日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

16年6月のバックナンバーです。

2016年6月5日 聖霊降臨節第4主日

説教:「神の恵みと平和」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙1章1〜2節
説教者 : 北川善也牧師

 「コロサイの信徒への手紙」は、先週までで読み終えたフィリピ書同様、「獄中書簡」と呼ばれ、使徒パウロがローマの牢獄で書き記したものと言われている。

 宛先となっているコロサイ教会は、パウロの関係した教会の中で最も小さかったと言われている。しかも、パウロはまだそこに一度も行ったことがなかったのだ。

 パウロが地中海を臨む港町エフェソの伝道に取り組んでいた時、内陸部の町コロサイの住人エパフラスがそこにやって来て、キリストの福音を聞いた。そして、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」(7節)と記されているように、キリスト者となって帰ってきたエパフラスの伝道によってコロサイ教会が建てられたと思われる。

 だから、パウロはまだコロサイの信徒たちと会っていない。それにもかかわらず、彼がこのような手紙を書いたのはなぜか。それは、まだ福音の種蒔きがなされて間もない教会を揺るがす異端の教えが入り込んできたことを聞き、黙っていられなかったからだ。

 当時、ギリシア・ローマ文明の発達した世の中では、哲学的な思想が隆盛を極めたが、その中でも物事をすべて人間中心に捉えようとする「人間中心主義」的な考え方がもてはやされ、教会の中にも入り込んでいった。

 そのような教えには、様々な宗教や思想が混在しており、キリスト教の受け売りも含まれていた。まだ信仰に入って間もないコロサイの信徒たちはそれを見分けられず、真の福音とは似て非なる教えに引きずり込まれてしまう恐れがあったため、警戒すべきことをしっかり伝えるべく、パウロはこの手紙を書き送ったのだ。

 コロサイ教会に入ってきた、福音と似て非なる教えは二種類あったと言われている。一つは、「神を信じるだけでは駄目だ。神の掟を守り、道徳的、倫理的に正しい歩みをしなければ救われない」という律法主義的教えだ。

 もう一つは、人間は元来、神の知恵を持っているので、神のように何でも知ることができるという「グノーシス主義」の教えだ。

 パウロは、そのような教えから離れ、真の救い主、イエス・キリストに目を向けることを教えるだけでなく、「主イエスこそ教会のかしらであり、この御方にしっかり結びついているならあなたがたの信仰が揺らぐことはない」ということを、この手紙を通して明確に伝えようとしたのだ。

 ところで、この手紙の発信者は、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテ」(1節)であり、受信者は、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たち」(2節)だ。「聖なる者たち」とは、「神の民」のことであり、神の家族とも呼ばれる全体教会に連なる人々すべてを指す言葉だ。

 パウロは別の手紙で、「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と語っているが、キリスト者は現にこの地上の命を生きながら天に国籍を与えられている。コロサイの信徒たちも、体はコロサイにあるが、その命は御国に入れられる約束に与る神の民だ、とパウロは強調している。

 キリスト者は、浮世離れした生き方をするわけではなく、かといって地上のことばかり考えるのでもなく、この地上に身を置きながら、心の目を絶えず神の御国に向かって注いでいる存在だ。

 そういう一人一人が、「キリストに結ばれている忠実な兄弟(姉妹)たち」と共に手を携え、その道を歩んでいくのだ。「聖なる者たち」、すなわち、神の家族が教会で共に御言葉に聴き、賛美の歌声と祈りを合わせる。この礼拝にこそ神の民の希望の源がある。

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2016年6月12日 聖霊降臨節第5主日

説教:「信仰・希望・愛」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙1章3〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 コロサイという小さな町に建てられた小さな教会の信徒たちに、パウロは次のように語りかけた。

 「あなたたちは決して孤独な群れではない。あなたたちに届けられた福音は、今や世界中に広がり、日々信仰者が増し加えられている。だから、あなたたちは自分の足もとばかり見るのではなく、決して尽きることのない希望が蓄えられている天に目を向けなさい」。

 ここには、初代教会の時代でありながら、既に明確な「世界伝道」という視点がある。神は、創造されたすべての人間を信仰へと導くため、全く不思議な方法を用意された。それは、人間の働きによる福音伝道だ。大変非効率的で、愚かなやり方にさえ映るが、神はあえてこの方法を貫かれる。

 1章1節で、パウロは「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と名乗っている。この短い自己紹介は、彼がキリスト者として生まれ変わった経緯を的確に言い表している。

