先週の説教 -バックナンバー-
16年11月のバックナンバーです。
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説教:「パウロの祈り」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙1章15〜23節
説教者 : 北川善也牧師
パウロの言葉は、まずエフェソの人々に信仰が与えられたことへの感謝から始められている。それは、彼らに働いてくださった神に対する感謝に他ならない。この感謝は、神の働きがこれからも人々と共にあって信仰を強められるように願う祈りとなっていく。
その祈りは、「わたしたちの主イエス・キリストの神」(17節)という言葉で始められる。パウロは、主の御名によって神に祈るのだ。他ならない主御自身が「わたしの名において祈りなさい」と言って、弟子たちの祈りを導かれたことがここに示されている。そのようにして主の御名によって始められた祈りは、必然的にこの御方に対する信仰告白へと導かれていく。
17節以下の祈りは次の三つによって構成されている。@「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」。A「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」。B「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。
パウロは、エフェソの信徒たちのために三つのことを祈った。その第一の願いは、「神を深く知ること」。当時、グノーシス主義と呼ばれる、人間の知恵を極めようとする哲学的思想にこだわった人たちがいた。彼らは、人間中心主義に立ち、自分たちの思想や行動を誇っていたが、そのような思想を持つ者たちが教会内に入り込み、影響を与えていた。
これに対してパウロは、真の知恵は神が与えてくださる「知恵と啓示の霊」によらなければ、またそのために神が御自身を啓示してくださらなければ、人間は持つことができず、心の目が開かれることもないと主張する。
パウロの第二の願いは、「希望」と「悟り」を与えられること。ここで言われているのは、はかない、すぐに消えてしまうような希望のことではない。パウロがフィリピの人々が抱くように願っているのは、「神の招きによって与えられている希望」だ。それは、パウロ自身が経験したように、キリストの敵であった迫害者さえ御自分のもとに招き、御計画のために用いてくださる神との実存をかけた出会いのことに他ならない。「神の招き」は、その人の人生そのものに働きかけ、新しい生き方へと転換させる原動力となる。
そして、パウロの第三の願いは、「神の力と働き」を求めるものだ。19節の祈りは、口語訳では次のようになっている。「神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように」。信仰は、ただ神の働きの結果として与えられる。その働きがいかに力強く、絶大なものであるかをこの御言葉はよく示している。神が生きて働いてくださるからこそ、我々に信仰という出来事が起きるのだ。
以上のように祈った後、パウロは神の働きを高らかに賛美し、信仰告白する。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。アーメン!
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説教:「ダニエルのお祈り」
聖書朗読:ダニエル書6章19〜28節
説教者 : 北川善也牧師
ダニエルは、神さまのお心を尋ね、神さまに従って歩むことを、何よりも大切にする人でした。ダニエルは、小さな子どもの時からずっとそうしてきたのです。
そんなダニエルが暮らしていたユダの国は、バビロンというとても大きな国によって占領され、ダニエルは小さい時にユダの人々と一緒にバビロンに連れて行かれました。バビロンでは、誰もダニエルが信じている神さまを信じていませんでした。その代わり、バビロンの国を治めている王さまの言うことを何でも聞き、王さまを信じて生きていたのです。
ダニエルは、バビロンに連れて行かれても、どんなことがあっても神さまを信じ、いつも神さまにお祈りしていました。
そんなダニエルには、神さまから特別な知恵と力が与えられていました。それを知ったバビロンの王さまは、ダニエルを自分の宮殿で育てることにしました。ダニエルがきっと王さまの役に立つと思ったからです。
ところが、王さまに特別扱いされているダニエルを見た、王さまの家来たちは面白くありません。それで、ダニエルを懲らしめようとして、あることを思いつきました。家来たちは、王さまにこんなことを言ったのです。「王さまは世界で一番力のある、素晴らしい方です。もしも王さまよりも神さまを大事にし、神さまにお祈りするような人がいたら、ライオンが住んでいる洞穴に放り込む、という決まりを作ってはいかがでしょうか」。それで、王さまは家来の言う通り、「バビロンの国では、王さまよりも神さまにお祈りをする人は、ライオンの穴に投げ込む」という決まりを作りました。
