日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

16年7月のバックナンバーです。

2016年7月3日 聖霊降臨節第8主日

説教:「キリスト、栄光の希望」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙1章24〜29節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは1章24節以下で、自分がキリストと出会って救われ、神によって福音伝道者として立てられた出来事を証ししている。

 この福音伝道という働きを通してキリストと出会い救われた人々が、互いにキリストにあって一つの教会として結ばれ、成長していくという大いなる神の御業についてパウロはここで語っている。

 そのような福音伝道者として立てられたことを、パウロは「神の秘められた計画」のために働く者とされたという言い方をしている。このことは、迫害者であったパウロがキリスト御自身と出会い、それだけでなくこの御方がパウロのうちに住んでくださることによって実現したのだ。

 聖書には、パウロ以外にもこのような経験をした人々が何人か登場する。主との対面を望みながら、離れた木の上から眺めるしかなかった徴税人ザアカイに、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と呼びかけられたように、主は確かに我々と向き合い、我々のうちに住んで命の交わりを結んでくださる御方なのだ。

 このような主のあり方こそ、創造の初めから、被造物である人間に示し続けられ、人間が知るべき最も重要な「秘密」だったとパウロは告げている。主御自身が聖霊において我々のうちに住み、主と共に歩む者としてくださるということが、「神の秘められた計画」だったのだ。しかし、この秘密をすべての人間が知るようになることを神は願っておられる。

 どうしてこのように大切なことが「世の初めから代々にわたって隠されていた」(26節)のか。それは、神が意地悪だったからではなく、人間が抱え持つ原罪のゆえに他ならない。罪に満ちた存在である人間は、そのままでは秘密を知ることが出来ない。しかし、心を開いて主をお迎えし、この御方の十字架によって罪赦されていることに目を開かれたならば、誰でもこの秘密を知る者とされる。主は、そのために絶えず一人一人の心の扉を叩いておられるのだ。

 ところが、そのノックの音を、人間のエゴイズムが聞こえなくさせてしまう。自分さえよければいいという自己中心の思いは、真の神を排除し、自分が神になろうとする罪にエスカレートしていく。かつてパウロ自身が、そのような典型的人間中心主義の生き方をしていた。だが、パウロは主と出会い、主の十字架と向き合う時を与えられた。そして、自分の罪の問題はこの十字架によって既に完全に解決されていることを知ったパウロは、エゴの固まりだったザアカイが主と出会い、真の悔い改めに導かれたように、それまでと真逆の人生へと一大転換するのだ。

 パウロは、別の手紙の中で次のように語っている。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)。

 罪に満ちた、どうしようもない自分という存在は既に死んで、今生きているのは主によって真の命、永遠の命を与えられ、全く新しい存在として生まれ変わった自分だとパウロは言う。

 キリストは、我々にのしかかっていた罪という重荷をすべて取り去り、我々の代わりにそれらすべてと共に十字架にかかって死んでくださった。そのようにして、我々の罪の問題を隅々まで知っておられる御方は、同時に我々が未だ知ることのない復活という永遠の希望を実現された御方でもある。

 このような御方が我々のうちで生きて働いてくださるからこそ、我々は苦しみ悩みの淵にあっても、永遠の希望を仰ぎ見て立ち上がっていくことが出来るのだ。

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2016年7月10日 聖霊降臨節第9主日

説教:「神の秘められた計画」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙2章1〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 今日読まれた聖書箇所には、コロサイの信徒たち、そして、ラオディキアの信徒たちのことを覚えて祈る、パウロの執り成しの祈りのような言葉が記されている。

 知っている人々、一人一人の顔や声を心に留めつつ祈る時、その祈りは「体では離れていても、霊では共にいる」(5節)という思いを伴って互いを固く結びつける。

 かつて、パウロがエフェソの町で伝道していた時、それを聴いて信じる者とされたエパフラスが故郷コロサイに帰って自ら伝道することによってコロサイ教会が立ち上げられた。だから、パウロはまだこの教会に行ったことがなく、信徒たちと顔を合わせたこともなかったが、エパフラスを通して教会の様子を知り、互いに祈りを合わせる関係を築いていた。

