日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年9月のバックナンバーです。

2015年9月6日 振起日礼拝(聖霊降臨節第16主日)

説教:「神による約束の実現」
聖書朗読:使徒言行録26章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 去る8月27日、敬愛する横井章兄が神の御許に召された。57年という短い地上の生涯だったが、章兄は召される約五か月前のイースターに洛北教会で洗礼を受け、神による救いの約束を確かなものとすることが出来た。

 受洗前、章兄はたび重なる苦難を経験された。だが、そのような状況の中から、神は章兄の歩むべき道を示し、その道へと確かに導いていかれた。受洗後も章兄の苦難は続いた。しかし、章兄は礼拝において何より大きな恵みを与えられているという確信を持つことが出来た。その背後には、屋根をはがして穴をあけ、床に寝かせたまま主イエスの前につり下ろした人々のような信仰の友の姿があった。4月以降、週替わりで有志の兄弟姉妹が車での送迎を担当し、章兄は体調が許す限り礼拝生活を続けることが出来た。

 パウロは、囚人としてカイサリアのローマ総督官邸に留置され、そこでユダヤ王アグリッパの事情聴取を受けることとなった。パウロはこう語った。「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」(6-8節)。

 生まれながらローマ市民権を得ていたパウロだったが、両親の教育からユダヤ人としての自我を強く持ちつつ育った。彼は、旧約聖書が告げる「よみがえり」と「メシア」、すなわち救い主の到来という希望を昔から持っていた。そんな彼がやがて律法遵守を追及するファリサイ派に属していく。

 パウロは、そこでイエスこそ旧約聖書が示すメシアだとする信仰者たちを迫害する急先鋒に立った。彼は、その頃の自分の様子を今日の箇所でも短く述べている。

 パウロには、よみがえりの命を与えられ、神の国に入れられるという希望があった。だが、このことがどうやって成し遂げられるかは全く知る由もなかった。そんなパウロが予想もしないような仕方でそのことを知る時を迎えた。

 よみがえりという出来事の本質的な意味が、ダマスコ途上での主イエスとの出会いによって、まさに目から鱗が落ちるようにしてわかった。パウロは、そのようにして与えられた自分の信仰の確信をはっきりと語っている。

 神の国の希望ということについて、主イエスは大変多くの言葉で語られた。その中の一つに次のようなものがある。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。

 横井章兄が召される直前、その病床に教会の青年たち数名が連絡を取り合って集まって来た。そして、皆で章兄を囲んで「主われを愛す」と「神ともにいまして」を讃美し、全員でひとことずつ章兄のために祈った。

 わたしはこの時、主イエスの「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」との御言葉を思い起こした。章兄は、いつ召されてもおかしくない状況だったが、そこには章兄が平安のうちに主の御許に召されていくという恵みに満ちた確信が与えられた。そして、まさにこれこそが神の国の希望だと信じることが出来た。

 多くの人々が死をすべての終わりと捉え、死を恐れの対象としている。しかし、我々は死の先にある神の国の希望を、よみがえりの信仰をもって、祈りつつ待ち望むことが赦されている。

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2015年9月13日 聖霊降臨節第17主日

説教:「神との対面」
聖書朗読:使徒言行録26章12〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 今日与えられた聖書箇所で、パウロは自分自身の身に起こった回心の出来事を語っている。先に9章1節以下と22章6節以下でもこの出来事は語られているから、これで三度目ということになる。

 パウロは回心に至る前の心境についても、先週の聖書箇所で語っていた(26:9-11)が、9章1節はもっと詳細に「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで……」と表現していた。ここは口語訳では「脅迫、殺害の息をはずませながら……」となっており、パウロのキリスト者に対する激しい憎悪が示されている。

 パウロは、このような迫害を実行するためダマスコに向かおうとしていた時、復活の主イエスとの出会いを経験する。その時、主は「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と語られた。この言葉は同じ回心の出来事を告げている他の箇所には出てこなかったが、当時の農耕社会では広く知られたことわざだったようだ。

 若い雄牛が初めてくびきを付けられると、くびきから逃れようとして激しく暴れ、かかとを蹴り上げる。そのような時、くびきにつながれた農機具を扱う人は先にとがったものを付けた長い鞭を手に持ち、雄牛のかかとに接するようにしたそうだ。そうすると、雄牛はかかとを後ろに蹴り上げるたびに鞭のとげに刺されることになる。若い雄牛がこのような辛い仕方でくびきに付く従順さを学ぶように、パウロにも学ばねばならないことがあったのだ。

