先週の説教 -バックナンバー-
17年1月のバックナンバーです。
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説教:「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」
聖書朗読:ヨシュア記1章1〜9節 〜2017年教会標語より〜
説教者 : 北川善也牧師
ヨシュアは、モーセの後をただ忠実に従うことによって歩き続けることが出来た、従者であるに過ぎない若者だった。ところが、自分の死期が近いことを悟ったモーセは、ある日、この若者を民全体の前で呼び出し、「あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる」(申31:7)と告げた。
奴隷として捕らえられていたエジプトを脱出した大勢のイスラエルの民による荒れ野の逃避行を導いたのは、神の御計画以外の何ものでもなかったが、人々にそれはモーセの強いリーダーシップによるものと映ったことだろう。
事実、40年間荒れ野をさまよい歩く民を統率したのは、モーセに他ならなかった。そして、モーセは約束の地カナンまで、残すはヨルダン川を越えるばかりというところまで来ていた。だが、モーセは志半ばにして、命の限界に直面するのだ。そのような状態に陥ったモーセを前にした民は動揺を隠せなかったことだろう。
一方、突然民全体の前に引き出され、「お前が約束の地に民を導き入れる者である」と告げられたヨシュアの心境はどんなだっただろうか。重圧の大きさに腰が引け、身体の震えが止まらなかったのではないかと推察する。
それでも主なる神は、御自分の約束をただ一人の指導者によって成し遂げようとはなさらない。主は、あえてヨシュアのような若者を用いて、約束の最後を仕上げられる。ヨシュアは、モーセがあと少しで成し遂げられたはずの、わずかな部分だけを担当した人物に過ぎないかもしれない。だが、そのわずかな部分のために、モーセからヨシュアへの信仰の継承という、多くの時間と労力を費やさねばならない業を通して、約束の地への旅は成し遂げられたのだ。
モーセに導かれたイスラエルは、40年間荒れ野をさまよい歩く旅の中で、飢え渇きを覚え、不平不満を漏らしたが、主なる神はそのたびに彼らの必要を満たされた。そして、モーセは、ようやく神による約束の地まで、後はヨルダン川を越えるだけというところまで民を導き、残りの行程を後継者ヨシュアに託した。
ここに、次世代へと確実に信仰を継承することによって、約束の地、神の御国に近づくという幻が示されている。他ならない我々も、誰かから信仰を手渡されてきた一人一人だ。我々の教会は、このようにして信仰の先達によって受け継がれ、積み重ねられてきた確固たる土台の上に成り立っている。
我々が次世代への信仰継承という大切な働きを担うために必要なのは、短期的な視点ですぐに移り変わってしまうようなことに力を注ぐのではなく、教会がこれまで地道に取り組んできたこと、すなわち神の御言葉に聴き従う姿勢をあくまでも貫くことなのだ。
我々が「右にも左にもそれず」、主の日の礼拝において御言葉に聴くことを何よりも大切にすること、教会がいつでも変わることなくそのような姿勢を守り続けるならば、神御自身が共に歩んでくださるゆえに我々は確実に約束の地まで導かれていく。
主は、民を導く重大な働きを受け継ぎ、畏れおののいているヨシュアに対してこう言われた。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(9節)。
我々は、自分が受け取った信仰のバトンを大切に守りつつ、次世代へと確実にそのバトンを渡していく働きに、うろたえることなく、おののくことなく、全力を尽くして取り組んでいきたい。
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説教:「神の招き」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙4章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師
パウロは、かつて律法を厳格に守ろうとするファリサイ派に属するエリートだった。しかし、その実態は、神の御旨に従うという律法の主旨から離れ、自分自身の功績を高めることを目指すものだった。彼はその立場で、キリスト者迫害を生き甲斐とする、言わば律法の囚人のような存在だった。
そんなパウロが、ある日キリストと出会い、回心へと導かれる。キリスト者として生まれ変わった彼は、熱心な伝道活動を展開したため、逮捕され、牢獄に入れられて本当の囚人とされた。