 コロサイ教会、ラオディキア教会の信徒たちの方も、パウロと会ったことはなかったが、エパフラスによって礼拝の場で読まれた手紙を通して、パウロと自分たちが祈りによって結ばれていることを確信することが出来た。祈りによって結ばれていれば、たとえ「まだ直接顔を合わせたことのない」(1節)人たちとも、「霊では共にいる」という交わりを与えられる。

 このような交わりは、キリストがその中心におられるからこそ実現される。祈りは、「キリストの御名」によって祈られ、その御名によって祈る者同士がキリストの御体として組み合わされ、形作られていくのが教会に他ならない。キリスト者は、互いに祈り合うことによって、「自分は孤独ではない、絶えず主が共にいてくださる。そして、信仰の友、祈りの友がある」という喜びに満たされる。

 入院したり、引っ越したりすることによって、この世において「体で離れる」ということはやむを得ず起こる。しかし、そういう場合であっても、祈りは我々を一つとする。このようにして祈ることによって、我々は「霊において共にいる」という確信が高められると同時に、ますます顔と顔を合わせることを願うようになるのではないだろうか。

 この手紙を獄中から書いたパウロは、人一倍そのような思いを強く抱いていたことだろう。祈りにおける内なる思いは、祈れば祈るほど外に向かって拡大していくものだ。しかし、この時のパウロは、外に出て自由に人々と交わることを妨げられていた。

 祈る者は、祈る時、相手のために具体的な願いをもって祈る。そのように具体的な願いを祈り合う者同士は、「霊において共にいる」ところから、「顔を合わせて互いを見る」交わりに入ることを求めるようになるものだが、パウロにそれは叶わなかった。

 このように、祈り合う者同士、すなわち、世界に広がるキリスト者同士は、互いに直接顔と顔を合わせることを求めていく存在とされるが、そのような交わりを世界中の人々と持つことは現実的には不可能と言ってよいだろう。

 しかし、聖書は、このような交わりが信仰によって可能とされると告げている。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)。これは終わりの日、神の御国が完成する時の幻であり、このような状況が与えられることこそ、すべての人にとっての希望だ。

 我々の祈りは、「未だ」実現していない神の御国を求める祈りであると同時に、「既に」キリストが十字架と復活の出来事において成し遂げてくださった救いに感謝を表わす祈りでもある。

 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(3節)とパウロが語っているように、「神の秘められた計画」そのものであるキリストと共に歩むことによって、このような大いなる希望が確かなものとされるのだ。

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2016年7月17日 聖霊降臨節第10主日

説教:「キリストに結ばれて歩みなさい」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙2章6〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 この手紙が記された当時、教会は激しい迫害の渦中に置かれていた。迫害は教会にとって大きな災いだったが、このように外から向かって来る問題というのは、相手がはっきりしていてわかりやすい。ところが、実は教会が最も注意しなければならない問題は、教会の内側に現れる信仰の問題だ。

 福音が宣べ伝えられ、各地に教会が建てられ始めた初期の段階から、教会にはキリスト教と「似て非なる教え」が入り込んできた。当時、神が姿かたちをとってこの地上に現れるということ自体が全く新しい教えであり、それは人々の理解を越えていた。そこで、ある人々が「人間はどのようにすれば神が真に臨在する場所に近づくことができるか」という問いに対し、哲学的な考え方を援用して、次のような答えを導き出した。「『神の満ちあふれるもの』が絶えず天から地上に注がれており、それらは『世を支配する諸霊』となって地上で働いている。それらが人間の運命を支配し、生命を管理している。キリストは、そういう存在の一形態ではあるが、多く存在する中の一つにすぎない」。

 彼らは、イエス・キリストを完全には否定しなかった。キリストが「多くのものの一つにすぎない」と言うことによって、当時のギリシャ哲学による影響を受けている人々にも、キリストという存在を受け入れやすくさせ、混乱を避けようと考えたのかもしれない。

 しかし、このような教えには、聖書が宣べ伝えていることと決定的な違いがある。ペトロが証言しているように、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒言行録4:12)ことを信じるのがキリスト者であり、そのような者にとってキリストによる救いは絶対的であり、この世のどんなものとも比較することはできない。

