日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

15年12月のバックナンバーです。

2015年12月6日 待降節第2主日

説教:「地の果てに至るまで」
聖書朗読:使徒言行録28章30〜31節
説教者 : 北川善也牧師

 2013年4月第一主日より約3年間にわたって取り組んできた『使徒言行録』は今日で最終回となる。

 本書は、復活の主イエスが昇天前に語られた次の言葉によって始まった。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。

 初めにペトロたち12弟子を中心とする人々が聖霊降臨の出来事を体験し、エルサレムの町で熱心な伝道活動を開始した。その伝道によって、主を信じる者は瞬く間に増え広がり、三千を超える人々が信仰共同体を形成していった。これがキリスト教会の始まりだ。

 こうして急速に発展していく教会に、ユダヤの宗教指導者たちは危機感を抱き、使徒たちに迫害を加え始める。やがて、ステファノの殉教を契機として大迫害が巻き起こると、信徒たちは蜘蛛の子を散らすようにエルサレムを離れ、迫害の及ばない遠くまで逃げ去って行った。だが、彼らは行く先々でキリストの福音を宣べ伝え、新たな信仰共同体を生み出していく。すると、その教会を片端から破壊するため、遠くまで出向いて迫害に及ぶ者たちが出てきた。

 パウロは、そのような熱狂的迫害者の急先鋒だった。ファリサイ派の若き律法学徒だった彼にとって、律法を越えた教えを宣べ伝えるキリスト者は、敵以外の何者でもなかった。それゆえ彼は、迫害に全力を注いでいたのだが、ある日、衝撃的な仕方で復活の主と出会い、それまでの生き方を捨てて、福音伝道者として生きる道を示される。パウロはそれを受け容れ、彼の人生は180度変わった。

 キリストの福音は、誰にも止められない勢いを持ち、それに触れた人間に大きな変化をもたらす力を秘めている。それは変化と言うより、「本来の人間性の回復」とでも呼ぶべきものだ。

 神の似姿として創造され、神の息によって生きる者とされた人間は、神と向き合い、神と対話しつつ歩むのが本来の生き方なのだ。しかし、人間は、その本来の生き方を忘れ、自分自身を神とし自己中心的に生きようとする。

 そんな人間のため、神は愛する御子イエスをこの世に遣わし、その尊い命を十字架に捧げてくださった。この十字架によって、すべての人間の罪は帳消しにされ、主を信じる者は永遠の命を受けるという約束さえ与えられた。

 パウロは、三回の伝道旅行において、この福音を各地で宣べ伝え、主の教会を立ち上げる働きに従事した。彼の旅の目的地は、世界の中心ローマだった。そこへ行けば、世界中に福音を発信することができると考えたのだ。パウロの思いは、ローマから見知らぬ世界へと果てしなく広がったことだろう。

 「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(28:30-31)。これが『使徒言行録』の結びだ。パウロは、この後すぐ死罪となり、殉教したと考えられている。

c パウロの旅は、志半ばで終わってしまったように見える。だが、彼自身は神によって示された道のりを走りきったという喜びで満たされていた。そして、その働きは、神がお立てになった別の人へと着実にバトンタッチされていった。パウロに託された働きは、リレー選手のようなものだった。彼はキリストの福音というバトンを携えて最後まで走り抜いたのだ。

 そのバトンは、今ここにいる我々のところまで届けられている。我々もこのバトンをしっかり携え、『使徒言行録』の続きを共に書き進めていこう。

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2015年12月13日 待降節第3主日

説教:「まことの光」
聖書朗読:ヨハネによる福音書1章9〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 旧約聖書・創世紀は、神が人間を御自分の姿に似せて造られたと記している。これは、すべての被造物の中で、人間だけが神と対話できる力を与えられたということであり、本来人間はすべて、神の言葉を理解出来る存在なのだ。

 ところが、神にせっかく与えられたその賜物は、人間の罪によって覆い隠されてしまった。神と向き合い、神と対話しながら生きていく道が備えられているにもかかわらず、自分自身を神とし、自己中心に生きようとする人間。聖書は、人間のこのような態度を「罪」と呼ぶ。この罪ゆえ、人間は、本当ならもっと親しく接することができるはずの神を見失い、ただ神を恐れるしかなくなるのだ。

