先週の説教 -バックナンバー-
16年3月のバックナンバーです。
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説教:「生きるとはキリストである」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章19〜26節
説教者 : 北川善也牧師
パウロの人生最大の願いは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことだった(20節)。
「キリストがあがめられる」とは、「キリストが大きくされる」ことだ。もとより被造物である人間が神であるキリストを大きくすることなど出来るはずがない。
ところが、神はそのための働きに人間を用いられるというのだ。パウロの身に起こったことは、まさにそのような神の働きだ。
たとえ無力であろうとも、病気であろうとも、あるいは、死に直面していようとも、まさに「生きるにも死ぬにも」神は人間を用いて御自分の栄光を現されるのだ。
21節でパウロは、このことを次のように言い換えている。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。また、パウロはガラテヤ書でも「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と言っている。
パウロにとって「生きる」とは、キリストを自らのうちに宿して主と共に生きることであり、その力に押し出されて他の人々にも、そのようにして主と共に生きる喜びを宣べ伝えることだった。
苦しみや悩みの多い人生の中で、キリストが我々の内に生きてくださる。渇ききった抜け殻のようになっている我々の中でキリストが生きて働き、御自身がその源である命の水で満たしてくださる。そのようにして真に生きる者とされる。それが、パウロの言う「生きるとはキリストである」という言葉の意味だ。
多くの人間が、死を絶望や恐怖の対象として否定的に捉えるのに対して、パウロにとって、死とはキリストが既に勝利を治め、そこから永遠の命という新しい希望を起こされた古いもの、過ぎ去ったものに他ならなかった。だからパウロは、「死ぬことは利益なのです」とまで言うのだ。
死において、キリストとの交わりを獲得し、永遠の命を得ることができる。わたしを愛し、わたしのために十字架の死を遂げてくださった主といつまでも共にいることが出来る。そのようにして、主は「インマヌエル」を実現してくださった。パウロのこのような信仰が、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節)という言葉に表れている。
ところが、パウロには、このような自分の望みを越えて、この世に生き続けることが神の御旨であると示された。教会の主である神が、フィリピ教会のために生き続けるよう命じられているという確信がパウロに起こったのだ。
「わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」(26節)。ここで「姿を見せる」と訳されているギリシャ語は、別の箇所では主イエスの再臨を表す言葉が使われている。つまり、ここでパウロは、単なる彼の再訪ということではなく、主が再臨する終わりの日のことを示唆しているのだ。
我々の未来は、どのようになっていくか全くわからない。我々には、明日のことさえもわからない。しかし、イエス・キリストの十字架と復活によって、神は我々の未来を切り開いてくださった。
人間側から見た時、未来は「一寸先は闇」のようにしか映らない。だが、歴史を統べ治めておられる全能の神は、向こう側から光の到来、希望の訪れを確かなこととしてくださった。我々の苦しみ、悲しみ、思い患いの向こうに、神は確かな希望を備えておられる。それは、神が我々を深く愛してくださっているからに他ならない。
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説教:「信仰のための戦い」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙1章27〜30節
説教者 : 北川善也牧師
神は、我々に数え切れないほど豊かな恵みを備えてくださる。あまりにも多くの恵みが与えられるため、我々はそれに慣れてしまい、空気のように当たり前のことと考えてしまいがちだ。そればかりか、そんなに豊かに与えられているにもかかわらず、まだ足りないと不平を言ってしまうことさえある。
しかし、神の恵みは我々の日常生活の中で、全く気付いていないようなところにも行き渡り、充満しているのだ。そのように満ち溢れている神の恵みの中でも最も大きなものは何だろうか。
我々の人生は、たとえて言うならば、小さな手こぎ舟に乗って大海原を渡っているようなものだ。静かな海の上であれば順調にこぎ進むこともできるが、波が高くなってきたら思ったように進むことができなくなってしまう。そんな手こぎ舟が、広い海の真ん中で、突然嵐に巻き込まれたらどうなってしまうだろうか。