 熱心な迫害者だったパウロが、主御自身と出会い、回心へと導かれ、伝道者として生まれ変わることなど、まさに「神の御心」以外の何ものでもなかった。そして、そのような驚くべき神の御業は、彼だけでなく彼が使徒として遣わされた各地の人々の間で起こり、また、そこで福音に触れた人々が、まだ彼の行ったことがない場所まで行って伝道することにより、そこの人々にも起こっていった。

 神のそのような働きを、パウロは三つの重要な言葉を用いて言い表している。@「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている『信仰』」、A「(あなたがたが)すべての聖なる者たちに対して抱いている『愛』」、B「あなたがたのために天に蓄えられている『希望』」(4-5節)。

 ここに挙げられている「信仰」、「愛」、「希望」は、パウロが書いた手紙の中で何度も強調されている、神の恵みを表現する言葉だ。彼は、「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Tコリント書13:13)と言っているが、今日のところでは特に「希望」に重点を置いて語っている。

 神は、すべての人間を救いへと導くため、愛する御独り子をこの世に遣わされた。それは、この御方を十字架につけ、すべての人間の罪からの救いを完成させるために他ならなかった。

 さらに、御子は永遠の命を勝ち取り、死から復活を遂げられた。そして、この真の勝利者を信じ、受け入れる者に御自分と同じ永遠の命を与えるという約束まで確かなものとしてくださった。

 このような言葉は、コロサイの人々が生まれて初めて聴くものだった。人間存在をこれほどまで根底から支え、何があろうとも決して揺らぐことのないものとしてくれる希望の言葉は、人間の中からは生まれてこなかった。このような、彼らにとって、まさに上から降ってきたとしか言えない、全く新しい言葉に、彼らは何よりも大きな希望を見出し、その希望にすべて委ねる決断をした。

 その日以来、すなわち、コロサイの地に教会が建てられた時から、福音の言葉がそこで「実を結んで成長し」続けている(6節)、とパウロは言う。上から蒔かれた福音の種は、コロサイの地に落ちてしっかり実を結んだ。そこにキリスト者が生まれ、教会が建てられていった。罪に満ちたこの世に神の言葉を聴く教会が建てられるという神の御業が働いたのだ。

 実は、これと同じ奇跡を我々も目の前で見ている。百十年前、京都に福音の種が蒔かれて、そこに信じる者たちが生まれ、この地に洛北教会が建てられた。このような、世界中で起こっている奇跡の中に、人間の思いをはるかに越えた、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが豊かに表れている。

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2016年6月19日 聖霊降臨節第6主日

説教:「神の栄光の力」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙1章9〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 今日の聖書箇所には、パウロによる三つの祈りが記されている。第一の祈りにおいて、パウロはコリントの信徒たちが神の御心を悟り、神御自身を深く知るようにと祈り願っている。

 コロサイ教会は、パウロによってではなく、彼から福音を聴いた人々によって建てられた教会だった。それ自体は神の大いなる恵みだったが、そこで教会の土台を揺るがす大問題が起こった。

 当時のギリシャ・ローマ文化の中で生まれた「グノーシス主義」は、人間を神と同一化する教えを含み持ち、御子イエス・キリストの存在を否定した。このようなキリスト教の根幹を揺るがすような問題提起者が教会内に入り込み、信仰に入ったばかりの信徒たちに動揺をもたらしたのだ。

 そこでパウロは、「あなたがたは真の神を知り、この御方の御心のみを尋ね求めるべきだ。そのための知恵が御霊によって与えられるように」と繰り返し祈るのだ。

 「グノーシス主義」の危機は、現代の我々にとっても決して他人事ではない。元来、すべての人間は自己中心的存在であり、そんな人間は自分が神のように何でもわかるという傲慢な思いと振る舞いに走っていく。これこそ聖書の言う「罪」に他ならない。

 パウロは、そんな人々に対して、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟るように」と告げる。神の偉大さを知る者は、ただひたすら神を崇めるようになる。そのように神を大きくし、自分を小さくすることによって、初めて人間は本来あるべき神との正しい関係を回復し、真の平安を与えられるのだ。

 第二の祈りは、忍耐についての祈りだ。我々は、とかく「いやされるため」や「問題解決のため」に祈る。だがパウロの祈りは違う。神の力が奇跡的ないやしや問題解決のために働くよう祈るのではなく、ましてや苦しみや困難そのものがなくなるために働くよう祈るのでもない。パウロは、神の力によって「どんなことでも忍耐できるように」と祈っている。

