先週の説教 -バックナンバー-
16年4月のバックナンバーです。
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説教:「確かな人物」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙2章19〜24節
説教者 : 北川善也牧師
パウロは、牢獄に一人でいたわけではなかった。彼のそばにはテモテがいた。このテモテとは、どういう人物だったのだろうか。パウロは、彼について次のように語る。「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」(22節b)。テモテもまたパウロ同様、キリストの十字架と復活を宣べ伝える伝道者だった。
このようにしてキリストに仕えて生きる人間、すなわち、神中心に生きる人間は、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」る者にされていくと、パウロは2章3節以下で語っている。そして、この後に続く箇所で、徹底的にへりくだられた主の姿を次のように讃美する。「キリストは、……自分を無にして、僕の身分になり、……へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。パウロにとって、キリストの生き様こそ神中心に生きる人の究極的な模範だったのだ。
キリストは、人間の姿でこの世にお生まれになったが、我々とは決定的に違う神としての本質をお持ちだった。それゆえ、たとえ姿が同じでも我々はこの御方のように生きることなど到底できない。何より、キリストは神の御子として完全なる清さを持っておられたが、我々はそうではない。我々の内側からは、思いや言葉や行いを通して罪が止めどなくにじみ出し、それは押さえようとしても押し止めることが出来ない。
しかし、神はそんな我々に、創造の始めに与えられた神の似姿を回復し、神の子として生きることを求めておられるのだ。そのために、神は一人一人に聖霊の賜物を授け、そのように生きる者となるための力を与えられる。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(2:13)。
このことは、パウロやテモテのような生き方が、特別な賜物を与えられた一部の人間のものではなく、信仰によって神を受け容れ、神と向き合って生きる決断を与えられたすべての者にもたらされるということを示している。
テモテがパウロと同じ思いを抱いている(20節)と言われているが、それは具体的には「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」(2:16)という思いを指すだろう。
パウロにとって、このような信仰を一つにし、伝道に対する情熱を共有することができる得難い助け手がテモテだった。そんないつでもそばにいてほしいと思うような人物を、パウロは「わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」(23-24節)と言ってフィリピに送り出すのだ。
パウロには、仮に肉体の解放は不可能であったとしても、祈りにより、聖霊の助けによって魂の解放が実現され、フィリピの信徒との主にある交わりは堅く保たれるという確信が与えられていた。
このような交わりは、たとえ居場所が離れ離れでも、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」をもって「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」させる(2:1-2)。そして、そのような思いゆえに、「イエスの御名にひざまずき、……『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」礼拝を共にすることが可能となるのだ(2:10-11)。
たとえ離れていても、共に御言葉に耳を傾け、祈りを一つにし、讃美の歌声を合わせる礼拝共同体に連なる恵みは、このような何よりも大きな喜びを生み出す。
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説教:「主に結ばれている者」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙2章25節〜3章1節
説教者 : 北川善也牧師
人間が生きていくためには、生きがいが必要だ。人間は、自分が生きていることが誰かのために役立ち、自分という存在が誰かの喜びになっていると思えることで生きがいを感じる。反対に、自分が誰からも必要とされておらず、むしろ自分が人々の邪魔になっていると感じることは、人間にとって耐えがたいことだ。
エパフロディトは、フィリピ教会から獄中にいるパウロのもとに贈り物を届け、そのままそこに留まりパウロの世話をするために遣わされて来ていた。ところが、そのエパフロディトがパウロのもとで瀕死の重病にかかってしまった。彼は、パウロを助けるためにやって来たというのに、かえって迷惑をかけるようなことになってしまったのだ。間もなく病は癒されたようだが、エパフロディトは心身共に弱り果て、早くフィリピ教会の人々のもとに戻りたいと願うようになった(26節)。
