日本基督教団 洛北教会

2016年 教会標語『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』(ヨハネ福音書15:16)

先週の説教 -バックナンバー-

16年9月のバックナンバーです。

2016年9月4日 聖霊降臨節第17主日

説教:「キリストの平和」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙3章12〜17節
説教者 : 北川善也牧師

   「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3:9b-10)。イエス・キリストを救い主と信じ、神と教会の兄弟姉妹の前で洗礼を受けた者は、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を身に着けて、日々新たにされて生きていく。そこには、あらゆる人種や性別、身分の区別は一切存在せず、「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」のだ。

 人間の心は、罪のゆえにキリストへと向かわず、他のものに向かっている。そのような自分を脱いで、キリストへと向き直り、新しい自分として生きていく。これこそが創造の始めに神が造られた人間本来の姿であり、神はこのようにして人間に与えられた命を本来あるべき生き方へと回復されることを願っておられる。

 それを「信仰」あるいは「立ち帰り」と呼ぶ。信仰は、人間の心を神に向ける行為だ。そうであれば、立ち帰りが「少しずつ」などということはあり得ない。パウロの身に起こったように、それは一気に起こる出来事だ。

 神に立ち帰る際になされる悔い改めも同様だ。最も大切な罪の問題を後回しにして、神に立ち帰ることなどできない。けれども、自分の全存在を神の御前に置いて悔い改めるという行為は、大きな痛みを伴う。我々は痛みに弱いので、痛みから逃れようとする。その結果、いつまでたっても本当に向き合わなければならない問題と向き合うことができない。

 しかし、そんな我々の弱さを知り、人間が経験する痛みさえもよく知っておられる御方が、我々の傍らに寄り添い、憐れみをもって助けてくださるからこそ、人間は痛みを乗り越え、神と向き合う者とされていくのだ。

 このようにして、神の恵みによって助けられて初めて我々は古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を着ることができる。神に立ち帰るどころか、神の御前から逃げようとする者であるにもかかわらず、神はどこまでも憐れみ深く我々に近づき、キリストを信じる信仰へと導き、古い人から新しい人へと着替えさせてくださる。

 ところが、そのような約束に与ったにもかかわらず、現実のこの世を生きる自分の姿や日々の生活は、相も変わらず古いものとばかり関係を持ち続けている。我々という存在は、全く変っていないように見える。変わることの痛みを恐れる我々は、いつまでたっても自分の力で変わることなどできないのだ。このように考える時、「山上の説教」の中で語られた主イエスの御言葉が深く迫ってくる。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。……何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:25-33)。

 たとえ我々が何も持っていなかったとしても(そんなことはないのだが……)、神は我々をそのまま放置されるような御方ではない。必ずその人にふさわしい新しいものを備えて、御言葉をもって神の愛で満たし、平安をもたらし、我々を感謝することのできる者としてくださる。「思い悩むな」と言われた主イエスの御言葉が示しているのは、神が備えておられる、本当に着るべき「新しい人」のことなのではないか。

 すべての人間をこのような慈愛をもって招いてくださる神の招きにお応えし、我々は思い切って古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという恵みを、共に経験していく者とさせていただきたい。

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2016年9月11日 聖霊降臨節第18主日

説教:「神との出会い」
聖書朗読:出エジプト記2章23節〜3章15節
説教者 : 大島 力先生(青山学院大学宗教主任)

 我々は日常生活の中で、時に声にならない叫びを上げる。それは、虚しく響く独り言のように思われる。しかし、それが明確に神に向けられていなくても、神はその叫びを聞いていてくださる。

 聖書に記された出エジプトの出来事は、イスラエルにとって神による最大の救いの御業だった。40年間、荒れ野をさまよいつつ約束の地に導かれたことを通して、イスラエルのみならず世界の人々に神の救いが示された。

 この救いの御業はどのように始まっただろうか。出エジプト記2章23節以下に注目したい。ポイントは、まずイスラエルが神に救いを求めて叫び声を上げたことだ。

 最初、それは小さなつぶやきだったかもしれない。だが、彼らは叫ばざるを得なかった。そして、神はそれを聞き逃さなかった。民の声に神は確かに反応してくださった。たとえそれが言葉にならないうめきであったとしても、人々が神に対して「祈る」ことから事態は大きく動き始めるのだ。

