先週の説教
洛北教会の説教を毎週更新します。礼拝の録音(mp3形式)および録画(Youtubeへのリンク)を視聴できます。
バックナンバー 一覧へ
2020年3月29日より、礼拝のライブ配信(毎日曜日10:45)および録画視聴が可能になりました。
個別の主日礼拝の録音/録画へは、下欄の礼拝記録内のリンクをクリックしてください。バックナンバーにも順次録音/録画へのリンクを掲載します。
Youtube内のすべての礼拝録画リストを見るには、下記のリンクをお使いください。
洛北教会Youtubeチャンネルへ→
2022年6月26日 三位一体後第2主日
説教:「信仰によって」
聖書朗読:ヘブライ人への手紙11章32〜48節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「出会いを生きる・出会いに生きる」
11章全体にあげられている信仰の実例からして、著者がいう「信仰」とは何かを理解することができます。それは、神の約束によって終わりの時に与えられると望んでいる栄光、まだ見ていない終末的な栄光の事態を確かなリアリティーとして、現在を生きる生き方に他なりません。
そこで大切なことは39節の「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」という言葉です。考えようによっては「じゃ〜駄目じゃん」と思われる方もあるでしょう。だって約束のものを未だ手に入れていないのですから。しかし実は、ここにこそ約束の信仰的側面における意味があるのです。
この文書の筆者は「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことを悟るのです」(3節)と言います。この根源的な原理をしっかりと把握し、見えないものをリアリティーとする「信仰」を生きることの大切さを、ここで私たちは知ることになります。
信仰は私たちの所有物ではありません。信仰とは「関係」であり、信仰生活とは「関係を生きること」なのです。ここに「約束されたものを未だ手に入れていない」ことの意味があります。「手に入れていない」からこそ、更なる「変容・脱皮・成長(要するに<メタモルフェーゼ>」があるのです。「信仰」とはこの「メタモルフェーゼ」を神との関係の中で日々体験しつつ生きることに他なりません。
神も信仰も完全に私の所有物となることはありません。しかし私たちはそこでこそ「所有欲」から解き放たれて、他者との「出会い」をこそ生きる者とされていくのです。このテーマに関しては、キルケゴールの『死に至る病』を推薦図書とさせて頂きます。
←クリックすると礼拝の録音が聞けます。
←クリックすると礼拝の録画を視聴できます。