 パウロは言っている。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(6節)。信仰に入った時、あなたがたはナザレのイエスを、神の独り子、救い主メシアとして受け入れたのではなかったか。あなたがたは、その時の初心に立ち帰ってほしい。パウロは、そのようにコロサイの信徒たちに訴えかけている。

 我々の救いは、父なる神によって創造の初めから計画され、御子イエス・キリストがその御心に従い、十字架におかかりになることによって実現された。その中に人間の働きが介入する余地など一切ない。我々はただ、自分のために成し遂げられたこの大いなる救いの御業に感謝し、受け入れるだけだ。つまり、信仰者とは何ごとかをなした人ではなく、ただ受け入れただけの存在なのだ。

 しかし、そこには同時に、その人自身の決断が伴う。それまであいまいにしてきた自分の立場をはっきりさせ、キリストと共に生きていくという意志を表明し、キリストに従う者として人生の道のりを新たに定め直すのだ。そして、その決心は、神の御前において受ける洗礼として結実する。

 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」というパウロの言葉は、自ら決断して選び取ったその道から逸れることなく、最後までひたすら歩み抜け、という叱咤激励だ。

 しかし、ここで語られているのは人間的な思いなどではない。パウロは、「主キリスト・イエスを受け入れ」、「キリストに結ばれ」、「キリストに根を下ろし」(6-7節)と、立て続けにキリストの御名を語り、ひたすらキリストに集中している。信仰とは、他の何ものでもなく、ただキリストのみに集中するものだ。我々にとって、キリストこそ「すべて」なのだ。

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2016年7月24日 聖霊降臨節第11主日

説教:「キリストの体なる教会」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙2章16〜19節
説教者 : 北川善也牧師

 「人生、山あり谷あり」と言われるが、自分にとって今が悪い時だと感じている時、我々は神の恵みが尽き果ててしまったなどと考えることはないだろうか。そして、そんな時になってから慌てて祈り始めたりしないだろうか。

 そもそも、我々は何のために祈るのか。祈りを積み上げることによって、いわば霊力のようなものが強められ、その力によって周囲で起こっていることを都合よく変えたり、物事がうまく運ぶようにするためなどではない。祈りとは、全知全能の神に対する信頼を一層確かにする、つまり、祈っている人自身が変えられていくためになされるものだ。

 もしも神の恵みが尽き果てそうだから、祈って神を振り向かせ、恵みを与えていただこうなどと思っているならば、その人は神が不完全な存在であり、神はこの世界に部分的にしか関わっていないと考えていることになる。

 コロサイ教会内には、食事の規則や宗教行事を守ることによって神の恵みが近づくと考える人々がいた。彼らは、神が人間の行いに応じて態度を変えたり、神が特定の場所だけに存在するなどと考えていた。つまり、この世には神が関わっている部分とそうでない部分があると考えたのだ。

 「天使礼拝」とは、人間には見えない神的存在である天使の幻が見えるようになるために行う儀式を指す。彼らは、体を痛めつける苦行によって気が遠くなり、恍惚となった瞬間に天使の幻が見えると信じていた。彼らは、教会での礼拝に飽き足らず、人間の五感で感じ取れる、より濃密で具体的な神との関わりを求めたのだ。

 このような行為によって神を捉えようとする人は、その時点で神の働きを限定的なものにしている。天地万物を創造された神は、人間が見通せる範囲内で活動されるような御方ではない。

 神は、御自分が造られた宇宙全体に充ち満ちておられる御方だ。そして、造られたすべてを御自分が定められた計画に沿って粛々と導いていかれる。その御計画の中に人間は置かれているのであり、我々はその御計画のすべてを知ることなど出来ない。だが、御言葉を通して確かに示されているのは、神が御自分の民を救いに導かれるということだ。神の救いとは、永遠の命を与え、終わりの日に完成される神の御国に入れてくださるということに他ならない。

 この救いの根拠は、キリストによって成し遂げられた働きにある。神は、キリストの十字架によって救いの御業を完成し、この御方が十字架の死から復活して天に昇り、父なる神と共に栄光の御座におられることを示された。こうして、地上における限りある命を生きる人間は、信仰によって神のものとされ、永遠の命を与えられて神と共に天において生きる存在として造り変えられるのだ。

