日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年5月のバックナンバーです。

2015年5月3日 復活節第5主日

説教:「何をためらっているのです。立ち上がりなさい」
聖書朗読:使徒言行録22章12〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、「なぜ、わたしを迫害するのか」という主イエスの声を聴いた。かつて彼は、キリスト教徒を弾圧し、彼らの指導的立場にあったステファノを殺害する行為に関係した。その時、ステファノは石打を受けながら、「この罪を彼らに負わせないでください」と祈りつつ殺されていった。

 パウロの回心には、このステファノの祈りが大きな影響を与えていると考えられる。パウロは、ステファノ殺害に深く関わりを持ち、彼の最期の祈りを至近距離で聞いた。この祈りが、パウロの心の奥底で次第に大きな比重を占めるようになっていたのではないか。そんなパウロが、ダマスコ途上で強烈な光と共に主イエスの御声を聴くという体験をし、それが彼に回心をもたらしたのだ。

 信仰体験というのは、このように神の御声を聴くことによって起こる。一人ひとりに語りかけられる御声を聴き、それによって変えられること、それが神との出会い、すなわち信仰体験だ。

 その時、パウロと一緒にいた人々は、強烈な光をまともに見てしまったがゆえに彼が視力を失い倒れこんだのだと理解しただろう。しかし、確かに不思議な強い光が照らされるという出来事は起こったが、彼は光を見て変えられたのではなかった。彼は、そこで主イエスの御声を聴き、その御言葉の力によって赤ん坊のように無力な者とされてしまったのだ。

 このようにして無力にされたパウロが、アナニアによって信仰へと導かれる経験をする。そして、聖書の別の箇所には、このアナニアもまた「パウロに会え」との主の御声を聴く体験を与えられたことが記されている。この時、アナニアはためらい、パウロが自分たちにどんなひどいことをしたかご存じではないのですか、と主に訴えた(使徒9:10以下)。

 そんなアナニアに対して、主はパウロを用いて御自分の業を進めようとしておられることを説明し、アナニアはその御声に従ってパウロと対面する。アナニアという名前は、「神は恵み深い」という意味を持つが、全く無力となったパウロに、アナニアを通してそのことが示される。敵であったパウロに彼は、「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい」と声をかけた(13節)。パウロは、このアナニアの言葉を、自分に対して主イエス御自身が直接語られた言葉と信じて受けとめたのだ。

 「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」(14-16節)。

 こうして、かつてパウロの迫害を受ける側だったアナニアが、主の御声を聴いて回心へと導かれたパウロにいやしを与え、洗礼を授ける者となった。パウロとアナニアの立場は大きく異なっていたが、共に主と向き合い、御言葉に従って主が自分に与えられた道へと進むことができた。

 今、収監直前のパウロは、そのことをユダヤ人の前で堂々と証ししている。自分は、かつて律法によって生きる者だったが、真の救い主と出会い、この御方の御声を聴いて福音に生きる者となり、伝道者として変えられたのだ、と。

 人間の生き方、人生そのものが変えられるということ。それは、自分の命の源である御方と出会い、その御言葉に従うことによって起こる。我々一人ひとりも、聖書を通して与えられる神の御言葉によって内側から根本的な変化を与えられていくのだ。

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2015年5月10日 復活節第6主日

説教:「行け。わたしがあなたを遣わす」
聖書朗読:使徒言行録22章17節〜21節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロの回心は、ダマスコ途上で強烈な光に照らされ、その光の中で主イエスの御声を聴くという体験によってもたらされた。だが、それ以前からパウロには、彼自身が気付かないような仕方で「主との出会い」の備えが与えられ、回心後の彼は主の導きがなければ全く歩むことが出来なかった。

 パウロは、主の弟子ステファノが石打によって殉教を遂げた際、その至近距離で彼の最期の祈りを聞いていた。それは、「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りだった。

 パウロの回心は、ダマスコにおけるアナニアとの出会いなしには成し遂げられなかったし、バルナバを始めとする助け手の導きがなければ、命を狙う者たちから逃れてエルサレムに帰還することは出来なかった。これらは、いずれも主が備えられた道だった。

