先週の説教 -バックナンバー-
16年12月のバックナンバーです。
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説教:「神の住まい」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙2章11〜22節
説教者 : 北川善也牧師
我々は今日与えられた聖書から、「キリストはおいでになり」という言葉を聞いた。キリストは、神から遠く離れていると思われていた人々のところにも来られた。それは、すべての人に「平和の福音」を告げ知らせるためだった。
キリストは、神の言葉として来られた、と聖書は告げる(ヨハネ1章参照)。キリストが告げられる福音は形式的な言葉ではなく、そこには命が宿り、聞いた人々の中で生きて働く、命の言葉だ。
キリストは、この世の平和を真に実現されるため、平和の福音をお語りになった。キリストは、命の言葉として、地上に真の平和をもたらすために来てくださった。だから、今、我々が過ごしている待降節は、主による平和を待ち望む思いを新たにする時でもある。
パウロは、キリストがユダヤ人と異邦人という、「二つのものを一つに造りかえられた」と語っている。この二者が「一つ」にされるなど当時の人々にとって考えられないことだった。律法を守って生きるユダヤ人は、律法を知らない異邦人を汚れた存在と見なし、交わりを持たなかったからだ。つまり、ユダヤ人と異邦人は、水と油のようにどんなに努力しても混じり合うことのない者同士だったのだ。このような例は、この二者に限らず、現代社会でも数多く見出すことが出来る。それゆえ、我々にとって平和の実現は、夢物語のように思われてしまう。
しかし、パウロは語る。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14節以下)。キリストの十字架によって、人間の思いをはるかに越えた、全く新しい出来事が始められたのだ。
キリストがなさった働きは数え切れないほどあるが、その中でも特に大きいのは、全人類に神が父であることを教え、それゆえ全人類は互いに家族として、兄弟姉妹とならなければならないことを示されたことだ。我々は、キリストの十字架を通して、神と和解させていただくことによって、人と和解することが出来るようになる。この神との和解の出来事を覚え続ける場所が教会だ。そして、教会に連なる人々は、ここで神との和解に与り、「和解の使者」としてこの世に遣わされていくのだ。
世に建てられた教会は、それぞれバラバラの建物ではなく、世界に広がる一つのキリストの体だと聖書は告げる。そして、「あなたがたはもはや、……使徒や預言者という土台の上に建てられています」と言われているように、我々一人ひとりが教会の一部分として、煉瓦を積み上げるように教会のために用いられていくのだ。
このような教会を根本的に支えている「隅のかしら石」は、イエス・キリスト御自身に他ならない。当たり前のことだが、隅のかしら石、すなわちキリストが取り去られれば、教会が教会として立つことは不可能だ。
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(21節)。教会は、キリストによって組み合わされて成長し、完成に至る。そして、教会に連なる一人ひとりが「キリストにおいて、共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」(22節)のだ。
創立109年を迎えた洛北教会が、これからも平和の源であるキリストにしっかりとつながって一層成長していくことが出来るよう、共に祈りを合わせたい。
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説教:「キリストによって実現される計画」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙3章1〜4節
説教者 : 北川善也牧師
神の言葉は、肉の姿、人間の形を取ってこの世に到来した。神の御子イエス・キリストが、神と我々とを結ぶ「言」としてこの世に来てくださった。このクリスマスの出来事によって、神は我々に直接語りかけ、本来人間には理解できない、神の秘められた計画、神の御心を示してくださった。御子がこの世に遣わされたのは、すべての人間を救うという神の計画を完成されるためだった。
旧約聖書・創世記に記されているように、神は人間を御自分と向き合い、対話しながら生きるべき存在として、御自分に似せてお造りになった。だが、そのような「表通り」を備えられたにもかかわらず、人間は自分を神とし、自己中心に生きる「裏通り」へと進み、迷い込んで、神と共に歩む表通りに戻れなくなってしまった。
神から離れて生きることは、あらゆる問題を自分自身で解決しなければならないという人間には不可能な道を進むことであり、それは、要するに真っ暗な墓穴に留まり続けるしかない限界に置かれた死者と同じ「死んだ」状態だ。
