先週の説教 -バックナンバー-
16年10月のバックナンバーです。
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説教:「恵みがあなたがたと共にあるように」
聖書朗読:コロサイの信徒への手紙4章7〜18節
説教者 : 北川善也牧師
今年6月の第1主日から読み始めたコロサイ書も今日が最後となる。「結びの言葉」とされるこの箇所には、これまで出てこなかった大勢の人の名が記されている。
この手紙は、パウロが獄中で記したものであり、この時、彼は拘束された状態だった。だが、当時の牢獄生活には、今日のそれとは比較にならないような自由度があり、パウロの周辺には絶えず人の往来があったようだ。
パウロの手紙の終わりに際して、初めて出てきた一人ひとりの具体的な「自己紹介」の言葉を聞いたコロサイ教会の人々はどのように感じただろうか。
まず人々は、パウロが獄中で孤独を味わっているのではないということを知って安心したことだろう。そして、ここに出てくる何人かの名前が、パウロの他の手紙にも出てくることを知った時、長年かけて行われたパウロの伝道そのものが孤立無援ではなかったということに気づかされたはずだ。
たとえば、10節に出てくるアリスタルコは、使徒言行録の20章4節と27章2節にも登場する。パウロは、第三回伝道旅行でエフェソの町に赴き、伝道に取り組んだ時、反対者たちによる暴動に巻き込まれ、脱出せざるを得なくなった。その際、マケドニア州からギリシアを経由してエルサレムへと向かう船旅に同行した者の中にアリスタルコの名前が挙げられている。しかも、アリスタルコはエフェソでの事件に際し、パウロの身代わりとなって捕らえられ、投獄されるという経験をしている。そして今また、彼はパウロと獄中生活を共にしているのだ。
こうした人物の存在によって示されるように、パウロの伝道は決して孤独な業ではなかった。彼の働きは、多くの人々の祈りによって、またこうした一人ひとりの助け手によって支えられていた。
伝道者というのは、決して孤立した存在ではない。伝道者は、教会と固く結びつけられている。教会を離れては存在できないのが、伝道者だ。パウロが、手紙の終わりにおいて、自分のそばにいる人々の名前を次々と挙げ、彼らからの挨拶を記しているのも、そのことを表わしている。
パウロは、自分がただ一人の伝道者としてではなく、教会に結びついている者として、いや、結びつかなければ生きていけない者として、この手紙を書いているのだということを、このような結びの言葉によって示している。
だから、コロサイ教会の人々も、この手紙を通して、筆者であるパウロの姿だけでなく、キリストの体として一つとされている、当時世界に広がりつつあった全体教会というビジョンに思いを馳せることができたのではないか。
まだ生まれたばかりで、苦難の只中に置かれ、右往左往していたコロサイ教会の人々は、だからこそ、この手紙を読んで慰められ、喜ぶことができたのだ。彼らは、自分たちが孤立した存在ではなく、キリストの体としての教会という交わりの中に置かれていることを、この手紙を通して強く感じることができたことだろう。そして、自分たちが信じ、拠り所としているキリストによる救いが何より確かなものであるという確信を一層深めることができたはずだ。
パウロは、この手紙を「恵みがあなたがたと共にあるように」(18節)という祝福の言葉で閉じている。我々のこの世における歩みには、悩み苦しみが絶えず嵐のように吹き寄せてくる。しかし、そんなこの世にあって、教会には絶えず神の祝福が満ちあふれている。それは、我々の祈りを必ず聞きあげ、必要なものをすべて備えてくださる神への信頼を深めつつ、平安のうちに生きるという、何よりも大きな恵みに他ならない。
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説教:「神の御心」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙1章1〜2節
説教者 : 北川善也牧師
"Grace to you and peace from God our Father and the Lord Jesus Christ." This is the will of God, exactly!!
