日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

16年1月のバックナンバーです。

2016年1月3日 新年礼拝 降誕節第2主日

説教:「わたしがあなたがたを選んだ」
聖書朗読:ヨハネによる福音書15章1〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。主イエスは、この御言葉をどのような状況で語られたか。それは、弟子たちとの最後の晩餐を終え、彼らの足を洗われた後だった。

 洗足の後、主は弟子たちに、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(13:14-15)と言われた。

 その御方が、今日の箇所では次のように語られた。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。師弟関係から「友」への変化は、十字架を目前にして起こった驚くべきことだった。このことによって、主は御自分がどなたであり、弟子たちが何者であるかを示された。

 ある人が、「人間の一生は、自分が何者であるかを尋ね求める旅のようなものだ」と言ったが、人間の内側からはいつまで経ってもその答えは出て来ない。それは、創造主である神と向き合わない限り解けない問題だ。

 神は、モーセと出会われた時、御自分の名前を「わたしはあるという者だ」と告げられた。この時、神御自身がそこにおられるゆえに、自分は存在し得るのだということをモーセは悟った。これと同様、弟子たちにも彼らと共におられるのが一体どのような御方であるかということが示された。

 真に聴くべき御言葉がここにある。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。我々は、主イエスというぶどうの木につながることによって初めて真の命を生きる者になると言われている。

 同時に、主は「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とも言われる。真の友とは、喜びだけでなく苦しみや悲しみも共有できる人だ。そんな友がいてくれるだけで人は心底から励まされる。これが真の友を持つ者に与えられる恵みだ。

 主が我々を友と呼ばれた御言葉は、主が御自分の命を十字架に献げられることによって真実となった。十字架の出来事は、全人類救済のための、神の初めからの御計画であり、人間に対する神の愛の証しに他ならなかった。それゆえ主は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と言われたのだ。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。主が友と呼びかけているのは「すべての人」であり、その友に対して「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と主は言われる。選びは、神の救いの御計画において、無条件に、ただ一方的な恵みとして行われるのだ。

 このような選びについて語った後、主は次のように続けられた。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節後半)。ぶどうの木につながり、豊かな実を結ばせる枝とは、接ぎ木のことだ。接ぎ木には先も後もない。健康なぶどうの幹にしっかりつながれば、どの接ぎ木も豊かに養分を受け、たわわな実りを与えられる。

 我々には、さらにぶどうの木につながる枝々を増やす働きが託されている。実にその働きによって、「わたしがあなたがたを選んだ」と言ってくださる主イエスの友が増し加えられていくという恵みに満ちた幻が示されている。

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2016年1月10日 降誕節第3主日(オール洛北礼拝)

説教:「イエスさまは道、真理、命」
聖書朗読:ヨハネによる福音書14章1〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 方向音痴なわたしは、初めての場所に行くと道に迷いやすいので、いつもドキドキしてしまいます。でも、今はとても便利で、車に乗っている時にはカーナビが、歩いている時にはスマホが道案内してくれます。それでも、やっぱり方向音痴なので、カーナビやスマホだけを頼りにするのではなく、案内の看板や目印になる建物を見つけて慎重に進んでいきます。そうやって道を進んでいっても、途中で何度も「本当にこっちでいいのかなあ?」と不安になってしまいます。そんな時は、近くにいる地元の人を見つけて、道を尋ねることにしています。

 ある時、こんなことがありました。行きたいところの近くまで来ているはずなのに、どうしてもたどり着けません。「おかしいなあ、行きたいところはこの辺のはずなんだけど……」と思いながら、どっちに進んだらいいかわからず、周りをキョロキョロ見回していると、おじさんが近づいてきて、「どうしたんですか?」と声をかけてくれました。それで、「実は○○というところに行きたいんですけど、ご存じですか?」と聞くと、そのおじさんは、「ちょうどその近くに行くところだったから一緒に行きましょう」と言って、口で説明するだけでなく、一緒に行ってくれたのです。おじさんが一緒に行ってくれたおかげで、わたしは行きたかったところにちゃんと着くことができました。

