先週の説教 -バックナンバー-
14年10月のバックナンバーです。
14年10月のバックナンバーです。
説教:「しばらくの苦しみの後で」
聖書朗読:【旧約】哀歌3章55〜57節、【新約】Tペトロ書5章8〜11節
説教者 : 飯田 仰神学生(東京神学大学大学院2年)
ペトロの手紙第一は、迫害の中にあった、キリスト者達に宛てて書かれた手紙でした。筆者は驚くべきことを述べます。もし神の御心であるならば、キリストにおける信仰の故に苦しむことは喜ばしいことだと(4章13節など)。聖書が語るのは、苦しい情況に置かれたとしても、神の力強い御手の下で自らを低くしてその状況を受け入れ忍耐せよ、ということです(5章6節)。
「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」この言葉の背景には、あのエジプトからご自身の民を導き出した神ご自身の力強い手の業というイメージがあり、それは目前の境遇が如何なるものであったとしても、信頼に値する導き手であることを述べています。そして苦しみにある時に感ずる思い煩いを、「何もかも神にお任せしなさい。」と勧めます。なぜならば、神様が「あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」と述べています。これは神様の御手の中に自分の重荷を乗せるという感覚です。
こう述べてから、この手紙の筆者は、私たちの目を、信仰の霊的戦いへと向けます。「身を慎んで目を覚ましていなさい。」「踏みとどまりなさい。」「抵抗しなさい。」と三つの動詞を羅列し、あたかも、神様が諦めていないうちに、私たちが諦めてしまうことがあってもよかろうか、とでも言っているようです。
そしてそのように戦い続けるべきだというのは、私たちだけではなくて、多くの兄弟姉妹達が同じ苦しみと信仰の闘いを共にしていることをあなたがたは知っているからだと筆者は語ります。
しかし、ここからがこの箇所のクライマックスです。10節が重要です。簡単に読み過ごしてしまい易い言葉かも知れませんが、ここでは二つの大切なことを述べています。先ず、今のこの苦しみというのが、「永遠の栄光」と比べると「しばらくの間」であるということ。そしてもう一つは、「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださ」るのが、神御自身であるということです。
主は既に成し遂げて下さった。そして私たちのために十字架にかかり死から復活し勝利をおさめられた。その主イエス・キリストが再び来られる時、全てを完成して下さいます。その終末の希望を私たちに思い起こさせながら、それがあるから今をしっかりと生きなさいと励まし強めて下さるのです。
神様は私たちにこのように約束して下さっています。それ故永遠の輝きに向けて私たちは歩ませて頂いています。今は、そこに向かっている途中であることを、そしてこの苦しみは暫くの間であることを、私たちは決して忘れてはなりません。そして神様御自身が私たちを励まし、支えて下さっていることを忘れてはなりません。この約束があるからこそ、私たちは喜んで苦難に面し立ち向かえます。哀歌にもあるように、私たちは深い穴に陥るかも知れず、そしてそこから主に叫び求めるようになるかも知れません。しかし聖書は私たちにこう教えているのです。私たちキリスト者には、深い穴からでも呼びかけ助けを求められるお方がいること、そしてそのお方、インマヌエルなるお方が、自ら私たちに近づいてくださり、恐れるなと語りかけて下さり、共にいて下さり、救い出して下さるのだということです。
私たち教会には、このような希望が主イエス・キリストによって与えられています。キリスト者が進んで且つ希望と共に喜んで苦しみに直面する時に、周囲の人たちの心は動かされます。そして主は私たちをも、この日本で用いて下さり、この世への真の光と希望を、教会を通して、教会の礼拝を通して、示そうとして下さっているのです。
説教:「誇り高き囚人」
聖書朗読:使徒言行録16章35〜40節
説教者 : 北川善也牧師
使徒言行録に登場する伝道者たちは、いかなる困難な状況に直面してもイエス・キリストの福音を宣べ伝えることをやめるどころか、その状況によってかえって熱く燃え、主の真の証し人としての働きをますます強めていった。
先に見たように、使徒たちは福音伝道のゆえ官憲に捕らえられ、鞭打たれた上にイエス・キリストの名によって語ることを厳しく禁じられた。しかしその後、釈放されると、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行」った(5章41節)。そして、彼らは官憲を恐れて口を閉ざすどころか、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせ」続けた(5章42節)。
