日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

16年5月のバックナンバーです。

2016年5月1日 復活節第6主日

説教:「国籍を天に置く者」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙3章17節〜4章1節
説教者 : 北川善也牧師

 人間にとって、出会いというのは大切なものだ。「一期一会」という言葉があるが、様々な人々との出会いは本当に貴重だ。時に、ある人との出会いによって、人生そのものが変わることさえある。

 パウロは、彼と出会ったフィリピの信徒たちに、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(17節a)と勧めている。それは、自分が立派だから模範にせよ、と言っているわけではない。パウロ自身、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」(12節)と言っているように、信仰の完成者ではないのだ。

 パウロには、自分がただ「キリストの内にいる」(9節)、すなわち、キリストの中に生かされている者だという自覚を強く持っていた。彼は、そういう「わたし」に倣うよう勧めている。自分の力で功績を積んで立派に生きようとするのではなく、一方的な神の恵みによって生かされる人間となるよう勧めているのだ。

 同時に、「わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(17節b)とも言っている。たとえ破れや欠点だらけだったとしても、キリスト者として十字架の恵みによって生かされている人々が確かにいる。そういう生き方に注目することで新しい人生が開けてくるとパウロは言う。

 一方で、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(18節)のことが言われている。これは、非キリスト者のことではなく、教会生活をしながら、結局は自分の知恵や力で生きようとし、実際にはキリストの十字架による救いを必要とはしていない人々のことを言っている。たとえ教会につながっていても、具体的な生活の中でキリストの恵みに生きていないなら、それは十字架の敵だとパウロは主張する。そのような人々は、「腹」を神とし、自分の欲望を叶えてくれるものを神と呼んでいるとパウロは断言している(19節)。

 これに対して、パウロは「わたしたちの本国は天にあります」(20節)と語る。「天」という言葉は、普通、空や宇宙をイメージさせるが、ここで言われている「天」とは、一切が虚しく過ぎていくこの世を超越した永遠の命の世界のことを指して言っている。主イエスは、十字架にかかり、死人の中から復活して天に昇られ、神の右に座しておられる。そのような神の住まいが天であり、キリストにつながれた者の本国はそこにある。

 我々は、この世の中で多くの重荷を負い、様々な苦難を経験し、断絶や孤独を味わいながら、ついには年老いて死に至る。それだけなら、ただこの世をさ迷い歩いているだけのような存在だ。

 しかし、我々の本国はこの世ではなく、永遠に変わることのない天にある。そこへと向かう道は、神の御子イエス・キリストが十字架の死を遂げることによって開いてくださった。そして、信仰によってキリストと結ばれた者は、その道を通って天で生き続けるという約束を与えられている。

 「キリストは、……わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(21節)と言われている。死に定められている人間が、やがて「栄光ある体」に変えられ、破滅するしかない罪の存在が新しい人間として生まれ変わると言う。

 だが、そのためにはキリストの「万物を支配下に置くことさえできる力」(21節)が不可欠だ。その力の源は、キリストの十字架によって示された神の愛であり、この愛こそが、死を滅ぼし、新しい人間を創造するエネルギーなのだ。

 このような神の愛という計り知れない力を受けた者は、希望と喜びをもって、「主によってしっかりと立つ」者とされていく。

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2016年5月8日 復活節第7主日

説教:「主において常に喜びなさい」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙4章2〜9節
説教者 : 北川善也牧師

 この箇所でパウロは、エボディアとシンティケという二人の女性に対して、「主において同じ思いを抱きなさい」と呼びかけている。この短い言葉から、対立状態にある二人をパウロが仲裁している様子が垣間見える。このような個人的とも思われる事柄に教会宛ての手紙の中で触れているのは、それがフィリピ教会の和を乱す、群れ全体に関わる問題だったからだ。

 フィリピ教会の創立当初から婦人たちが重要な働きをしてきたことは、使徒言行録16章でも短く触れられている。エボディアとシンティケもその中に含まれる人たちだったようだ。ところが、どういうわけかこの二人が衝突し、今やその騒動は教会全体に影響を及ぼすほどになってしまっていた。