 今日読まれた聖書には、神さまのおうちに行くための道はどこにあるのか、ということが書かれていました。神さまのおうちは天にあると言われています。では、どういう道を通ったら、天にある神さまのおうちに行くことが出来るのでしょうか。

 イエスさまは、十字架におかかりになる前の夜、弟子たちに向かってこのように言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 わたしたちは、本当の神さまを知らないままでは、神さまのおうちの方に向かっていくことが出来ません。本当の神さまがどなたであるかを知らない人は、神さまがどこにおられ、わたしたちのことをどのように見ておられるかわからないので、神さまに近づくどころか、神さまからどんどん離れていってしまうのです。

 そのままでは、わたしたちはいつまでたっても神さまのおうちに行くことが出来ません。方向音痴の人が、迷子になってしまった時と同じです。それで、神さまの子どもであるイエスさまがこの世に来てくださったのです。

 イエスさまは、ただこの世でお生まれになっただけではありませんでした。わたしたちがしっかり神さまの方を向いて、神さまとつながり続けることが出来るように、十字架にかかって死んでくださいました。イエスさまが十字架におかかりになったので、わたしたちは神さまの方を向いて進んでいくことが出来るようになりました。それだけでなく、イエスさまは十字架の死から復活されました。死んで終わりにはならず、よみがえられました。それは、イエスさまを信じて従う人には、絶対に終わりにならない永遠の命を与えて、神さまのおうちに連れていってくださるためでした。

 神さまの子どもであるイエスさまは、神さまのおうちがどこにあるか、ちゃんと知っておられます。そして、わたしたちの手を取って、一緒に神さまのおうちまで導いていってくださいます。

 イエスさまを信じて従う人は、生きている時も、死ぬ時も、死んでからも、いつでも神さまの子どもです。こんなに安心でうれしいことはありません。

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2016年1月17日 降誕節第4主日

説教:「キリストの恵みと平和」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章1〜2節
説教者 : 北川善也牧師

 今日から『フィリピの信徒への手紙』を読み始める。この手紙は、パウロの伝道によって生まれたフィリピ教会に宛てて書かれたもので、「獄中書簡」とも呼ばれる。

 パウロが獄中で、苦しく孤独な日々を過ごしていた時、フィリピ教会の人々はパウロのために祈るだけでなく、献金を集めてパウロに届けるという行動を取った。

 パウロは、彼らの祈りと具体的な愛の行為に対して感謝を表すと共に、パウロが牢獄に入れられている今、伝道の働きは止まってしまったように見えるかもしれないが、彼らによって励まされ、力を与えられたパウロには、福音が世界に向けて果てしなく拡大していく幻が示されていることを何としても伝えたいと考えた。

 今日読まれた冒頭の挨拶には、わずか二節の間に「キリスト・イエス」という言葉が三回繰り返されている。このことで、パウロは「この手紙には自分の思いではなく、キリストの僕として託された御言葉が書かれている」ということを強調しているのだ。

 パウロは、他の手紙の挨拶では「使徒」と名乗っているが、ここでは自分のことを「僕」と呼んでいる。このことは、フィリピ書の特徴の一つともなっている。

 「僕」と訳されているギリシャ語・ドゥーロスは、「奴隷」とも訳すことができる。当時、ローマ帝国では、奴隷は金銭で売買され、主人の所有物と見なされていた。それゆえ、奴隷とは自由がなく束縛されている存在を意味する。

 自由がなく束縛されている状態というのは、現代人である我々も同じだ。この世の生活の中には、ノルマや規則があり、組織や集団によって縛られることもある。

 しかし、もっと深刻なのは、我々が皆、罪やサタンの誘惑、そして、死によってがんじがらめに縛りつけられていることだ。この束縛からは誰も逃れることが出来ず、誰もがこのような絶望的な現実のただ中に置かれている。

 そういう現実の中にキリストは来られ、十字架の死を遂げてくださった。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(Tコリント6:20)。我々は、金銭によってではなく、十字架における尊い血を代償として買い取られ、キリストの僕とされたのだ。