 パウロが迫害していたのは、真の救い主メシアを信じる人々だった。つまり、パウロの行為は、神御自身に対する攻撃に他ならなかった。自らの創造主を傷つけようとすることは、自分自身を傷つける行為に等しいことがその時のパウロにはわからなかったのだ。主イエスは、そんなパウロと出会われ、回心へと導いていかれた。

 17〜18節には、主イエスがこの世に来られた理由が要約されている。まず、主イエスは人々の目を開かれる。主イエスは、我々の肉の眼では見ることの出来ないものを見えるようにしてくださる。地上のものに縛られていた眼は、主イエスによって本当に見るべきものを見るようにされるのだ。

 また、主イエスは人々を闇から光へと向かわせられる。主と出会う前の人間は闇の中をさ迷い歩いているような状態だった。しかし、主イエスという真の光を知った者は、歩むべき道を目の前にはっきりと示され、その道をまっすぐに進むことが出来るようになる。

 さらに、主イエスは人々をサタンの支配から神の御許へ帰らせる。地上のものに縛られ、自分のことだけに集中していた眼が、主イエスとの出会いによって本当に見るべきものを見るようになる。こうして、かつてサタンの奴隷とされていた者が、神の勝利の力によって光の子とされていくのだ。光に生きる者は、もはや罪の奴隷ではなく、勝利の喜びをもって生きるように変えられていく。

 そして、主イエスは人々が罪の赦しを得、聖なる者たちの列に加わるよう導かれる。すべての人間の罪は、このようにして取り去られ、神の似姿を回復する。主イエスを信じる者は、命を新しくされ、神の国の約束を確かなものとされるので、終わりの日に完成する神の国に永遠の命をもって受け入れられるという希望に生きる。

 すべての人間をこのような救いへと導くため、主イエスは十字架にかかってくださった。自分自身しか見ていなかった眼を主に向けさせ、闇しか知らなかった者に真の光を示し、神から人間を引き離そうとするサタンの働きを打ち負かしてくださる。このようにして罪に満ちた土の器である人間に聖霊を豊かに注ぎ、神の器として造り変えてくださるのだ。

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2015年9月20日 聖霊降臨節第18主日

説教:「神の助けによって固く立つ」
聖書朗読:使徒言行録26章19〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、イエスこそ神によって遣わされた救い主であると信じるキリスト者たちを滅ぼすため、男女を問わず捕らえて牢獄に送る迫害活動に激しく燃えていた。そんな彼が、ダマスコのキリスト者たちの迫害へと向かう旅の途上でその出来事は起こった。

 この出来事は使徒言行録9章に記された後、22章でもパウロ自身によって語られており、今回で三度目になる。これは、パウロの人生において何度でも語られねばならない重大な出来事だった。

 この時、主はパウロに告げられた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(26章15b-16節)。

 主イエスとの衝撃的な出会いによって全く無力にされ、主の御前にひれ伏すことしか出来なくなったパウロ。そんな彼に対して主は、「起き上がって自分の足で立て」と命じられた。あなたが起き上がる力、固く立つ力はわたしが与える。それゆえ、あなたはこれから迫害者としてではなく、わたしの言葉を人々に告げ広める伝道者としてわたしと関わることになる。わたしはあなたを教会の破壊者ではなく、教会に仕える奉仕者に変える。これがパウロにもたらされた一大転換だった。

 そのパウロが、今や同胞を司るユダヤ王アグリッパを始めとする大勢の人々の前で、自分が直接聞いた主の御言葉を告げ知らせている。「起き上がれ。自分の足で立て。教会に仕える者となれ。キリストの証し人となれ」。もはや自分は主の御前に逃げも隠れも出来ない。主の御言葉によって、自分は主イエスが成し遂げられた神の救いの御業に目を向ける心を備えられ、キリスト者として生きる道を示され、その道を歩むために必要な信仰と勇気を与えられた。

