御旨である伝道のビジョンがいかに大きなものであるかということに気づかされた。

 神は、海を渡ったヨーロッパの地で真の救いを求めている人々を助けるためにパウロを遣わすことをあらかじめ計画しておられた。彼らが聖霊によって禁じられ、道を失うようにして「不承不承」トロアスまでやって来たのも、実はその計画の一環だったのだ。パウロは、夢を通してその神のメッセージを聴き取り、自分たちがマケドニア人に福音を告げ知らせるため神に召し出されたことを確信し、すべてを神の導きに委ねて未知の土地への旅に向かって行く。

 パウロたちが宣べ伝えようとしているのは、復活によって死に勝利されたイエス・キリストだった。彼ら自身がこの主との出会いを通して、たとえいかなる困難が待ち受けていようとも主が自分たちを御旨のままに導いてくださること、そして御言葉を宣べ伝える働きを続けることによって迫害を受け、殉教を遂げることになっても、自分たちを死からよみがえらせる力を持った御方が常に共にいてくださることを信じる信仰を与えられたからこそ、彼らは何ものをも恐れずひたすら伝道の業に取り組むことが出来たのだ。

 我々の願いや計画が実現しなくとも、神の御旨は我々の生活の中で、我々一人一人を通して必ず実現されていく。我々人間の思いは吹く風のごとく絶えず変わるが、神の御旨はいつまでも、いささかたりとも変わることはない。

 

2014年9月21日 聖霊降臨節第16主日

説教:「主を信じる者」
聖書朗読:使徒言行録16章11〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 小アジアは、ユダヤ人の感覚では自分たちの国と陸続きの地域であり、パウロは自分に託された働きがそのような近隣諸外国の人々に対する伝道だと認識していた。

 だが、神が彼のために用意しておられたのはそのような規模の伝道ではなかった。アジアを越え、未知の世界であるヨーロッパまでイエス・キリストを宣べ伝える働きが託されているということを、神は幻によって彼に示された。

 マケドニア伝道という新しい使命を与えられたパウロは、テモテやシラスらと共に港町トロアスから船出し、約200キロ離れたフィリピに渡った。フィリピは鉱山に恵まれ、古くから金銀採掘で大変栄えた町だった。

 そこに住むユダヤ人はまだごく少数だったため、ユダヤ人にとって重要な礼拝施設、シナゴーグもなかった。しかし、彼らは少ないながらも礼拝の場を求め、川岸にそのための場所を定めて安息日ごとにそこで礼拝を献げていた。

 パウロは、これまでの旅行において福音伝道の拠点として、聖書が読まれ、祈りが献げられる場所であるシナゴーグを選んできた。今回、神の導きによって遣わされたフィリピにそのような施設はなかったが、パウロは人々が川岸で礼拝を守っていることを聞きつけ、そこに出向いて行った。

 そして彼は、そこに集まっていた婦人たちに対して福音を宣べ伝えたのだ(13節)。その中にリディアという女性がいたが、彼女は現代的な表現で言えばビジネスの世界で成功した「ビジネスウーマン」だったようである。

 彼女の出身地である海沿いの町ティアティラは、巻貝の貝殻から作られる紫の染料で有名であり、それで染めた紫色の布がこの町の特産品だった。リディアは、ティアティラ特産の紫の布をフィリピに運んで商売をし、成功を収めていたのだ。そういうわけで、彼女はフィリピに生活の拠点を定め、家族と共にそこで暮らしていた。

 彼女はユダヤ人ではなかったが、ビジネスの世界で成功しながらも故郷を離れて生活する中で様々な困難や問題に直面し、心の平安を求める思いからユダヤ人の祈りの場に参加し、彼らと共に川岸の礼拝を守っていたのだろう。

 そんな彼女がパウロの伝道を通してキリストとの出会いを与えられ、信仰へと導かれていった。そして、彼女はこの救いの言葉を家族にも聴かせたいと願って家族もそこに連れて行き、やがて家族揃って洗礼を受けるのだ。

 聖書は、リディアに起こったこのような状況を、「主が彼女の心を開かれた」からだ(14節)と説明している。ここには、福音伝道というものが人間の思いをはるかに越えた神の御業として働き、土の器である人間の内側にまで浸透していく驚くべき力を持っているということが示されている。