 しかし、神が我々との間に求めておられるのは、そのような関係ではない。神は「言葉」によって絶えず我々との関係を保とうとしてくださっている。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。神の言葉は、人間の形を取ってこの世に到来した。御子イエス・キリストが、神と我々とを結ぶ「言葉」としてこの世に来られた。

 御子がこの世に遣わされたのは、何よりもすべての人間を救うという神の御計画を成し遂げられるためだった。主イエスは、そのためこの世に来られ、十字架におかかりになった。

 人間は深い罪のゆえに、死という墓穴から抜け出せない状態に陥っている。しかし、神は我々をどこまでも愛してくださるゆえに、我々のそのような状態を黙って見過ごされない。最愛の御独り子を十字架につけ、その死によって墓穴にとどまり続けるしかない人間の死を滅ぼしてくださった。

 だが、このようにしてすべての人間を救うという神の御計画のために来られた主イエスを、この世はどのような態度で迎えたか。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(1:9-10)。我々の救いを成し遂げるために来てくださった御子を、この世は受け入れなかった。

 人間の闇、この世の闇は、栄光に満ちた神の光を拒絶する。これが人間の罪だ。どこまでも人間を愛し抜かれる、その証しとして神が御子をこの世に遣わしてくださったというのに、人間の反応はあまりにも罪深いものだった。

 しかし、ヨハネ福音書は、このような人間の闇や罪だけを指摘しているわけではない。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と告げている。

 神は、我々のような闇の子を、光の子、神の子としてくださる。御子を受け入れる信仰によって我々は神の子とされる。クリスマスは、言が肉となった時であると共に、闇の中にある罪人が神の子として新たに生まれる時でもある。

 御独り子を世に遣わされた神の働きによって、我々は初めてまことの愛に触れた。この愛によって、隣人のために生きる者として造り変えられることによって、我々は本当の意味での生きる喜びというものを知ることができる。

 「光は暗闇の中で輝いている」(5節)。御子がお生まれになったのは、我々にとって遠い過去の出来事だ。しかし、この御方は十字架の死からよみがえり、永遠の命を勝ち取って、今も生きておられる。まことの光は、今も闇の中で確かに「輝いている」のだ。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。この勝利宣言をされたまことの光である主イエスが、我々を絶えず照らし出している。

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2015年12月20日 待降節第4主日 クリスマス礼拝

説教:「恵みの上に、さらに恵みを」
聖書朗読:ヨハネによる福音書1章14〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 聖書は、この世を「闇」と表現する。それは、自分さえ良ければ、という人間の身勝手さがはびこる世界を指している。誰もが自分を中心に置く世界に起こってくるのは、「弱肉強食」や「勝ち組・負け組」という価値観だ。常に上を目指そうとして、そのために全力を注ぎ、貧しい者、弱っている者、苦しんでいる者に目を注ごうとしない社会。この世の闇は一層深まっているように思われる。

 しかし、そのような闇で覆われたこの世に、神の御子は来られた。人間の罪に満ちた目に、この世は暗闇としか映らないが、地上は闇によって完全に支配されているわけではなかった。真っ暗だと思っていたこの世に、既に光は輝き出していた。人間の罪による闇の世を照らし出す光は、人間の力では造り出せない。それは天からの光であり、人間の闇などに決して負けることなく、圧倒的な輝きをもってこの世を照らし出すのだ。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。  神の御子が人間となって、この地上に誕生された。その場所は、田舎町ベツレヘムの、寒くて、暗くて、狭くて、汚い家畜小屋だった。イエス・キリストは、人間という罪に満ちた肉体の姿を取り、地上で最も貧しい場所を選んでお生まれになったのだ。

 「神は愛なり」と言われるが、何ゆえに神はそこまでして我々に愛を示されるのか。それは、神が我々を御自身に似せて造られた存在として、何があろうとも変わらぬ愛の対象としてくださるからだ。その愛の現れが、御子イエス・キリストだった。愛の究極の姿は、自分が愛する対象と一心同体になることに他ならない。

 神は、人間を徹底的に愛し、人間に真の救いを与えようと決心された、それが、「言は肉となった」という出来事だ。しかし、この受肉とは、ただ生まれるというだけのことではなかった。主イエスは、人間と運命を共にし、最後には十字架について、人間の罪の責任を全て引き受けられ、人間がそれによって罪赦されて、生まれ変わって生きるよう、新しく生きる道を開いてくださったのだ。

