日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年8月のバックナンバーです。

2015年8月2日 聖霊降臨節第11主日

説教:「恵みを受けて」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章1〜2節
説教者 : 松木純也伝道師

 なぜ、どのようにして使徒とされたかについて、パウロは聖書のいろいろなところで説明していますが、ローマの信徒への手紙1章5節(273頁)では、次のように述べています。「わたしたちはこのかた(主イエス・キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へ導くために、恵みを受けて使徒とされました」。 ここに出てくる「恵みを受けて」という言葉は、本日の説教題といたしましたが、私たちキリスト者という存在の根本を言い表している大変重要な言葉です。ここで「恵み」とは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を指しています。イエスは、わたしたちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。そのイエスを神は甦らせてくださった。これによってわたしたちは罪から解放されて新しいいのちに生きる事が出来るようになった(ローマ6章4節)。これが恵みの出来事です。さらに「受けて」という言葉が大事です。キリストの出来事はすべての人のために起こったのですが、それがどこか自分の外に客観的にあるというのでは自分にとって無意味です。この出来事を、他ならぬこの自分が「恵み」として受け取った、信じた、それによって、恵みが自分の経験となった。それはパウロにとって具体的にキリストの使徒とされたという形を取った。そのようにして初めてキリストの死と復活の出来事が、パウロにとっての恵みの出来事となって実現した。これが「受けて」ということです。これはパウロだけではありません。わたしたちもまた、それぞれ、神様からの一方的な愛の業、恵みをタダで受けて、キリスト者となったのです。キリスト者とされ、毎週教会に集い礼拝に出ることができるようになった、これほど楽しい、教会の外では決して得られない、恵みの経験はありません。

 コリントの信徒への手紙一15章10節(320頁)に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」とあります。 ここで、「わたしに与えられた神の恵みは」や「わたしと共にある神の恵みなのです」は、日本語で読むとすっと読んでしまいがちですが、原文ではそれぞれ、まず「神の恵みは、」と言って、次に「それは私に与えられた」と限定し、また続いて「神の恵み、」と言って、次に「それは私と共にある」と限定する形になっています。すなわち、「神の恵み」はすべての人に与えられているのですが、それが私の外に、私と無関係に客観的にあるのではなく、「神の恵み」は、「この私」一人をめざして与えられ、それからずっと私と共に居てくださると強調しています。パウロがあるとき自分で心を入れ替えて、変わったのではありません。「神の恵み」が、パウロを劇的に変えたのです。「神の恵み」は万人に対して与えられています、降り注いでいます。それをパウロが受けて、使徒とされ、キリストの僕として、他の使徒の誰よりも多く働いた。しかし、働いたのはパウロではなく、「神の恵み」がパウロと共にあって働いた、というのです。

 神様から見れば、パウロが特別ではありません。キリスト者は皆「恵みを受けて」キリスト者となった。パウロと同じです。しかし一人ひとり賜物は違います。みんながパウロのように使徒になる必要はないのです。あなたや私にしかできない働きがあります。しかし働くのは私やあなたではなく、「神の恵み」が、「恵みを受け取った」一人一人を通して、それぞれの賜物に応じて、その人とともに居て、働いてくださるのです。

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2015年8月9日 聖霊降臨節第12主日

説教:「主イエスは生きておられる」
聖書朗読:使徒言行録25章13〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 ヘロデ・アグリッパ2世は、主イエスが生まれた時にユダヤ地方を支配していたヘロデ大王の曾孫だ。ヘロデ家は代々、何らかの形で主イエス御自身やキリスト者の迫害に関係している。

 ヘロデ家の墓は、現在エルサレム郊外の公園内にある。その墓碑銘は次のようなものだ。「ローマ時代、最高権力者にうまく取り入って支配者にのし上がったヘロデ一族の墓」。これが後の時代に下されたヘロデ家に対する評価だ。

 アグリッパ2世(以下、ヘロデ)が新任総督フェストゥスを表敬訪問したことは、彼がどこを向いて政治を行おうとしていたかを暗に示している。ヘロデは自国民ではなく、ひたすらローマ帝国の気に入られようとしていたのだ。

 そんなヘロデに対してフェストゥスは、就任早々自分を悩ませているパウロの問題を投げかけた。「ここに、(前任者)フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです」(14-16節)。