 これは、フィリピ教会にとって看過できない事態だった。教会という船が嵐に遭遇し、大波に翻弄されている時、それを乗り越えられるか、あるいは転覆してしまうか、フィリピの信徒たちが直面しているのは、まさにそのような問題だったのだ。

 そんな嵐の中で、パウロは「真実の協力者よ、あなたにもお願いします」(3節)と呼びかけている。この呼びかけの相手だけが具体的に示されていないのだが、「協力者」と訳されている言葉は、原語では「軛を共にする者」という意味も含んでいる。それは、良い時ばかりでなく、苦しい時にこそ共に寄り添い、重荷を分かち合って歩む者を表している言葉だ。

 かつて教会のために尽力したエボディアとシンティケが、今や信仰から外れてしまいそうな危機的状況に置かれている。このような時こそ、彼女たちを支えたまえ、助けたまえ、とパウロは「真実の協力者」に呼びかけている。

 「軛」という言葉で思い起こすのは、主イエスが語られた御言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11-28-30)。

 「真実の協力者」とは、教会が進むべき道をまっすぐに導いてくださる主イエスに他ならない。危機に瀕している教会を立ち直らせ、状況を回復させるために主御自身が生きて働いてくださることを、パウロは強く信じ、そのことを祈り求めているのだ。

 パウロには、そのような確固たる信仰の土台が与えられていた。だから、フィリピ教会が危機的状況にあっても、パウロは祈りつつ希望をもち、いつでも喜びを語ることができたのだ。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)と。

 ここでパウロが強調しているのは、喜ぶ時には「主において」喜びなさい、ということだ。我々の喜び、希望は、主イエスが十字架の死を負ってくださったこと、そして、その主が死に勝利し、復活を遂げられたことに根拠を置いている。我々の決して揺らぐことのない確固たる信仰の土台は、主の十字架と復活にこそある。

 その主は、十字架と復活の出来事を成し遂げられる前、次のように言われた。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 主は、我々の実生活の現場であるこの世そのものに対して勝利を収められた。それゆえ、キリストを喜び、キリストを誇る信仰生活は、決してぼんやりしたものではなく、我々の生活の中で具体的に、はっきりした形で起こってくる体験に他ならない。そのような喜びは、教会における礼拝の中から生み出され、増し加えられていく。

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2016年5月15日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「わたしを強めてくださる方」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙4章10〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 教会は、しばしば舟にたとえられる。なぜ教会のイメージが「舟」なのか。そもそも舟というのは、揺れ動く水の上に浮かんでいるだけの、大変不安定な乗り物だ。穏やかな水の上では適度に揺れて心地よいが、風が強まって荒波にもまれれば、舟が転覆して溺れ死ぬという恐怖を覚える。

 舟とは人間の意のままに操れない乗り物であり、これこそ舟が教会のイメージとして用いられる理由と言ってよいだろう。教会という舟が浮かんでいるのは、「この世」のただ中に他ならない。

 そのように考える時、新約聖書・マルコ福音書に記された、主イエスと弟子たちの乗った舟が荒波にのまれそうになる話は、大変豊かなイメージをもって我々に迫ってくる(マルコ4:35-41参照)。

 弟子たちは、舟が「波をかぶって、水浸しに」なっていることに目を奪われパニックに陥ったが、その時、主イエスは舟の後ろで「枕をして眠っておられた」。

 弟子たちが忘れてならなかったのは、舟に乗って「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのが主御自身だったということだ。だから、弟子たちは、主御自身が導いてくださる船旅に信頼し、一切を委ねて従うだけでよかったのだ。

 この世の荒波に目を奪われ、主が共におられることを忘れてしまう弟子たちは、鏡に映し出された我々の姿に他ならない。我々の実生活には悩みがあり、苦難がある。荒波にもまれ、このまま沈み込んでしまうのではないかと希望を失いそうになることもしばしばだ。

