日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年10月のバックナンバーです。

2015年10月4日 聖霊降臨節第20主日(世界聖餐日・世界宣教の日)

説教:「ローマへの船出」
聖書朗読:使徒言行録27章1〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 カイサリアでの2年間の獄中生活を終え、パウロはいよいよローマへ護送されることとなった。「アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった」(2節)。

 アリスタルコの名は20章4節にも登場した。第3回伝道旅行の際、エフェソで騒動に巻き込まれたパウロは、他の町へ逃れつつ伝道旅行を続けたが、アリスタルコはその時の同行者の一人だった。

 伝道旅行は多くの危険を伴ったが、アリスタルコはパウロから離れることなく、コロサイ書4章10節にはパウロと共に投獄されたことが記されている。

 このようにパウロの働きは決して孤独ではなく、いつも多くの人々の祈りや助けによって支えられていた。その中には、人間の思いを越えて与えられた協力者もあった。今回で言えば、パウロたち囚人をローマまで護送する役目を与えられた百人隊長ユリウスだ。逃亡などの危険がないと判断したユリウスは、「パウロを親切に扱い、(シドンの)友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた」(3節)のだ。

 シドンは地中海最東端の美しい港町だった。パウロにとって世界伝道の出発点とも言えるその場所で、主にあって一つとされた兄弟姉妹が、福音伝道のために裁かれようとしているパウロを励まし、支えてくれたのだ。この短い交わりの時を与えられたことで、パウロは大いに力づけられ、神への感謝に満ち溢れたことだろう。

 ところがシドンを離れた後、パウロを乗せた船の航海は困難を極めた。「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので……ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた」(7節以下)。「ようやく」という言葉が繰り返されているように、船は大変な苦労の末やっとの思いで港にこぎ着けることが出来た。

 さらに天候不良のため「良い港」での停泊が長引き、「既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった」(9節後半)。これは「贖いの日の祈り」(9月末〜10月初)を指し、当時の技術ではこの時期の航行は危険とされた。三度の伝道旅行でそのことを実体験していたパウロは、ユリウスたちに提言した。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)。

 だが、以前はパウロを親切に扱ったユリウスも今回は違った。百人隊長の任務は、囚人たちを間違いなくローマへ護送することであり、船長の任務は、船主と契約した船荷の輸送を予定通り遂行することだった。彼らには、船旅の危険を回避することより、一刻も早く任務を完了させることの方が重要だったのだ。

 彼らの態度には、すべての人間が抱え持つ驕り高ぶりがにじみ出ている。パウロの言葉は、ひたすら神に従おうとする信仰から出ていたが、百人隊長も船長もそのような信仰の言葉に耳を傾けようとはせず、この世の価値観に基づいて判断を進めていく。

 我々は、目に映るものは信じるが、見えないものは軽んじる。百人隊長も船長もそうだった。彼らは、パウロの言葉が指し示す「復活の主、イエス・キリストの霊の働き」を見ることができなかった。

 見えないものに目を注ぐということは、信仰によってしかできないが、その信仰へと導くため、主は絶えず我々に御言葉をもって語り掛けてくださる。我々は、いつでも主の御声を謙虚に、心静かに求める者でありたい。

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2015年10月11日 聖霊降臨節第21主日(神学校日・伝道献身者奨励日)

説教:「吹きすさぶ暴風」
聖書朗読:使徒言行録27章13〜26節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロたちを乗せた船は、地中海特有の暴風が吹き荒れる時季を迎え、その航海は困難になりつつあった。「良い港」から船出した一行を、「間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が」襲った(14節)。これは、クレタ島にある2500m級の高山から吹き降ろす突風のことであり、当時の帆船にとっては脅威的な自然現象だった。

 「船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。……しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった」(15-19節)。

 先にパウロは、「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)と言って、船出の延期を提案していた。しかし、百人隊長や船長たちは、それを聞かずに出港したのだった。その結果、船は航行不能となり、誰もが生きる希望さえ失いそうになっていた。

 そんな時、パウロが皆の中心に立って、次のように告げた。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(22節)。パウロの言葉を無視して出港した結果、茫然自失となった人々に対し、パウロは励ましと希望の言葉を語った。その言葉をパウロに与えたのは、神の御使いだった。