 そして、この神による受肉は、「弱肉強食」、「勝ち組・負け組」などといった人間の価値観を全く無意味なものにしてしまった。主イエスがこの世に来られ、十字架におかかりになることによって、その死は全ての人間の罪ゆえの死を滅ぼす死となった。これが、全人類を救いに導く神の御計画に他ならなかった。

 主イエスは、この十字架によって「父の独り子としての栄光」を示された。この栄光は、「恵みと真理とに満ちていた」(14節)。我々はあまりに罪深く、それを受けるに全く値しない存在であり、分不相応であるにもかかわらず、神はこれほどまでに大きな、限りない愛を示してくださった。

 自分の罪を知り、その自分に与えられた恵みの大きさを知った者は、自己中心の生き方から、神中心の生き方へと変えられていく。このように神の光を受け、その光を反射して生きる人間のことを、主イエスは「地の塩、世の光」と言われた。こうして神は、クリスマスにもたらされたまことの光を人間のものとし、御自分の民を増し加えていかれるのだ。

 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(16節)。神が御子イエス・キリストを通して示されたこの豊かな恵みを土台として、我々は神に託された愛の共同体であるこの教会を、一層豊かな神の器として築き上げていきたいと心から願う。

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2015年12月23日 燭火讃美礼拝

説教:「恐れず迎え入れなさい」
聖書朗読:マタイによる福音書1章18〜23節
     ルカによる福音書2章1〜20節
説教者 : 北川善也牧師

  礼拝プログラム


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2015年12月27日 降誕節第1主日

説教:「世を愛するゆえに」
聖書朗読:ヨハネによる福音書3章16〜21節
説教者 : 北川善也牧師

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

 短い御言葉だが、ここには聖書の重要な使信が示されている。神の御子イエス・キリストがこの世でお生まれになったのは、「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」だった。

 神は、最愛の御子を遣わされるほど、人間にその愛を惜しみなく注いでくださった。そして、永遠の命という、何よりも確かな神の愛の証しを与えると約束された。

 しかし、その神の愛に対して、この世はどのような態度を示したか。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1:10-11)。

 この世は神の愛を知ろうとしなかったばかりか、神への憎しみをあらわにして拒絶した。神は、このようになることを御存知ではなかったのだろうか。

 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(19節)。神による救いの光、大いなる愛は、闇にとどまり続ける人間にとって、直視できないほどのまばゆさを放っている。聖書は、そのことが「もう裁きになっている」と告げる。

 この世の現実においては、真の光を受け入れない人間の方が圧倒的に多い。それは、この御言葉からすれば、ほとんどの人が裁かれているということを示している。神の目的は、多くの人々を裁いて終わらせることなのだろうか。

 聖書は旧・新約共に、「神の裁き」について多く記しているが、それらは裁くことが最終目的なのではなく、神への立ち帰りを求める御言葉と共に示されている。つまり、神の裁きは、罪にとどまる人間を御自分に立ち帰らせることを目的として行われるのだ。

 神は、淡々と無慈悲に裁きを進められるのではなく、すべての人間を御自分に立ち帰らせようとする真剣さをもって裁かれる。神は、人間を見捨てることなく、御自分に向き直らせ、どこまでも救いへ導こうとされる。それほどまでに神は人間を愛しておられる。

 本来、救いを受けるために、我々の方から神の赦しを請いに行かねばならないのに、神御自身がこの世まで出向き、我々のために十字架にかかって命を捨てることまでして仕えてくださった。

 だが、問題は人間がどこまでも暗闇にとどまり続けようとする習性を断ちきれないことだ。光に近づこうとする思い、すなわち、神への信仰は、人間の内側から自然発生するものではない。それゆえ神は、御子を受け入れる信仰そのものを、聖霊の助けによって人間に与えてくださるのだ。

 神は、すべての人間を愛するゆえに、永遠の命という何よりも高価な宝を惜しまず与えてくださる。それは、「信じる」ことによって初めて得られるものだ。永遠の命は、御子を信じる者に与えられる。神は、さらにその信仰さえも与えると言ってくださった。

 そうであれば、我々がなすべきことは、神が与えてくださる信仰を絶えず祈り求め、その信仰を最後まで守ることができるよう祈り続けることだけだ。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Tテサロニケ5:16-18)。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも神の恵みとして感謝する生活を通して、我々の信仰は増し加えられていく。

 2015年の我々の歩みを主が守り導いてくださったことに感謝し、新しい年も我々を祝福のうちに導いてくださるよう、共に祈りを合わせつつ歩みたい。

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