 パウロは次のように言う。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11-12節)。

 パウロは信仰者として、自分のマイナスではなく、神が与えてくださる恵みを一つ一つ数え上げ、感謝することのできる「秘訣」を授かっていた。それは、彼が豊かに恵まれていたからではない。この手紙を書いていた当時のパウロは、投獄され、自由を奪われた生活を余儀なくされていたのだ。

 パウロは、かつてユダヤ社会で誰からも一目置かれるエリートだった。しかし、あの時、すなわち自分が迫害していたキリスト者たちの信じるイエス・キリスト御自身と直接お会いしたダマスコ途上の出来事以来、パウロにとって有利だったすべての肩書きは「塵あくた」に等しいものとなった。そればかりか、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、……他の一切を損失と」見るまでになったのだ(3:8)。

 パウロに起こったのは、それまでの人間中心主義から、創造の初めに神が人間に与えられた本来あるべき人間の生き方、すなわち神と向き合って生きる、神中心の生き方への転換だった。このことが起こったからこそ、パウロは神の恵みを一つ一つ数え上げ、感謝する者とされたのだ。

 そのような生き方を、パウロは次のように表現している。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)。パウロは、自分の力でがむしゃらに生きようとするのではなく、自分に与えられている弱さを含めたすべてを受けとめ、弱さを抱え持つありのままの自分の中でこそ神の御力が発揮されることを知り、どんな荒波にあっても平安のうちに歩む者とされた。

 我々も同じ信仰に生きる者として、弱いときにこそ強くしてくださる神に信頼し、希望をもって教会という舟に乗り込み、主が導いてくださる約束の地に向かって共に進んでいきたい。

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2016年5月22日 三位一体主日(オール洛北礼拝)

説教:「神さまと共に」
聖書朗読:創世記12章1〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 今日は、旧約聖書に出て来るアブラムさんのお話です。アブラムさんは、大勢の家族と一緒にハランというところに住んでいました。そんなある日のこと、突然、神さまがアブラムさんにお話しなさいました。神さまは、アブラムさんにこのように言われたのです。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1節)。

 その時、アブラムさんはもう75歳のおじいさんになっていました。そんなアブラムさんに、神さまはずいぶん厳しいことをおっしゃるものだと思います。今みたいにトラックに荷物を積んで簡単にお引越しできる時代ではありません。そもそもアブラムさんは、ハランで長い間暮らしてきたので、仲の良いお友だちもたくさんいたでしょうし、住み慣れて居心地もよかったことでしょう。だから、アブラムさんはそこから離れたくなかったはずです。

 ところが、アブラムさんは何も言わず、神さまの言葉を受け入れるのです。神さまは「わたしが示す地に行きなさい」としか言われませんでした。その場所がどこにあって、何日ぐらい旅をしなければならないのか、何の説明もされていないのです。大好きなふるさとを離れるだけでもつらいのに、行く先も知らされずに旅に出かけて行くのは、もっと大変なことです。アブラムさんが若ければ、新しい冒険の旅に出かけることにもワクワクしたでしょうし、旅の途中で大変なことが起こっても、がんばって乗り越えていく元気もあったでしょう。でも、アブラムさんはもう若くはなかったのです。

 行く先も知らされず、そこがどんな場所であるかも教えられないなんて、まったくわからないことだらけですが、神さまが一つだけはっきりおっしゃったことがありました。それは「わたしはあなたを祝福する」ということでした。この言葉は、神さまのアブラムさんに対する約束でした。

 祝福とは、いつでも、どこにいようとも神さまが共にいて、守り導いてくださるという、何よりも大きな恵みのことです。空も海も、この大地に生きる生き物すべても、何よりもこのわたしたちを造ってくださった神さまが、いつも一緒にいてくださるなんて、これ以上大きな恵みは他にありません。今どんな暮らしをしているかとか、今自分が何歳であるかなんていうことは全然関係ないほどに神さまの祝福は力にあふれています。だから、このような祝福を神さまに約束されたアブラムさんは、その大きな力を受けて旅に出かけていくことができたのです。