 そんなパウロに次のような体験が与えられる。「わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです」(17-18節)。ここで「主にお会いした」と訳されているギリシャ語を直訳すると「言葉を見た」となる。

 主との出会い。それは、パウロにとって主の御言葉を聴くという体験に他ならなかった。パウロが迫害者から信仰者へと変えられる出来事は、目で「見る」ことによってではなく、主の御声を「聴く」ことによってもたらされたのだ。

 我々にも、主との出会いが与えられる。それは、聖書の御言葉を通して主を目撃するという体験だ。パウロのように「主にお会いする」という体験は、聖書を通して我々にもたらされる。

 パウロの回心後の生涯は、その出会いの出来事を語り続ける歩みだった。パウロは、主と出会い、その大いなる愛に触れることによって初めて自分がどういう人間であるかを知ったからだ。

 かつてのパウロは、自分で「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています」(19節)と告白しているように、キリスト者の敵である迫害者に他ならなかった。また、「ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もし」ていたのだ(20節)。

 律法によれば、血にまみれた人の身体に触れた場合、触れた人はその汚れを身に帯びることになった。ひたすら律法に従って歩むことしか頭になかった当時のパウロは、汚れと無関係でいるために上着の番をしていたのだ。

 しかし、主との出会いによって、パウロは自分ほど汚れた人間はいないということを知らされた。自分は、確かにステファノを石で打たなかった。ただ石打に加わった者たちの上着の番をしていただけだった。だが、そうやって律法に抵触しない仕方で、可能な限り殺害現場の近くに居残った自分がいかに残忍で卑怯な人間だったか。

 そんな隅々まで罪に染まり切ったパウロに、主は近づき手を差し伸べてくださった。そして、御自分の十字架の血によって、彼の罪をことごとく拭い去ってくださった。そのことを主は、ダマスコ途上の、あの光の中で語られた御言葉によってはっきりと示された。

 こうして、自分の清さを守ることしか頭になかったパウロが、御言葉を通して主の十字架の血に触れ、それによって真の清さを知り、信仰者として新たな歩みを開始するという奇跡が起こった。

 さらに、パウロはそのようにして示された十字架による救いの御業、すなわち福音を異邦人に宣べ伝えるよう命じられる。主は、このようにして御自分の救いの計画を着実に前進させられるのだ。

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2015年5月17日 復活節第7主日

説教:「パウロと千人隊長」
聖書朗読:使徒言行録22章22〜29節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、自分が異邦人伝道のために召されたということを明確に自覚していた。当時の異邦人世界は、ローマ帝国の支配下に置かれ、享楽的・退廃的雰囲気に満ちていた。このような雰囲気は、表面的な喜びや楽しみを求めて生きる人間の自己中心的な生き方によって醸し出されていた。

 パウロは、自分が「そういう土地にあなたは主イエス・キリストの福音を伝えていくように」という主の招きを受け、遣わされたことを群衆の前で証言した。  ところが、パウロの話を聞くと、怒り狂って上着を投げ出す人々が出てきた。「彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだった」(23節)。「上着を投げる」というのは、上着を振り回し続ける乱暴な行為を指している。人々は、怒りのあまり混乱状態に陥ったのだ。

 ローマ帝国支配地域の治安維持を任務としている千人隊の隊長は、この状況を何とか収拾すべく、その理由となっているパウロに本当のことを語らせるため鞭で打って取り調べをしようとした。

 すると、パウロは千人隊長に対して、「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」(25節)と問いただした。パウロがローマ市民権を持っているのであれば、たとえ何があろうとも彼はローマの法に従って扱われねばならなかった。

 千人隊長にはある弱みがあり、それゆえパウロの鎖を外し自由にせざるを得なかった。千人隊長は異邦人だったが、兵を率いる重責を担うことによって得た多額の報酬でローマ市民権を買い取っていたのだ。そんな彼は、生粋のローマ人であるパウロに引け目を感じ、恐れを抱いたというわけだ。

 逆にパウロからしてみれば、この場で自分がローマ市民権を持っていることを話さなければ、犯罪者扱いされ、鞭打ちを受けるのは明白だった。しかも、このように発言すれば、相手に一目置かせ、立場を逆転させる可能性も見込めたわけで、この問いかけは彼にとって大変有益だったのだ。