それを察したパウロは、「エパフロディトをそちらに帰さねばならない」と手紙に書いた。だが、それは彼が不要になったからではなかった。パウロは、エパフロディトについて「わたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」(25節)と言っている。
パウロが彼を帰す理由は、彼の身に起こったことをフィリピ教会の人々に知ってもらうためだった。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」(27節)。エパフロディトが重病から回復したことは、ただひとえに神の憐れみによるとしか思えないような出来事だったのだ。
エパフロディトは、どうすることも出来ない限界の中で、自分の力や働きによってではなく、ただ神の憐れみによって自分が生かされていることを実感した。また、その出来事はパウロに、暗い獄中という希望を持ち得ない場所にも確かに神の憐れみが注がれているという深い慰めをもたらした。
人は自分の力ではなく、神の憐れみによって生かされている。この世の現実が人間を左右しているように見えても、そのすべては創造者である神の手中にある。その神は、十字架において最愛の御子をさえ、我々のために惜しまず献げてくださるほどに憐れみ深い御方だ。神の力は、この十字架において示されたように、弱さの中に現される。エパフロディトは、弱さを通して神の憐れみの証人になった、とパウロは言うのだ。
だから、パウロは「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。……彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」(29-30節)とフィリピ教会に向けて告げるのだ。
エパフロディトは、キリストを宣べ伝える働きのために命をかけた。その彼が死ぬほどの目に遭っても奇跡的な回復を与えられた。神の憐れみ以外の何ものでもない力によって、神の働きを担う者が守られることが示されたのだ。
我々の人生は、ある意味で賭けのようなものかもしれない。問題は一度限りの人生を何に賭けるかということだ。我々が人生を賭けるべき存在は、キリスト以外におられない。なぜなら、この御方こそ全人類を救うために御自分の命をかけてくださったからだ。
キリストは、どこまでも自己中心的な私を顧みてくださり、そのような私の罪を拭い去るため十字架にかかってくださった。私が神の方を向くよりはるか以前に、神が私のことをずっと見ていてくださり、この場所へと導いてくださった。だからこそ、私は「主に結ばれている者」とされたのだ。
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説教:「キリストの内にいる者」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙3章2〜11節
説教者 : 北川善也牧師
人生は常に危険や誘惑にさらされており、信仰による救いに与っていると思っていても、いつそこから転落していくかわからない。
そのような弱さを持った我々に、パウロは「注意しなさい。……気をつけなさい。……警戒しなさい」(2節)と三度も繰り返し、徹底的な警戒を促している。
ここでパウロは、「あの犬ども」というきつい言葉を使っているが、これは救いが信仰だけでなく、律法を守ることによって得られると考えている人々に対して向けられている言葉だ。
当時、イスラエルの男子は皆、生後八日目に神の選民のしるしである割礼を受けた。元来、割礼は、神と民との約束に生きる信仰を確認する儀式だったが、やがて信仰がなくとも受けられる極めて形式的な祝賀行事となっていった。
このような、この世的価値観にとらわれた人々がフィリピ教会の中にも少なからずおり、新しく信仰者の群れに加わってきた異邦人たちにも「形式が大事だ」と言って割礼を求めたのだ。
パウロは、その様子を知り、居ても立ってもいられない心境になり、「わたしこそ真の割礼を受けた者です」(3節)と主張した。パウロは、信仰だけでは駄目で、律法も守らねばならないという人々に対して、「いや、そうではない。信仰こそ重要なのだ」と強調する。人間は、弱さゆえにいつの間にか信仰という不明確なものでは駄目なのではないかという迷いを引き起こし、この世の価値観にしがみつこうとする。だから警戒せよ、とパウロは厳しく告げるのだ。
パウロは5節以下で、かつて自分が誇りとしていたものを列挙している。血筋も家柄も立派で、成績優秀、努力や熱心さでも誰にも劣ることのなかったパウロは、ユダヤ社会で押しも押されもせぬエリートだったのだ。
だが、彼はこれらを自慢するために挙げたわけではなかった。この世において「有利」だったこれらのことは、信仰においてはすべて「損失」となったと断言し、これらをはるかに凌駕する「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8節)を語り出す。