しかし、神は人間がこのような状態の中に居続けるのを平気で放置される御方ではない。神は、御自分に似せて造られた人間を、どこまでも愛し抜いてくださる。その証しとして、愛する御独り子をこの世に遣わされたのだ。
だが、すべての人間を救うために来られたキリストを、この世はどんな態度で迎えただろうか。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(ヨハネ1:9-10)。すべての人間の救いを成し遂げるために来られた御子を、この世は拒絶した。
闇に慣れきった目が光を直視することができないように、人間の闇、この世の闇は、栄光の光を受けて輝く神の御子を真正面から捉え、直視することができない。これが人間の罪という現実だ。
このような闇の世にあって、我々はクリスマスを迎えようとしている。そして、今日聴くべき御言葉が与えられている。「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います」(3-4節)。
我々の前には、キリストによる救いの御業が、確かな光が、言葉として示されている。この言葉自体が救いの出来事であり、クリスマスの恵みなのだ。クリスマスとは、神の言葉が肉体となってこの世に与えられた時であると同時に、罪の中にある人間がこの言葉によって神の子として新たに生まれさせていただく時でもある。
神が最愛の御子をこの世に遣わされたという神の愛の働きを通して、我々は初めて本当の愛を知る者とされ、そこから我々は隣人を愛し、隣人のために生きる者として造り変えられていくのだ。
我々の目が闇に遮られ、罪による汚れで光を見ることができなかったとしても、この世において、神の光が照り輝いているのは紛れもない事実だ。我々の周囲で、社会の様々なところで、世界中の至るところで、闇の力が勝ち誇り、我々は闇を前に敗北しているかのように映る。しかし、光はこの世において確かに輝きを放っている。この真の光に対して闇は決して勝つことができないのだ。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。この勝利宣言は、十字架の死からよみがえり、永遠の命を勝ち取られたキリストの言葉だ。この御方が光の源となって、闇を隅々まで照らし出し、我々を闇の淵から導き出してくださる。
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説教:「キリストの約束」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙3章5〜13節
説教者 : 北川善也牧師
クリスマスは、神が愛する御独り子をこの世に遣わし、それによってすべての人間との間に全く新しい契約を結ばれた時だ。
この新しい契約が与えられるまで、人間は死んだらすべてが終わるという、死の限界を恐れつつ生きるしかない存在だった。人間は、この世の限りある命が尽きれば、消え去っていく虚しい存在であることを、あきらめをもって受けとめるしかなかったのだ。
そんな人間に対して、神の救いの計画が示された。初めそれは、旧約聖書という形でもたらされた。そこには、神によって選び取られたイスラエルの民に救いが与えられるという契約が神との間に結ばれたことが示されていた。
ところが、この旧約、すなわち古い契約の時代は終わりを告げ、新しい契約による全く新しい時代が到来した。それは、神の心変わりではなく、救いが限られた人間のものではないことの告知と実行だった。この新しい時代は、キリストの誕生によって幕を開けた。キリストがこの世に来られることによって、「神の秘められた計画」の全貌が示されたのだ。
今日与えられた聖書には、そのように神の救いが普遍的な広がりを持ち、民族的な枠を突破するものであることが語られている。ここに書かれているのは、現代日本で生きる我々も心に留めるべきことだ。異邦の地、日本にも福音が届けられ、各地にキリスト教会が建てられていったこと、京都にも教会が建てられ、洛北教会が109年の歩みを赦されてきたこと、これこそ神の深い御旨だ。
パウロはそのような神の御業を言い表すため、ここで「恵み」という言葉を多用しているが、その元の言葉には「多種多様」の意味を持つギリシャ語が使われている。神の恵みは「多種多様」、つまり我々の人生におけるいかなる状況も、試練や苦難さえも神の恵みと関わっているのだ。逆に言えば、神の恵みと関わらない事柄は、この世界に何一つとしてない。
そのように語るパウロ自身にとって「恵み」とは何だったか。今や神の救いは民族的な枠を破り、キリストによって世界中の人々に開かれている。そのことを、当時、ユダヤ人が交わりを閉じていた異邦人にまで伝えるための窓口として自分が立てられているという事実。この事実こそ、パウロにとっての「恵み」だったのだ。
世界中の人々が救いの恵みによって希望をもって生きること、それ以上に大きな恵みはない。そのために、キリストの福音を宣べ伝えるという働きが自分に託されている。パウロに与えられたこの恐れを伴う光栄ある働き、これこそキリストの十字架によって贖われた者の恵みと彼は受け止めた。