 あくまでも「僕」だから、やはり束縛されていることに変わりはない。しかし、キリストの十字架によって罪と死が滅ぼされ、神の大いなる愛によって捕らえられた我々は、もはや罪や死の奴隷という立場から完全に解放されている。

 神の愛による御支配は、父なる神と一体である御子キリストが、本来おられるべき栄光に満ちた高みからへりくだられ、最も低い十字架にかかって「僕の身分」を引き受けることによって成し遂げられた。キリストは、そのような僕としての姿の中にこそ、神に造られた者としての人間本来の姿、真実の人間の生き方があることを、身をもって示されたのだ。

 十字架の出来事において、僕となることの意味は大きく変わった。それは、自由を奪われ、喜びも希望もすべて失ってしまうような僕の姿ではない。

 「【問】生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。【答】わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」(『ハイデルベルク信仰問答』)。

 キリストの僕とされることにこそ、本当に深い慰めがある。我々の人生には、喜びばかりでなく、むしろ苦しみや悲しみが多くある。しかし、自分がキリストの僕とされていることを知る者には、たとえいかなる時であろうとも深い慰めと平安がもたらされる。

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2016年1月24日 降誕節第5主日

説教:「いつも喜びをもって」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章3〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 フィリピ教会が誕生した経緯は、使徒言行録16:6以下に記されている。それはパウロが見た幻から始まった。海を隔てた地にいるマケドニア人が、パウロに向かって「わたしたちを助けてください」と懇願する幻だ。

 ヨーロッパ南東部に当たるマケドニアは、ローマ帝国において、学問的にも文化的にも先進的な地だった。だが、そんな地にあって、魂の飢え渇きを豊かな学問や文化では満たされず、必死に救いを求める人々がいたのだ。

 こういう人々こそ、イエス・キリストの十字架において示された神の愛の福音を待ちわびていると確信したパウロは、すぐさまマケドニアに渡り、最初の訪問地フィリピで熱心に伝道を行った。これによってフィリピに信仰者の群れが生まれていった。

 パウロは、3節以下で感謝と祈りの言葉を述べている。彼は、まず始めに何に対して感謝を表しただろうか。それは、フィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)ことにだった。神は、パウロとフィリピ教会に多くの恵みをもたらされたが、その中でもパウロにとって自分がフィリピを離れた後も、彼らが福音にあずかり続けていることほど感謝すべきことはなかったのだ。

 ここで「あずかる」と訳されている元のギリシャ語・コイノーニアは、「交わり」という意味も持っている。交わりは、キリスト教の中心であり、命であると言ってもよい。ただしこの場合、人と人との交わり以上に神と人との交わりに重点が置かれる。

 我々が神との交わりにおいて「福音にあずかる」ということは、我々には本来起こり得ない、奇跡的な出来事だ。多くの誘惑や問題に満ちたこの世で生きる我々は、いつ信仰を失ってもおかしくない。このような現実の中で福音にあずかり続けることは、人間の力では不可能としか言えない。そんな人間の横方向にしか働かない力に、神からの縦方向の力を加えてくださったのが主の十字架だ。

 福音にあずかるということは、十字架によって成し遂げられた神の愛が、御言葉を通して我々の中で生きて働くことによってはじめて可能となる。主イエスが「求めなさい。そうすれば与えられる」と言われたように、祈り求める者には聖霊の働きによって神の愛の力が豊かに注がれるのだ。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(3-4節)。パウロは祈ることによって、いつも神の愛の力に満たされており、彼の中には神への感謝が泉のように止めどなく湧き上がっていた。

 フィリピ書には、パウロの他の手紙と比して、「喜び」という語彙が特に頻出する。ここに出てくる喜びは、いずれも自己満足の喜びではなく、神の救いの出来事に触れることによって生まれる喜びであり、それは信仰によって神から与えられる賜物に他ならない。