こうして今、パウロは獄中からこの手紙を書いているが、彼は自分がこのような状況になっても伝道を続けるのは、キリストによって捕らえられているからだと表現する。つまり、彼は今やキリストの囚人とされているのだ。
パウロが「自分は囚人である」と言う時、そこには彼がこれまで経験してきた、上に挙げたような様々な出来事に重ねられた深い意味が込められている。
この手紙を書いている、文字通りの囚人であるパウロは、暗く狭い牢獄の中にありながら、何の不自由も感じていないかのように「神の招き」について活き活きと語っている。これこそ、キリストの囚人とされた者の姿だ。
パウロは2節で、「高ぶることなく」と言っているが、これは自分を低くする姿勢のことであり、十字架に至るまで父なる神に従順だったキリストの姿を示している。
またパウロは、「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と言っている。この表現は、主イエスが山上の説教で語られた「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)を思い起こさせる。主は、御自分の柔和さを示されるように、かつてロバの背に乗ってエルサレムに入城された。そして、そこから十字架へと一筋に歩んで行かれた。つまり、柔和という言葉は、主イエスにおいて十字架と結びついているのだ。
この意味で「柔和である」ということは、主イエスにはお出来になっても、我々には困難だ。しかし、パウロはそんな我々に、「神から招かれたのだから、その招きにふさわしく歩みなさい」と言う。ここで言われている「神の招き」とは、何に対する招きだろうか。パウロは、それを「希望にあずかる招き」と表現している。
神による招きを受け、その招きに応えた者があずかる希望とは、永遠の命の約束に他ならない。この約束は、父なる神がキリストの十字架を通して与えてくださるものであり、パウロはこのことがキリストの一つの体、すなわち教会に人々が招かれることによって実現すると言っているのだ。
パウロは、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(5節)という言い方で、真の救い主はキリスト以外いないこと、この御方とつながるために洗礼が定められたことを強調している。我々には、キリストと確かに結ばれるため洗礼という道が備えられている。そして、霊の一致も、一つの希望も、一つの体も、一つの霊も、一人の主も、一つの信仰も、一つの洗礼も、父なる神が一人であるということの中に究極の基礎を持っている。
その唯一の父なる神は、「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」、すべてを御自分の計画、すなわちすべての人間の救いという究極の目標に向けて着実に進めていかれる。
我々キリスト者は、このような基礎を土台として歩んでいるのであり、この基礎こそ、キリスト者が互いに一致を保つための絆となる。そして何よりも、このように父なる神がすべてのものに満ちておられ、常に傍らにいてくださるという事実は、我々にとって他の何よりも大きな慰めだ。
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説教:「ラザロ、出てきなさい」
聖書朗読:ヨハネによる福音書11章38〜44節
説教者 : 北川善也牧師
ベタニアという村にマルタとマリアの姉妹、そして弟のラザロが一緒に住んでいました。イエスさまは弟子たちを連れて、彼らの家をよくお訪ねになりました。
ある日、ラザロが重い病気になってしまったので、姉妹はイエスさまに治していただきたいと思い、離れたところにいるイエスさまに使いをやりました。ところが、イエスさまは姉妹の願いを聞いても、「この病気は死で終わるものではない」と言って、すぐに行こうとなさいませんでした。
使いの者が村に戻ると、何とラザロはもう死んでいました。しかし、イエスさまはすべてをご存じのうえで、弟子たちに「わたしたちの友だちのラザロが眠っているから起こしに行こう」と言われました。イエスさまにとって、死は眠りに過ぎなかったのです。
イエスさまは、ラザロが死んで四日もたってから村にお着きになりました。姉のマルタは大急ぎで村の入り口までイエスさまを迎えに行きました。妹のマリアは家の中で泣いていましたが、やっとのことでイエスさまのところに来て、足もとにひれ伏して泣きながら言いました。「主よ、もしもここにいてくださいましたら、弟は死ななかったでしょう」。周りにいた人々も泣き出しました。