 しかし、パウロは自分が書いた手紙の中で次のように語っている。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:7-8)。パウロは、自分が誇るべきはキリストのものとされていることのみであり、それ以外のことはどうでもよいと明言している。

 だが、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と明かした千人隊長に対して、パウロは勝ち誇るように「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った(28節)。パウロとて完全無欠の人間ではない。このような窮地に追い込まれれば、途端に弱さが顔をのぞかせる。

 パウロは、伝道者となった後も主に委ねきれない弱さを抱え続けた。彼の、このように自分に箔を付けるような発言はその現れだった。しかし主は、このような人間の弱ささえ用いて御自分の栄光を現していかれる。パウロという欠けのある「土の器」が、異邦人伝道のための「神の器」に造り変えられ、用いられていくのだ。

 十字架の主は、人間の弱ささえ用いて御自分の計画を着実に前進していかれる。このような主の御業に触れ、主と向き合い、その御前にひざまずく時、すなわち礼拝者とされる時、我々は「キリストのゆえにすべてを失ったとしても、キリストを得、キリストの内にいる者とされる」(フィリピ3:8-9)という喜びで満たされる。

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2015年5月24日 聖霊降臨日

説教:「聖霊を受けなさい」
聖書朗読:ヨハネ福音書20章19〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが十字架にかけられて処刑されたことで行き場を失い、恐れの中にあった弟子たちのところに、死からの復活を遂げられた主が入ってこられた。

 この復活の主の御姿を見た弟子たちは、この御方の十字架の死が、自分たちのために成し遂げられた御業に他ならなかったということを知るのだ。それは、罪人であるすべての人間に赦しをもたらす贖いのための出来事だった。

 主は、弟子たちと会い、直接聖霊の息吹を送って彼らを遣わされる。それは、彼らをすべての人々に罪の赦しの福音をとりつぐ大切な働きに着かせるためだった。

 ペトロが主の遺体を納めたはずの墓が空になっているのを見出し(10節)、マグダラのマリアが復活された主にお会いして「わたしは主を見ました」と告げた日(18節)の夕方、弟子たちは恐れのあまり家の中に閉じこもっていた。主を十字架につけた人々が、弟子たちのことも必死に捜し出そうとしていると考えたからだ。それで、彼らは家のすべての戸をしっかりと閉め、鍵をかけていたのだ。

 そこに突然、復活の主が入ってこられ、弟子たちの真ん中に立たれた。彼らが大いに驚いたのも無理はない。彼らは主を裏切り、見捨て、見殺しにしてしまっていたのだ。彼らは、主がそんな自分たちのことを厳しく叱責されるに違いないと思ったことだろう。

 しかし、そのように恐れ戸惑う弟子たちに主は、「あなたがたに平和があるように」と告げられた(19節)。この「平和」の元の言葉、シャロームは、「神が共におられるから安心して平和のうちを歩みなさい」という意味を含む。

 そして、主は御自分の手とわき腹をお見せになった。手には釘跡があり、わき腹には槍の刺し傷があった。十字架の御傷が生々しく残る主が目の前に立たれることにより、弟子たちはなぜ自分たちが罰せられることなく赦されたかの理由をはっきりと知るのだ。

 主は十字架において、神の愛がどれほど深く大きなものであるかを示された。この十字架によって、初めてすべての人間の罪が贖われ、また復活によって、信じる者が永遠の命に結ばれるという約束が確かなものとされた。

 主は、この世にシャロームをもたらすため、自ら十字架への道を歩んでくださった。十字架は、死という闇で終わるのではなく、新しい復活の命というまばゆい光を照らし出した。この光の源である主が弟子たちの前に現れたのだ。彼らのうちに喜びが満ちあふれ、新しい命の希望が固くされた。

 そんな弟子たちに、主は再び「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と告げられた(21節)。父なる神の御心である十字架を成し遂げられた御子イエスが、その御旨によって今度は弟子たちをお遣わしになるのだ。