 このようにして、リディアとその家族はヨーロッパにおける最初のキリスト者とされた。しかもこの後、彼女はフィリピに存在しなかった信仰共同体が集まる場所として、自らの住まいを提供し、ここにフィリピで最初の教会が誕生することになるのだ。パウロは、自分の計画には全くなかったマケドニア伝道が、最初からこのように進展していくのを目の当たりにして、神の御業の計り知れない力強さにただただ驚くしかなかったに違いない。

 こうして、キリストの福音を聴いた者は、オリンピックの聖火ランナーのようにキリストの火を自らのものとして受け取り、それぞれに与えられている賜物に応じて自分に託された火を次のランナーへと引き継ぐため走っていく。  主が我々に託してくださっているのはどのような働きだろうか。我々もキリストの火を確実に受け取り、走り続けたい。

 

2014年9月28日 召天者記念礼拝

説教:「あなたも家族も救われる」
聖書朗読:使徒言行録16章16〜34節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロたちは、マケドニア州第一区の都市フィリピでの伝道を開始したが、ここでの伝道は目覚ましく進んだわけではなかった。この町は、異教の影響力が強く働き、真の神に逆らう力が根深くはびこっている町だったからだ。

 そこに、占いの霊に取りつかれている女奴隷がいた。彼女は、パウロたちにつきまとい、「この人たちは、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けた。その言葉自体は真理を語っていたが、彼女はそれを自分の「救い」として求めていたわけではなかった。真理について語っていても、それを他人事のように脇に置いて語ることは無意味であるばかりか神を軽んじる行いに等しい。そこで、パウロは「イエス・キリストの名によって」彼女に取りつく霊を追い出した(16-18節)。

 彼女から霊が出ていったのを見た女奴隷の主人たちは、彼女がいやされたことを喜ぶどころか、自分たちの商売道具を奪われたと捉えて怒り、パウロたちを捕らえて役人に引き渡した。その訴えを受けた町の高官たちも彼らの言いなりになって、パウロたちを鞭で打たせ、投獄した(19-24節)。

 パウロたちは一番奥にある牢に入れられ、足には重い木の足かせをはめられた。何度も鞭で打たれた挙句、足かせをはめられる痛みと苦しみは尋常なものではなかったはずだ。しかし、彼らはその日の真夜中に「賛美の歌をうたって神に祈って」いた(25節)。牢獄は真っ暗闇だったが、そんな中で賛美を歌う彼らの周りだけは光が灯っているよう感じられ、他の囚人たちもその歌声に聞き入った。

 パウロたちは、苦しみの中にあるからこそ神に感謝し賛美を献げた。なぜなら、彼らにはどんな時でも神が共にいて、自分たちの祈りを聞いてくださっているという確信が与えられていたからだ。そんな彼らにとっては、たとえ牢獄の中であろうとも、全知全能の神が共におられるゆえ、自分たちから自由を奪えるものは何もないと喜ぶことができたのだ。

 そんな彼らの祈りに応えて、神は大地を揺り動かし、牢の扉を開けて、囚人たちの鎖さえも外してしまわれた。この囚人たちにもたらされた自由は、看守たちには真逆の意味を持っていた。囚人たちが逃げ出した場合、看守は責任を取って、その囚人が受けるはずだった罰を受けねばならなかったからだ。そこで、看守は剣を抜いて自殺を図ろうとした。まさにその瞬間、彼はパウロの声を聞く。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)。

 看守にとってパウロは一人の囚人に過ぎず、彼から救いの言葉を聞こうなどとは思ってもいなかった。しかし、人生が「お先真っ暗」になったその時、神による激しい揺さぶりが彼の耳を開き、闇の中に備えられたパウロの口を通して語られる神の言葉に耳を傾ける者へと看守は変えられていった。  看守は、彼らの前に震えながらひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねた。これに対してパウロたちは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答え、真の主のもとへと看守とその家族全員を招いた。

 絶体絶命の状況から、救われるためにはどうしたらよいのか。それは自分自身の命を見つめるところから出てくる問いだ。そういう状況の中で看守に示されたのは、闇雲に歩く不安な道ではなく、真の光に照らされてまっすぐに伸びていく希望に満ちた道だった。

 このような道がすべての人のために用意されている。それは、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じ、全能の神への信頼に身を委ねることによって見出すことが出来る道だ。

 

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