日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年1月のバックナンバーです。

2015年1月4日 新年礼拝(降誕節第2主日)

説教:「満願の献げ物を主にささげよう」〜2015年教会標語より〜
聖書朗読:詩編116編1〜19節
説教者 : 北川善也牧師

 2015年の教会標語は、詩編116編の御言葉から与えられた。116編は、生命の危機から救われたことを神に感謝する歌だ。詩人は、救いを祈り求める自分の願いが聞かれた感謝を神の御前、すなわち礼拝の場において歌っている。

 彼の苦難の原因が何だったのかは不明だが、彼は絶望的な苦しみを受け、暗闇のどん底のような状況に置かれても、神への信頼を失わず、神の愛に慰めを見出した。

 この詩は、「わたしは主を愛する」という、主への愛の告白で始まっている。詩人は、神との交わりによって祝福で満たされ、幸福感溢れる状態となっている。彼は、このような神との交わりを、自分の祈りが聞かれるということによって与えられた。人間側の神に対する愛は、このように神の大いなる愛に触れた時に初めて惹き起こされる。神の愛は、絶えず人間に注がれているにもかかわらず、我々は自分が必要としている時にしかそれに気づかないのだ。

 詩人は、激しい苦しみに襲われている時も、人から欺かれているという不安の中にある時も主への信頼を失わなかった。しかしそれは、どんな時でも主が徹底的な愛と憐れみをもってとらえ、深い御計らいのうちに覚えてくださっていることを彼が知ったからだ。

 7、8節で「魂」と訳されているのは、「わたしの全存在」という意味を持つ言葉だ。つまり、「魂」と言った場合、体の一部分のことを言っているのではなく、その人の「全存在」でもって確かな平安を経験しているということなのだ。これこそ、地上で与えられる神の御国の「前味」だ。神の御国とは、故郷のような安らぎを与えられ、人間の全存在が喜びと希望で満たされる場に他ならない。そのような神の御国の地上における現れが礼拝の場であり、神の民はそこで神と近づくことによって、何ものにも代えられない平安に与ることができる、と詩人は歌う。

 こうして、彼は生命の危機から脱け出した時に知るのだ。生命は、常に神の御前にあり、神との交わりにおいて新しくされ豊かにされる。つまり、生命はそれを与えてくださった神に対する感謝をもって歩む日々の生活の中で更新されていくのだということを。

 この確信が、激しい苦悩や不安の中にあってなお、詩人の信仰をゆるぎないものとした。それゆえ彼は、自分を絶えず平安のうちに置いてくださる神への感謝で満たされるのだ。その思いが、「救いの杯を上げて主の御名を呼び 満願の献げ物を主にささげよう」(13節)という言葉で表されている。

 詩人は、15節で「主の慈しみに生きる人の死は主の目に値高い」と歌っているが、「主の慈しみに生きる人」とは誰のことか。それは、神の御独り子イエス・キリストを置いて他におられない。キリストこそ、誰にも増して神の慈しみの中を生きられた御方だ。そのキリストの十字架における死は、父なる神の目に他の何ものよりも価高い。そのことを明らかにするため、父なる神はキリストを死の縄目から解き、復活させられた。

 詩人は、16節で自分が「神の僕」であることを強調し、僕としての姿勢をもって神への愛を徹底的に貫くと表明している。このように、彼にとって神への感謝は、単に献げ物をささげたら終わりなのではなく、神に対する「満願の献げ物」をもって行うことなのだ。

 ここに、神への感謝は「満願の献げ物」、すなわち自分という全存在をもって表すべきことが示されている。神は、愛する御子を、すべての人間を救うために惜しまず与えてくださった。我々は、このような神の愛に生き、愛なる神に感謝しつつ、自分という全存在を喜びをもってささげる礼拝共同体として成長させられたい。

 

2015年1月11日 オール洛北礼拝

説教:「イエスさまの洗礼」
聖書朗読:ルカ福音書3章21〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 ヨルダン川は、昔からイスラエルの人たちにとって貴重な水源でした。イスラエルには、二つの季節しかありません。日本は「春・夏・秋・冬」の四季がありますが、イスラエルは「雨季」と「乾季」の二つです。10月から3月ぐらいまでが「雨季」で、この時期は大地が潤っているので花や緑がとてもきれいです。ところが、4月から9月ぐらいまでは雨が降らなくなります。そうすると、もともと砂漠のような土地なので、乾燥して埃っぽくなります。そして、雨季には水が流れていた川の水量はだんだん少なくなり、最後にはただの溝になってしまうのです。