 パウロは、次のような天使の言葉を聞いた。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(24節)。

 いかなる困難、迫害、試練に直面しても、パウロはそれらに限りがあるということを知っていた。そして、神御自身を源とする救いの約束が、無限の広がりをもって自分を包み込んでいるということをパウロは確信していたのだ。

 それゆえ、パウロは次々と襲い来る困難や試練を一時的なものとして受け入れることができたのであり、彼をそのような思いに導いたのは、神から与えられた信仰による力に他ならなかった。

 「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」。船に乗り合わせた誰もが助かる望みを失い、失意のどん底に突き落とされていた時、このような神による命の希望がパウロを通してもたらされた。

 「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」という天使の御告げに示されているように、パウロがローマへ赴くことは神によって定められた計画だった。だからこそ、パウロはこの旅には常に神の助けがあることを確信できたのだ。

 真の信仰に生きる者は、人生において直面する困難、迫害、試練が一時的であることを知っている。そしてそれゆえに、いかなる状況にあっても、すべてを創造された神御自身が源である永遠の命という「見えないもの」に目を注ぐことができるのだ。信仰者の希望は、そこにこそある。

 パウロはまた、その救いの希望を自分だけのものにしようとはしなかった。共に歩む者たち、共に生きる者たちの平安を絶えず祈り求めた。「一緒に航海しているすべての者」の命を託されたパウロは、「わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります」(25節)という信仰をもって、人間ではなく神の御言葉に耳を傾け、その約束にすべてを委ねて従っていった。

 希望を失いそうな現実の中にあってこそ、神の御言葉は人間に大いなる希望をもたらし、決して揺らぐことのない土台の上で生きる人生を得させてくださる。

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2015年10月18日 聖霊降臨節第22主日(讃美音楽礼拝)

説教:「困難な航海の中で」
聖書朗読:使徒言行録27章27〜38節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロをローマへ護送する船は、地中海特有の暴風に襲われ操縦不能となり、ただ漂流するしかなくなってしまった。そんな状態が長期間にわたったため、一部の船員たちが密かに小舟に乗り換えて逃げ出そうとした。

 そのような船員たちの姿を見たパウロはこう言った。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがた(全員)は助からない」(31節)。海は依然として暴風吹きすさぶ危険な状態であり、今、手漕ぎ舟で大海を行くことは死を意味していた。また、一人でも船員が欠ければ、この航海はさらに困難なものとなってしまう。

 気付くと不思議なことが起こっていた。今や百人隊長や兵士たちは、船長ではなくパウロの指示に従っている。一囚人として身柄を拘束され、護送される立場のパウロが、乗組員の中心に立ち、指示を出しているのは異様と言ってよい。船員たちは、昼は太陽、夜は星を見て船の進路を判断していた。だが、暴風によって船を操縦するために必要な目に見える判断材料は失われてしまった。もはや彼らは全く無力な存在だった。

 この船員たちの姿は、我々とも重なってくる。我々は、物事の判断基準を自分の知恵や力によって定めようとする。何事もない時はそれでよいかもしれないが、困難や試練に直面し、通常の判断ができない状況に陥った時、我々は途端に右往左往してしまう。

 しかし、そんな八方塞がりとしか思えない状況の中にあっても、パウロは固く立ち続けることが出来た。なぜならば、彼は人間の知恵や力によって定められたものを基準に置いていなかったからだ。太陽や星を見失っても、パウロは神の御言葉を聴き続けることが出来た。また、神が示してくださる幻を見続けることが出来た。これ以上先に進むことが出来ないとしか思えない状況に陥っても、そこで神を見上げる信仰をパウロは与えられていたのだ。

 それゆえ、我々の人生を象徴するような、暴風に翻弄され、いつ沈没してもおかしくない船上にあっても、パウロは希望を失うことはなかった。それどころか、乗組員全員の牧会という重要な役割をたった一人で担っていく。

 「良い港」を出てから二週間食事をとっていない人々に、パウロはまず食事を勧めた。今かろうじて漂流している船もいずれ岩礁に乗り上げ、沈没してしまうかもしれない。そんな恐怖によって食事をとる気力さえ失せていた人々に、パウロはキリストの御名によって祈り、パンを割いて配った。この時、人々は肉体の力だけでなく、気力も備えられ、生きる希望を回復していったことだろう。