我々の人生には、突如として嵐が襲いかかってくる。そのような時、我々はまるで木の葉のように大波に翻弄され、そのままでは海の藻屑となるばかりだ。
そんな時、荒れ狂う海にばかり気を取られている我々には見えていない存在がある。荒れ狂う海を叱りつけ、黙り込ませる大いなる力を持っておられる御方が、自分の頼りない手こぎ舟に共に乗り込み、いつも見守っていてくださることを我々は忘れている。
我々に与えられている恵みの中で最も大きなものは、この御方を信じる信仰に他ならない。パウロが語っているように、キリストを信じることによっていかなる荒波を受けようとも、信仰者には信仰の戦いにおいて、たじろぐことも恐れることもなく、ひたすら前進していく力が与えられる。
「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」(27c-28a節)。
フィリピの信徒たちは、キリストを信じることによって自分たちが巻き込まれている迫害や苦難は、神から見放されてしまったゆえに起こった出来事ではないかと思っていたかもしれない。
しかし、パウロは「苦しむこと」は神の罰などではなく、むしろ恵みであると告げるのだ。キリストのために苦しむことは、我々が聖餐の時に合わせる祈りにもあるように、「主の体の枝である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができるように、また、キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、折りを得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えることができるように」という信仰へと導かれていく。
苦しみや悲しみの何よりも大きな意味は、どこまでも繰り返される罪のるつぼから、どうあがいても自分の力では抜け出すことのできない我々を救い出すため、イエス・キリストが十字架にかかり、命を捨ててくださったことを思い起こすところにある。
現在、主イエスの十字架への道行きを覚える受難節を過ごしている我々に、今日与えられた聖書の御言葉は語りかける。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)。
人生において苦しみは避けることができない。しかし、信じる者にとって苦しみも悲しみもすべてはキリストに近づくために与えられるものなのだ。我々は、そのような苦しみの中にあって、心静かに祈ることを通して、自分がすでにキリストのものとされ、絶えず神の御懐に抱かれているということに気づかされる。
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説教:「十字架の死に至るまで」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙2章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師
ここでパウロは、フィリピの信徒たちの間に起こっていた人間関係の問題を、信仰の問題として語っている。教会内で争いや分裂があった時、パウロは「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)と語りかけた。
「励まし」の原語は、そばに呼ぶという意味の動詞で、これが名詞形になると「弁護者」、「助け主」という意味になり、聖書では聖霊を指す言葉となる。
ここでこのような意味を持つ言葉が用いられたのは、フィリピの信徒たちが置かれていたのが、迫害によって明日の命も知れないような不安な状況だったからだろう。そのような人々に必要なのは、上よりの深い慰めに他ならない。
我々の人生も苦しみや悩みに満ちている。そういう問題は誰にも代わってもらうことなどできず、自分一人で悩み苦しむしかない。しかし、そんな我々のそばにいて、絶えず慰めてくださる方が確かにおられる。人生の悩み苦しみの只中で、その御方と出会うことこそ恵みだとパウロは言うのだ。
ところが、人は皆、「利己心や虚栄心」(3節)に囚われている。そして、人間関係を破壊するのは、各人が発するそのような傲慢さのぶつかり合いに他ならない。
パウロは、ここで「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3-4節)と語っている。この「へりくだって」という言葉は、主イエスが示された姿勢を表している。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-8節)。
主イエスは本質的に神であったにもかかわらず、強制されてではなく、御自分の自由な意志によって、神と等しくあることに固執せず、人間になられたと、この手紙は繰り返し強調している。
しかも、人としてこの世に来られた主イエスは、特別な人間として生きるのではなく、むしろ「僕の身分」になられた。「神の身分」から「僕の身分」へと下られたのだ。その僕としての姿は、十字架の死において極まった。それは、最も低い、神に呪われた罪人としての悲惨な死だった。