 でも、ヨルダン川は違います。この川の始まりであるガリラヤ湖は、雨季に降った雨水をたっぷり蓄えたレバノン山から一年中水が入って来るので、決して涸れることはありません。だから、ヨルダン川にはいつでも豊かに水が流れています。人間は、生きていくために欠かせない水があるところで生活します。イスラエルでは、昔からヨルダン川の近くに大勢の人が暮らしていたのです。

 さて、まだイエスさまが人々のところに現れる前のことです。ヨハネという人が、ヨルダン川の近くで暮らしていた人々に向かって「悔い改めなさい。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と呼びかけ、自分の罪を告白した人々に洗礼を授けていました。

 洗礼を受ける人は、ヨルダン川の中に体ごと入り、頭の先から足の先まで全部水の中につかりました。そのような洗礼を授けていたヨハネのところに、ある日イエスさまが近づいてこられました。イエスさまもヨハネから洗礼を受けるために来られたのでした。

 ヨハネの洗礼は、神さまのことをすぐに忘れ、自分勝手なことばかりしてしまう人間に赦しを与える「悔い改めの洗礼」でした。そのような洗礼が、神さまの子どもであるイエスさまに必要だろうかとヨハネは不思議に思いました。ヨハネは、イエスさまが罪のない正しい御方としてこの世に来られたことをよく知っていたのです。

 イエスさまは、すべての人の救い主としてこの世に来られました。イエスさまが、与えてくださる救いとはどんなものだったでしょうか。それは、神さまのことをすぐに忘れて、自分のことしか考えないわたしたちが、いつも神さまを見上げ、神さまに喜ばれる生き方をするようになること、つまり、わたしたちが神さまの子どもとされることです。

 ヨルダン川がガリラヤ湖とつながっていることでいつも豊かな水を受けているのと同じで、わたしたちも神さまとつながることによって命の水を豊かに受けることが出来ます。わたしたちは、イエスさまが十字架にかかってくださったことによって神さまとしっかりつながることが出来たのです。

 そして、イエスさまはわたしたちが神さまとつながるための方法を示してくださいました。それが洗礼でした。イエスさまが洗礼を受けられた時、天が開けて、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスさまの上に降って来ました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。これはイエスさまの父である神さまの声でした。この声によって、イエスさまが神さまの大切な独り子であり、イエスさまによって神さまは人間とつながってくださることがはっきり示されたのです。

 こうしてイエスさまは、神さまを忘れ、自分のことしか考えないわたしたちと一つになってくださいました。わたしたちは、イエスさまと同じ洗礼を受けることによって、神さまから聖霊を受け、神さまに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言っていただけるのです。

 

2015年1月18日 降誕節第4主日

説教:「悪霊の力 vs 聖霊の力」
聖書朗読:使徒言行録19章11〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、エフェソに2年3ヶ月滞在し、キリストが苦しみを受け、十字架の死から復活されたのは、すべての人間の罪を赦し、永遠の命の約束を与えるためだったことを人々に宣べ伝えた。すると、そこに多くの信仰者が生み出され、教会が建てられていった。そして、そこで彼らは主の御名を呼んで礼拝を献げるようになった。

 ところが、その傍らである出来事が起こった。「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた」(13-14節)のだ。

 我々が何かを試す時、心の片隅には疑いがある。半信半疑でとりあえずやってみるという感覚だ。祈祷師たちは、「どうやらイエスという名にはすごい力があるらしい。パウロがその名を使って奇跡を起こしたが、自分たちにもできるかもしれないからやってみよう」というような生半可な気持ちで始めたのだろう。

 その結果、うまくいかないどころか散々な状況となった。「悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」(16節)。

 なぜパウロにできたことが彼らにはできなかったのか。その違いは、信仰の有無に他ならない。それでは「信仰」とは何か。

 悪霊は祈祷師たちに言った。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」(15節)。悪霊は、主の御名に恐るべき力があり、その名が信仰をもって呼ばれる時、その力を十二分に発揮することを知っていた。そして、御名を呼ぶ者が信仰によって神の子とされることを恐れた。だから、悪霊は主の御名に人々が近づかないようあの手この手を使って妨害しようとするのだ。

 悪霊は、御名を呼ぼうとする者たちを試みる。「いったいお前たちは何者だ」。しかし、信仰を持っていない祈祷師たちは、この問いかけに明確な答えを出せず、散々な目に遭う結果となった。

 彼らは、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」(13節)とは言えたが、「わたしが信じている主イエスの御名によって命じる」とは言えなかった。しかし、信仰者はそうではない。神への信仰を起点として生きているので、信仰は増し加えられていき、一層主の御名を親しく呼ぶ者へと変えられていく。

