先週の説教 -バックナンバー-
16年2月のバックナンバーです。
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説教:「本当に重要なこと」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章9〜11節
説教者 : 北川善也牧師
パウロはフィリピの信徒たちに対して、「あなたがたの愛がますます豊かになるように」(9節)と祈っている。ここで言われている愛は、人間が生まれながらに持っているものではなく、ただ上から神からの恵みとして与えられる「アガペー」の愛に他ならない。
神の愛、アガペーの愛は、敵味方の区別なしに、すべての相手に対して向けられ、惜しまず与えられる。それは、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛だ。
そのような愛が「ますます豊かになる」とは、この地上にあまねく広げられている神の御手の業に目を向けることであり、そのようにして人々がますます神の偉大さをほめたたえ、神に感謝する者となることを願っている。
パウロがこのように願ったのは、フィリピの信徒たちの中に愛がないから、というわけではなかった。彼らは、神の恵みとしての愛の中に生きる共同体だった。しかし、神の愛にはこれで十分ということはないのだ。
パウロは、アガペーの愛を、神によって与えられる聖霊の実の一つとして捉えている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)。パウロは、ここでフィリピの信徒たちが聖霊で満たされることを祈っていると言い換えることもできる。
聖霊によって愛で満たされるため、我々は自分が神とどのように向き合っているか、絶えず自己吟味しなければならない。
神は我々に問いかけておられる。「あなたはいかに生きているか」「どのような人生を歩んでいるか」。我々は神からの絶えざる問いの前に立たされている。
このような問いの背後には、そのようにして問われるほど我々一人一人に御目を注がれる神の燃えるような愛がある。神はすべての人を救うため、一人一人に対してどこまでも深い関心を持って関わろうとしてくださるのだ。
「キリストの日に備えて」(10節)と語られているのは、キリストが再びこの世に来られ、裁きを下される日のことであり、いわば総決算の時だ。この終わりの日に、とがめられるところがないよう、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)という言葉でもって、パウロは祈りを結んでいる。
「義の実」とは、我々の信仰告白の言葉にもあるように、キリスト者がイエス・キリストに対する信仰によって義とされ、その義を具体的にこの世で実践するようになることを言う。しかし、そのような力は元々人間に備わっていないのだから、我々はただひたすら聖霊の助けによってそのようにされることを祈り願うしかない。
「キリストの日」、すなわち、終わりの日には、天上において玉座におられる神御自身と対面し、その神に向かってまことの礼拝を献げる恵みが約束されている。永遠の命を与えられ、神の御国において神と共に愛と喜びに満ちた宴席に連なる幻が示されている。
神は、最後まで御自分を信じ、従う者にこのような恵みに満ちた約束を与えてくださる。だから、我々はただこの御方を信頼し、自分にではなく、ひたすら神に栄光が帰せられ、神がほめたたえられることを願い、そのために自分は何が出来るかを探し求めていくのだ。我々には、そのために一人一人異なる賜物が与えられている。
その中でも最も重要な賜物は、パウロ自身が示しているように「祈ること」に他ならない。たとえどんな状況に置かれていようとも、我々は祈ることが出来るという恵みを与えられていることを忘れずに歩んでいきたい。
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説教:「福音の前進」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章12〜14節
説教者 : 北川善也牧師
パウロは、ここで自分の身に起こっていることについて語っている。彼は、キリストの福音を宣べ伝えたことによってローマ兵に捕らえられ、牢獄に監禁されていた。
パウロは当時、キリスト教伝道の牽引車のような存在だったから、パウロの伝道によって建てられた教会にとって彼が捕らえられたことは大きな損失となった。
普通、指導者が不在になれば、その運動は停滞するか後退していく。しかし、パウロはそのような状況の中で、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)と言う。ここで「前進」と訳されている原語のギリシャ語には、「切り開いていく」という意味もある。それは、先発隊が前方に立ちはだかる岩や大木を押しのけ、道なきところに道を切り開いて進むというニュアンスだ。パウロは、福音伝道の働きを引き継いでいくために必要な道を切り開くのに自分の身に起こったことが役立っていると語っているのだ。