今日から、新しい書簡を読み始めます。『エフェソの信徒への手紙』です。手紙ですから、その書き始めは新約聖書の他の手紙同様、挨拶文となっています。しかし、このエフェソ書における短い挨拶の言葉には、大きな特徴があります。それは、たった二節にしか過ぎない文章の中に「キリスト・イエス」、あるいは、「主イエス・キリスト」という名が三度も出てくるという点です。
この部分には、まず執筆者であるパウロの自己紹介が記され、次に宛先人であるエフェソ教会の人々のことが挙げられ、最後に祝祷の言葉が記されています。この短い文章は、そういう三つの役割をもって構成されているのですが、それらすべてにキリストの名が付けられているのです。
このことからも、著者であるパウロがいかに必死でキリストを宣べ伝えようとしていたか、いかにこの御方によってしっかり捉えられていたか、ということをうかがい知ることができます。彼は、いかなる時もキリスト中心の歩みをしており、牢獄に入れられていても、その歩みはいささかも変わることはありませんでした。
パウロは、自分がキリストの使徒とされていることを誇りに思っていました。しかし、それは自分の力で獲得した人間的な誇りではなく、神によって与えられた誇りに他なりませんでした。パウロにとってそれは、神から命じられた使命のために自分が生かされ、用いられているという喜びであり、それによって世にキリストの教会が建てられ、人々が増し加えられていくという恵みでした。そのことが、この短い箇所に三回出てくる「イエス・キリスト」の名によって力強く示されています。
このパウロは福音を宣べ伝える伝道者として労苦し、人間の思いを越えて、神御自身の御心によって異邦人のための使徒として立てられた人でした。その働きのゆえに現在、彼は福音の使者として鎖につながれているのです。
しかし、パウロは投獄されていることを悲観することなく、自分は「異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている」(3:1)のであり、これは神の御業であると感謝さえしていたのです。
そして、宛先の人々に対しても、パウロは単なる挨拶ではなく、相手は自分と同じようにキリストによって捉えられ、救われた人々であるという意識をもって、大変積極的な言葉で挨拶しています。
獄中にいるパウロにしてみれば、エフェソ教会の人々は全く知らない相手と言ってもよい状態だったでしょうから、普通なら遠慮がちな言葉遣いになってしまうと思いますが、パウロは遠慮することなく、相手も自分と同じキリストの僕として、キリストのために生かされ、用いられている一人ひとりであるという信頼の上に立って、力強く、大胆に、そして親愛の情を込めて語りかけています。これこそ教会の交わりです。
挨拶の最後に置かれている祝祷は、父なる神とキリストからの恵みと平和が内容となっています。父なる神は、「栄光の父」として、キリストのうちにわたしたちを一つとし、互いに対立する者たちの間に平和をもたらされるのです。父なる神は、愛する御独り子、イエス・キリストを、そのような真の平和を完成させるため、この世に送ってくださいました。そして、わたしたちをその平和の働き手として用いてくださるのです。
こうして、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が共にある」という、神の御心がわたしたちのうちに実現されることを感謝しましょう。
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説教:「人を生かす神の言葉」
聖書朗読:マタイによる福音書4章1〜4節
説教者 : 田中かおる牧師(安行教会)
言葉は、人を生かしもし、殺しもする。言葉について語った著名人のメッセージを紹介したい。
一つは、「良い言葉をたくさん覚えて使わないと、人間の脳は育たない」(井上ひさし)というもの。人間は未熟な状態で生まれてくるが、幼少期に言葉をたくさん採り入れることによって、脳が爆発的成長を遂げることが科学的に実証されている。だから良書をたくさん読み、頭の中の辞書を整備すべきだ、と井上氏は語る。
もう一つは、「たくさん言葉を浴びて、その中から真実の言葉を獲得する。人が育つ上でどれだけ質の高い言葉と出会うことができるかが重要だ」(大江健三郎)というもの。大江氏はクリスチャンではないが、『新しい人』という著書について、次のように語っている。「二つの異なる価値観の間に立って、命を投げ出して架け橋となり、和解という価値観を提示した『新しい人』は、イエス・キリストがモデルだ」と。井上氏はカトリック信者だが、この二人が口を揃えて「言葉が大事」と言っていることは注目に値する。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られた(マタイ4章4節)。もちろん人間に肉の糧は必要だ。主はそのことを否定されたわけではない。人が本当に「人」として生きるには、肉の糧だけではだめだということを言っておられるのだ。