 本日の聖書箇所の後半部分は大変興味深い。祈祷師たちが悪霊によってひどい目に遭ったことが町中に知れ渡ると、「人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」(17節)。そして、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)というのだ。既に信仰者だった人々に悔い改めがもたらされた。つまり、彼らは神を信じると言いつつ、まだ神以外の力に寄り頼んでいたのだ。

 信仰者は、神を父と呼ぶ関係に置かれた神の子とされる。だから、「いったいお前は何者だ」と問われた時、我々はあれこれと必死で答えを探さなくともよい。その問いに、信仰をもって「わたしは神の子だ」と答えればよいのだ。

 この答えを知っている者は、いついかなる時も自分が曖昧になることはない。激しく揺さぶられても自分という存在が揺らぐことはない。「わたしは神の子である」、「わたしはキリストのものである」、この信仰告白によって我々の歩みは支え導かれていく。

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2015年1月25日 降誕節第5主日

説教:「ただならぬ騒動」
聖書朗読:使徒言行録19章21〜27節
説教者 : 北川善也牧師

 エフェソの人々は、パウロに先立つアポロの伝道により神を認識しつつあったが、キリストの御名を受け入れるまで至っていなかった。そこにパウロがやって来て、キリストの福音を明確に告げ、真の洗礼を人々に授けていった。

 以後3ヶ月にわたりパウロはユダヤ人会堂で伝道に取り組んだ。しかし、一部の人々が頑なに福音を拒み、表立ってパウロを非難し始めたので別の場所へと移る。

 そこでの活動は順調に進み、パウロは2年間という長期にわたってエフェソ伝道に取り組むことができた。その結果、エフェソばかりか小アジア一帯で大勢の人々が主イエスを信じるようになった。

 21節で新共同訳は大事な言葉を訳し落としている。口語訳は、「これらの事があった後、パウロは御霊に感じて……」となっている。つまり、「御霊に感じて」が抜けているのだ。使徒言行録のポイントは、聖霊の働きに他ならない。

 そもそもパウロの伝道旅行は、アンティオキア教会で礼拝中に示された聖霊の導きによって始められた。また、第二次伝道旅行の際、パウロは当初小アジア一帯の伝道を志していたが、行く先々で「聖霊に禁じられ」、とうとう海を渡ってマケドニア伝道に向かうこととなった(16:6-10)。

 パウロは、この時エフェソ伝道に取り組もうとしたが実行できず、海を渡ってフィリピ、テサロニケ、べレア、コリントを巡ることとなった。しかも、彼は行く先々でことごとく伝道を失敗し、迫害によって逃げるように次の町へ移動するという有り様だった。

 そんな旅の末、パウロはようやく辿り着いたエフェソで念願だった伝道を開始し、長期間の滞在も叶い、小アジア一帯での伝道が順調に推移していった。ここに、彼の伝道旅行が人間の思いとはかけ離れた、神の御計画のうちにあったことが明示されている。

 しかしそんな中、パウロはエフェソ伝道に区切りをつけ、エルサレム、そしてローマへと向かう新しい道を示されるのだ。

 パウロは、エフェソ伝道を途中で投げ出したのではなく、この町の伝道を現地の信徒たちに託す時が来たことを聖霊によって示されて決断したのだった。

 パウロの伝道計画は必ずしもうまくいかなかったが、振り返ればいつも神が万事を益となるように働いてくださった(ローマ8:28)ことを思い、彼はこれからのことも一切神に委ねることができた。

 しかし、その頃エフェソに「ただならぬ騒動」が起こった。アルテミス神殿の模型製作で莫大な利益を得ていた銀細工師の頭デメトリオが仲間を集め、パウロの伝道を妨害するようけしかけたのだ。

 デメトリオの言い分はこうだった。「この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている」(25-27節)。

 銀細工師の危機感は根拠のないものではなかった。パウロがエフェソを中心とした小アジア一帯で伝道すると、大勢の人々がその言葉を聞いて信仰に入った。そして、彼らは自分たちの罪を悔い改め、生活を一変させていった。こうして多くの人々が偶像や迷信から離れ、生ける真の神に立ち帰ったので、祈祷師や魔術師、また女神アルテミスは不要となったのだ。

 これは、デメトリオら偶像製作者たちにとり由々しき事態だったが、そんな人間の思いなど吹き飛ばすような勢いで福音伝道の働きは前進していく。このような騒動が起こったこと自体、小アジア一帯での福音の広がり方が尋常ではなく、瞬く間に信仰者が増し加えられていったことを示している。

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