 そして、神さまはアブラムさんに大切な役割もお与えになりました。それは神さまの祝福の源になるという働きです。みんなに神さまのことを伝え、神さまの愛と恵みを届ける仕事です。神さまは言われました。「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(3節)。アブラムさんは、この神さまの言葉を信じ、大勢の人たちが神さまを信じる者となるように出かけて行って、一生懸命神さまの言葉を伝える仕事をしました。

 わたしたちもアブラムさんと同じように、神さまから新しい旅に出かけて行くよう呼びかけられています。わたしたちは、今集められているこの教会の礼拝堂から、何が待ち受けているかわからない、新しい一週間の旅、冒険に出かけていきます。その旅の中で、神さまはわたしたちが受けている数え切れないほど多くの恵みをたくさんの人に届けることを望んでおられます。わたしたちが出かけて行くように言われているのは、神さまの祝福をみんなのところに届けに行くための旅なのです。わたしたちもアブラムさんのように、神さまの言葉を受け入れ、神さまを信じてその旅に元気よく出かけていきたいと思います。

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2016年5月29日 聖霊降臨節第3主日

説教:「必要なものをすべて満たしてくださる神」
聖書朗読:フィリピの信徒への手紙4章15〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 「フィリピの信徒への手紙」は、使徒パウロがローマの獄中にいる時、かつて自分が設立に関わったフィリピ教会の人々に向けて書いたものと言われる。

 暗く狭苦しい獄中で過ごしているパウロを案じ、フィリピ教会の人々は祈りを合わせ、教会の代表としてエパフロディトがパウロに贈り物を届け、彼はそのままそこに残ってパウロの手助けをした。

 このことはパウロを大いに喜ばせ、力づけた。その感謝を表すためパウロはフィリピ教会に向けて手紙をしたためたのだ。だから、この手紙は「喜びの書簡」とも呼ばれるほど喜びに満ちている。

 テサロニケ伝道に取り組んでいた時、何度も物を送ってパウロの窮乏を助けたのもフィリピ教会の人々だった(16節)。しかし、パウロは物をもらったことを喜んでいるわけではないと強調する。彼が喜んだのは、フィリピ教会がその行為によって「益となる豊かな実」を与えられることだと言っている(17節)。それは、彼らがそのことによって自分たちの利益を増すことになるという意味だ。

 フィリピ教会の人々が、パウロのためにした行為は、「わたしではなく神にしたことであり、それによって神はあなたがたが天に宝を積んだと見なしてくださる」とパウロは言う。それほど彼は、フィリピ教会の人々との交わりの中に神の恵みと祝福を強く感じた。だから、パウロは彼らの贈り物を、「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)とまで言うのだ。

 パウロはこの手紙を閉じるにあたり、自分が置かれている現実について改めて語った。自分が今置かれている状況は、世の中から見れば不自由で気が滅入るようなものかもしれない。だが、そのような中でも、自分が満ち足りた日々を過ごすことができているのは、神の豊かな恵みによって生かされているからに他ならない、と。

 パウロは、先に「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(4:12)と語り、自分はどんな苦しい状況でも満ち足りて生きる秘訣を知っていると述べた。だが、彼はここで人生苦しいことがあっても我慢すれば何とかなる、などと言っているのではない。

 主イエスは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)と言われた。人間の欲望は尽きることがなく、たとえ全世界を手に入れたとしても満足することはないだろう。人間は、欲望の追求によって満足を得ることができない。人間にとって本当の喜びと希望は、真の救い主であるキリストと一つにされて生きることによってもたらされるのだ。

 どうしようもない罪の塊である自分が、主と共に十字架につけられて死に、もはや生きているのは自分ではなく、キリストが自分のうちに生きておられるのだということを知る。これこそパウロの言う「秘訣」に他ならない。

 そのような信仰に生きるパウロが、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)と語っている。

 我々を生かしてくださる神は、我々が生きるのに必要なすべてを与えてくださる御方でもある。それは、単なる精神的なことだけではない。物質的な必要も含め、生きるために必要なものすべてを満たしてくださるのが神なのだ。

 無から有を創造なさる、栄光の富を持っておられる神が、すべて満たしてくださることに信頼し、感謝をもって従い続けたい。

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