この主イエスの言葉は、旧約・申命記8章3節の引用だ。元の言葉は、イスラエルの人々にとって信仰の原点とも言うべき体験を思い出すよう促すために語られている。それは、出エジプトの出来事だ。奴隷として捕らえられていたエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野をさまよい歩く旅をする。その中で、まず問題となったのは、飢えすなわちパンの問題だった。「こんなことならエジプトの奴隷でいた方がましだった」と言い出す民に、神は天からのマナを与え、民の飢えを満たしてくださった。神は、「わたしがあなたたちを奴隷から導き出す」と宣言されたが、その言葉が真実であることを実証するために肉の糧を備えられた、と申命記は語る。こうして神は、御自分の言葉が口先だけのものではなく、実体を伴うものであることを示された。神は、実体を伴う真実な言葉によって養ってくださるのだ。
その神が、「わたしがあなたたちを導き、救い出す」と言われる時、それは真実となり、力ある言葉となる。そして、この言葉は、イエス・キリストという実体を伴ってこの世に示された。主イエスの歩み、十字架と復活の出来事を通して神の真実が現れたのだ。
我々は皆、例外なしに罪を抱えて生きている。聖書が語る罪とは、「的外れな生き方」のことだ。人間は、本来向くべき方向を向かないで生きようとするが、それは不自然であり、落ち着かない生き方だ。人間が本来向くべき方向とは、どこか。聖書は、「神に心を向けよ」と告げている。
しかし、人間は自分で自分の心の向きを変えることができない。心の向きを変えるには外からの助けが必要だ。人間の心を神へと方向転換させる力は、主の十字架にこそある。人間の心の向きを変えるため、神の御子が犠牲となってくださった。これが神の、人を生かす生かし方であり、ここにこそ神の愛が現われている。
この世には言葉が氾濫している。そのような中にあって、何が真実の言葉なのか、何が人を生かす言葉なのか、耳を澄まして本当に聞くべき言葉を聞き分けねばならない。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。この言葉を真実に生きる者となりたい。
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説教:「神の豊かな恵み」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙1章3〜7節
説教者 : 北川善也牧師
我々は祈る時、神に対してどのように呼びかけているだろうか。いろいろな言い方があるが、「天の父なる神よ」というのが代表的な呼びかけだろう。我々は、「父なる神よ」、「天の父よ」と祈ることを赦されている。
しかし、このような神への呼びかけは、自明のことではなかった。神に対して「父よ」と呼ぶことができるのは、本来、御子であるイエス・キリストだけであるからだ。主イエスの祈りは、すべて「アッバ、父よ」、「わが父よ」という呼びかけで始まっている。「アッバ」とは、主イエスが日常的に用いられたアラム語の言葉で、幼児が父親に対して「お父ちゃん」、「パパ」と呼びかける時の表現でもある。神にこのような関係性で呼びかけることは、旧約時代の人々には全く考えられなかった。
御子にしか出来ないはずの、神に「アッバ」と呼びかける祈りを、主は弟子たちにも教えられた。それが「主の祈り」だ。この祈りは、父と御子とが一体であることを示し、我々もその祈りによって、父と御子との交わりにあずかることが出来ると言われたのだ。
では、我々は何を根拠として神を父と呼ぶことが赦されたのか。聖書は、「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)と告げる。我々が「神の選び」に与っているからだと言うのだ。
我々は、「選ぶ」と聞くとその反対側にある「選ばれない」ということも思い浮かべる。だが、ここで言われている「選び」は、人間の業とは全く次元が違う神の御業に他ならない。選びが「天地創造の前に」なされていたということがそれを明確に表している。
目に見えるものだけでなく、時間や空間をも含めたすべてを創造された神と、我々の時間的感覚の次元が全く違うのは当然だ。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90編)。
創造主である神からすれば、千年も一日も大差はない。それに対し、我々のこの世の命はどんなに長く生きたとしても百年程度だ。しかし、この地上での限られた命を生きる中で、我々にかけがえのない一点というものが与えられる。その一点とは、イエス・キリストとの出会いの時に他ならない。この一点において、我々の命は限りあるものから永遠のものへと変えられていくのだ。