イエスさまは、ラザロの死を悲しんで泣くことしかできない人々の姿をご覧になり、心が張り裂けそうになって涙を流されました。人々は、「イエスさまはどんなにラザロを愛しておられたことか」と思いました。でも、中には「目の不自由な人を見えるようになさったイエスさまなのに、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と考える人もいました。
イエスさまは、ラザロのお墓に来られました。お墓の入り口は大きな石でふさがれていました。イエスさまは、死んだらすべて終わりと考え、あきらめて泣くしかない人々の姿をご覧になり、人々を捕らえて放さない「死」に対して怒りを覚えられました。
そして、イエスさまは「その石を取りのけなさい」と言われました。マルタが「主よ、四日もたっていますからもう臭くなっています」と言うと、イエスさまは「もし、わたしを信じるなら、神の力を見ると言っておいたではないか」と言われました。これは、神の子しか語れない言葉です。
人々は石を取りのけました。すると、イエスさまは天を仰いで、父なる神さまに祈られました。「天の父よ、わたしの願いをいつも聞き入れてくださってありがとうございます。今、あなたのお力を現わしてください」と。
そして、お祈りが終わると、イエスさまは「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。すると、ラザロが手足を布で巻かれ、顔も布で包まれたまま、お墓の入り口に出てきました。ラザロは死の眠りから目覚めさせられたのです。これを見た大勢の人々はとても驚き、イエスさまが神の子、救い主であることを信じました。
わたしたちもやがて必ず死にます。でも、イエスさまを信じる者にとって、死は眠りにしか過ぎません。しかも、その眠りは永遠に続くのではありません。世の終わりの時、わたしたちもラザロのように、イエスさまに名前を呼ばれます。それは、イエスさまがラザロのことを深く愛されたように、わたしたち一人ひとりのことも愛しておられるからです。イエスさまは、愛する者の名前をちゃんと覚え、死んで終わりにならないよう、一人ひとりに呼びかけて眠りから覚ましてくださるのです。
わたしたちの名を呼び、死の滅びから永遠の命へとわたしたちを招いてくださるイエスさまのお声がしっかり聞こえるように、いつもイエスさまの方に耳を向けていたいと思います。
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説教:「キリストの満ちあふれる豊かさ」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙4章7〜16節
説教者 : 北川善也牧師
人間は、絶えず内面的成長を続ける存在だ。子どもに限らず、大人になっても起こるこのような成長・変化は、考えれば考えるほど奇跡的なことだ。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Tコリ3:6-7)。人間の奇跡的な成長は、神の御業以外の何ものでもない。
我々は世の中で、一人で生きていくための術を習う。人と接する時はこうすべきだとか、社会で生き抜くための秘訣だとか、仕事で得た稼ぎはこのように活用せよなどという、自分の力で生きていくための術を身に着けていく。それは確かに必要な術かもしれないが、もし人がそのような「自分の力だけで生きていく術」しか知らなければ、自分の力が及ばない、どうにもならない壁に直面した時、右往左往するばかりで行き場を失ってしまうことだろう。
そのような時、どんな壁をも乗り越える力、どのような試練からも逃れる道が神によって備えられていることを知っている人は幸いだ。神がそのようにして絶えず成長させてくださるゆえ、我々は限界を恐れる必要などないのだ。
このようにして絶えず人間を成長させてくださる神は、同じように御自分の体である教会をも成長させてくださる。その意味で、教会は「キリストの体」であると言われる。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。
ここには、神が教会につながる一人ひとりに御手を差し伸べ、必要な助けを与え、バラバラではなく一つの体として成長させてくださるというビジョンが示されている。ここで注目されているのは、一つの体として結ばれている一人ひとりの賜物だ。教会に集められている一人ひとりが異なっていることこそ恵みだと言われている。神は、御自分の教会を成長させるため、多様な存在である一人ひとりを用いてくださるのだ。
