日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年6月のバックナンバーです。

2015年6月7日 聖霊降臨節第3主日

説教:「勇気を出せ!」
聖書朗読:使徒言行録23章6節〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 今日読まれた聖書の最後で、主がパウロに対して言われた言葉だ。どのような状況において、主はこう言われたのだろうか。

 この直前、パウロはユダヤの最高法院で、議員であるサドカイ派とファリサイ派の人々の前に被告人として立たされていた。

 ここに出てくるサドカイ派の人々は、文書化されたものだけを律法と認めていた。旧約聖書には、律法の掟が多岐にわたって記されているが、そのように明文化されたものだけを律法と考え、それを自分たちの信仰の糧としているのがサドカイ派だった。

 一方、ファリサイ派は、文章だけではなく、人の口を通して伝えられてきた細かい掟も、やはり大切な律法の一部として捉えていた。それゆえ、ファリサイ派は、天使の御告げなど霊的な事柄を重視し、終わりの日の死者の復活を信じていた。また、文明的なことや予定といった事柄についても、律法に含まれると言い伝えられてきたものに関しては重要な掟として捉える傾向を持っていた。

 つまり、サドカイ派とファリサイ派の間には、律法理解に関して相容れない大きな溝が存在していたのだ。そのような人々が一緒にユダヤの最高法院という議場を構成していた。その中心に立ち、パウロは次のように自分の立場を説明した。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6節)。

 こうしてパウロが自分の立場を明示すると、サドカイ派とファリサイ派の間には激しい論争が生じて最高法院は分裂してしまう。

 ファリサイ派の人々は、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」(9節)と立場を忘れてパウロを弁護するが、最高法院はもはや収拾がつかない状態に陥っていた。もみくちゃにされたパウロは議場から助け出され、兵営へと連れて行かれた。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(11節)。

 この時、パウロは孤立無援だった。かつての仲間であるファリサイ派の理解を得られたとしても、それは福音伝道のためには何の足しにもならなかった。肝心のキリスト者は、当時エルサレムに数万人いたと考えられるが、彼らから誰一人としてパウロ弁護に立ち上がる者はなかった。自らが罰せられることを恐れたからだ。

 「勇気を出せ」という言葉は、直訳的には「尻込みするな」という意味を持つそうだ。後ずさりするな、逃げるな、と主はパウロに呼びかけられた。最高法院は、大勢の有力者たちの集まりであり、独特の圧迫感があったことだろう。しかし、それは所詮人間による裁きの場だ。真の裁き主が自分の味方としてそばにいてくださることを知る者にとって、それは恐れるに足りないことだ。

 パウロは、いつでも主が共にいてくださるという御言葉に支えられて主の証人とされていった。我々もまた、御言葉による励ましを受けて主の証人とされていく。

 人間とは、本来弱い存在だ。パウロ自身が語っているように、誠に欠け多く、脆い土の器にすぎない我々に、主は賜物として勇気を注いでくださる。その勇気とは、主の御言葉に他ならない。

 主は、パウロに対して「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。わたしの恵みはあなたに十分である」(Uコリント12:10)と告げられたが、彼の旅はそのことを新たに発見し続けるものだった。パウロは、御言葉によって支えられつつローマへ向かっていく。

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2015年6月14日 聖霊降臨節第4主日

説教:「陰謀」
聖書朗読:使徒言行録23章12節〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 使徒パウロは、異邦人に向けて救い主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、三回にわたる伝道旅行を行った。そして、多くの苦難を経験しながらも各地を巡り、エルサレムに戻ってからも福音を力強く語り続けた。

 しかし、「イエスこそ真の神であり、救い主である」という福音の内容は人々の反発を招き、パウロは命を狙われる。ユダヤ人の一部強硬派は、パウロが神殿を冒涜し、信仰を混乱させ、律法を違反していると捉えてパウロの暗殺を画策するのだ。

 ところが、この計画を知ったパウロの甥にあたる若者が、ローマ軍の千人隊長に次のように報告した。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです」(20-21節)。

 これを聞いた千人隊長は、パウロをユダヤの最高法院に引き渡さず、ローマ総督フェリクスのもとへ送ることを決断する。こうしたパウロ暗殺計画も含めた一連の動きによって人間の意志を越え、パウロがローマへと向かう道が備えられていく。当時の世界の中心であるローマに福音が届けられることは、神御自身の計画に他ならなかった。そして、この計画は「勇気を出せ。ローマで証しせよ」(23:11)という主イエスの御言葉によって進められていくのだ。

