先週の説教
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2021年4月18日 復活後第2主日
説教:「光の子ら」
聖書朗読:ヨハネによる福音書3章14〜21節
説教者 : 岡本知之牧師
説教黙想 「イエスに至る光の道」
本日は本来墓前礼拝を行うべき日であるが、このコロナ禍の中で今年度も実施は見送りとなった。そこでこの主日礼拝の中で教会墓地への埋葬者を覚えて御言葉を聞き祈りを合わせたいと思う。
先週の説教でも触れたことであるが、ヨハネ福音書の神学の特徴は「終末が既に来ている」と捉えることにある。いつ来たか、「主イエスの到来と共に」である。なので「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(18節)と語るのである。終末こそが裁きの時なのである。
ではそこで、誰が裁き、誰が裁かれるのか。勿論裁くのは裁判官としての神であり、裁かれるのは被告としての人間であろう。しかしそれは半分正解で半分不正解である。なんとなれば19節に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」とあるからである。厳密に言えば神が裁き給う前に、人が自らを裁きに定めているのである。よってこの裁きは100%自己責任である。
なるほど、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である」と語られる通りである。「裁き=断罪=滅び」ではなく、「真理を行う」ことによって「御子による救い」を得る者がある。しかしこれはある種、誤解を招く言い方であるとも言える。「先ず真理を為す者があり、その者は光の方にやってくる」と読むならば、光に来ることも、それによって救いを得ることも、すべては真理を行うその人の業が根拠となるからである。即ち救いの根拠は真理を行う人の業にある事になる。しかしここが語っているのはそういう事ではない。その真意は「光に来ること、それが即ち真理である」という簡潔自明の事柄である。光が来たので闇に住む民にも御子に至る道が照らし出された。その道を辿りイエスに至ること。それが光の子達の真理なのである。
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