日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年01月のバックナンバーです。

2008年1月6日 公現日・新年礼拝

説教「わたしは道であり、真理であり、命である」
聖書朗読 : ヨハネ福音書14章1〜14節
説教者 : 北川善也伝道師

 12弟子の1人トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(5節)という嘆きのような問いを発する。これに対して主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という決定的な御言葉でお答えになる。

 今日行われる成人祝福の際に朗読する聖書は、「主よ、あなたは私の希望。主よ、私は若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました。……あなたは私の避けどころ、私の砦。私の口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをたたえます」(詩71:5-8)と告げている。ここで謳われているのは、人間は信仰によって生かされ、また真の希望を持って生きていく絶大な力を与えられるという圧倒的な賛美の言葉だ。

 私は今から七年前の2000年12月31日に、母教会での説教を聞いて大きな転換を与えられた。それは、ルカ福音書2章に記された「シメオンの賛歌」に基づくもので、「主の御用を果たしたいという気持ちをどれだけ強く感じる事が出来るか。そして、今がその時だという確信をシメオンのように持つことが出来るならばどれほど幸せか。主がその役目を与えられる時がいつ来るかは最後までわからない」という御言葉が語られた。そして、私はこの御言葉によって召命感を与えられ、献身を決意した。

 神は、決して揺らぐことのない信仰の確信を、御言葉を通して我々に示してくださる。シメオンに、そしてトマスに示されたように、神は御言葉を通して、我々が歩むべき道を、自分のものとすべき真理を示してくださるのだ。

 今日の聖書冒頭で、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。……行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われる。我々は、自分の力ではなく、主の一方的な恵みによって信仰を与えられるのだ。

 我々が、トマスのように不安に駆られて、「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と叫ばざるを得ないような時にも、主は我々のそばにいて、主こそ「道であり、真理であり、命である」ことを御言葉をもって明確に示してくださる。洛北教会に託された「伝道第二世紀」の新たな歩みを力強く進めていくために、我々は今こそ「道であり、真理であり、命である」お方に全てをお委ねし、このお方を信じる信仰に固く立ちたいと心から願う。

2008年1月13日 降誕節第三主日(オール洛北礼拝)

説教「来なさい。そうすれば分かる」
聖書朗読 : ヨハネ福音書1章35〜51節
説教者 : 北川善也伝道師

 我々はどうして教会に来るようになっただろうか。ある人は、家族に連れられて小さい頃から来ていたかもしれない。またある人は、キリスト教主義の学校に通い、そこで初めて聖書を読んで興味を持ったかもしれない。通りを歩いていた時に教会の看板が目に入って関心を持ったという人もいるかもしれない。このように、それぞれのきっかけはバラバラなはずだが、我々が教会に来るようになるためには、誰もが必ず聖霊の働きかけを受けている。それは、「伝道」とも言い換えることが出来る。

 ある日、ヨハネと二人の弟子たちの前に、彼らが待ち焦がれていた主イエスがやって来られた。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と告げるや否や、弟子たちはすぐその後に従った。けれども、彼らは主イエスの本質的な姿をまだ理解していなかった。それゆえ、主から「何を求めているのか」と尋ねられた時、何と答えてよいかわからなくなってしまうのだ。

 そんな彼らに主イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と告げられる。こうして、彼らは主に従い、本当の意味で主を理解出来るように変えられていく。その一人であったアンデレは、このお方こそメシアであると確信するや、この思いを自分一人のものにしていることが出来なくなる。そして、すぐ兄弟ペトロのところに駆けつけて、メシアとの出会いを告げ、兄弟を主イエスのもとへと連れて行くのだ。

 43節以降には、主イエスがガリラヤへ赴かれる途上でフィリポと出会い、弟子にされる場面が描かれている。フィリポは自分から主を見出したのではなく、主の方から見出され、「わたしに従いなさい」と呼びかけられた。このようにして主によってこの上ない喜びに満たされたフィリポも、その喜びを自分だけのものにしておけず、すぐ友人ナタナエルのもとに向かう。なかなか信じようとしないこの友人を、フィリポが主イエスのところに連れて行くと、ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という信仰告白をするに至る。

 我々は、主イエスによって招かれ、主イエスと出会うために、毎週日曜日に教会へと集められている。我々は、そこで御言葉を通して主イエスとの出会いを与えられ、真の救いに入れられている感謝の思いをもって、この世の生活へと遣わされていく。我々は、ここからアンデレのように家族のもとへ、フィリポのように友人のもとへ、我々が与っているこの喜びを伝えに行き、主との出会いをもたらす者とさせていただきたい。そのために、我々はいつも教会で礼拝をお捧げし、主イエスとの交わりを絶やすことなく、そのことによって真の喜びを増し加えられて、教会と共に成長していくことが出来るように祈り続けたい。