キリストを知ることのすばらしさとは、「キリストの内にいる者と認められる」(9節)ことだ。これは「キリストにおいて見出される」とも訳すことができる言葉であり、自分がキリストの中に存在し、キリストにおいて神によって発見され、認められるという究極の喜びのことを言っている。
この言葉から、主イエスが語られたルカ福音書15章のたとえ話を思い起こす。100匹の羊を養う羊飼いは、1匹の羊を見失った時、99匹を野原に残して見失った1匹をどこまでも捜し回る。迷い失われている人間をキリストは必死で捜し求め、見出し、養い導いてくださることが示されている。
このような愛によってとらえられ、自分という存在をありのままに受け容れられ、認められた人間は、それまでとは全く違う新しい価値観をもって歩み始める。
「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって……」(10節)。復活の力は、キリストにおいて働いた、罪と死の力を破壊する神の力だ。この力は、キリストの御受難、すなわち、弱さと密接な関係を持っており、神はそのような驚くべき力を人間の苦しみや弱さの中でこそ発揮されるということが言われている。
パウロは、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(11節)と語っているが、我々は今、人生という旅の途上にある。だが、それは「死」で終わるものではなく、「復活」という究極の目的地を目指す旅に他ならない。
このようにして、神は既に復活の世界を開き、我々に真の自由と救いを備えてくださっている。
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説教:「なすべきことはただ一つ」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙3章12〜16節
説教者 : 北川善也牧師
「人生は旅」と言われる。それは、どこを目指す旅だろうか。イエス・キリストと出会い、この御方と共に歩む者にとって旅の目的地は明快だ。それは、神の御子である主イエスが本籍を持っておられるところに他ならない。
その場所とは、恵みに満ち溢れた神の御国だ。今はまだ、我々には見られないその約束の地は、やがて来る終わりの日にはっきりとその姿を現わす。我々は、ただそれを待つしかないが、神はその御国の先取りとして、地上に教会をお建てになり、そこで献げられる礼拝において神の御国の前味を得させてくださる。
それゆえ、我々は礼拝を守り続けることを通して、自分たちの目的地を絶えず確認し、もしもそこへと向かう道からそれそうになれば正しく方向を定め直すのだ。
我々は、この世において様々な誘惑や危険にさらされて生きている。自分は信仰から外れるはずがないと思っていても、知らないうちに道をそれ、崖から転落してしまうという可能性を否定することはできない。
そんな我々が直面する最大の問題は、「死」だ。誰もがこの世に命を与えられ、生きていく中で死の問題と向き合わずにはいられない。死について思う時、多くの人の心に去来するのは、「死んだらすべて終わり」という思いだろう。
だが、キリスト者にとって死はそのようなものではない。主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)と言われた。
主イエスは、この約束を果たすため十字架にかかり、死んで葬られた後によみがえられた。死者を復活させる力の源が御自分にあることをはっきり示されたのだ。それゆえ、この御方を信じる者には、死ですべてが終わるのではなく、そこから先に突き抜けていくという希望がある。そして、そのような目標をもって新たに歩み始めた者は、どのように死を迎えるかではなく、どのように生きるべきかを考えつつ積極的に生きるよう変えられていく。これこそが、信仰の恵みだ。
そのような信仰に生きたパウロは、自分の人生を、競技場における競争のたとえで表現する。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)。
パウロは、自分が特別優れた力を持っているので、キリストから離れずにいられるのだ、と胸を張って語っているのではない。むしろ、自分自身は必死でそれを追い求めている状態であり、それもかろうじてそういう状態を持続しているに過ぎない、と告白する。何よりも、キリストから離れずに歩めたのは、自分の力ではなくキリスト御自身によって捕らえられているからだとパウロは言う。
我々にとって、ともすれば雲の上の人のように考えてしまいがちなパウロだが、ここには必死な思いで神につながり続けようとする一人の人間の姿が示されている。このような地上の歩みを通して、終わりの日の希望、大いなる神の御国に向けて進んでいく喜びは日々確かなものとされていくのだ。
同じ信仰に生きる者として、我々もパウロのように、キリストに支えられ、捕らえられて生きる人生を最後まで共に歩みたい。
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