 フェストゥスは丁重な言葉を用いながらも、「上から目線」でヘロデに語った。支配者であるローマ帝国の力を見せつけるかのように、フェストゥスは自分がローマの代表であること、ここがローマの法廷であること、この場においてはローマ市民の権利が絶対守られねばならないことなどを畳み掛けるようにして示した。

 その上でフェストゥスは、パウロの問題に関する自分の考えを次のように述べた。「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです」(19節)。彼は、これを裁判で扱うような事案ではなく、一個人の信仰の問題と受け止めていた。

 これは重要な認識だ。我々の教会は、復活信仰に固く立っている。教会はその信仰を、主が復活された日曜日を覚えて毎週献げる礼拝において受け継いできた。復活の主は、今も教会の中心に立っておられる。そのような信仰の核心に関わる事柄が、未信者であるローマ総督の口を通して語られたことは、人間の思いを越えて拡大していく福音の力を示している。

 フェストゥスはパウロの問題を引き継いで取り調べたが、刑を課すような罪状を見出せなかった。そこでパウロをユダヤの最高法院に引き渡そうとしたのだが、本人はあくまでもローマ市民として皇帝の裁判を受けると主張した。

 パウロからすれば、宗教上の縛りを受けることなく自分自身の信仰について自由に語り、それを多くの人々に聞いてもらえる場はローマの法廷以外になかった。しかし、何よりもこれは世界中に福音を運ぶために人間の思いを越えて主が備えられた道だった。

 22節に奇妙なやりとりが記されている。「そこで、アグリッパがフェストゥスに、『わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います』と言うと、フェストゥスは、『明日、お聞きになれます』と言った」。

 パウロとはいったいどんな男なのか、どのような考えを持っているのか、彼がローマに連行される前に確かめておきたい。好奇心からだったかもしれないが、このようにパウロの信仰内容について知りたいという思いがヘロデに起こったことは確かなことだ。

 ヘロデは主の復活を否定し、キリスト者迫害を積極的に行った。しかし、そのような人物さえも推進力となって伝道は進められていく。このことに福音伝道が人間ではなく、神御自身の働きであるということが示されている。

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2015年8月16日 聖霊降臨節第13主日

説教:「信仰のない私をお助けください」
聖書朗読:マルコによる福音書9章14〜29節
説教者 : 北村康二執事

 聖書では、てんかんの子供を持つ親の話がなされます。親として子供に活かされるという反面、育てている時は毎日心配の連続です。自分の子供がてんかんをおこし突然泡を吹いてころげまわる。どうすることも出来ない、自分は何不自由なく、満足な暮らしをしているかもしれないが、自分の子供の病気だけは、どうすることもできない。親の一番つらいところです。きっと、色んなお医者さんに連れて行ってみてもらったが、結局なおることなく、親としての無力感、現実社会の厳しさというものを味わされている姿があります。そこで、父親はある1つのうわさを聞く、それはナザレのイエス様のことで、すがる思いでイエス様のところへ来たのだと思います。

 人々はてんかんの子供をイエス様の前につれていきました。イエス様の前に立つとてんかんは治るかと思いきや、その子が急に発作を起こして地に倒れ泡を吹いてころげまわったとあります。

 父親は、イエス様にすがる思いで、できれば私どもを憐れんでくださいと語ります。するとイエス様は、「もしできるならというのか」といわれる。「できれば」というのは謙遜の態度でありますし、実は私の信仰を振り返ってみると「神様は何でもできる」「全知全能の神である」と口では言っていても、心の奥底では半信半疑のところがあるのが現実です。現実的には「できるならば、どうか憐れんでください」というのが、私の実際の信仰の姿です。

 イエス様は、信じる者はどんなこともできると語られる。イエス様が、このお父さんに求めているものは、信じるというただその一点だけです。献金をしなさいということではない、従順になることでもない、信じるなら、信仰をもつならできると語られる。お父さんは、「信じます、信仰のない私をおゆるしください」と応えます。これからは心を入れ替えますからというのではない「信じます、私には信仰がありません、この信仰のない私をおゆるしください」と語ります。私たちは、迷いがある、本当だろうかという疑いがある、言葉では神様は全知全能だと言いつつも、確証がもてないと心の底で思っている。しかし、このお父さんは、信仰のない私を、信仰のないまま、イエス様の前に全部なげだし「この私を助けて下さい」とお願いする。これしかない、そして、これこそが私の信仰の姿だと気づかされました。