 パウロは、甥を用いて自分の命を助け、「勇気を出せ」と励ましてくださる御方にすべてを委ね、全面的な信頼を置いて主に従っていく。その主によって導かれる道が、たとえ牢獄に閉じ込められる囚人としての道だったとしても、パウロはその道をただひたすらまっすぐに進んで行った。

 そんな囚人パウロの姿は、我々に希望を与える。彼は囚人として牢獄に捕らえられながらも各地の教会に宛てて記した手紙によって信仰共同体に大いなる希望を与えた。また、パウロは孤立無援の状態で裁きの場に立たせられたが、そんな状況においても主によって成し遂げられた救いの御業を力強く宣べ伝え、それを聞いた看守たちや兵士たちが信仰に導かれるという出来事が起こった。

 四方を壁で囲まれ、窓もなかったであろう狭苦しい牢獄は、絶望的状況の象徴だ。しかし、そんな状況の中にあっても、パウロは希望を失うことがなかった。なぜなら、彼には主がいついかなる状況にあっても自分と共にいてくださるという信仰が固く打ち据えられていたからだ。

 パウロは、ダマスコ途上で与えられた主との出会い以来、「神が共におられる」、インマヌエルの信仰に支えられて生きてきた。そして、希望など到底持つことのできない状況であるこの時も、主なる神は確かに自分と共におられるという信仰によって大いなる希望をもって自らの進むべき方向を見据えることができた。

 このようなパウロの姿は、詩篇23篇の御言葉を思い起こさせる。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:4、口語訳)。

 信仰による希望をもって生きる人は、決して自分の強さを誇らない。信仰者は、自分の内側で主なる神が生きて働いてくださることを知っているからだ。自分が、自分の力で生きているのではなく、自分のうちに働かれる神によって日々新たにされ、また強められていることを見出す。それが主によって捕らえられている人間に与えられる命であり、喜びと希望に満ちた人生の歩みだ。

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2015年6月21日 聖霊降臨節第5主日

説教:「わたしたちの祈り」
聖書朗読:ローマの信徒への手紙8章18〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロはローマ書において、我々が弱さゆえにどう祈ったらよいかわからなくとも、聖霊が我々の祈りを導いて、その祈りを聞き、執り成してくださると語る。

 我々は、未来のことを知ることができない。一時間どころか一分先のことさえ知ることは不可能だ。先のことが全くわからない我々に正しい祈りなどできないのは仕方のないかもしれない。

 我々は、今自分の経験していることが、この先どうなっていくか全くわからない。もしもそれが苦しみや悲しみならば、それらが取り去られ、状況が良くなっていくよう祈ることしかできない。

 しかも、我々は自分にとって本当に必要なものが何であるかを知らない。人間は、目先の喜びや楽しみを基準にして物事を決めてしまうからだ。その意味でも、人間は正しく祈ることができない。

 パウロが語るように、何を求めて祈ればよいかすらわからない我々の祈りとは、言うなれば「うめき」に他ならない。しかし、そのようなうめきが、聖霊の助けによって、我々の祈りとして神に聞かれ、執り成されると言われている。我々の口から出て来る言葉を祈りと呼ぶが、実はこの祈りは神によって与えられる賜物なのだということがここに示されている。

 人間が本当に祈るべきことを知らないからと言って、それは祈りが無意味だということではない。祈りにおいて重要なのは、その人の祈る時の姿勢なのだ。昔イスラエルの人々は、立ち上がり手の平を上に向けて祈った。その所作は、神の御前で何一つ隠し事をせず、神に信頼しすべてを委ねて祈る心を表していた。

 このような祈りの姿勢が究極的に示されたのは、主イエスがゲツセマネの園で祈られた祈りにおいてだろう。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

 パウロは言った。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。信仰者は、最初に通ろうとした道ではなく、回り道を強いられ仕方なく通らねばならなくなった道の方が、自分にとっては恵みだったという経験を通して神の御手の業を見ることがある。

 人間は、この世の様々な出来事に絶望を覚える。そんな状況の中で、人々は無気力になり、先行きの不透明感に不安を覚え、将来を暗澹たる思いで見つめている。

 聖書が語るように、我々はなおしばらくの間うめき、苦しまねばならないのかもしれない。では、我々はいつまでこの苦しみに忍耐し続けねばならないのか。

 神は、我々が苦しみにも痛みにも弱いことをよく御存知だ。そんな我々に、神は決して耐えられないような試練はお与えにならない。むしろ、神はその試練をも用いて我々の信仰を強め、神を知る知恵を増し加えてくださる。