このように伝道に燃える思いは、パウロたちにも与えられた。彼らのマケドニア伝道、すなわちヨーロッパ伝道の第一歩も、苦難のうちに開始された。そもそも、パウロたちの伝道ルートにマケドニア方面は含まれていなかった。彼らにしてみれば、自分たちなりに熟考を重ねて計画した小アジア伝道をふいにして、不本意な形で向かわざるを得なくなったのがマケドニアだった。しかも最初の訪問地で牢獄に閉じ込められるという事件に巻き込まれてしまうのだ。しかし、そんな状況にあってもパウロたちは神への賛美を決して忘れることはなかった。
福音伝道は、どこまでも神の御業であり、人間はそのために仕える存在に他ならない。しかしながら、神はすべてを御自分だけで進められるのではなく、御自分に似せて造られた人間を用いて御計画の一端を担わせてくださる。そのことをパウロは正しく受け止めることが出来た。そして、福音を宣べ伝える働きが神の御業であるということは、人間の目にどのように映ろうとも福音伝道に「失敗」などあり得ないということだ。
人間の手による業はしばしば行き詰まる。窮地に陥り、これ以上先に進めないとしか考えられないような時がある。パウロたちのマケドニア伝道は、初めからそういう状況だった。それは、彼ら自身の計画ではなかったから、この先どうなるのかという不安感は相当大きかっただろう。しかし、そのような窮地にこそ神は近づき、御手の業を示してくださるのだ。
パウロたちが捕らえられ、投獄された時にも神を賛美し、祈ることが出来たのは、そのような状況にあっても、自分たちは既に神の国の住人とされているという究極の希望を与えられていたからだ。
騒ぎを秘密裏に収拾しようとして、高官たちはパウロたちを釈放するよう下役らに命じるが、「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ」(37節)と囚人とは思えぬ強気な態度を示した。この言葉は、自分たちが大帝国ローマどころか何ものにもまさる神の国の国籍を持つ者であり、牢からの解放以前に真の自由を与えられているという彼らの誇り高さを表している。
使徒言行録は、口語訳聖書では「使徒行伝」と呼ばれていた。当時の牧師たちがしばしば「これは『使徒行伝』ではなく『聖霊行伝』である」と教えていたことを思い出す。伝道は、人間の目から見た時には失敗と言ってもよいような出来事の連続だ。だが、そのような働きに神の霊が豊かに注がれ、人間の思いを越えた力で神の御計画は確実に前進されていく。この伝道の働きに加えられていること自体が我々の喜びだ。現代を生きる我々もこの「使徒言行録」の歴史の延長線上を歩んでいる。
説教:「永遠の命に生きる神の家族」
聖書朗読:ヨハネ福音書6章34〜40節
説教者 : 吉本幸嗣先生(岸和田教会牧師)
主イエスは、我々の救い主である。我々の罪を背負い、十字架の上で死んでくださった神の独り子は、我々の罪を滅ぼして墓に葬られ、三日目の朝、栄光の御姿で復活され、我々のために永遠の命をもたらしてくださった。我々は、このようにして主によって神の子とされている。これが神の家族、すなわちキリストの教会である。
主は、「わたしが命のパンである」(35節)と言われた。この直前、主は大勢の群衆にパンを分け与える奇跡を行われ、これをきっかけとして「人々に永遠の命を与えるパンがある」と語り始められた。そして、群衆がその言葉の意味も分からぬままにパンを願い求めたとき、主は「わたしがその命のパンである」と告げられたのだ。
大勢の群衆が集まったのは、主がすばらしい話を聞かせたり、空腹の自分たちにパンまで与えてくれる「ありがたい」御方だったからである。しかし、彼らは目に見える出来事は受け入れても、主が命のパンであるという言葉は信じられなかった。それは群衆だけでなく、主の最も近くにいた弟子たちでさえそうだったのである。
人間の、罪に曇った心の眼では、本当のことは何も見えない。本当に見えるようになるためには、十字架につけられ、死んで葬られた後に復活され、天に帰られた主がそこから送ってくださる聖霊の導きを受けなければならない。
父なる神の御心のままに送られる聖霊の導きによって、我々は主ものとされる。そのようにして捕らえられた者を主は決してお離しにならない。命のパンである主を食べるとは、このようにしてキリストと一つに結び合わされ、教会に加えられて神の家族とされるということなのである。
神の家族である我々は、神の独り子が長子となってくださったがゆえに、主と共に「アッバ、父よ」と祈ることができるようにされた。父なる神は、神の子たる我々と共に食卓を囲み、命のパンを分け与えてくださる。教会で行われる聖餐式は、そのような神の家族の食卓を表しているのである。
神の食卓に招かれている神の家族の姿は、罪赦されている人間の姿そのものである。我々が神から離れることが罪であり、神が我々を追い出されることが罰である。その意味において、罪と罰とは一つだ。だから、主が共にいてくださるという、そのこと自体が罪の赦しであり、救いなのである。