 イエス様が霊に「この子から出て行け」と語られると、子供ははげしくひきつけを起こして死人のようになりました。そこでイエス様が手をとって引き起こされると、その子は立ち上がったとあります。この子供が立ち上がった、今ここに1つの命が立ち上がって歩み出した。イエス様と出会う前とまったく違う命が歩み始めた。ここに1つの信仰の扉が開かれ、1人の命が確かに信仰を土台とした歩みがはじまりました。私達の力を超えた力が働いて、救いの出来事となる。それは神の業でありこれこそが信仰の力である。イエス様は「あなたが選んだのではない、わたしが選んだのだ」と語られる。神とつながっているならば、いいことも悪いことも私たちの運命の全てが、神のみ栄えをあらわすようになる。「私につながっていないさい」という神の言葉に、「主よ、信じます。どうかこの信仰のない私をおゆるしください」と祈りつつ神につながって行きたいと考えます。

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2015年8月23日 聖霊降臨節第14主日

説教:「主イエスは命のパン」
聖書朗読:ヨハネによる福音書6章22〜40節
説教者 : 太田 稔 執事

 「わたしは〜である」はヨハネ福音書特有の言い回しだ。本日の標語「わたしは命のパンである」を始め「わたしは世の光である」「わたしはよい羊飼いである」「わたしは道であり真理であり命である」「わたしはまことのぶどうの木」……。これらはイエスの自己紹介であり、ヨハネ福音書の信仰告白でもある。また洗礼者ヨハネの口を通して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とも伝えている。終始一貫「キリストとはどのようなお方か」を証している。

 この4月から始まったキリスト教入門講座。テキストの第1課は「聖書の神の名前は『主』と言います」というところから始まった。旧約聖書はヘブライ語で書かれ、神の名前は「ヤハウェ」と発音されるが、日本語では「主」と訳す。ヤハウェとは「わたしはある(存在している)」という意味だ。口語訳では「わたしは有って有る者」ギリシア語では「エゴー・エイミ」。出エジプト記3章14節で主はモーセに「わたしはあるというものだ」と自己顕現しておられる。本日の聖書箇所に先立つティベリアス湖(ガリラヤ湖)上での奇跡。強風の湖で弟子たちに「わたしだ、恐れることはない」(20節)と言われたが、これは神がモーセに言われた「わたしはある」と同じ言葉ということだ。「父なる神」と「子なる神」の同一性を伝えたいという意図が感じられる。

 一方、群衆はイエスを「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14節)と捕らえ損ねた。大麦のパン5つと魚2匹とで五千人の腹を満たされた奇跡を見て、イエスを皆の腹を満腹にしてくれる「王」と誤解したのである。イエスはご自分の事を「命のパン」「天から降ってきて、世に命を与えるもので、永遠の命に至る食べ物」(27節)と言われる。ここでも群衆は誤解する。天から降ってきたというと「マナ」の事を連想するのだ。しかしマナは朽ちる食べ物。

 戦後70年の特集番組を見ていると、嘘の戦果報告が太平洋戦争を長引かせたとの指摘もあった。戦意高揚のために特攻の成果を誇大に報告した。特攻で一撃を加えて和平を有利に導こうとの思惑があったが、悲しい結末になった。現代でも嘘の報告はある。賞味期限の偽装、耐震強度の偽装、決算報告の偽装等。十戒に盗んではならないとの戒めがあるが、延々と続く人類の罪の歴史を思い知らされる。モーセに導かれて出エジプトを果したイスラエルの民も、荒野で空腹を覚えた際、神に不平を述べた。我々も受洗したにも関わらず試練に遭遇すると、不信仰に陥ってしまう。私の場合も開業当初の忙しさの中で神を忘れた時があった。早すぎる母の死に直面して神を恨んだこともあった。ヨハネ8章24節に「わたしはあるということを信じないならば、あなたがたは自分の罪の内に死ぬことになる。」とある。しかし「神の御心は、子を見て信じるものがみな永遠の命を得ることであり、私がその人を終りの日に復活させることである」(40節)と言って下さる。死ぬべき我々も主の「十字架と復活の命」に与ることを約束して下さったのだ。私も不信仰になる度、神が私を捕らえて下さった記憶がある。感謝である。