 そんなパウロが言うのだ。「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(19-20節)。

 ここでパウロは、「私は天から示されたことに背かなかった」と語っているが、この言葉は彼の強い決意を表している。主イエスから直接、御言葉を宣べ伝える重大な働きを託されたパウロが、「もう背くことなどできない、ただ従うしかない」という確信に至ったことがここに示されている。

 迫害者として敵対していた主イエスに直接出会い、捕らえられ、自らの価値観を根底から覆されたパウロ。この御方から福音伝道者として生きる道を明示された彼は、残りの人生すべてをそのために費やしていく。これは天からもたらされた神御自身による命令であり、恵みの賜物に他ならない。

 それまでキリスト者たちを迫害するという行動によって、その恵みにどこまでもあらがおうとするパウロに、神は御自ら近づき、力強く抱きしめ、それでも身をよじって暴れ回ろうとする彼を「もうあらがわなくともよい」と言って鎮め、真の愛で包み込まれた。この大いなる愛にお応えするために、神の御言葉を宣べ伝える働きに残された人生を全て献げる。主イエスとの出会いは、パウロにそのような召命感をもたらした。

 神の力によって捕らえられたパウロが語るメッセージは、全世界に向かって無限の力をもって広がっていく。御言葉そのものが持つ力によって、すなわち神御自身の働きによって人間は初めて揺るぎなく立つ者とされるのだ。

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2015年9月27日 聖霊降臨節第19主日

説教:「『信じる』ということ」
聖書朗読:使徒言行録26章24〜32節
説教者 : 北川善也牧師

 今読み進めているのは、パウロ最後の裁判の場面だ。そこで、先に彼は、キリスト者はこの地上の歩みを終えても本当の意味で死んでしまうことはあり得ない。キリスト御自身が復活の命を約束してくださったからだ、と語った。

 またパウロは、その復活の主が今も生きて働いておられることを告げた。主は、今この時も生きておられ、絶えず傍らに立っていてくださる。だから自分は、どんなに深い悩みを抱えていても、病気を患っていても、死を目前にしても、決して孤独ではない。これがパウロの信仰の言葉だった。そして彼は、このような信仰を持っているからこそ、自分は今こうして裁判を受けているのだと語った。

 そんなパウロの言葉を聞いたローマ総督の反応は次のようだった。「……フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。』パウロは言った。『フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです』」(24-25節)。

 パウロの言葉は、フェストゥスには到底理解し難いものだった。信仰の言葉は、神との出会いの体験に基づいたものであり、その体験をしていない者にとって容易に受け止められるものではない。

 一方、アグリッパに対して、パウロは次のように語りかけた。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(27節)。ユダヤ王として幼少期より聖書に親しんできたアグリッパは、キリストの出来事が誰も知らない場所で起こったことではなく、聖書の預言の成就であることを受け止められるはずだ、とパウロは告げた。

 これに対するアグリッパの反応は印象的だ。「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか』」(28節)。あなたはキリストを信じるか。パウロの言葉は、受洗時の問いかけと同じもののようにアグリッパには聞こえたのかもしれない。

 信仰は、苦しみや悩みとしか思えないようなことを、これは神が与えられた試練であり、その試練さえ神は乗り越えられないものとはなさらない、と捉え直す力をもたらす。パウロ自身がそうだった。自分の命は、暴徒たちによって奪い去られるかもしれない。しかし、主はそんな危険の中から自分の命を守り、託された伝道の働きのために向かうべき場所へと御手をもって運んでくださった。

 今立っている裁判の場でも、押し寄せる不安に潰されることなく、自らの信仰を声高らかに語ることができる。それが可能とされるのは、キリストが確かに生きておられ、片時も離れず自分と共にいてくださるからだ。

 我々は、このような何ものにも代えがたいキリストの恵みを知ることによって、この地上の生活において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Tテサロニケ5:16-18)という信仰に生きる者とされていく。これはパウロの言葉だが、彼はダマスコのキリスト者たちを滅ぼそうとする迫害者から、これほどまでに大きな変化を与えられたのだ。パウロは、一人の人間の生き方をこうも変えてしまう、これこそが信仰の力、キリストの力だと証ししている。

 パウロは、自分が体験したキリストとの出会いについて語らずにはいられない者へと変えられた。家族に、友人に、町の人々に、そして今や同胞であるユダヤ人全体を司る王に向かって自分の信仰を語り、「わたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」という言葉を引き出すのだ。

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