王さまがそんな決まりを作ったことを知ったダニエルはとても悲しみました。でも、ダニエルは子どもの頃から神さまを信じていたので、神さまにお祈りすることをやめませんでした。ダニエルにとって神さまはお一人だけです。
ある日、いつものようにダニエルが自分の部屋で神さまにお祈りしていると、それを見つけた家来は急いで王さまのところへ行き、告げ口しました。「王さま、お聞きください。ダニエルが決まりを破って、王さまではない神さまにお祈りしていました」。王さまは困ってしまいましたが、決まりを作ったのは王さま自身です。ダニエルは決まりを破った罰を受けて、ライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。
王さまは、大事にしていたダニエルが、自分の作った決まりのせいで死んでしまうと思うと大変後悔しましたがもう手遅れです。その晩、王さまは食事も喉を通らず、眠ることもできませんでした。
ところが次の日、王さまがライオンの穴に行って、恐る恐る声をかけてみると、何と穴の中からダニエルの元気な声が聞こえて来るではありませんか。「王さま、神さまが天使を送ってライオンの口をふさいでくださったので、わたしは傷一つ受けていません。神さまがわたしの正しいことを認めてくださったのです」。
ダニエルの声を聞いた王さまは飛び上がって喜び、「ダニエルを救った神さまは素晴らしい」と賛美しました。そして、王さまはバビロンの国中の人たちに向かってこう言いました。「バビロンの人々は皆、ダニエルが信じている神さまを恐れかしこまなければならない」。こうして、ダニエルは、神さまに守られて、外国でも堂々と神さまを信じ続けました。
神さまを信じる人は、たとえどこにいようとも、どんな時であろうとも、神さまが共にいて守ってくださることを知っているので、勇気をもって生きることができます。そして、神さまは御自分のお名前によって祈る人を決してお見捨てにならないのです。
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説教:「徹底的な神の愛」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙2章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師
神は、人間を御自分に似た者としてお造りになった。そして、その肉体に御自分の息を吹き入れることによって、神は人間を生きる者とされた。そのようにしてお造りになった人間を、神は徹底的に愛し、その愛に応えて生きる者となることを期待しておられる。
ところが、人間はそのような神が求めておられる、本来のあり方からそれてしまった。アダムとエバが神との愛の関係を壊し、神との関係を失ったときから、すなわち原初から人間の生き方は、神の御前に本来あるべきものではなくなってしまったのだ。
「以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。……わたしたちも皆、……ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(1-3節)。これは、誰一人として例外なく、人間が過ちと罪のために死んでいることを言っている言葉だ。
「過ち」とは「道を踏み外す」ことであり、「罪」とは「的外れ」であることに他ならない。人間は、本来歩むべき道からそれ、神が期待しておられるあり方からずれてしまった。それゆえ的外れなことばかりする存在になっている。聖書は、人間のそのような状態を「死んでいる」と表現する。神から離れて生きる者は、それほど深刻な状況に陥っているのだ。
しかし、そのような状況は信仰者にとって、もはや過去の出来事であり、現在、信仰者は救われた者として生きていると言われている。本来歩むべき道からそれ、神を神とせず的外れに生きる人間を絶望的な死の状況から救い出すため信仰へと導かれるのは、神の愛ゆえの御業に他ならない。
このような神の愛(アガペー)は、愛される価値のない者にさえ向けられる愛だと言われる。神との交わりを拒否して、この世を支配する諸霊に身を任せ、好き勝手な生き方をしている人間が無価値な存在とされるのは、むしろ当然かもしれない。しかし、神がそのような者をも愛し抜いてくださるというのは、やはり人間の中に価値を見出しておられるからだ。見捨てられても当然の存在に、なおも価値を見出し、「あなたはわたしの目に値高い」と言ってくださる、それが神の愛なのだ。
そのような神の愛が、キリストの十字架において示された。主は人間の罪が赦され、再び神との深い愛の交わりの中で生きることができるよう、十字架の上でその命を献げてくださった。神の命という何ものにも代えがたい高価な代償と引き換えに、我々を滅びから救い出してくださったのだ。