 そのようにして、神は人間の現実の中に乗り出してこられる。そのことが、3章から神が三人称でなく「わたしは……」と語り始めることに示されている。神は、ただ天上から人間を眺めているだけでなく、「わたしは降って行き」(8節)と言って、自ら人々に近づき、寄り添ってくださる。これが、聖書の語る神の最大の特徴だ。

 モーセは、エジプト王の子として育てられるが、長じて自分がイスラエル人であることを知る。その現実にあらがうように、彼は様々な行動を起こすが、どれもうまくいかない。自分とは一体何者かが不明確なまま、さまよい続けるモーセは、若くして燃え尽きてしまいそうな状態だった。

 そんな彼が羊飼いをしながら歩いていると、不思議な光景に出会う。柴が燃え上がっているのに、一向に燃え尽きないのだ。これは、神がモーセの痛みを知って示されたしるしだった。

 人間が大事な状況において「燃える」ことは大事だ。このことのために自分は生まれてきたという出来事に出会い、それに対して燃える。そんな人生でありたい。モーセも最初はそうだった。しかし、燃える生き方が限界に達し、燃え尽きてしまう。そんな時、彼は燃えているのに燃え尽きない柴を見る。悩みの人モーセに、神との出会いの時が与えられたのだ。

 しかし、モーセはこの経験によってすぐに、イスラエルの民を導き出すため毅然と立ち上がったわけではない。神によって自分の使命が示された時、何度も躊躇し抵抗した。「わたしは何者でしょう」(11節)。こんなちっぽけな自分に一体何ができるというのか。モーセは不安で仕方なかったのだ。

 そんなモーセに対して神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)。燃えても燃え尽きない命の根源に触れる経験を通して、人は燃え尽きない存在とされる。モーセが神にその名を問うと、その答えは「わたしはある」というものだった。これは、「わたしはあなたと共にいる者」という意味の言葉だ。モーセは、この言葉に全幅の信頼を置くことで立ち上がることができたのだ。

 哲学者・数学者のパスカルは、燃え尽きるような状態に陥った自分の身に起こった回心体験を書き留めている。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、哲学者の神ではない。わたしはキリストから離れていた。彼を避け、彼を捨て、彼を十字架につけたのはこのわたしに他ならない。これからは、何があろうともキリストから離れないようにしたまえ」。

 教会とは、燃えても燃え尽きない命の源である神との出会いが与えられる場所に他ならない。

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2016年9月18日 聖霊降臨節第19主日

説教:「御国を受け継ぐ者」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙3章18節〜4章1節
説教者 : 北川善也牧師

 今日の聖書箇所には、この時代特有の考え方に基づき、夫婦、親子、主人と奴隷の関係についての教えが順番に述べられている。

 まず、妻と夫の関係について聖書は言う。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」(18節)。これは、どんなことでも耐え忍んで夫に従わねばならないと言っているのではない。

 この箇所は、3章12節から継続している。そこには次のように記されていた。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(12-13節)。

 主イエスは、十字架にかかって御自分の命を献げられた。それは、王の王であり、本来最も高い位置におられるべき御方が、すべての人間の救いを完成させるため、最も低いところまで降りて徹底的に仕えるという働きだった。それゆえ十字架は、たった一度で完全無欠の救いとなったのだ。

 その救いを信じる者として、とここでは呼びかけられている。もとより、我々は主がすべての人間を救うため仕えてくださったように、誰かに仕えることなど出来ない。人間には不可能なことを、神にしか出来ない十字架を、主はたった一人で成し遂げられたのだ。

 このような、主の十字架という神の一方的かつ徹底的な愛を受けることによって、我々は真に生きる者とされる。そして、主はすべての人間に対して、この命を受け、喜びと希望に満たされて歩むよう呼びかけておられる。

 そうであれば、我々が誰かに仕えるということは、どちらか片方が苦しみを耐え忍んで働くようなことではないはずだ。主が喜ばれるのは、救われた人間が、その命を輝かせつつ、互いに喜んで仕え合うことだろう。

 続いて、夫と妻の関係について聖書は言う。「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(19節)。「つらく当たってはならない」とは、妻の夫に対する「仕えよ」に比べれば簡単なことのように聞こえる。だが、この原文は、「自分の体のように大切にせよ」という意味の言葉だ。

 つまり、主が最も重要な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」の次に言われた「隣人を自分のように愛しなさい」と同様のことが言われているのだ(マタイ22:37-39参照)。