 しかも、それは今この瞬間に手渡されるものではなく、終わりの日の約束として与えられるものであり、そういう意味では「未だ」我々のものではない。しかし、そうであるにもかかわらず、「既に」何よりも確かな約束として示されている、そういう喜びなのだ。

 福音にあずかることによって、我々は神の救いの恵みを受け取る。この出来事は、究極的には終末の完成を待ち望まねばならないが、我々にとって何よりも確かな神の約束だ。だから、その約束を信じる者は、それを通して示されている救いの完成の時、神の国が実現する終わりの日に目標を定めつつ、自分に与えられている人生を大きな喜びと希望をもって歩んでいくことが出来るのだ。

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2016年1月31日 降誕節第6主日

説教:「共に恵みにあずかる者」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章6〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、フィリピの信徒たちに宛てた手紙で、「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」(7節)と語りかけている。

 「共に恵みにあずかる者」の直訳は、「わたしの恵みに共にあずかる者」だ。「わたしの恵み」とは、パウロ自身が受けた神の恵みのことに他ならない。パウロが受けた神の恵みとはどのようなものだっただろうか。

 パウロは、ダマスコ途上の出来事によって、人間の罪を赦す神の無償の愛というものに触れ、この愛による死や滅びからの救いを確信した。こうして迫害者サウロは、異邦人のための伝道者パウロとして生まれ変わった。

 この恵みは、神から一方的に与えられた賜物だった。神の賜物というのは、人間がいつでも「恵み」として受け容れられるものばかりではない。それは、時として苦しみや悲しみを伴うことさえある。

 だが、我々は苦しみや悲しみの中でしか出会えない人や経験を得る。また、そのような時を過ごさなければ、感じることのない感性を与えられる。神は、そのようにして我々に「恵み」をお与えになる。神は、我々に絶えず御目を注ぎ、一人一人の、その時本当に必要なものを備えてくださるのだ。

 この手紙を書いた時、パウロは投獄という危機に直面していた。しかし、そのような時が、「福音を弁明し立証する」絶好の機会になったと彼は言っている。

 ここで、「立証する」と訳されている原語は、地面が踏み固められて、次第に確かなものとされていくというニュアンスを持つ言葉だ。証しする生活は、ある日突然起こってくるものではなく、信仰生活の積み重ねの中から生まれてくるということを示している。

 パウロは、現実には確かに鎖で縛られていたが、本質的にはキリストに捕らえられているのであって、どんな状態であっても自分はキリスト以外に束縛されないと断言する。それゆえ、彼は獄中にあっても自由に福音を宣べ伝えた。

 このようなパウロの働きの背後には、フィリピ教会の力強い祈りと協力があった。パウロは、このことによって彼らは共に恵みにあずかっていると言う。たとえ直接的な伝道に携わることは出来なくとも、伝道のために祈り、協力することによってキリスト者は「共に恵みにあずかる者」となる。

 さらにパウロは、「キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことを思っている」(8節)と言う。この「思っている」には、「切望する」とか「慕い求める」という強い意味を持つ語が使われている。パウロは、フィリピの信徒たちと直接会い、「キリスト・イエスの愛の心」を分かち合うことを切望していた。

 この「愛の心」と訳されている語は、「憐れみ、同情」という意味を含み、「内臓、はらわた」を表す言葉が語源だ。この言葉によって、相手の痛みを自分の痛みとする愛が表されている。

 つまり、パウロはこのように言うことで、彼らに対する自分の愛が、十字架をもって示された主イエスの深い憐れみ、神の愛を根拠としており、自分勝手で気紛れな思いなどではないということを伝えているのだ。

 このような愛は、人間が元々持っているものでも、努力すれば身につくものでもない。それは、ただ上から一方的に、神からの恵みとして与えられる。神の愛は、価値なきものの中に価値を見出し、痛みも苦しみも共有する愛だ。

 このような愛の心を持つ者から、新しい祈りが生まれてくる。そして、この愛の心に基づく祈りによって、教会はキリストの御体として一つに組み合わされ、立ち上げられていく。

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