パウロは、鎖につながれた状態で投獄され、完全に自由を失っていた。ところが、彼はまさにそのことが福音の前進に役立ったと言っている。「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡った」(13節)と。
当時、ローマで思想犯として捕えられた者には、1日4交替で4人の兵士が見張りについたと言われている。そんな番兵たちが休む時に過ごす兵営全体にキリストが告げ広められていったというのだ。そこで一体何が起こったのか。
パウロは、牢獄に監禁されたからもう伝道出来ないとは考えなかった。逆に、捕らえられている自分を監視するために新しい番兵が交替して入って来るたび、その一人ひとりに対して福音を宣べ伝えることを喜びとしたのだ。
パウロから福音を聞いた番兵の中から信じる者が現れ、その口を通して兵営全体に福音が広まっていった。さらに、その兵士の異動に伴い、福音は兵営内部にとどまらず、ローマ帝国の様々なところに伝わっていったのだろう。
実際、パウロと同時期を生きたローマ皇帝の一族には、キリスト者となって殉教を遂げた人物が存在する。第二夫人がキリスト者となったことで皇帝ネロは怒り狂い、ローマの町に火を放って、その罪をキリスト者になすりつけたとも言われている。こうしてネロの時代にローマ帝国史上最悪のキリスト者迫害が行われる。
迫害が強まったことは悲劇的と言うしかないが、パウロの投獄は福音伝道を停滞させることも後退させることもなく、かえって前進させていき、またそれを知ったフィリピの信徒たちもうなだれることなく、ますます力強く福音を宣べ伝えていった様子がここに示されているのだ。
福音は、どんなことがあっても行き詰まることも、消えてなくなってしまうこともない。福音は、どんな困難にあってもひたすら前進していき、何ものもこれを止めることは出来ない。
我々は、その福音を携えて生きる一人ひとりだ。我々がキリストの福音を人生の中心に据えて生きるならば、どんな行き詰まりの中にあっても、立ち止まることも後退することもなく、前進し続ける原動力を与えられる。
我々の人生には様々な問題が起こる。しかし、とてつもなく高い壁のように思われることも、信仰をもって生きる者にとっては簡単に乗り越えられる段差にしか過ぎない。パウロが確信をもって語っているように、我々に与えられ、我々が携えている福音はあらゆる障害を乗り越え、進むべき道をどこまでも切り開いていく計り知れない力を持っているからだ。
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説教:「キリストを告げ知らせる」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章15〜18節
説教者 : 北川善也牧師
今日与えられた聖書箇所の強調点は、「キリストを告げ知らせる」ということにある。15節から18節までの短い文中に、このことが3回繰り返されている。
この繰り返しは、次第に意味合いを強めていくが、このような言い回しによって、パウロが獄中に閉じ込められていようとも、福音伝道の働きは着実に進められていったことが表現されている。
ところが、この箇所は驚くべき内容もはっきりと伝えている。パウロと敵対する者は、迫害者であるローマのみならず、同じ信仰に生きているはずのキリスト者の中にも存在していたというのだ。
一体何が起こっていたのか。フィリピの信徒たちの多くは、パウロが獄につながれたと聞いて意気消沈したが、パウロが獄中にあっても主にあって勇敢に福音を語り続けていることを知り、自分たちも同罪で捕らえられることなど恐れず伝道活動を強めていった。
こうして主にある兄弟姉妹の多くが、「確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(14節)。彼らは、パウロの監禁という絶望的な現実の中にも神が生きて働いておられると確信することが出来たのだ。
ところが、そのようにして福音伝道に取り組み始めた人々の動機は様々だった。もちろん「善意でする者」も少なくなかったが、中にはパウロに対する「ねたみや争いの念にかられて」キリストを宣べ伝える者もいた。パウロが伝道者として有名になっていたことを妬んだのだろうか。いずれにせよ、この人たちはパウロが監禁されていることをチャンスと捉え、その間に彼を出し抜こうとしたのだ。
パウロも最初は、そのような人間が出てきたことを、獄中で嘆き悲しんだことだろう。しかし、パウロにとって何よりも大切なことは、「キリストが告げ知らされている」ことに他ならなかった。
たとえ誰であっても、どんな動機からであっても、キリストが正しく告げ知らされ、それを聞いて救いに与る人々が増し加えられているという現実は喜ぶべきことだとパウロは捉えるのだ。
パウロは、「わたしはそれを喜んでいます」と現在形で言うだけでなく、「これからも喜びます」(18節)と未来形で続ける。獄中のパウロには、絶えず殉教という死の影がつきまとっていた。彼の未来は暗澹たるものだったはずだ。