2008年1月20日 降誕節第四主日

説教「真理はあなたたちを自由にする」
聖書朗読 : ヨハネ福音書8章21〜36節
説教者 : 北川善也伝道師

 主イエスは、ファリサイ派の人々を前にして、彼らには全く理解出来ない言葉を並べ立てられた。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(8:21)。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(8:24)。しかし、彼らが理解出来なかったのは、「ファリサイ派」だったからだけではない。イエス・キリストの出来事がいまだ成就していなかった当時、この言葉はすべての人々の理解を超えていた。

 我々人間は、実際に目で見て体験しなければ受け容れられない弱さを抱えている。そういう我々のために、主はその姿を現し、共に生き、愛の業を徹底的に示してくださった。それだけでなく、我々のことを、主がもたらされる「真理」を理解し、受け容れることの出来る存在へと変えてくださるのだ。

 ファリサイ派にとって、神が人間の姿でこの世に現れることなど到底考えられない。それゆえ、この時主が語られた「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」という言葉は、神への冒涜以外の何ものでもなかった。そういう人々が怒りをあらわにして取り囲んでいる只中で、主は十字架の出来事を告げられ、そんな恐ろしい状況の中で多くの人々が変えられていくのだ。

 しかし、主はここで間髪入れずに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8:31-32)と言われる。主は、まだ信じたばかりの、信仰の入口に達したばかりの人々に対して、このように語っておられる。つまり、信仰に入れられた者は、その入口にいて満足するのではなく、主の言葉にどっぷり浸かってそこにとどまり、主に従って歩み続けなければ、真の救いに与ることは出来ないということが告げられているのだ。

 我々は、「この世に属したまま、自分の罪のうちに死ぬ」しかない存在だった。しかし主は、この我々の罪を、十字架によって完全に拭い去ってくださった。我々は、これが自分のために起こった出来事であると信じ、受け容れることによって初めて、罪に満ちたこの世の中に身を置きながら、その罪を完全に取り去られ、神の子とされるのだ。

 これこそが、我々に示されている「真理」に他ならない。我々が、「道であり、真理であり、命である」イエス・キリストとの交わりのうちに、いつまでもとどまり続けることが出来るよう、信仰を与え、増し加えてくださる聖霊の働きを絶えず祈り求めよう。そして、真理によって真の自由に与り、イキイキとした豊かな人生を全うしよう。

2008年1月27日 教会創立100周年記念特別伝道礼拝

説教「私から私たちへ」
聖書朗読 : ヨハネ福音書10章1〜18節
説教者 : 山北宣久先生(聖ヶ丘教会牧師・教団総会議長)

 「群れ」とは、真の「君」なるイエス・キリストの隣に「羊」がいる状態を指す。そのようにして、「私」が「私たち」とされているのが教会だ。聖書は、その様子を一貫して「羊飼い」と「羊」の関係に比して来た。

 羊は穏やかだが、判断力に乏しく迷いやすい。羊はそういう存在であるがゆえ、羊飼いに守られねば生きていけない。羊飼いなる神の愛は、こうした弱さに注がれ、教会はこの神の愛を反射させる場所だ。

 主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と自己紹介されたが、そこには様々な意味が含まれている。まず、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われる。主は、我々一人一人との間に人格的な関係を結んでくださる。また、「羊飼いは羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」と言われる。人間は風のように行き先のわからない存在だ。主だけが行き先を知り、我々を導いてくださる。さらに、「わたしは羊の門である」と言われる。真の羊飼いは、羊の群れの前で門のように体を張り、命懸けで羊を守る。

 こうして我々の群れの中心が何であるかがはっきりする。それは、我々のためにこの世に来られ、自ら貧しく低く生きて、我々のために十字架にかかってくださったイエス・キリストに他ならない。主は、我々の「下に立ち(understand)」、肉を裂き血を流して死ぬことによって我々を生かしてくださるのだ。

 そればかりか、復活の主は、我々にとっての終着駅である死を、永遠の命という始発駅に変えてくださる。明日の命もわからない我々のもとに、神は御子を遣わし初穂としてよみがえらせてくださった。この初穂は、我々がその後に続いて実を結んでいくためにこそ与えられた。それゆえ、我々は主の復活を最も大切なこととして覚え、その出来事が起こった日の朝に礼拝を献げ続ける。

 我々は、こうして再び来たりたもう主を待ち望みつつ、愛の業に励む群れだ。それゆえ、キリスト教国では「さようなら」とは言わず、復活の希望と共に「ではまた」と言う。仏教の鐘は「ゴーン(gone)」と諸行無常の響きを持つが、キリスト教の鐘は「カーム(come)」と主の再臨を告げる。

 主は、「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われる。どんな羊も羊飼いの声を知っているはずだと言う。そうであれば、真の羊飼いの声を聞き取り、先に群れの中に加えられた我々の務めは、まだ聞こえていない羊たちの耳にもその声がしっかり届くよう配慮することに他ならない。

 我々は、「コソクリ」(=あの人こそクリスチャン!)になり、イエスの心を心とし、囲いに入っていない羊たちを導こう。伝道の実を結んでくださるのは、神御自身である。こうして一匹の羊は群れとされる。そこにおいて、「私から私たちへ」という教会の務めが成し遂げられるのだ。

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