「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた」(11節)と言われているのは、どれも似通った職務のように聞こえるが、初代教会時代、これらは皆、別々の働きを表わす名称だった。つまり、ここで言われているのは、神が教会を成長させるため、教会の中に多様な働きを備えられ、そのために一人ひとりの賜物が必要とされているということなのだ。
神は、教会を成長させるために一人ひとりの賜物を大切に用いてくださる。教会に連なる一人ひとりに多様な形で与えられている豊かな恵みを持ち寄り、互いに分かち合うことによってキリストの体は立ち上げられていくのだ。
そしてその時、我々は「信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(13節)と言われている。我々が教会のために与えられている賜物を用いるならば、我々は成熟した人間としてキリストの満ちあふれる豊かさにまで成長させられていくという、この上ない恵みの御言葉が与えられている。
「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Uコリ4:16)。命の源であるキリストとつながることによって、我々の内なる人は絶えず新しくされる。そして、それゆえそのような一人ひとりが結ばれて一つとされているキリストの体なる教会は、ますます豊かに成長させられていくのだ。
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説教:「新しい人として生きる」
聖書朗読:エフェソの信徒への手紙4章17〜24節
説教者 : 北川善也牧師
小アジアの西海岸に位置し、西方と東方を結ぶ交通の要衝だったエフェソは、人々が雑多に交流する典型的な異邦人の町だった。
エフェソ教会は、そのような町に建てられ、多くの異邦人キリスト者が属していた。そんな彼らに対して、パウロは「あなたがたはもう異邦人ではない」と宣言する。彼らは、異邦人ではなく、キリスト者であるとパウロは言うのだ。キリスト者とは、地上の国籍を超えた、もっと強いアイデンティティーだとパウロは強調する。
「自分は地上のどの国に属するという前に、一人のキリスト者だ」という信仰を与えられているパウロにとって、異邦人とは国籍を指す言葉ではなかった。彼が異邦人と言う時に考えているのは、神から離れてしまっている人間のことだ。「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(17c-19節)。
このような異邦人の歩み、すなわち神から離れて生きる人の歩みは、キリスト者とは真逆だ。しかも、このような歩みは「とどまることを知らない」と言われている。どん底まで真っ逆さまに転がり落ちていくイメージで、異邦人の歩みが示されている。これは、かつてのエフェソ教会の人々の姿であると同時に、昔も今も、真の救いを求めて生きるすべての人間の姿に他ならない。
このように滅びに向かって転がり落ちていく人間を食い止め、救い出すことが出来るのは神の御手のみだ。その救いの御業は、御子イエス・キリストが地上に生まれ、十字架にかかってくださることによって成し遂げられた。
そして、御子は御自分が成し遂げられた救いの御業をもって一人ひとりと出会ってくださる。キリストと出会い、自分がこの御方の十字架によって救われたことを知った者は、それまでとは真逆の方向に歩み始めるのだ。
このようにキリストとの交わりに生かされる者は、もはや異邦人と同じように歩むことはありえない。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(22-24節)。
ここで「新しい人を身に着ける」と言われているが、パウロはこれと同じ内容のことを別の手紙で次のように表現している。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:12-14)。
「新しい人を身に着ける」とは、「キリストを身にまとう」ことであり、それこそがキリスト者の生き方に他ならない。キリストを身にまとう生き方とは、言い換えれば「礼拝する生活」だ。
神を礼拝する生活によって、我々の生き方は日々新しくされていく。礼拝によって、滅びに向かっていた者が向きを変え、救いに向かって歩み始め、古い人が新しくされるという出来事が起こる。
どのように新しくされるのか。それは、「神にかたどって造られた人」(24節)としてだ。罪の赦し、真の救いは、人間を創造の始めの姿に回復する。人間は、神を礼拝しながら生きるところで、本来の人間性を回復させられる。共に礼拝する生活によって日々新しくされて歩んでいきたい。
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