しかし、キリスト者に与えられている喜びの源は、イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた救いにある。この救いは、人間の罪をことごとく打ち滅ぼし、死に定められた人間に永遠の命がもたらされることを確かなものとする神による約束だ。
この約束に生きたパウロは、直面する現実に一喜一憂することはなかった。彼は、いかなる時にも思い煩うことなく、ポジティブに行動することができた。たとえキリストを出しに使って自己宣伝することを目論んでいるような人間が現れても、そのような働きさえ主が人間の思いを越えた仕方で福音を前進するために用いられる神の御業と捉えることが出来た。
主は、次のように命じられた。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:18-20)。
この主の命令は、何よりも確かな主の約束に基づくゆえ、福音に生きる人間、主の御言葉を携えて生きる人間は、たとえどんなことがあろうとも、喜びを決して奪い取られることがない。信仰者の喜びは限りなく続く。信仰者は、キリストの福音によって、豊かな恵みのうちに限りない喜びに包まれて生きる者とされるのだ。
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説教:「キリスト・イエスの心」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章3〜11節
説教者 : 松木純也伝道師
「十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めて」(Iコリント2:2)伝道にまい進してきたパウロは、いま人生終盤に監獄に捕えられ、伝道にかけて生きてきた一生が全否定されるような危機に直面することになりました。しかし、そこからフィリピの教会に出されたこの手紙には、1章3〜6節にかけて「感謝する」「喜びをもって祈る」「確信する」などの前向きな言葉が並びます。パウロはまったくキリストに捕えられ、その心は「キリスト・イエスの心」(1:8)で満たされ、肉体の囚われをものともせず、いわば「突き抜けて」、福音宣教にあずかっている喜びにあふれていることがわかります。パウロをガラッと変えた「キリスト・イエスの心」とはどういう心なのでしょうか。
私たちの神は、イスラエルの民の苦境を見て「わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)神です。立派な者、優れた者を、その価値の故に愛するのではなく、失われた者、弱き者、無価値な者に激しく心動かされ、憐れまれる方です。その神の憐れみが、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とありますように、イエスによって現されました。そして、神の憐れみは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とありますように、私たちの罪を贖うための、御子イエス・キリストの十字架の死において最高度に示されました。イエスは、私たちを救うために十字架の死に至るほどの苦しみを苦しみぬかれたのです。「私を愛し、私のために命を捨てた」(ガラテヤ2:20)とパウロが言う、キリストの「自分の命を捨てて他者を愛する」愛です。「十字架につけられたキリスト」の愛の心、それが「キリスト・イエスの心」という言葉が表している内容です。
「キリストの憐れみの心」を受けて、イエスの弟子たちは、その伝達者となりました。「キリストの心」は、キリスト者の熱心な迫害者であったパウロをもとりこにし、今度はパウロ自身がキリストの心でフィリピの教会のことを恋焦がれるように思う(1:8)とともに、フィリピの人たちに「キリストの心をわが心として生きよ」(2:5)と勧めました。さらに使徒たちの働きによって「キリストの心」は各地の教会を通して伝えられ、さらに代々のキリスト教会に伝えられ、……そのようにして、ついに現代の私たちにも伝えられました。キリストの心と目は、私たちをも捕えてくださったのです。私たちが真面目そうで、あるいは立派そうだからではなく、「自己責任」などという言葉が横行する冷たい社会の中で放ったらかしにされ、飼う者の無い羊のように弱り果て打ちひしがれているからです。キリストの心に飢えているからです。
私たちはキリストの十字架の贖いによってキリストとの交わりの中に入れられ、キリストの十字架に示された神の愛、神の恵みを、味わい知る者となりなさいと繰り返し招かれています。そして実際、私たちは人生で否応なく出会う病気や様々な困難や重荷の中で悲しみに打ちひしがれる経験をしますが、その度に、キリストの憐れみの心に触れ、慰められ、新しい命を生きるようにと励まされています。教会ができることはただ一つ、私たちも受け継いだ「キリストの心」を自ら深く味わって生きるとともに、この世の人々に「キリストの心」を伝えていくことに尽きるでしょう。その使命とそれに伴う喜びを与えられていることを心から感謝したいと思います。
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