 「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる」(申命記8章3節)人が本当の意味で生きるとは、逆風の時にも、死を前にしても「わたしはある」「わたしだ、恐れることはない」と言ってくださる神の呼び掛けに「応答」して、「神との交わり」の中に生きることだ。

 イエス・キリストは「命のパン」「世の罪を取り除く神の子羊」「父なる神に至る唯一の道」……。次々と迫ってくるヨハネ福音書の信仰告白を、聖霊に導かれ、私たちも受け入れたい。

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2015年8月30日 聖霊降臨節第16主日

説教:「罪状なき囚人パウロ」
聖書朗読:使徒言行録25章23〜27節
説教者 : 北川善也牧師

カイサリアのローマ総督官邸を物々しい人々が取り囲み、パウロの到着を待ち構えていた。彼らのほとんどは、パウロの口から出る言葉を真剣に聞くためではなく、単なる物珍しさや義務感でそこに居合わせていた。

 そこにアグリッパ王と妹ベルニケが、王族としての威厳を示すべく、高貴な者だけに許された紫の衣と金の冠を身に着けてやって来た。それは、総督やパウロに対するこけおどしのような意味もあったろう。

 パウロに対する尋問の場は、アグリッパの「わたしも、その(パウロという)男の言うことを聞いてみたいと思います」(22節)という願いによって設けられた。そこには、アグリッパだけでなく、総督に次ぐ地位を与えられた五人の千人隊長たち、そしてカイサリアで指導的立場に就いていた様々な人々も招かれた。

 パウロは、通常身分の高い人物が総督と面談する際に用いられる「謁見室」に通された。そのことは、これが裁判ではなくパウロのローマ移送に必要な報告書作成のための事情聴取だったことを示している。ユダヤ人たちはパウロの死刑を求めていたが、総督が調べる限りその理由は何一つ認められなかったのだ。

 それゆえ総督による地方裁判は結審し、パウロは無罪放免となるはずだったが、パウロ自身が皇帝による最高裁の継続を申し出た。皇帝への上訴は、たとえどんなケースであっても認可され、被告人は確実にローマへ移送されねばならないと定められていた。そしてその際、皇帝のために被告人の罪状書きが添えられねばならなかった。

 総督は困惑した。「彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました」(25節)と言っているように、パウロの無罪が明白だったからだ。総督は一刻も早くこの件から手を引きたかったのに、パウロの上訴により皇帝への理由書を書かねばならなくなった。

 こうして何の罪も見当たらない人間に対する事情聴取が行われることとなった。そして、この茶番劇のような場は人々の心にある種の混乱状態を引き起こしていく。裁いている側に、この裁判を続けることにどんな意味があるのかという疑問が起こり、いったい本当に裁かれているのはどちらなのかという不安が襲い始めるのだ。

 王としての威厳を示すため見た目を取り繕おうとするアグリッパ。また、ローマ総督としての威信を保ちたい着任間もないフェストゥス。彼らは、この世の地位や名誉にすがりついて生きるしかない人間だった。

 そこには、パウロが証ししている神による救いの御業について本気で聞こうとしている者は一人もいなかった。それは、主イエスを十字架へと追いやったユダヤの最高法院の法廷が再現されているかのようだった。パウロの証言を真剣に聞くどころか消し去ろうとする人間の思いは、「イエスを殺せ」と叫ぶ人々の姿と重なっていく。

 本来、神の似姿として創造された人間が、その創造主を消し去ろうとさえする。その時、そのような傲慢さ、身勝手さが鋭く裁かれていく。しかし、その目的は真の救いに気づかせ、そこへと向かわせるために他ならない。

 神の言葉は、すべての人間を救いに導くべく、一人ひとりの心の奥深くに入り込んでいく。神は、そのような御言葉の種蒔きのために人間を用いられる。今、パウロという一人の証人が、真の救い主の姿をその場に示すため、人間中心主義に満ちた人々の前で堂々と語ろうとしていた。神の言葉は、そのようにして一人の小さな人間を立ち上がらせ、世界中に広められていく。

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