この救いは、洗礼を受けることによって確かな出来事となる。神の御子であり、罪から完全に自由である御方が、ヨハネから洗礼を受けられた(マタイ3:13-17)。そのようにして必死で罪の赦しを得ようとヨルダン川に身を浸していた多くの人々と主は結びついてくださった。主が洗礼を受けられることによって、天の父なる神と、地上で生きる人間の交わりは何より確かなものとされたのだ。
こうして罪の中に死んでいた人間はキリストのものとされ、キリストと共に天の王座に着かせられるとまで言われている。このことはまだ現実でないにもかかわらず、聖書は過去形で記している。我々は、このことを信仰によって受け入れることが赦されているのであり、それは「キリストと共に復活すること」、すなわち洗礼によって確かにされる約束だ。
この信仰は、詩編23編のような「たとえ死の陰の谷を行くときも災いを恐れない」という生き方をもたらす。主なる神が常に共にいてくださることを知っているからだ。信仰によって、天地万物の創造主にして全知全能である御方を天の父よ、と呼ぶことのできる幸いは他の何ものよりも大きい。
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説教:「限りなく豊かな恵み」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙2章7〜10節
説教者 : 北川善也牧師
神が我々一人ひとりに豊かな恵みを与え続けてくださっているにもかかわらず、我々は神を神とせず、自分を神とするような生き方をしていた。これは、何よりも神を悲しませることであり、こんな身勝手な人間は、神から見捨てられ、滅びゆくまま、朽ちゆくままに放っておかれても何も文句は言えないはずだった。
ところが、神はそんな我々を見放さず、どこまでも愛し抜き、神と反対の方に向かって進もうとする人間の前に回り込み、その胸に抱き留めてくださる。主イエスが語られた「放蕩息子」のたとえ話を思い起こす(ルカ15:11以下参照)。神は、御自分に似せて造られた人間を、どこまでも慈しみ、愛おしんでくださるのだ。
パウロは、「わたしたちは神に造られたもの」だと言っている(10節)。この言葉は、口語訳では「神の作品」と訳されていた。神は、丹精込め、大切に造り上げてくださった作品である我々に、少しも惜しむことなく善いものを与えて続けてくださる。その中でも何より大きいのは、神が我々を滅びゆくまま、朽ちゆくままの生き方から救い出すため、命の道を備えてくださったことだ。
今日から待降節に入り、いよいよ神の御子がこの世にお生まれになった喜びを新たにするクリスマスが近づいてきた。このクリスマスは、御子が我々を救い出すための「道」となるため、この世に来てくださったことを喜び祝う時に他ならない。
キリストこそ我々を救いへと導くただ一つの道だ。人間は、この御方につながることによって確実に神の救いに与ることができる。キリストにつながる、すなわち洗礼を受けることによってだ。洗礼によって、人間は創造の初めに神が備えてくださった、神と向き合い、神と対話しつつ歩む本来の生き方を回復させられるのだ。
人間が救いに与り、本来の生き方を回復することは、「神の賜物」だ。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(8節)。「神の賜物」とは、神からの贈り物と言い換えてもよい。
神から数え切れないほど豊かな恵みを受けている我々の方が神に献げ物をしなければならないのに、神の方から我々に尊い贈り物が届けられた。我々の側には、それを受け取る理由など全くないにもかかわらずだ。その「贈り物」とは、御子イエス・キリストに他ならない。神は、御子を通して、すべての人間の決定的な救いの業を成し遂げてくださった。
我々が救われるのは、神の一方的な恵みのゆえであり、その恵みを恵みとして、喜んで感謝して受け取る信仰さえも神が与えてくださる賜物なのだ。我々は、神からただ一方的に受けるばかりで何もお返しすることが出来ない。だから、我々はただひたすら感謝して生きるしかない存在だ。そして、その神への感謝が最も明確に表わされるのが礼拝の場なのだ。
神が我々に求めておられる生き方、それは自分が神に愛されていることを心から喜び、自分も心からの愛をもって神を愛する、そのような愛の関係の中で生きることだ。そして、そのような者として生きるならば、我々は「善い業」を生み出す存在とされるとも言われている。そもそも、神は創造の始めからそのことを意図しておられたのであり、人間はそのために造られた作品なのだ。
このような、神との正しい関係の中で生きることこそ、我々の本来のあり方なのであり、その生き方が「善い業」を生み出すのであれば、「善い業」とは人間にとって特別なことではなく、一番自然な人間の姿なのだと神は御言葉をもって示しておられる。
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