 自己中心的な人間は、他者を自分のように愛することなどできない。しかし聖書には、このような課題を乗り越えるべき理由とその秘訣が示されている。「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」(Tペトロ3:7)。

 夫婦が、家族が、互いを大切にし、尊敬し合うべきことの根拠は、互いが「命の恵みを共に受け継ぐ者」であるからだ。神の愛を受け、神の子とされた者同士が、互いに約束されている永遠の命の恵みによって共に喜びを分かち合い、愛し合い、支え合って生きることを、主は望んでおられる。

 そして、人間同士は神の御前で互いに仕え合うことが求められている。それは、すべての人間を統べ治めておられる神が人を分け隔てなさらないからであり、神の御前にあっては身分や肩書きを越えてキリストの栄光のみがすべてだからだ(コロサイ3:9-11参照)。

 主の十字架によってすべての人の罪が赦され、それまで存在していたあらゆる垣根は取り払われた。そのすべての人間に対して、主は「神の国を受け継ぐ者」となるよう呼びかけておられる。

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2016年9月25日 聖霊降臨節第20主日

説教:「目を覚まして祈りなさい」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙4章2〜6節
説教者 : 北川善也牧師

 「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(2節)。今日与えられた聖書箇所は、冒頭で祈りの重要性について記している。ここには、祈りが、うまずたゆまず、集中して行われるべきものであることが示されている。

 先週行われた集会で、「祈りを求める神」と題する、近藤勝彦先生の講演を聞いた。この講演で印象的だったのは、「祈ることは神の命令だから、祈らないことは罪だ」という言葉だった。厳しい言葉に聞こえるかも知れないが、これはどんな些細なことでも神に祈ってよいという意味でもあり、恵みに満ちた命令だと感じる。

 誰でも願いを持っており、それは祈りであるはずだが、実際にはほとんどの人が願いを自分の心の内側に閉じ込め、祈ることが出来ないでいる。それは、本当に祈るべき相手を知らないからだ。では、祈るべき相手を知らなければ、祈ることも出来ず、願いはその人の心の内側に閉じ込められたまま虚しく終わってしまうのか。聖書は次のように告げている。

 「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。……わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ロマ8:23,26)。

 神は、救いを求める人間の、言葉にならないうめきさえ聞き取り、その心にある願いを祈りとして受けとめてくださる。そのようにして、神は一人ひとりと向き合い、祈る者に造り変えてくださるのだ。そして、神が祈りを必ず聞かれることを知った者は、大いなる平安のうちに歩むことが出来るようになる。この手紙を書いた使徒パウロも、言葉にならないうめきを神に聞き上げられ、生き方を変えられた一人だった。

 パウロは、かつてユダヤ社会におけるエリートである律法の専門家グループ「ファリサイ派」に属する期待の星だった。そんな彼にとって、イエスを神の御子、救い主と信じる者たちは許し難い存在であり、彼はそのようなキリスト者たちを徹底的に迫害する活動に取り組むようになる。

 パウロは、人間の救いが、人間による律法遵守によってのみ実現すると信じていた。だが、神による救いの計画は、キリストの十字架という神の御業によってしか成し遂げられることはなかった。

 やがて、パウロにその計画内容の知らされる時が来る。それは、彼がダマスコに出来たばかりのキリスト教会を迫害するために向かう旅の途上で起こった。突然、鋭い光が周りを照らし、彼は地面に倒れ伏す。そして、彼は自分が迫害している者たちの信じるキリスト御自身の声を聞くのだ。

 この体験によって、パウロの生き方は180度ひっくり返ってしまった。だが、それは彼が真の喜びを知った瞬間でもあった。真の喜びとは、キリストを知ることに他ならない。彼は、本当に求めていたものに出会えたのだ。パウロは、その求め方を知らず、もがき暴れまくるしかなかった。しかし、そんな彼に主は御目を注ぎ、その心の思いを聞き上げられた。

 それからのパウロは、知らない国まで出かけて行き、キリストを宣べ伝える伝道者となった。それゆえ時に捕らえられ、鞭打たれ、投獄されることもあった。しかし、キリストを知った彼にとって、そのようなことはもはや恐れるに値しなかった。罪に汚れたこの自分さえ、キリストの十字架によって赦され、キリストの道具として用いられるという喜びで満たされていたからだ。我々もパウロと同じ喜びに満たされて歩みたい。

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