 何よりも、我々は試練にあって孤独の中でそれを耐え忍ぶのではなく、共に祈る信仰者の群れというものが与えられている。これは何ものにも代えがたい恵みだ。祈りの共同体には計り知れない力があり、喜びがある。

 この力と喜びは、神御自身が源であるがゆえ決して尽きることはない。我々は、このように大いなる恵みの中に招き入れられているのだから、その感謝を表すためにもっと積極的に祈るべきだ。祈りには、これだけ祈れば十分ということはない。うめくことしかできない我々の祈りをも執り成してくださる主に信頼し、いついかなる時も絶えず祈りを献げる群れとして成長させられていきたい。

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2015年6月28日 聖霊降臨節第6主日

説教:「護送されるパウロ」
聖書朗読:使徒言行録23章23〜35節
説教者 : 北川善也牧師

 伝道旅行を終えエルサレムに戻ったパウロが大勢の人々の前でイエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業について証しすると、一部のユダヤ人たちが怒りを燃やし、彼らはパウロの暗殺計画を企てるまでになった。

 首謀者たちは、都の治安維持のためローマ軍の保護下に置かれているパウロをユダヤの最高法院まで何とかして引き出し、出てきたところを殺害するという算段を立てた。この陰謀のために40人以上のユダヤ人が集結していた。

 ところが、この陰謀がローマ軍の千人隊長の耳にまで届き、パウロはエルサレムの混乱を避けるため大勢の軍隊に護衛されながら、夜のうちにローマ総督フェリクスが常駐しているカイサリアまで移送されることとなった。

 エルサレムからカイサリアまでの距離は約100km離れている。明るいうちに出発すれば必ずどこかで追っ手に見つかり、パウロの命は危険にさらされることとなるだろう。そこで、千人隊長はパウロを夜のうち歩兵200名と共に出発させ、中間地点のアンティパトリスで休んだ翌日には騎兵70名を目的地カイサリアまで伴わせた。

 紀元前12年から紀元前9年頃、ただの海岸だった場所にいわば人工の港町として造られたのがカイサリアだった。しかし、そこは当時の地中海世界で最大規模を誇る港として築き上げられただけでなく、宮殿・神殿・野外劇場・円形劇場・戦車競技場などの巨大建造物が並び立つ一大都市だった。

 2013年2月末に2週間弱のイスラエル研修旅行に参加した際、カイサリアを訪問した。そこには、歴代総督の官邸となった宮殿の一部や港を見下ろすようにそびえる円形劇場の観覧席が当時と同じ場所に再現されていた。また、カイサリアの町に10km以上離れたカルメル山から水を送る石造りの立派な導水路が原形をとどめた状態で保存されていた。紀元前後に建てられた遺跡群の大きさや精密さを目にした時、カイサリアという都市が当時最先端だったローマの建築技術によってのみ建設可能だったということを肌で感じた。

 ローマ帝国はこうして世界一の国家として君臨し、その首都ローマは名実共に世界の中心となった。そして、この世界都市にパウロが赴くことこそ神の御計画に他ならなかったのだ。パウロがエルサレムから大勢のローマ兵による護衛を受けつつカイサリアへと向かっていく出来事は、主がパウロに語りかけられた御言葉を思い起こさせる。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)。

 この御言葉には、パウロに託された主の証人としての使命が明示されている。これは、人間パウロの思いをはるかに越えた神の御計画だった。それゆえパウロは、彼自身全く予想しないような仕方でローマへと向かう道を備えられていく。そして、このような展開の背後には絶えずパウロを召し出された主御自身が立っておられた。

 聖書において「護送する」と訳されている原典ギリシア語は、「救い出す」という意味も持っている。ここには、まさに主御自身がローマ軍などのあらゆる手段を用いて、パウロの命を狙う陰謀から救い出し、主の使命へと向かわせる様子が示されているのだ。

 パウロは、我々の目には自由を制限されたように映る姿でカイサリアまで護送されていく。さらにこの先、パウロは囚われの身となってローマへと向かっていく。

 しかし、これこそパウロに託された福音伝道の道に他ならなかった。そして、この姿に神がいかに御自分が創造されたすべての人間を愛し、その救いのために成し遂げられた御業を伝え、信じさせようとする熱意が示されている。

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