 その前に主は、大変重要なことを行われた。「聖霊を受けなさい」と言って、弟子たちを聖霊の働きのもとに置かれたのだ。

 こうして彼らは自分たちに与えられた使命が何であるかをはっきりと知るのだ。神のこれほどまでに深く大きな愛を豊かに受けた弟子たちは、すべての人間の罪を赦すために成し遂げられた主の十字架と復活の福音を宣べ伝えていく。そして、彼らが出かけて行き、伝道することによって主の御体なる教会がこの世に建てられていく。この働きは、聖霊の助けなくして成し遂げられなかった。

 弟子たちに託された福音伝道と教会形成という神の御業は今、我々に託されている。しかし、恐れることはない。主は絶えず我々に聖霊を注ぎ、欠け多い「土の器」を神の御業を行う「神の器」に造り変えてくださるからだ。

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2015年5月31日 三位一体主日

説教:「神の御前で生きる」
聖書朗読:使徒言行録22章30節〜23章5節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、伝道旅行を終えてエルサレムに到着するとすぐ、御子イエス・キリストが全人類救済のために成し遂げられた十字架と復活の御業について語り始めた。

 ところが、それを聞いた一部のユダヤ人は怒りを露わにし、パウロを捕えて暴行に及ぼうとした。それを見かねたローマの千人隊長は、治安維持のためパウロを保護し、群衆の手が届かない兵営に連れて行こうとした。そこへ向かう階段の上で、パウロは群衆に向かって弁明する機会を与えられる。

 パウロは、もともと自分がファリサイ派として律法遵守を貫こうとするあまり、イエスを神とするキリスト者に対する熱心な迫害者であったこと、そんな自分がダマスコのキリスト者を根絶やしにするため向かっていた旅の途上で、その主イエス御自身と出会い、迫害者から信仰者、伝道者へと変えられた様子を具体的に語った。

 パウロの話しを聞いた人々は、さらに怒り狂い、パウロを殺そうとして暴れ始めた。もはや自分の手には負えないと判断したローマの千人隊長は、パウロの裁きをユダヤの最高法院に委ねる。

 しかし、パウロはそこでも開口一番、「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と語った。これを聞いた大祭司アナニアはパウロの口を打つよう命じる。彼の言葉が大変不遜で、神を汚していると受けとめたのだ。

 すると、パウロはそのアナニアに対して、「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」(3節)と言い放つ。白く塗った壁とは、古くからうわべだけを繕っている人を表すたとえとして用いられてきた言葉だ。被告であるパウロが、裁く側のアナニアをそのような激しい言葉で責めたのだ。

 これを聞いた者たちが「神の大祭司をののしる気か」と言うと、パウロは「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした」と答えた。これも、こんな男が大祭司とは信じられない、という強い皮肉を込めた言葉だ。

 パウロは、かつてローマの千人隊長によって保護されているような状況下でも、無実を訴えるどころかかえって議会を混乱に導き、千人隊長を慌てふためかせた。そして今、ユダヤの最高法院でも、おとなしくして好印象を与えようとするどころか大祭司をののしってさえいる。ここにはパウロのビジョンに基づく意図があった。

 そのビジョンとは、福音を当時の世界の中心であるローマにもたらし、そこから全世界に向けて広めていくというものだった。

 もちろん、このビジョンは神によって示されたものであり、パウロは自分がその働きを担うために召された使徒であると強く自覚していた。だが当初、彼はそれが通常の伝道旅行によって成し遂げられると思っていたのだ。しかし、三度にわたる伝道旅行に取り組むうちに彼は理解していく。神は、普通の仕方でそれを実現しようとしてはおられない、と。

 パウロは、絶えず福音の前進に気を配っていた。そして、そのためにローマへ赴くという希望を持ち続けたが、それは道なき道を切り開きつつ進むような業だった。

 パウロは言った。「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と。神の御前で生きる。それは、現実には希望を持ち得ないような状況の中にあって、なお希望に固く立ち続ける生き方だ。それが出来るのは、人間には不可能としか思えないことも可能としてくださる御方が共におられるからだ。

 したがって、我々がなすべきことは、ただひたすらこの神の御前で生きることなのだ。心を一つにして讃美し、祈り、御言葉に聞くこと、すなわち礼拝がその生き方の中心に他ならない。

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