先週の説教 -バックナンバー-
16年8月のバックナンバーです。
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説教:「主はわが羊飼い」
聖書朗読:詩編23編1〜6節
説教者 : 松木純也伝道師
「主は、わが羊飼い」との告白には、二重の意味、すなわち、神様の私への愛と、私の神様への信頼が表されています。
「お前たちは私の群れ、私の牧草地の群れである。お前たちは人間であり、私はお前たちの神である」(エゼキエル書34章31節)とありますように、神が羊飼いとなって、私たち人間を養い、憩わせると約束してくださっています。そこでは「お前たち」と複数形ですが、この詩編では、神が私一人に親密に語られる言葉として聞き取っています。もとより無限の隔たりのある神が、まったく不釣合いの私に目を止められ、羊飼いとして責任を取ってくださると言っておられるのです。詩人は、神様の私に対する愛をこのように受け止めています。もう一つの意味は、この神の愛に対する私の応答です。「はい、私は確かにあなたの羊です」。この神の愛を受け止め、信頼する気持ちがこの告白で表明されています。しかし神と私は決して対等ではありません。圧倒的な神の愛、「私は羊飼いだ、あなたは私の羊、私のものだ」と言ってくださる方によって、はじめて開かれた地平、幸いです。
続いて2節から5節に、神が、今の時代を歩んでいる私に、羊飼いとして働いてくださる業、働きの具体的な内容が描かれています。そして6節で「命のある限り、恵みと慈しみは私を追う」という非常に印象に残る言葉で全体がまとめられています。
ここで、「恵みと慈しみ」の「恵み」は、英語訳聖書では一貫してgoodness(「善」)と訳されています。「神のみが善なる方である」<goodである>とは主イエスの言葉です(マルコ10章18節)。「主は善である」とは、主なる神の創造の行為、救いの行為、恵み深さを総括して表す言葉です。「善い」は日本語では普通の感じになりますので、「恵み」と言い換えているのでしょう。一方「慈しみ」は英語訳聖書ではmercyとかsteadfast loveと訳されています。愛するに値しない者、それどころか神の愛を裏切る者、逆らう者への、神の誠実な愛、不変の愛を表す言葉です。「慈しみ」は、たとえば詩編136編1節後半で「慈しみはとこしえに」と何度もリフレインされていますように、神の人間に対する愛の業、救いの業の「基礎、基調」を表す言葉だということがわかります。不変の愛を基調として、神が私たちになされる愛の業、恵みの業が2−5節で具体的に言い表されているわけです。
この「恵みと慈しみ」は、「私を追いかける」という動詞を伴っています。神はじっとしていて何もしないという方ではない。神は、それに値しない、むしろ常に神に逆らい神に反抗している、この私を放っておかず、「恵みと慈しみ」をもって、その一生を通じて、見捨てないで、追いかけてくださる。私の羊飼いとなり、私を慰め、力づけ、養い、導いてくださる。 初期キリスト教の人たちは、イエスこそ、この詩編で描かれているような働きを、私のために、私の人生の至る所で私と共にいてしてくださる方、主であると告白し、イエスを「善い羊飼いthe good shepherd」にたとえたのでした(ヨハネ10章11節)。「善い羊飼い」は、自分の羊を知っている。私の乏しさ、足りなさ、弱さを知ってくださっている。自分の羊である私の魂の在り方、道の歩み方、その出会う危難、罪、死、孤立無援の時、すべての時に、羊飼いとして、注意深く見守っていてくださり、必要な手を差し伸べ、訓練し、養い育ててくださる。そして、善い羊飼いは、羊のために命を捨てる。私たちは、イエスの十字架の死において初めて本当に私を愛してくださる方、私が頼りにできる羊飼いに出会ったのです。
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説教:「わたしもあなたを罪に定めない」
聖書朗読:ヨハネによる福音書8章3〜11節
説教者 : 大濱計介執事
律法学者やファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えられた女性を連れてきて、イエス様にどうすればいいかを問います。律法では姦通の罰は石打ちの刑と定められていますが、有罪とされるか無罪とされるか試そうとしたのです。
返事をしようとされないイエス様にしつこく返事を求めます。そこでイエス様は、彼らに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と答えられました。どちらをとるか二者択一の答えでなく、彼らの心の奥底に響く問い掛けをされました。あなたは今まで一度も罪を犯したことはないのか、いつも神様の前で正しくあって人を裁く資格を持っているのかという問い掛けです。すると「これを聞いた者は、年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」というのです。