現在パウロは、その福音伝道の働きを阻止しようとするローマ兵によって捕らえられ、獄中でこの手紙を書いている。思えば、かつてパウロは全く逆の立場だった。イエスこそ救い主と公の場で宣べ伝える者たちを捕らえては牢獄に閉じこめ迫害していたのは、パウロ自身に他ならなかったのだ。
しかし、神はそんな彼をしっかりと捉え、御自分の器として造りかえ、御自分の働きを担う者として用いられた。神がこの自分さえ用いて御計画を進めて行かれる。その事実を身をもって知らされたパウロにとって、たとえ獄中生活を余儀なくされていたとしても、それは「恵み」だった。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(13節)。
神の救いの計画は、今や「秘められた計画」ではなく、キリストによってすべての人々に対して示された。クリスマスの出来事によって、すべての人々の救いの約束が確かにこの世で実現された。
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説教:「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙3章14〜21節
説教者 : 北川善也牧師
パウロは、獄中からエフェソ教会の人々を覚え、熱心に祈っている。その祈りの言葉は、我々の祈りを超越しているようにも思われるが、エフェソ教会の人々の内側にキリストが働きかけ、キリストと共に歩む者として、キリストの愛を知る者として、そしてキリストの愛に満ちあふれる者として生かされることを切に願っていることはひしひしと伝わってくる。
この祈りの特徴は、キリストが人間の内側で働いてくださることを、パウロ独特の様々な表現で繰り返していることだ。その中でも特に印象的なのは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉だろう。
今朝、我々は神の御子がお生まれになったクリスマスを覚えている。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉は、このクリスマスの意味を示している。パウロは、神が肉体をとってこの世に来られたことの不思議を、この言葉で説き明かしている。
パウロは、別の手紙で次のように語っている。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。「神が人間になられた」のがクリスマスであり、それは驚き、畏れを抱かざるを得ない出来事だ。
天地万物を創造し、不可能なことなど何一つないはずの神が、自分一人では何にもできない人間の赤ん坊としてマリアから生まれ、マリアに抱かれ、マリアの乳を飲み、マリアの世話を受けねば生きられない存在となられたのだ。神がそのような姿でこの世に来られたことを、我々はどうして受容できるだろうか。この出来事を本当の意味で理解することは、我々には不可能だ。だから、パウロはこのことを「人の知識をはるかに超える愛」(19節)と表現している。
それが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」なのだ。神は、それほどまでに人間が救われることを望んでおられる。すべての人間が経験する人生を、出生から始まるそのすべてを、しかも貧しさの極みからそれを始められ、全く無力と言ってよい人間の嘆き、悲しみを知ってくださる神。この御方がお生まれになったクリスマスは、そういう生々しさを持っている。確かに、これは人の知識をはるかに超えており、その奥深い意味を真に知ることは困難だ。
パウロはこの祈りの中で、「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と祈っている(19節)。「満ちあふれる」、「満たされる」という言葉を繰り返しているが、この原語は「計量を超えた」、すなわち「汲めども尽きぬ」という意味を含んでいる。
今、パウロはこの溢れるほどの「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」に圧倒されつつ祈っている。そして、パウロはこの大いなる愛を深く知ることを願っているのだ。このような愛を知ることは人間の力では不可能であり、その愛にすべて身を委ね、その愛の中に身を置くしか術はない。
今日、この礼拝の場で一人の姉妹が、そのようにキリストに一切を委ね、キリストと共に歩む新しい人生を始めようとしている。洗礼によって、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」が、その人の内側深くに染みわたっていく。そして、神が「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」(20節)であるという確信をもって揺らぐことなく歩む者とされる。今朝、我々は皆、キリストの御降誕を覚えつつ、この信仰を新たにさせていただきたいと願う。
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