 かつて、パウロ自身も回心直後、主の弟子アナニアのもとで食事をとって元気になったという経験をしている。ダマスコ途上における復活の主との対面は、パウロの目を見えなくし、立つこともできない状態にした。そんなパウロは、主が約束されたアナニアとの出会いを通していやされ、洗礼へと導かれた。それは、アナニアとの食事によって、単に肉体の栄養を補うだけでなく、聖霊に満たされるという経験を与えられたからだ。

 聖書が記しているように、神は一人ひとりの髪の毛の数を数えるほどに我々のことを慈しみ深く見守っていてくださる。それは、神が一人ひとりの命を見つめてくださっているということだ。

 神の愛は、たとえ我々の心が神から離れていようとも、神御自身の方から我々に近づき、一人ひとりの名を呼んで招き寄せてくださるほどに深く大きなものだ。そのように計り知れない、大いなる神の愛に応え、我々もパウロのように神の御言葉に絶えず耳を傾けて歩み続ける者でありたい。

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2015年10月25日 降誕前第9主日

説教:「全てをささげるということ」
聖書朗読:使徒言行録5章1〜11節
説教者 : 内田 知牧師(堺教会)

 使徒言行録5章冒頭には、献げ物を誤魔化したアナニアとサフィラの夫婦が登場します。彼らは土地を売った代金を誤魔化し、一部を持ってきて「これが全てだ」と偽って献げました。愚かな夫婦です。子供の好きな聖書カルタにも「嘘をつく アナニアさんには なりません」と、彼らは登場します。嘘や偽りがいけないということは幼い子供でも分かることなのです。…しかしこれは決して他人事ではありません。なぜなら、問題は単に「金額を誤魔化した」ことにとどまらず、「神を欺いた」(4節)ことだからです。自分自身を振り返ってみる時に、わたしたちの信仰生活も一体どれだけ不誠実で偽りと誤魔化しに満ちていることでしょう。「神さまが大事だ、信仰が、礼拝が、御言葉が大事だ、愛が、赦しが大事だ」と言いつつも、この世の物事や価値観、そして自分自身をよほど大事にして生きているのです。神を侮っているのはこのわたしたちも同じなのです。

 そんなわたしたちがこの御言葉を通して教えられ、そして為すべきこととは何でしょうか。「悔い改めて、今一度全てをささげるように頑張る」ということでしょうか。しかしそんなことが果たして出来るのでしょうか。…マタイによる福音書19章に「富める青年」が登場します。彼は主イエスに「あなたの持ち物を売って貧しい者に施せ。そしてわたしに従え」と言われ、悲しい顔をして去って行ったといいます。またさらにその直後、弟子たちがこう言うのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、何をいただけるのでしょうか」と。…全てを捨てたはずの弟子たちでさえ、全てをささげきれてなどいなかったのです。自分を捨てきれないのです。

 ことほどさように、人は全てをささげて主に従うことなど出来ません。もちろんその志は尊いのです。しかしそれが「出来る」とか、「出来ている」などと思うのは些か傲慢なのです。また、「自分の全てをささげなければならない」ということが金科玉条になり、それに縛られると、「誤魔化しに生きる」か「自分がつぶれてしまう」か、きっとそのどちらかになるのです。

 神のため人のために全てを捨てることの出来るお方はただひとり、主イエスのみです。主イエスは全てを投げ打って人となり、最後は自らの命さえも捨ててくださいました。…わたしたちには主イエスと同じことは出来ません。それでいいのです。わたしたちの為すべきは、「神よ、自分を献げ切れないこのわたしをお赦しください」と祈ること、そして「この弱い自分をまるのまま、この献げ切れない自分をもひっくるめておささげします。このわたしを受けとめてください」と祈るのです。これがわたしたちの為すべき悔い改めであり、わたしたちが自分の全てをささげるということなのです。

 神は決して誤魔化されないお方です。しかしその誤魔化されない神は、わたしたちの弱さもわたしたち以上に知っていてくださる方です。幼い子どもがその親に全てを知られているように、わたしたちの全てを神はご存じです。親がその幼子を、その弱さや偽りも、時に行うごまかしも、全てを承知の上で愛しているように、神もわたしたちの全てをご承知の上で、捧げきれないわたしたち、偽りやごまかしの多いわたしたち、このありのままのわたしたちを弱いままで愛してくださっています。ですから神を心から天の父と信じて、神の御前では取り繕うようなことをせず、心安んじて歩んでまいりましょう。信仰の道・献身の道は、全てそこから始まっていくのです。

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