彼らの怒りの動機は、我々が営々として積み上げてきたものをイエスはいとも簡単に壊してしまう。彼の勝手な振る舞いは許せないという彼らの立場でした。彼らの立場から出た質問に、イエス様は彼らの心の奥底に響く問い掛けで返されました。それに対し、年長者から順番にその場を立ち去ったというわけです。
なぜ年長者から立ち去ったのか。 歳を重ね人生経験を積み上げてきた人ほど、自分の犯してきた罪とその苦しみを覚えています。人を傷つけた、共にいてくださる神様を裏切ってしまったという罪です。残り少なくなった時間の中で、私は罪を犯したことはありませんと言い切れない自分がいることに気づかされたわけです。
女性は姦淫の現場を見つかり、これだけ公になれば死刑は免れないと絶望の中にいたことでしょう。その時イエス様は、女性に「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と問われます。それに対し女性は、「主よ、だれも」と答えます。彼女は、今目の前で見たイエス様の言葉の力から、この方こそ真の主であると認識したのです。彼女は、二人になりイエス様と向き合った時にそのことに気づかされました。この方は大勢の心を動かすことのできる方、この方こそ私たちの罪を裁く力も許す力も持っておられる方と確信しました。
そこでイエス様は女性に対し、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われ、彼女を解放されました。
この女性に言われたのと同じように、イエス様は私たちにもその言葉を言って下さっています。かつて、私たちも主の前で己が罪を悔い改め、信仰を告白し、新しくされました。そのとき、私たちはイエス様よりこの言葉をいただき世に送り出されました。
主のために生きると決心し、この世の生活を始めました。しかし私たちはすぐに脇道に彷徨いだしてしまいます。それはこの世の論理の中でしか生きることが出来ないと思っているからです。心で願っているのに、体は人間中心の価値観で生きようとする、そのようにしか生きられないところに私たちの罪があります。このような私たちにイエス様は、あなた方は既にキリストの十字架と復活により罪許された者となっている。だから、もう罪を犯してはならないと言って下さっています。
それでも罪を繰り返す生活しかできないのが私たちの現実です。そのために、私たちは主の御前で礼拝をおささげするのです。礼拝によって主の祝福を受け、再び新たにされる必要があります。主により、私たちにはそのように生きる幸いが用意されていることを改めて噛みしめたいと思います。
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説教:「安心して行きなさい」
聖書朗読:マルコによる福音書5章21〜34節
説教者 : 井上 直執事
この奇跡は、突風を静める奇跡(4章35節〜)、悪霊に取りつかれた人を癒す奇跡(5章1節〜)に続いて記されており、これらの奇跡は、主イエスと共に神の国は既に来た、ここに神様の御支配が現れている、主イエスこそ神の御子であるということを示している。
また、主によって新しく活かされる大いなる恵みとして、この女性の癒しとヤイロの娘が復活した出来事は一つのこととして記されている。
25節以下には、この若い女性が非常に悲惨な状況に置かれていたことが記されているが、彼女の病気はユダヤ人の社会において「けがれ」として忌み嫌われるものであり(レビ記15章19節以下)、人との交わりが持てないだけでなく、宗教行事、即ち礼拝にさえ参加することができないものであった。
そのような理由から、群衆に紛れ込み、後ろから(27節)主イエスに向かって手を伸ばした彼女は、群衆の前で主にひれ伏した会堂長ヤイロと対照的であるが、主イエスの救いを切に願い求める思いは同じであった。だが、彼女が「服にでも触れれば癒していただける」(28節)と思っていたことは、信仰の本来のあり方からすれば問題に満ちたことである。けれども主は救いを切に願い求める者の手をしっかり感じ取って、ご自分の方から出会おうとしてくださるのだ。(30節)
主イエスに触れ、すぐに病が癒されたことを知った彼女は「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」(33節)た。長い間苦しめられてきた病気が治る喜びが、恐れと震えに変わる。それは、主イエスが真の神であられることを示された恐れであり、この自分に救いの御業を行なって下さったことへのおののきである。聖書は、嵐を静めた業や悪霊に取りつかれた人を癒した業も「恐ろしいこと」として記している。主イエスの力、聖なる神の御臨在に触れるとき、人は恐ろしさを覚えるが、主イエス・キリストによって、聖なる神と恐れをもって出会うことこそ、私たちが新しくされるただ一つの道なのである。
主イエスは、本来信仰と呼べないような相応しくない仕方で、しかし主の救いを切に願い求める者に「あなたの信仰があなたを救った」(34節)と宣言される。