このような神の家族は、この世においていかに生きるべきか。神に赦されて生きる者同士、互いに赦し合って生きるのだ。しかし、これは相手の罪を見て見ぬふりをするというのとは違う。神の家族は、祈りを合わせ、励まし合いつつ、日々共に罪から離れて歩む。
主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(39節)と言われた。今、我々と共におられる主は、我々が地上の生を終えても共にいてくださり、やがて終わりの日に我々を復活させてくださる。その復活の日を目指して歩む我々は、「命のパン」である主を食しながら、復活していない罪の体である自分に立ち向かって生きるのだ。
神の家族である我々は、既にキリストと一つにされ、永遠の命に与っている。放っておけば消えゆく存在である罪深い人間に永遠の命を与えてくださるのは、「命のパン」である主に他ならない。
罪に死ぬべき人間に、十字架の主は決して揺らぐことのない永遠の命を約束してくださった。しかも「一人も失わないように」そうすると言われた。だから、神の家族は永遠の命の希望に支えられ、感謝して生きることができる。
説教:「イエスという別の王」
聖書朗読:使徒言行録17章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師
パウロとシラスの新たな伝道旅行は、フィリピを皮切りにスタートし、次に訪れたのはテサロニケだった。テサロニケはマケドニアの州都であり、海陸交通の要衝として大変栄えていた。住民のほとんどはマケドニア人とギリシア人だったが、「ディアスポラ」のユダヤ人も多く住んでいたので、そこには立派なユダヤ教の礼拝堂、シナゴーグがあった。
パウロたちは、伝道旅行に赴く先々でまずシナゴーグを見つけ、そこで聖書に記された神の御言葉に慣れ親しんだ人々に向かって福音を宣べ伝えていた。彼らは、今回も人々が最も多く集まる安息日に三週続けてシナゴーグへ赴き、イエスこそキリストであるとの福音を聖書に基づいて語った。
パウロは、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」、そして「このメシアはわたしが伝えているイエスである」(節)と説いた。「メシア」、すなわち聖書においてイスラエルの救いを実現するため来臨すると預言されている救い主は、十字架にかかって死なれたイエスであったとパウロは人々に力強く告げたのだ。
すると、そこにいた「多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たち」(4節)がパウロの言葉を受け入れ、主を信じた。このように多くの人々が信仰へと導かれたことは、「イエスこそキリストである」という福音の言葉が、人種や身分、性別などに関係なく、誰にでも受け入れられるものであったことを示している。
しかし、この福音を受け入れないばかりか、福音を信じて従う者たちが出てきたことを激しくねたみ、伝道を妨げようとするユダヤ人たちもいた。彼らは、「広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし」たので(5節a)、町は混乱状態に陥った。
彼らは、「ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜し」た(5節b)。人々がヤソンの家を襲ったところを見ると、彼はパウロたちを自宅に引き取っていたのだろう。もしかすると、彼の自宅は家の教会として用いられていたのかもしれない。
ヤソンは、パウロたちを見つけ出せなかったユダヤ人たちの怒りの矛先となり、彼らの身代わりに連行されてしまう。だが、ヤソンはたった一人で捕らえられたわけではなく、「数人の兄弟」、すなわち信仰を同じくする教会の仲間たちと共に引き立てられていった。
そして、反対者たちは彼らを、「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」(6b-7節)と訴えた。
パウロたちは、「主イエスこそ真の救い主」と宣べ伝えることにより、当時のローマ皇帝クラウディウスを差し置いて別の王を立てようとする国家反逆罪を犯していると見なされたのだ。いずれにせよ、まだヨーロッパ伝道を開始したばかりの彼らが、この時点で「世界を騒がせる」存在として認識されていたことは驚きだ。
この言葉は、キリスト教がこれからいよいよオリエント世界の枠を越え、世界にあまねく宣べ伝えられていく神の御計画を見事に言い表わしていた。それゆえ、まさに反対者たちが訴えている通り、福音が世界に広がっていくことを誰も止めることができないのだ。
神の御計画は、人間の力では決して止めることができない。我々一人ひとりにもそのような神の御力が及び、こうしてキリストの教会につながる者とされている。そして、神の御力によって捕らえられた人間は、この世の何ものをも恐れることなく、恵みに満たされ、喜びをもって与えられた命を生きることができるのだ。