 人生は忍耐の連続と言ってよいだろう。だが、パウロは別の手紙の中で次のように言っている。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリ10:13)。神の力が忍耐においてこそ働き、逃れの道をも備えられるということは、我々の大きな慰めだ。

 最後の第三の祈りにおいて祈られているのは、感謝についてだ。我々は、喜ばしい時、恵みを受けた時に感謝を表わすが、ここで祈られているのは「どのような時にも感謝するように」ということであり、前の祈りとの関係で言えば、忍耐しなければならない時にも感謝するということだ。

 パウロは、神への願いが叶ったからといって感謝するのではなく、願いが叶おうが叶うまいが、絶えず感謝して祈りなさいと言っている。感謝する理由は、祈る相手が全知全能の神だということ以外の何ものでもない。祈りにおいて重要なのは、神と自分の関係をどのように捉えているかだ。

 パウロは、「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった」と言っているが、この「相続分」とは目に見える形では与えられていないものだ。それは、キリストが十字架の死から復活し、勝ち取られた永遠の命のことに他ならない。主は、御自分を信じる者にこの永遠の命を与えるという、この上ない約束を与えてくださった。我々は、このような神の約束に対して感謝すべきなのだ。

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2016年6月26日 聖霊降臨節第7主日

説教:「神との和解」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙1章13〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは、ここで教会とキリストの関係を、「からだ」と「かしら」にたとえている。教会は体であり、その頭がキリストというたとえだ。体と頭が結びつき、一人の人間の肉体を構成しているように、教会とキリストは一体であるとパウロは告げている。

 パウロは、この手紙の宛先であるコロサイ教会にはまだ一度も行ったことがなかったが、エパフラスを通して、この教会に最初に聴いた正しい福音からそれ、異なる教えにひかれていく者が出てきたということを聞いた。それで、パウロはこの教会が正しく立ち続けるために手紙を書いたのだ。

 そのような手紙の中で、パウロは「教会はキリストの体」であり、「キリストは教会の頭」であると告げている。これは、教会という建物のことを言っているのではない。我々の背後には、世界に何億というキリスト者がいるが、それ以上に、既に天に帰られた信仰の先達がいる。あるいは、まだこの地上に生まれていない将来のキリスト者という存在も教会には含まれる。それを、我々は信仰告白の中で、「我は聖なる公同の教会を信ず」と言い表している。

 パウロは、どんなに小さくてもコロサイ教会はキリストの体の一部であり、その頭はキリストだと強調するが、それは建物のことでも組織のことでもなく、キリストにつながっている信徒たち一人一人のことなのだと告げている。

 14節から20節までにおいて、パウロは「キリスト論」を展開している。特にここでは、キリストがどのような「存在」であるかということと、キリストがなさった「御業」がいかなるものであったかということを示している。

 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15節)。人間の姿を取ってこの世に来られたキリストは神御自身であり、それゆえベツレヘムの馬小屋でお生まれになる以前からこの御方は存在しておられた。歴史をさかのぼって、天地創造がなされた永遠の昔からこの御方はおられたのだ。

 このような存在であるキリストの御業を挙げるならば、大きくは「天地創造」と「人類の罪の贖い」の二つだとパウロは言う。キリストは、創造の初めからおられた、被造物すべての命の源に他ならない。そして、その命を用いて神の御業を前進していかれる。だからこそ、造られたすべての存在にキリストの恵みが与えられるのだと、パウロは告げている。

 キリストの贖いの御業について、パウロは次のように言う。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。すべての人間が創造の初めから抱え持つ「原罪」ゆえに滅び行く存在であるところを、キリストが我々に代わって負ってくださった十字架によって贖われ、罪の赦しが与えられた。

 そのことをパウロは、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(19-20節)と述べる。

 神の恵みそのものであるキリストが来られ、十字架の出来事を成し遂げてくださることによって人類の救いは完成された。これこそキリストの御業に他ならない。

 神の恵みに満ちておられるキリストが、十字架上で破れてくださった。この出来事によって、神の恵みがすべての人々に広がっていった。こうして人間の罪が赦され、罪ゆえに損なわれていた神と人間との関係が回復されたのだ。

 自分で自分のことをどうすることも出来ない人間を、根本的に造りかえてくださる神のくすしき御業がここに示されている。

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