そしてこの一対一の出会いの中で「安心して行きなさい。」と言われた。聖なる方と出会い、恐れ、ひれ伏すしかないこの女性に、主は「神の平和の中に行きなさい」と言われたのだ。神の御支配の中に生きる。神の国がここに来ている。だから「安心して行きなさい。」と。この主イエスの言葉は、自らの罪を知り、神の御前に畏れをもって礼拝をささげている私たちにも告げられている言葉である。主は続けて、「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(34節)と言われた。口語訳では「すっかり治って、達者でいなさい。」となっている。主イエスはここで、一つの病気が治ったということだけではなく、彼女の人生が根本的に癒され、新しくなることを語っておられるのだ。主イエス・キリストとの交わり、その信仰によって癒され、新しくなった者は、病や老いや死においても、安心して、元気に、達者に歩むことができるのである。
私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死が復活へとつながっていたことを知っている。ヤイロの娘の復活(42節)で示された通り、主イエスとの交わりの中で味わう死は、復活の命へとつながっていると約束されているのだ。私たちはこの主イエスの言葉に送られ、今日もこの御堂からそれぞれの場へと遣わされていく。
主の平和が私たちを包んでいる。安心して行こうではないか。
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説教:「日々新たにされて生きる」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙3章5〜11節
説教者 : 北川善也牧師
夏のプログラムで中断した直前の箇所を読み返したい。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。……あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(3:1-3)。
ここに記されている「復活」、そして「死」は、これに先立つ箇所で明言されているように、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」(2:12)ことを指している。今日のところはこれらの箇所と直結しており、ここで記されていることも「洗礼」と深く関係している。
我々の周りには、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(5節)を帯びた空気が絶えず漂っており、我々はその空気に触れて生きている。
我々の口から出る言葉も、「怒り、憤り、悪意、そしり、うそ」に満ちている。どんなに信仰深い生活を送っているように見える人も、悪態をつかないことはない。このような人間の心の内は、他人にはわからないかもしれないが、神はすべてをご存じだ。
去る20日、教会員の池田千枝子姉が91歳で天に召された。2007年、わたしが洛北教会に着任した時、千枝子姉は認知症でケアホームに入所しておられたが、訪問して讃美歌を歌うと、立ち上がって手拍子をしたり、「ああ、うれしい!みんなに聞かせなくちゃ!」と言って、施設の方たちに讃美の歌声を聞くよう勧めたりされていた。また、花の日のお花を「まあ、きれい!」と言って、慈しむような穏やかな視線を向けておられたのも大変印象的だった。いつまでも本当に若々しい方だった。
千枝子姉は、認知症になってもキリスト者として若々しく証しをされた。キリストを信じ、洗礼を受けた者は、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」道を歩み始めるのだ(9-10節)。
パウロは、このコロサイ書の言葉を、別の手紙の中で次のように言い換えている。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(ローマ13:12-14)。
これは、後のキリスト教会に大きな影響を与えた教父アウグスティヌスが、信仰に立ち帰るきっかけとなった言葉としても有名だ。アウグスティヌスは、母の祈りにもかかわらず大都市カルタゴへと出て行き、そこで出会った女性との間に私生児をもうけ、優秀でありながら信仰の道を外れてしまった。愛人問題で苦悩していた彼は、ある朝、戸外で子どもたちが「取りて読め」と歌う声を聞く。その声に導かれるようにして聖書を開くと、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」の御言葉が示されたのだ。もがき苦しむ彼に、新しい魂の目覚めが与えられた瞬間だった。
聖人とされるアウグスティヌスもこのような問題で苦悩していた。人間は、誰も肉の問題を自分の力で克服することなどできない。しかし、神はそのような憐れな人間を救うため、御子を遣わしてくださった。人間の力では決して勝つことのできない戦いに、完全な勝利を収めるため、神の御子が御自分の命を惜しまず十字架に献げてくださったのだ。
このキリストが御言葉となって出会い、共に歩んでくださるからこそ、我々は「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」いくことができる。
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