 このような信仰は、「頭であるキリストにしっかりと付く」(19節)ことによって確かなものとされる。礼拝の場である教会こそキリストの体であり、その教会は信仰者が組み合わされることによって建てられていくのだ。

 体には頭があり、体の各部分である手足あるいは内臓一つひとつは、頭、すなわち頭脳によって指示された通りに活動する。頭がキリストであり、その体を構成している我々は、頭としっかりつながっていなければ、自分たちに与えられている本来の働きを果たすことが出来なくなってしまう。

 教会そのものであるキリスト者の生命も、またキリスト者同士の交わりも、キリスト御自身とつながっていなければ生まれてはこない。「神に育てられて成長してゆく」ということは、キリストにつながることによって実現される。

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2016年7月31日 聖霊降臨節第12主日

説教:「上にあるものを求めなさい」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙2章20節〜3章4節
説教者 : 北川善也牧師

 キリストの十字架と復活によって成し遂げられた、すべての人のための救いの御業は、いかなる時代においても暗闇の中で光り輝いてきた。それは、この世を覆い尽くそうとする闇の力に打ち勝つ神の御力そのものであった。

 このような救いの光は、人間を照らし出し、大きな変化をもたらす。そのことをパウロは、「あなたがたは、キリストと共に死んで」(2:20)、さらに「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」(3:1)と表現している。

 一方、このような福音の真髄を語りながら、パウロは「世を支配する諸霊」についても話している。ここで言われている「諸霊」とは、十字架と復活によって示された神の御力に対抗するあらゆる勢力を指す。このような諸霊の力は、人間社会にさまざまな形をとって現れ、人々を混乱に陥れる。

 コロサイ教会は、こうした諸霊の力が入り込み、大きな危機に瀕していたのだ。そして、この箇所において、彼らが福音とは無関係であるこのような勢力に打ち負かされることがないよう、必死で福音の真髄を語り聞かせようとしているパウロの様子が伺える。

 ここで言われている「キリストと共に死に、キリストと共に復活させられた」とは、罪に満ちた古い自分を葬り去り、キリストが勝ち取られた永遠の命を受けて新しい自分として生き直す、洗礼の出来事を指す言葉に他ならない。

 「洗礼」と訳されるバプテスマは、元来「浸す」という意味を持つ。それは、「下に沈むこと」であり、「死に到達すること」だ。しかし、キリストの御名によって授けられる洗礼は、沈んで終わるのではなく、そこから挙げられることと不可分だ。キリストの御名による洗礼は、受けた者に「キリストと共に死ぬこと」だけでなく、「キリストと共に復活させられること」をもたらすのだ。

 我々は、日常生活の中でキリストに従い得なかったり、キリストに背を向けてしまったりする。しかし、このような神に対する背信という我々の罪は、既にすべて主が担って十字架にお架かりになり、問題の根本的な解決をつけてくださっている。我々は、洗礼によってキリストの十字架の死と結ばれ、同時にキリストの復活の命にも確かに結ばれていく。

 だから、我々はこのキリストから決して目を離してはならない。救いの出来事はキリストによって確かに成し遂げられたのだが、我々が生きているこの地上から諸霊は消え去っていないからだ。

 パウロは、「上にあるものを求めなさい」(3:1)、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(3:2)と告げている。これは、地上の現実から目をそらせとか、逃避せよと言っているのではない。地上にはびこる、魅力的にさえ映る世の諸霊のさまざまな働きに目を奪われるのではなく、地上の一切が天上におられるキリストの御支配のもとにあることを信じ、そのキリストに目を注ぐということだ。

 我々は、洗礼によってそのキリストと結ばれ、生まれ変わらせていただいた。そのようにされた者の「命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)と言われている。「隠されている」と言っても、閉じ込められ見えなくされているということではない。救いの完成の時である「終わりの日」に、すべては神の愛によって満たされ、神の御前に置かれる。その時まで、信仰者の命は神の内にあって守られるのだ。

 我々は、信仰告白にあるように、その時まで「公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の業に励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」群れだ。

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