そのような人間の想像をはるかに超えた、神による「選び」ということがここで言われている。この「選び」が、我々の考えるように「選ばれない」ことと表裏一体ということがあるだろうか。
主イエスは、別のところで次のようなたとえを話された。「ある人が羊を100匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が1人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:12-14)。
主イエスは、すべての人間を救うためこの世に来られた。この御方は、最後の一人を見つけ出すまで、どこまでも徹底的に探し求めると御自分で言っておられる。このようにして、最後の最後まで我々一人ひとりを探し求め、神の子としてくださる神の豊かな恵みに感謝し、その恵みに応えて神を礼拝する者として生かされたい。
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説教:「救いをもたらす福音」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙1章8〜14節
説教者 : 北川善也牧師
宗教改革の流れをくむ我々の教会は、悔い改めを信仰の中心に置く。このことは、しかし自然と湧き起ることではない。人が自らの罪を自覚しなければ悔い改めは起らず、信仰に導かれることもない。それはすべて神の働きによる。
「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」(8-9節)。ここで、「恵み」と言われているのは、先週読まれた箇所に記されていた内容を指している。それは、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦された」(7節)ということに他ならない。
キリストによる人類救済の御業は、人間側のいかなる功績によるものでもなく、一方的な神からの人間に対する御業であり、それはただ「恵み」として与えられたものだと聖書は告げる。
「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ」られたのだ。神の恵みは、時間的・空間的に制限されない。いつ、どこにおいても我々の上に注がれている。
救いはキリストによってのみもたらされる、ということは曲げられない事実だが、その御業は神が創造されたすべての人に及ぶ、ということもまた事実だ。そのことを悟ることができるよう、神は一人ひとりに「知恵と理解」とを与えてくださるのだ。
ここで「秘められた計画」と言われている言葉は、後で「真理の言葉、救いをもたらす福音」(13節)と言い換えられている。福音の秘密は、あくまでもキリストにのみある。しかし、それは限られた人しか知ることのできない秘密などではなく、すべての人に「開かれた秘密」なのだ。神は、すべての人にその秘密を開き示すためキリストを地上に遣わされた。
時のはじめとしての「創造」に対して、その時が満ちる、すなわち時の完成としての「終末」がある。それが聖書の指し示す歴史だ。この終末は、確かにすべての終わり、世界の終わりの時を意味するが、同時に新約聖書は、その終末がただ遠い将来のことなのではなく、現在ある意味において到来している、あるいは開始されていることを告げている。
主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言って、地上での活動を開始された。キリストがこの世に来られた時から、既にその時は始まっているのだ。そして十字架の死を経てキリストが復活し、栄光の主として天に凱旋され、そこから聖霊を送ってくださることによって教会が生まれた。「頭であるキリスト」という言い方は、復活の主、栄光の主が教会の頭であることを示している。そこで、頭であるキリストの招きに応えて、その下に集合し、キリスト者としてその身体の肢とされたのが我々なのだ。
我々は、既にこの地上にあって、主の召しに応え、集められた教会の群れだ。教会の本来の意味は、「召された者たち」(エクレシア) だが、主によって召された我々は、頭である主に服従しつつ、一つとなることを求められている。その地上の教会の最終的な目標は、終末の時に他ならない。そして、その時はまた、我々の目の前にある地上の教会と、目に見えないキリストの体としての教会とが一つにされる時でもある。
「我は教会を信ず」と信仰告白で言い表す場合の教会とは、地上の教会をも含めた、キリストを頭とする全教会のことであり、その教会のことを我々は、「聖なる公同の教会」と信じ、告白している。終末の時、その両方の教会が完全に一つとされ、信仰者の救いが完成される。我々が連なっている教会は、そのような計り知れないエネルギーを秘めているのだ。
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