「神の身分」である御方が、御自分をここまで徹底的に低くされた。それゆえ、神は御子を最も高いところに引き上げられたのだ。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(9-11節)。
キリストが高く上げられる。それは、造られたすべてを支配する主なる御方としての名をキリストがお受けになるということだった。こうして、被造物すべてがキリストに属するものとされた。このことによって、それまで諸力がバラバラに働き、無秩序が広がっていた世界に秩序がもたらされ、真の解放が与えられた。そして、諸力の奴隷に他ならなかった人間に全く新しい道が開かれた。
このような万物を支配される御方を主と呼び、その御前にひざまずく時、人間は本当の意味で諸力の奴隷から解放される。キリストの御名を知る者は、他の何ものをも恐れることなく、真の自由をもって希望に満ちた歩みを進めていくことが出来るのだ。
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説教:「共に喜ぶ」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙2章12〜18節
説教者 : 北川善也牧師
フィリピ書2章6〜11節は、「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の信仰告白として歌われた讃美歌の歌詞だったと言われている。
この賛歌に特徴的なのは、「キリストのへりくだり」に強調点が置かれていることだ。パウロは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)と傍点部を補って、父なる神への従順を徹底的に貫かれた御子の姿をさらに強調している。パウロにとって、このようにキリストと同じ苦しみ、同じ死をもって神に従い抜くことが何より大きな願いだったのだ。
パウロは、このように「キリストの従順」に注目するが、今日の聖書箇所では、フィリピの信徒たちに「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」(12節a)と、同じ言葉を使って勧めている。ここで「従順」と訳されているギリシャ語は、「聞く」という意味の言葉から派生したものと言われている。
このことから考えると、ここで言われている「従順」には、全身全霊をもって神の御声に耳を傾け、神が何を望んでおられるかを聞き分け、その促しに聞き従う、というほどの意味が込められていると言ってよいだろう。
神に従順であるということは、すべて神任せの無責任な人生などではなく、むしろ積極的な振る舞いであることがパウロの次の言葉に示されている。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節b)。
「恐れおののき」という言葉は大変意味深い。「恐れ」は新約に数多く用いられている言葉であり、神に対して使われる場合、その恐れとは信仰と不信仰の狭間を揺れ動いている状態を指す。
また、「おののき」は不安や恐れで体が震えることを意味し、この言葉が用いられている箇所は少ない。その一つがマルコ福音書に記された以下のキリスト復活の記事だ。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)。
自分たちの理解をはるかに越えた出来事に触れた婦人たちは、「震えおののいて」思考停止してしまう。しかし、やがて彼女たちは、この出来事が神の御業であることを悟らせられ、天使に命じられた通り、目撃したことを弟子たちとペトロに知らせるのだ。
ここに示されているように、パウロが言う「恐れおののき」とは、神の大いなる御業の前に圧倒され、神の救いを確信させられて、信仰へと導かれていくことだ。
我々の前にも、この復活という出来事が突きつけられている。このことを簡単にスッと受けとめられる人は一人もいないと言ってよいだろう。死からのよみがえりなどあり得ないことであり、死んだらすべてが終わり、というのが人間の常識だからだ。
しかし、そんな常識を打ち破る出来事に直面した時、人間は「恐れおののく」しかなくなる。そのようなことを成し遂げられるのは、天地万物の創造主であり、造られたすべてのものに命を与えられた命の源である神以外におられないからだ。そのようにして神の出来事に触れた者は、この御方の前にひざまずき、十字架の死から復活され、永遠の命の先駆けとなられたキリストの御名をほめたたえる礼拝者へと変えられていく。
イースター、それはキリスト者にとって永遠の命に生かされるという究極の恵みが、既に自分のものとされていることを喜び祝う時だ。我々には、死がすべての終わりという人間の限界を、永遠の命を勝ち取られたキリストを信じ、その御後に従うことによって突破していく希望が与えられている。
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